無憂宮
盛夏


 海に行こう、と、嬉々として誘うミロの意図がよくわからなかった。
 海といえば、カミュはシベリアの海しか知らない。
 一年の半分は厚い氷に閉ざされ、常に冷たい風が吹きすさぶ、灰色の波。
 それ自体が生き物であるかのようにうごめく姿は、あまり見ていて心を躍らせるようなものではなかった。
 それなのに、ミロはとても楽しい場所であるかのように、瞳を輝かせている。
 「それはいいね。いい天気だから、きっと気持ちがいいよ」
 傍にいたサガも、笑顔を見せる。
 この二人が乗り気ならば、カミュには断る理由は見つけられなかった。


 聖域の傍の海に、観光客は来ない。
 表向きは富豪のプライベートビーチということになっているため、無駄な喧騒から開放された、静かな姿を保っている。
 気が進まないながらも、ミロとサガの後ろからついていくカミュは、突然目の前に繰り広げられた光景に息を呑んだ。
 瞳に、一面の青が飛び込んできた。
 空が青いのは、ギリシャに来て、もう大分慣れた。澄んだ空気は、常に抜けるような青空を見せてくれていた。
 もっとも空は見上げるもの。足元にあるはずはない。
 しかし、今、カミュの前には、地面にまで侵食している「空」があった。
 天の青さは地に降りるにしたがって徐々に色を変え、ついにはエメラルドグリーンの輝きを放っていた。
 幾千もの星を散りばめたように瞬くそれに、カミュは圧倒された。
 ミロが走り出した。
 白い浜辺に靴を脱ぎ捨てつつ、海に向かって一目散に駆け込む。
 彼の足が水を蹴立てて、白い泡が沸き起こる。
 勢いあまって水の中に尻餅をつき、彼はますます楽しそうな笑い声を立てた。
 「カミュ、早く来いよ、気持ちいいよ!」
 天真爛漫な彼の笑顔に、ようやくカミュはそれが、「海」であることを認識した。
 「私たちも行こうか」
 サガが靴を脱ぎ、裾を膝まで捲くり上げる。
 二、三歩足を進めたところで、サガはいぶかしげに振り返った。
 カミュの動きが止まっていた。
 サガに倣って靴を脱ぎそろえ、足を踏み出そうとしたまま、止まっていた。
 白砂が日光を吸収し、熱をはらんでいた。
 その熱さに、カミュは脅えた。
 砂浜、というものを彼は体験したことがなく、その熱保持率の高さにまで、考えが及ばなかった。
 まるで、白い砂の帯が、カミュを拒むように立ちふさがっているかと思われた。
 距離にしてみればほんの数メートルなのに、ミロやサガと自分を隔てる絶対的な力が、そこにはあった。
 これが、光と闇の、違い。
 カミュは身がすくんで、一歩も動けなくなっていた。
 次の瞬間、カミュの身体が宙に持ち上げられた。
 サガが、片腕を伸ばし、軽々とカミュを抱え上げていた。
 そのまま、波打ち際に静かに下ろす。
 カミュは足元に打ち寄せる波をみつめた。
 ひんやりとした冷たい水の感覚が、くすぐったいと同時に心地よかった。
 「カミュ」
 呼びかけられ、見上げたカミュの顔に、サガがぱしゃっと水をかけた。
 「サガぁ……」
 慌てて手で顔を拭うカミュに、サガは微笑みかけた。
 「お味は、いかがかな」
 「しょっぱいに決まってるじゃん、海なんだから」
 笑いながら、カミュの代わりにミロが答える。
 カミュは唇を舐めた。
 潮の味がした。
 記憶にある海と、同じ。
 「ここも、シベリアの海に通じてるんだよね。ちょっと見た感じは違うかもしれないけど、同じ海なんだから」
 同じ、海。
 カミュは手を伸ばし、水に触った。
 カミュの知る海よりも、はるかに透明度が高く、きらきらと輝く水。
 それでも、不思議と懐かしかった。
 カミュは微笑んだ。
 「隙あり!」
 突然、ミロがカミュの足を払う。
 バランスを崩し、大きく水飛沫を上げながら、カミュは海に倒れこんだ。
 ずぶぬれになったカミュは仔犬のように頭を振り、濡れた髪から水滴を飛ばした。
 「ミロ、何するんだ!」
 「海まできたら、やっぱり濡れなきゃ」
 カミュの苦情も、ミロには効果が無かった。
 笑顔でカミュの抗議を却下すると、今度は目標をサガに移す。
 「じゃ、あとはサガ。カミュ、二人がかりで攻撃だ!」
 「ミロ、私はいいから……」
 「だめ!」
 ミロが波を蹴立ててサガに突進していくが、ひらりとかわされそのまま頭から海に突っ込む。
 カミュは笑った。
 「カミュ、笑ってないで、サガ捕まえて!!」


 ミロの声が響く。
 サガの笑い声がする。
 カミュは深く息を吸い込んだ。
 潮風が、胸いっぱいに拡がる。
 太陽がまぶしくて、波がきらきらと輝いていた。


 いつまでも色褪せることがない。
 遠い、夏の、思い出。

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