送別
氷の闘技を操る聖闘士の育成のため、カミュは極北の地に向かうことになっていた。
辞令が下りてからの月日は慌ただしく過ぎ去り、余計な感傷に浸る間もない中、期日は訪れる。
カミュは出立の挨拶をするために教皇の間を訪れた。
畏縮することこそなくなったものの、依然として教皇は苦手な存在だった。
初見の時の印象が強すぎるからかもしれない。
幼いカミュにとって、聖域の統括者は人智を超えた存在だった。
仮面に隠され窺い知れない表情が、一段とカミュを脅えさせた。
逃げ出さずに対面できたのは、自分一人ではなかったからだ。
その威容は、一人で参内するようになってから、ますます増したようにさえ思われる。
見えない障壁のようなものが周囲を取り巻いている。
そんな気さえしていた。
しかし、これからは、目通りの機会も減るだろう。
聖域への帰参は、そうそう頻繁というわけでもないのだ。
そう思ったとき、胸の奥で、何かがじわりと蠢いた。
それでも、少しは寂しいと思っているのだろうか。
この、近寄りがたい御仁との別れが。
我ながら意外な感情の動きに、カミュは一つ、息を吐いた。
謁見の間には、すでに教皇が座していた。
薄暗い広間に彫像のように鎮座する姿には、やはり畏敬を覚えざるをえない。
緊張感に背筋が自然と伸びるのを感じながら、御前に進み出、膝をつく。
「水瓶座、本日、出向いたします」
「……そうであったな」
重々しくも短い応えがあった。
しかし、続く言葉はない。
しばしの沈黙。
空気が張り詰める音が聞こえるほどの重苦しい静寂が、二人の合間に覆いかぶさった。
物理的距離の短さを払拭し遙遠たる隔たりをもたらすのは、立場の違いか。
それとも、他に、何か。
視線を床に落としたまま、カミュはわずかばかりの不審を覚えていた。
何か、かけるべき言葉に迷っているような、そんな感じがした。
逡巡する教皇など想像もつかないが、どうしてもその印象が拭えない。
どこかで、これと同じ経験をした。
その後に紡がれるであろう言葉に脅え、耳を塞ぎたくなった。
遠い昔に。どこかで。
記憶の海の中に埋没しつつある光景には、手を伸ばしてもぎりぎりのところで届かない。
揺らめく波が、水底に沈むその輪郭を認識しがたいほどに歪める。
もどかしさに苛立つカミュの脳内で、求めれば求めるほど、記憶の情景は薄布に覆われたように遠ざかっていった。
「息災であれ、水瓶座。……女神の御加護を」
ようやく教皇の口から発された言葉に、カミュはふかぶかと頭をたれた。
結局、既視感の正体は突き止められなかった。
宝瓶宮の前では、ミロが待ち構えていた。
半ばひったくるようにカミュの鞄を手にしたミロは、そっぽを向いたまま、聖域の外まで見送る、と、ぶっきらぼうに呟く。
強引なミロの申し出を、珍しくカミュは断らなかった。
素直に鞄をミロに預け、小さく頷く。
言葉も無く、二人はただ並んで階段を下った。
いつもは閉口する十二宮の階段の長さが、今日だけはありがたい。
ゆっくりとした足取りながら、彼らは聖域を横切っていった。
幼い頃アイオロスに指導を受けた闘技場、カミュがよく出入りしていた図書館、二人で遊びまわった小さな森、波の音を聞きながらシェスタをした浜辺……。
通り過ぎ行く風景には、そこかしこに思い出がこびりついている。
聖域が、彼らの世界の全てだった。
そしてその世界には、常にお互いの笑顔があった。
それぞれが、こういう形で別の道を歩むようになるとは思いもしなかった。
ずっと、一緒にいられると、思っていた。
ミロは、かすかに鼻をすすった。
カミュは、気づかない振りをした。
永遠にこの道行きが続いてくれればよい。
そう願っても、物事には全ていつか終わりが来る。
石の門柱が地面に伸ばす影に塗られ、ミロの髪から輝きが消えた。
境界は、目前だった。
細工の込んだ門柱の細工を、カミュは無言で見上げた。
ずっとそこに存在していたはずなのに、その精緻を尽くした装飾から、目が離せない。
今までは何も考えることなく通過していた門。
今日はどういうわけかその美しさに圧倒され、足の運びが鈍った。
重い足を、一歩一歩持ち上げるようにして、大地を踏みしめる。
ただ歩くということが、これほど意識しなくては難しい動作になるなど、一体誰が予測しえただろう。
ゆるりとした歩調で、境界に張り巡らされた結界を抜けていく。
独特の歪曲した空気が、なぜか狂おしいほど愛おしい。
まとわりつくような違和感の残滓ですら、かき集めて抱きしめていたいと思うほどだった。
しばらく、この世界に別れを告げる。
結界に守られたこの地から解き放たれて、たった一人、異国に向かう。
充分わかっていたことなのだが、いざその時が来ると、身が竦む。
このまま時が止まってしまえばよいのに。
しかし、それこそ願っても詮無きこと。
カミュの前には、進むべき道が一本、厳然として存在しているのだ。
後ろを振り返ると、遠くに神殿が霞んで見えた。
聖域を、出た。
二度とここに帰れないというわけではない。
ただ、しばらく留守にするだけだ。
自分に言い聞かせるように心の中で独白すると、カミュはミロに向き直った。
真正面からミロの顔を見るのは、今日初めてだ。
いつも血色のよいミロには珍しい蒼白な顔に、強張った表情が張り付いていた。
「ここで、いいから」
返事はなかった。
それでも、気遣わし気に見守るカミュの視線に、ようやく我に返ったか。
ミロは今にも泣き出しそうな、それでもなんとか必死に作ったような笑顔をみせた。
痛々しいくらいに無理のある笑顔。
一体どちらが見送る方なのか、第三者が見ていたのなら区別がつかないだろう。
「……情けない顔をするな」
かけられた言葉に、ミロは何か反論しかけたが、音にすることはできなかったらしい。
そのまま、拗ねたように下を向いてしまった。
カミュはため息をつくと、俯くミロの視界に入るように、低く手を差し出した。
その手に握られたものを目にするやいなや、ミロは勢いよく顔を上げた。
跳ね上がった豊かな金の髪が、わずかな空気の流れを生む。
見えない手に頬をさっと撫でられたような感覚にくすぐったさを覚えながら、カミュはことさら素っ気ない風を装い、口を開いた。
「宮の合鍵、おまえに預けておくから。なくすなよ」
蒼い瞳が瞬いた。
口許に微笑を刻むカミュと、掌に載った鍵を交互にみつめる。
しばらくしてようやく言葉の意味を察した様子のミロは、鞄を地面に落とすと、カミュの手ごと鍵を両手で握り締めた。
「……わかった」
「手は離せ」
「離したら、鍵落とす」
「……ばか」
痛いほど自分の手を握り締めてくるミロに、カミュは口の端をかすかに歪めて笑った。
幼い頃から、ほとんどの時間を共に過ごしてきたのだ。
やはり、寂しさは拭えない。
「元気でな」
「ああ」
「帰ってくるときは、連絡しろよ」
「ああ」
「ときどき遊びに行くから」
「ときどきな」
交わされる言葉は短かったが、重かった。
言葉にならない想いが、全て載せられていた。
つないだ手が、離せなかった。
「手、離せ」
しばらく動きを止めていたカミュが、もう一度繰り返す。
宝瓶宮の鍵は、二人の中間地点で握り締められたまま、行き場をなくしていた。
しかし、ミロは素直には従いづらい様子で、逆に握った手に力を込めてくる。
カミュは小さく吐息を漏らした。
「……それでは、別れのハグもできない」
続いた言葉に、ミロは弾かれたように手を解く。
突如束縛から解放された鍵が、石畳に落ち、澄んだ音を立てた。
それが、呪縛を解く合図。
二人は顔を見合わせ、ふっと微笑んだ。
同時にすっと腕が持ち上げられ、お互いの背に回される。
同じくらいの身長の、二人の頬が触れ合った。
「……これは、友情のハグだからな」
「いまのところは、だろ」
「……」
押し黙るカミュを抱きしめる腕の輪が、ぎゅっと狭まった。
このまま閉じ込めてしまおうとするかのように、ミロは強い力を腕に集中させてきた。
カミュは動かなかった。
動けなかった。
表面には出さないものの、弟子を取るということに不安はあった。
対人関係に不得手な自分が、立派に師として幼い子供を導いてやれるのか。
行く末には、ただ深い霧のようなものが立ち込め、進路を覆い隠しているような気がしてならなかった。
ミロの腕は、その憂慮を消してくれるように、不思議と自信に満ち溢れていた。
無言の激励が、偉力となってカミュの内に流れ込む。
カミュは瞳を閉じ、深く息を吸った。
ミロの髪から、身体から、太陽の香りがした。
きっと、懐かしく思い出すだろう。
このぬくもりを。この力強い腕を。
ギリシャの太陽に、しばらく別れを告げる。
日が昇らない極北の冬に耐えることができるように、カミュは全身でミロのぬくもりを味わっていた。
程なくして、カミュはミロの腕の中からするりと身を離した。
名残惜しげに腕を伸ばすミロを、とん、と軽く突き飛ばす。
驚いて数歩後ずさるミロの眼前で、いきなりカミュは消えた。
瞬間移動。
笑顔の残像だけが何もない空間にかすかに漂っていたが、それもすぐに霧消する。
独り残されたミロは呆けたように立ち尽くしていた。
が、やがて、くつくつと笑い出す。
「……相変わらず、マイペースな奴だ」
このまま別れの挨拶をしていたら、引き止めたい衝動を抑えきれなくなる。
別れが、一層辛くなる。
そうわかっていても、この抱擁だけがカミュを繋ぎとめる鎖のような気がして、抱きしめた腕を解けなかった。
カミュも、おそらく同じ思いだったのだろう。
だからこそ、カミュは別れを告げる間も与えずに消えたのだ。
つないだ糸を鋭利な刃物が一瞬にして断ち切るように、なんの余韻も残さない、なんの感動もない、簡潔な別れを選んだのだ。
そのあっけなさが、むしろ小気味よい。
ミロは地面に落ちたままの鍵を拾い上げた。
掌の上に載せ、その形状を記憶しようとでもするかのように、しばらく熟視する。
そして、ふっと微笑むと、鍵を唇に軽く押し当てた。
ひんやりと冷たい。
どこか、カミュに似ていた。
氷の闘技を操る聖闘士の育成のため、カミュは極北の地に向かうことになっていた。
辞令が下りてからの月日は慌ただしく過ぎ去り、余計な感傷に浸る間もない中、期日は訪れる。
カミュは出立の挨拶をするために教皇の間を訪れた。
畏縮することこそなくなったものの、依然として教皇は苦手な存在だった。
初見の時の印象が強すぎるからかもしれない。
幼いカミュにとって、聖域の統括者は人智を超えた存在だった。
仮面に隠され窺い知れない表情が、一段とカミュを脅えさせた。
逃げ出さずに対面できたのは、自分一人ではなかったからだ。
その威容は、一人で参内するようになってから、ますます増したようにさえ思われる。
見えない障壁のようなものが周囲を取り巻いている。
そんな気さえしていた。
しかし、これからは、目通りの機会も減るだろう。
聖域への帰参は、そうそう頻繁というわけでもないのだ。
そう思ったとき、胸の奥で、何かがじわりと蠢いた。
それでも、少しは寂しいと思っているのだろうか。
この、近寄りがたい御仁との別れが。
我ながら意外な感情の動きに、カミュは一つ、息を吐いた。
謁見の間には、すでに教皇が座していた。
薄暗い広間に彫像のように鎮座する姿には、やはり畏敬を覚えざるをえない。
緊張感に背筋が自然と伸びるのを感じながら、御前に進み出、膝をつく。
「水瓶座、本日、出向いたします」
「……そうであったな」
重々しくも短い応えがあった。
しかし、続く言葉はない。
しばしの沈黙。
空気が張り詰める音が聞こえるほどの重苦しい静寂が、二人の合間に覆いかぶさった。
物理的距離の短さを払拭し遙遠たる隔たりをもたらすのは、立場の違いか。
それとも、他に、何か。
視線を床に落としたまま、カミュはわずかばかりの不審を覚えていた。
何か、かけるべき言葉に迷っているような、そんな感じがした。
逡巡する教皇など想像もつかないが、どうしてもその印象が拭えない。
どこかで、これと同じ経験をした。
その後に紡がれるであろう言葉に脅え、耳を塞ぎたくなった。
遠い昔に。どこかで。
記憶の海の中に埋没しつつある光景には、手を伸ばしてもぎりぎりのところで届かない。
揺らめく波が、水底に沈むその輪郭を認識しがたいほどに歪める。
もどかしさに苛立つカミュの脳内で、求めれば求めるほど、記憶の情景は薄布に覆われたように遠ざかっていった。
「息災であれ、水瓶座。……女神の御加護を」
ようやく教皇の口から発された言葉に、カミュはふかぶかと頭をたれた。
結局、既視感の正体は突き止められなかった。
宝瓶宮の前では、ミロが待ち構えていた。
半ばひったくるようにカミュの鞄を手にしたミロは、そっぽを向いたまま、聖域の外まで見送る、と、ぶっきらぼうに呟く。
強引なミロの申し出を、珍しくカミュは断らなかった。
素直に鞄をミロに預け、小さく頷く。
言葉も無く、二人はただ並んで階段を下った。
いつもは閉口する十二宮の階段の長さが、今日だけはありがたい。
ゆっくりとした足取りながら、彼らは聖域を横切っていった。
幼い頃アイオロスに指導を受けた闘技場、カミュがよく出入りしていた図書館、二人で遊びまわった小さな森、波の音を聞きながらシェスタをした浜辺……。
通り過ぎ行く風景には、そこかしこに思い出がこびりついている。
聖域が、彼らの世界の全てだった。
そしてその世界には、常にお互いの笑顔があった。
それぞれが、こういう形で別の道を歩むようになるとは思いもしなかった。
ずっと、一緒にいられると、思っていた。
ミロは、かすかに鼻をすすった。
カミュは、気づかない振りをした。
永遠にこの道行きが続いてくれればよい。
そう願っても、物事には全ていつか終わりが来る。
石の門柱が地面に伸ばす影に塗られ、ミロの髪から輝きが消えた。
境界は、目前だった。
細工の込んだ門柱の細工を、カミュは無言で見上げた。
ずっとそこに存在していたはずなのに、その精緻を尽くした装飾から、目が離せない。
今までは何も考えることなく通過していた門。
今日はどういうわけかその美しさに圧倒され、足の運びが鈍った。
重い足を、一歩一歩持ち上げるようにして、大地を踏みしめる。
ただ歩くということが、これほど意識しなくては難しい動作になるなど、一体誰が予測しえただろう。
ゆるりとした歩調で、境界に張り巡らされた結界を抜けていく。
独特の歪曲した空気が、なぜか狂おしいほど愛おしい。
まとわりつくような違和感の残滓ですら、かき集めて抱きしめていたいと思うほどだった。
しばらく、この世界に別れを告げる。
結界に守られたこの地から解き放たれて、たった一人、異国に向かう。
充分わかっていたことなのだが、いざその時が来ると、身が竦む。
このまま時が止まってしまえばよいのに。
しかし、それこそ願っても詮無きこと。
カミュの前には、進むべき道が一本、厳然として存在しているのだ。
後ろを振り返ると、遠くに神殿が霞んで見えた。
聖域を、出た。
二度とここに帰れないというわけではない。
ただ、しばらく留守にするだけだ。
自分に言い聞かせるように心の中で独白すると、カミュはミロに向き直った。
真正面からミロの顔を見るのは、今日初めてだ。
いつも血色のよいミロには珍しい蒼白な顔に、強張った表情が張り付いていた。
「ここで、いいから」
返事はなかった。
それでも、気遣わし気に見守るカミュの視線に、ようやく我に返ったか。
ミロは今にも泣き出しそうな、それでもなんとか必死に作ったような笑顔をみせた。
痛々しいくらいに無理のある笑顔。
一体どちらが見送る方なのか、第三者が見ていたのなら区別がつかないだろう。
「……情けない顔をするな」
かけられた言葉に、ミロは何か反論しかけたが、音にすることはできなかったらしい。
そのまま、拗ねたように下を向いてしまった。
カミュはため息をつくと、俯くミロの視界に入るように、低く手を差し出した。
その手に握られたものを目にするやいなや、ミロは勢いよく顔を上げた。
跳ね上がった豊かな金の髪が、わずかな空気の流れを生む。
見えない手に頬をさっと撫でられたような感覚にくすぐったさを覚えながら、カミュはことさら素っ気ない風を装い、口を開いた。
「宮の合鍵、おまえに預けておくから。なくすなよ」
蒼い瞳が瞬いた。
口許に微笑を刻むカミュと、掌に載った鍵を交互にみつめる。
しばらくしてようやく言葉の意味を察した様子のミロは、鞄を地面に落とすと、カミュの手ごと鍵を両手で握り締めた。
「……わかった」
「手は離せ」
「離したら、鍵落とす」
「……ばか」
痛いほど自分の手を握り締めてくるミロに、カミュは口の端をかすかに歪めて笑った。
幼い頃から、ほとんどの時間を共に過ごしてきたのだ。
やはり、寂しさは拭えない。
「元気でな」
「ああ」
「帰ってくるときは、連絡しろよ」
「ああ」
「ときどき遊びに行くから」
「ときどきな」
交わされる言葉は短かったが、重かった。
言葉にならない想いが、全て載せられていた。
つないだ手が、離せなかった。
「手、離せ」
しばらく動きを止めていたカミュが、もう一度繰り返す。
宝瓶宮の鍵は、二人の中間地点で握り締められたまま、行き場をなくしていた。
しかし、ミロは素直には従いづらい様子で、逆に握った手に力を込めてくる。
カミュは小さく吐息を漏らした。
「……それでは、別れのハグもできない」
続いた言葉に、ミロは弾かれたように手を解く。
突如束縛から解放された鍵が、石畳に落ち、澄んだ音を立てた。
それが、呪縛を解く合図。
二人は顔を見合わせ、ふっと微笑んだ。
同時にすっと腕が持ち上げられ、お互いの背に回される。
同じくらいの身長の、二人の頬が触れ合った。
「……これは、友情のハグだからな」
「いまのところは、だろ」
「……」
押し黙るカミュを抱きしめる腕の輪が、ぎゅっと狭まった。
このまま閉じ込めてしまおうとするかのように、ミロは強い力を腕に集中させてきた。
カミュは動かなかった。
動けなかった。
表面には出さないものの、弟子を取るということに不安はあった。
対人関係に不得手な自分が、立派に師として幼い子供を導いてやれるのか。
行く末には、ただ深い霧のようなものが立ち込め、進路を覆い隠しているような気がしてならなかった。
ミロの腕は、その憂慮を消してくれるように、不思議と自信に満ち溢れていた。
無言の激励が、偉力となってカミュの内に流れ込む。
カミュは瞳を閉じ、深く息を吸った。
ミロの髪から、身体から、太陽の香りがした。
きっと、懐かしく思い出すだろう。
このぬくもりを。この力強い腕を。
ギリシャの太陽に、しばらく別れを告げる。
日が昇らない極北の冬に耐えることができるように、カミュは全身でミロのぬくもりを味わっていた。
程なくして、カミュはミロの腕の中からするりと身を離した。
名残惜しげに腕を伸ばすミロを、とん、と軽く突き飛ばす。
驚いて数歩後ずさるミロの眼前で、いきなりカミュは消えた。
瞬間移動。
笑顔の残像だけが何もない空間にかすかに漂っていたが、それもすぐに霧消する。
独り残されたミロは呆けたように立ち尽くしていた。
が、やがて、くつくつと笑い出す。
「……相変わらず、マイペースな奴だ」
このまま別れの挨拶をしていたら、引き止めたい衝動を抑えきれなくなる。
別れが、一層辛くなる。
そうわかっていても、この抱擁だけがカミュを繋ぎとめる鎖のような気がして、抱きしめた腕を解けなかった。
カミュも、おそらく同じ思いだったのだろう。
だからこそ、カミュは別れを告げる間も与えずに消えたのだ。
つないだ糸を鋭利な刃物が一瞬にして断ち切るように、なんの余韻も残さない、なんの感動もない、簡潔な別れを選んだのだ。
そのあっけなさが、むしろ小気味よい。
ミロは地面に落ちたままの鍵を拾い上げた。
掌の上に載せ、その形状を記憶しようとでもするかのように、しばらく熟視する。
そして、ふっと微笑むと、鍵を唇に軽く押し当てた。
ひんやりと冷たい。
どこか、カミュに似ていた。