無憂宮
失踪


 子供たちの賑やかな騒ぎ声に紛れて、かすかに扉をノックする音がした。
 アイオロスは扉を見遣った。
 訪問者の予測はついた。
 一人で来ることは珍しい客だった。
 沸き起こる好奇心とかすかな疑念を感じつつ、アイオロスは二人の先客に向き直った。
 「ちょっと待ってろよ。あ、そっちは俺のだから、食うな」
 「だって早く食べないんだもん。いらないのかと思った」
 アイオロスの分のマフィンを口にくわえたまま、ミロは不明瞭な声を発した。
 いつものことだが、自分の宮にはいない。
 最近は人馬宮か宝瓶宮のどちらかが、彼の第二の宮と化していた。
 軽く菓子泥棒の頭に拳骨を落とした後、アイオロスは扉に向かう。
 「待たせたな、カミュ」
 扉の向こうには、革表紙の本を大事そうに抱えた小さな赤毛の子供がいた。
 「こんばんは、アイオロス。あの、サガ、知りませんか?」
 「サガ? 双児宮にいないのか?」
 カミュはうなずいた。
 「今日、ローマ史について教えてもらう約束をしていたんですけど、どこにもいないんです」
 弟たちと同い年とは思えないほど、丁寧な言葉使い。
 育てられた人間が違うとこうまで違うのだろうか、と、ついつい後ろにいる子供たちと比べてしまう。
 「カミュ! あ、お菓子食べる?」
 そんなアイオロスの胸中も知らず、カミュの声を聞きつけ出てきたミロが、食べかけのマフィンを差し出した。
 「いらない」
 そっけなくあしらわれるが、ミロはめげない。
 たやすく諦めないのは彼の美点だが、少々強引すぎるところは今後の指導矯正が必要だろう。
 「じゃ、トランプやろう、一緒に」
 「また、今度な」
 カミュは自分の腕を引っ張って奥に連れて行こうとするミロを押しとどめ、アイオロスを見上げた。
 真紅の瞳に気遣わしげな色が浮かんでいた。
 アイオロスは頭を掻いた。
 その昼、次期教皇の指名があった。
 サガの名を予想していたが、意外にも教皇が告げたのはアイオロスの名前だった。
 驚きを隠せない自分に比べ、サガはなんら普段と変わらない静謐な微笑を浮かべたままだった。
 それでも、やはり衝撃を受けていたのだろうか。
 人一倍かわいがっているカミュとの約束を一方的に反故にするとは、普段のサガからは考えにくい。
 独りに、なりたかったのかもしれない。
 無理も無い。
 神のような男と呼ばれ、子供の頃から次期教皇の誉れも高かったのだ。
 しかし、その挫折感を乗り越えるのは、他ならぬサガ自身だ。
 周囲の自分たちにはできることもなく、また何かをすべきでもない。
 そして、こんな幼い子供にまで、心配をかけるべき問題でもなかった。
 「だったら、約束破ったサガが悪いな。おまえが捜すよりも、サガに謝りに来させろよ」
 安心しろ、とでもいうように、アイオロスはカミュの頭をくしゃっと撫でた。
 「大丈夫、急な用事でもできたんだろう。そのうち来るって」
 アイオロスはいつもより明るい笑顔をみせた。
 カミュの瞳には、弱い。
 以前ほどではないにしろ、時折浮かぶ脅えたような色を見ているのは辛かった。
 再び捨てられることへの脅え。
 それを誰よりも憂慮していたのはサガなのだから、彼がカミュをこのまま独りにしておくとも思えない。
 「だったら、ここでトランプして待ってようよ」
 アイオリアも声をかける。
 人数が多い方が、ゲームは楽しい。
 そばでミロが期待に瞳を輝かせていた。
 「おお、そうしよう。ただし、神経衰弱とかポーカーとか、頭使うのは却下だぞ。おまえの一人勝ちになっちまう」
 かるく背を叩いて中へと促すと、カミュはこくりとうなずいて足を踏み出した。
 ようやく浮かべてくれた子供らしい笑顔に、アイオロスは人知れず安堵の息を吐いていた。


 その夜も、次の夜も、サガは帰ってこなかった。
 それだけでなく、いくらテレパシーで呼びかけても応えは無い。
 サガはその知徳と義勇をもって、理想的な聖闘士として皆に慕われていた。
 その彼が忽然と姿を消したのだ。
 漣のような動揺が、聖域中を侵食し始めていた。
 世界が突如闇に覆われたかのように憔悴したカミュは、聖域のみならず、その周辺諸国までをも捜して回った。
 しかし、常に穏やかな微笑をたたえた優美な姿は、その影すら残さずに消失してしまっていたのだ。
 報われない捜索に、カミュの表情に次第に色濃く疲労と不安が刻み込まれていく。
 その身を心配したミロが行動を共にするようになったのも、当然の成り行きといえた。


 その日も捜索の結果はかんばしくなく、二人は重い足をひきずって帰ってきた。
 白羊宮までたどり着くと、ムウとシャカが出迎える。
 二人の引きずるような足取りに今日も無駄足だったことを知ったか、少し哀しげな微笑を浮かべていた。
 「お疲れ様、二人とも」
 ミロが苦笑した。
 カミュにはその余裕すら無く、ただ無表情にうなずいた。
 「君がそれほど塞いでいては、サガも心配するだろう。とりあえず、これでも飲みたまえ」
 シャカが、どろりとした緑色の液体の入ったカップを差し出す。
 「ぐえ、これ、何?」
 立ち上る臭いが見えるものなら、きっと禍々しいほどどす黒い色をしているだろう。
 その臭気に、ミロはあからさまに顔をしかめた。
 「薬湯だ。私が煎じたのだぞ、心して飲みたまえ」
 「これ、ほんとに薬? 毒じゃないの」
 ミロの恐る恐るといった言葉に、シャカはキッと冷たい視線を向けた。
 「そんなこと言うものじゃありませんよ。シャカはこれを作るのに、三時間もかかったんですよ」
 ムウのとりなしに、シャカはこほんとわざとらしい咳をした。
 感謝の言葉を期待してか、仄かに誇らしげなシャカを尻目に、ムウはにっこり微笑んだ。
 「おかげで白羊宮の台所も臭いがしみつきましてね。ああ、そのカップ、返してくれなくていいですから」
 「おまえの方が言うことキツイ……」
 三人の会話に、カミュはわずかに口角を上げた。
 サガがいなくなって、心配しているのはカミュだけではない。
 皆も同じなのだ。
 それなのに自分のことにまで気を遣わせるのは心苦しい。
 カミュは無言でミロの手にするカップを取り上げた。
 そのままぐいっと一気に飲み干す。
 「……ごちそうさま」
 「の、飲んだ……。大丈夫?」
 ミロの問いかけに、カミュは目を白黒させながらも、口を押さえてうなずいた。
 良薬は口に苦しという言葉が真実ならば、この薬湯は絶大な効果があることに疑いはなかった。
 おそらく味見はしなかったのであろうムウとシャカが、ちらりと視線を交わす。
 「じゃ、食事にしましょう」
 場を取り繕うとするかのように、ムウがとりあえず平和的な提案をした。


 ムウが用意してくれた食事を、四人で囲む。
 この数日間、積極的に食事をとろうとしないカミュも、友人がわざわざ作ってくれたものは口にする。
 それは先ほどのシャカの薬湯でも証明済みだった。
 あまりの疲労に食欲も落ちているカミュに少しでも栄養をつけさせようと、ムウは心を砕いたのだろう。
 卓上に並ぶ皿には、胃袋が騒ぎ出すような温かい料理が盛られていた。
 「うまいな。おまえ、口は悪いけど、料理はうまいよな」
 空腹を抱えていたミロが、皿まで食べそうな勢いでむしゃむしゃと食べる。
 その向かい側で、シャカは細々と食を進めていた。
 「君は口も悪いが、料理もまずいだろうな」
 「あなたに人のことが言えますか?」
 ムウはミロの皿にお代わりをよそいながら苦笑した。
 「俺、料理なんてしたことないけど、意外とうまいかもしんないぞ。なあ、カミュ」
 同意を求めて隣を見たミロが、首を傾げた。
 カミュは椅子の背もたれに深々と身を預け、瞳を閉じていた。
 弛緩した腕が、重力に任せてだらりと下がっている。
 眠っていた。
 その表情は穏やかに和んでみえた。
 ミロは微笑んだ。
 久しぶりに見る、カミュの健やかな寝顔だった。
 「……意外と早かったですね」
 「ああ、疲労で体力が落ちているからな」
 ぼそりと交わされたムウとシャカの言葉に、ミロは不審の目を向けた。
 この二人が一筋縄では行かないことくらい、この短い共同生活の中で嫌というほど思い知らされている。
 「なんか、した?」
 「先ほどの薬湯に、睡眠薬を一服」
 「薬湯自体は滋養に富んでいるのだぞ。あとは睡眠をとらせて、身体を休ませればよかろう」
 サガを見つける前にカミュの方が倒れそうで、二人はそちらの方を心配していたのだという。
 薬湯の色と臭いにミロが飲むのをためらえば、作ったシャカのためにもカミュはミロに代わって口にするだろう。
 それは、容易に予測がついた。
 だから、無理やりにでも眠らせるために、薬を混ぜ込んだのだ。
 サガは勇壮な戦士であり、その彼を戦闘において倒す者など想像だに及ばない。
 現に、サガの小宇宙が消滅するような波動は何も感じられていない。
 そうだとすれば、サガは自己の意思により姿をくらましたとしか考えられなかった。
 カミュ自身も、理性ではそのことを承知しているのだろう。
 ただ、感情が認めることを拒否しているのだ。
 激情に任せて、狂ったようにサガを捜し求めているのだ。
 常に傍にいると誓ってくれた、優しい保護者を求めて。
 「サガの小宇宙は、どこにも感知できないのだ。故意に消息を絶ったなら、捜しても無駄であろう」
 「シオン様にも尋ねてみようと思っているのですが、お忙しいようで謁見許可が下りないのですよ」
 ムウとシャカは、ほんの少し寂しげな笑みを浮かべていた。
 サガがいない聖域には、この二人もまだ慣れてはいないのだ。
 天空に、太陽と月は欠かせない。
 聖域の双璧も、欠けてはならないはずであった。


 カミュが目覚めたのは自分の寝室だった。
 見慣れた天井と見慣れた寝具。
 人の気配を近くに感じゆっくりと頭をねじると、そばに金色の癖毛が広がっていた。
 傍らで、ミロが熟睡しているのだ。
 記憶を呼び起こそうとするが、白羊宮で食卓についたこと以降、何も思い出せない。
 眠ってしまったのだろう。
 おそらくミロは、起きないカミュをここまで送り届け、そのまま一緒に寝てしまったのだ。
 頼んだわけではなかったが、ミロはいつもついて来てくれていた。
 きっと彼も疲れているだろうに、何も言わないで、カミュの気がすむようにさせてくれていた。
 カミュは上体を起こした。
 ミロが半分蹴飛ばしている毛布を掛け直してやる。
 「ごめん、ミロ」
 カミュはミロの眠りを妨げないように小声で謝った。
 ミロの優しさに甘えてしまう自分の弱さも、充分わかっていた。
 「でも、どうしていいのかわからないんだ……」
 両手で自分の顔を覆ってうなだれる。
 常に自分を見守っていてくれた藍の瞳に慣れてしまっていた。
 それを失うときがくるなどと、思いもしなかった。
 足元の大地が崩壊するような心もとなさが、カミュを苛み放さない。
 誰か、応えてください。
 誰か。
 サガを、返してください。
 女神はもちろん、シャカがよく語っていたあまり馴染みのない神仏まで、ありとあらゆる畏敬の対象に捧げた祈願に、応えはない。
 祈りに姿を変えた激情は、ただひたすらカミュの内を渦巻いていた。


 やがて、俯いていたカミュは、ふと目を開けた。
 自分の名を呼ばれた気がした。
 ミロの顔を覗き込むが、起きた気配は無い。
 周囲を見渡しても、誰もいない。
 首を傾げるカミュに、もう一度声が届いた。
 カミュは目を見張った。
 そろりとベッドを抜け出し、居間に向かう。
 「……サガ……」
 願いが、叶った。
 そこにはカミュの捜し求める人がいた。
 窓辺の椅子は、宝瓶宮でのサガの定位置。
 そこにサガは腰掛けていた。
 普段と何も変わらない穏やかな微笑が、狂おしいほど懐かしい。
 沸き起こる嬉しさが、抑え切れずに迸る。
 カミュはサガの膝に飛びついた。
 「サガ、サガ、お帰りなさい。お帰り……」
 サガは喜びと安堵に泣きそうなカミュを膝の上に抱き上げると、あやす様に頭を撫でてくれた。
 いつもと、同じ。
 いつものサガがいる。
 ただそれだけのことが至福なのだと、今更ながらに痛感する。
 「すまない、カミュ。約束、守れなくて」
 静かな謝罪の声に、カミュは首を横に振った。
 「ううん、帰ってきてくれたから、もういい」
 その言葉に、サガはふっと寂しげな息を漏らした。
 わずかに瞳が伏せられる。
 何かを口にするのをためらうかのような沈黙が続いた後、サガは哀しく微笑んだ。
 嫌な予感がした。
 続く言葉を聞くのが恐くて、カミュはサガの腕をつかむ指にぎゅっと力を込めた。
 「私は、もう傍にはいてあげられないんだ」
 「サガ……?」
 カミュはじっとサガをみつめた。
 予兆が、現実のものとなりつつある。
 漠とした恐怖が、じわりとカミュを包み込んだ。
 「でも、ずっとカミュのことは見ているからね。いい聖闘士になるんだよ」
 カミュは言葉を失った。
 折角サガが戻ってきたのに、それは別れを告げるための一刻の再会に過ぎなかったのだ。
 絶望に、視界が揺らいだ。
 歪む世界に、静謐なサガの声だけが淡々と響く。
 「この間、教えてあげようと思っていたローマ史の本を置いていくよ。まだ君には難しいだろうけれど、この本が読める頃になったら、また会いに来るからね」
 嘘だ、と思った。
 サガは再会を叶わぬ夢と考えていることを、哀しげな瞳は雄弁に語っている。
 それでもサガは、カミュに希望を与えようと、嘘をついたのだ。
 優しい、嘘を。
 何も言うことはできなかった。
 行かないで、と叫びたかった。
 傍にいて、と訴えたかった。
 言葉にするのは簡単なことだったろう。
 しかし、小さな子供だけに許される感情の激発は、カミュの得意とするところではない。
 だからこそ、サガは自分に別れを告げに来てくれたのだと思う。
 何を聞いても冷静でいられると評価してくれたからこそ、自分だけに会いに来てくれたのだと。
 その信頼を裏切ることのほうが、カミュを脅えさせた。
 サガが可愛がってくれた利発なカミュのままでいたかった。
 臆病な自分が、いた。
 サガに会う以前の、たった独りで膝を抱えていた自分が、そこにいた。
 だから、騙されよう。
 サガの嘘を、信じよう。
 つかの間でも自分の傍にいて、愛されるという喜びを教えてくれたサガに対する、精一杯の感謝を込めて。
 カミュは微笑んだ。
 自分の無力さが、骨身にしみた。
 もっと自分が大きければ、去り行くサガを引き止められたかもしれないのに。
 今の自分は余りにも幼く、非力だ。
 「私が来たことは、誰にも言わないでくれるかい?」
 優しく注がれる藍の瞳をじっとみつめて、カミュはうなずいた。
 サガはカミュの額に軽く口付け、ぎゅっとその小さな身体を抱きしめてくれた。
 きつく自分の背に廻された腕のなかで、カミュは瞳を閉じた。
 サガも、泣いていた。
 心の中で。
 声にならない慟哭を全身で感じ取る。
 この別れがサガの本意ではないということ。
 それが、これからの自分を支える礎となっていくのだろう。
 根拠は何もない。
 が、カミュは直感的にそう確信した。
 「元気で、カミュ」
 「……サガも……」
 泣きそうになるのをぐっとこらえ、カミュは笑った。
 記憶にいつまでも残るのが泣き顔では、サガを心配させてしまう。
 覚えていて欲しかった。
 サガのおかげで、幸せに笑うことができるようになったカミュを。
 覚えていて欲しかった。
 サガを慕う小さな子供がいたことを。


 朝の陽射しに、ミロは揺り起こされた。
 うーん、と手足を伸ばして、全身を目覚めさせる。
 頭がしっかりしてくると、真っ先にカミュのことが頭に浮かんだ。
 紅い色を求め、きょときょとと忙しなく室内を見渡す。
 昨夜、同じベッドで眠っていたはずだが、すでにその姿は寝室には無かった。
 一人でサガを捜しに行ったか。
 「やばっ……!」
 慌てて寝室を飛び出したミロに、明るい声がかけられる。
 「おはよう、ミロ」
 焦燥に駆られたミロが馬鹿馬鹿しくなるくらい、カミュはのんびりと居間で紅茶を飲んでいた。
 十分休息をとったためか、最近見たことが無いほどすっきりとした顔をしている。
 「……ああ、おはよう」
 ミロはカミュの向かいの椅子に腰掛けた。
 「今日は、どこ捜しに行く?」
 「行かない」
 予想外の答えに、ミロは小首を傾げて眼を瞬かせた。
 カミュが小さく笑う。
 「もう、捜さない」
 「……それでいいの、カミュ?」
 真意を確かめるように瞳を覗き込むミロの問いかけに、カミュははっきりとうなずいた。
 「朝食、何食べたい?」
 カミュが自分から食事の事を言い出すのは、本当に久しぶりだった。
 散々実りの無い捜索をして、ふっ切れたのかもしれない。
 「じゃ、フレンチトースト」
 「わかった。ちょっと待ってろ」
 台所に向かうカミュの後姿を見送り、ミロは微笑を浮かべた。
 もう、カミュは大丈夫だろう。
 安心したせいか、とたんに空腹感を覚えたミロは、テーブルを見遣った。
 そこには、カミュの飲みかけの紅茶が残されていた。
 とりあえず喉の渇きを癒そうと、そのカップに手を伸ばす。
 ふと、手が止まった。
 「……元気になったら、早速こんな難しそうな本読んでるのか、あいつ」
 ミロは呆れて呟いた。
 卓上にあるのは、カップだけではない。
 細かい字ばかりの分厚い本が一冊、頁を開いたまま置いてあった。
 それが、サガとカミュの果たされなかった約束の代償だとは、ミロは知る由もなかった。

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