無憂宮
水浴


 この山を越えれば、聖域まではすぐだった。
 勅命による追討を終えた私たちは帰路についていた。
 小宇宙を発動させれば一瞬で辿り着く道程を、わざわざ二本の足で歩くことにしたのはどちらの発案だったろう。
 首謀者を討てば、付き従う戦士たちは目的を失い散開する。
 そう見込んだ私たちは、あえて逃げ惑う輩を追わなかった。
 それでも、私たちに報復しようと小宇宙を辿って来る者がいないとは限らない。
 不穏の元凶を聖域まで案内してやるほど、私たちもお人よしではない。
 そんな理由だったかと思う。表向きは。
 ミロは口にしない。
 私も言葉にしない。
 ただ、わかっていた。
 血に染まることを宿命付けられた私たちを、時折空虚な風が通り抜けていくことを。
 星宿に従い天与の才を遺憾なく発揮することに誇りを抱いている私たちでも、平穏な生を普通に生きてみたいと思うことがあった。
 ごく稀にだが、そんな虚しさに襲われることがあった。
 突き刺さるように肌を焼く陽射しに照り付けられつつ、黙々と重い足を繰り出している私たちは、まさに今その真っ只中にあったのだ。
 「……あっついよな、しかし」
 頬を伝い落ちる汗を拳で拭いつつ、ぼそりとミロが呟く。
 「喉渇いた……。川とか無いのかな」
 口を開けば、余計に渇きを増すだけなのに。
 それでも、独り言のようにでも口を動かしたくなるのはミロの性分だろう。
 そして暑さが苦手な私も、その慨嘆には諸手を挙げて賛同できた。
 ほんの少しだけ足を止め、気を集める。
 深く息を吸い込むと、空気に混じる水の誘いをわずかに感じた。
 その方向に視線を投げると、遮る物もなく陽光の降り注ぐ山肌の向こうに小さな木立が見えた。
 視線をミロに戻すと、彼も私の意図を察したらしい。
 わずかに口の端を持ち上げると、先に立って方向を転じる。
 急ぐ訳でもない。
 私たちは道を外れた。


 水瓶座の星の元に生まれたのは伊達ではない。
 私の水に関する感知能力がミロをはるかに凌ぐことを証明するように、私たちは程なく山間の小さな泉に辿り着いていた。
 先ほどまで痛いほどに照射されていた日光は厚く生い茂った木々の葉に遮られ、あたりの空気はひんやりと心地よい。
 ミロは透き通った水に手を浸し、気持ちよさそうに目を細めていた。
 私も隣に膝をつき、木漏れ日に煌く水をすくいとった。
 喉を湿らせると、ようやく人心地がつく。
 清浄な水に洗い流され、身体に染み付いた血の臭いも薄れていくような気がした。
 それはミロも同じだったのだろう。
 「なあ、水浴びしてこうぜ」
 言うが早いか、ミロは立ち上がると服を脱ぎ捨て、あっけにとられた私をおいて、さっさと泉の中に足を踏み入れていく。
 私は咄嗟に瞳を伏せた。
 目にも肌にも、もうすっかり馴染んでしまったはずのミロの裸体を直視できなかった。
 真昼の白い光の中、現代に甦った太陽神のように均整のとれた身体が眩しすぎたのだ。
 ミロが下位聖闘士や雑兵たちから崇拝と憧憬を集めているのは、彼が黄金聖闘士だからというだけではない。
 その輝く黄金の髪も、澄んだ蒼の瞳も、鍛え抜かれた体も、彼を構成する全ての要素が、青年の理想の集大成なのだ。
 ミロの傍にいることにより、私は多くの安らぎと幸せを手にいれた訳だが、それと同時に劣等感も感じていた。
 この珍奇な髪と瞳の色や、白すぎる肌色、さらには筋肉の目立たない細い手足の頼りなさが、彼との比較により際立ってしまうからだ。
 そんな私の内面の葛藤は、ミロの陽気な声に中断させられた。
 「カミュも来いよ。気持ちいいから」
 子供の頃と変わらない、闊達な笑顔。
 多分、彼が私の闇を本当に解することはないだろう。
 もっとも、私もその方がありがたい。
 羨望と安堵を胸に秘めたまま、私は黙ってミロをみつめ返した。
 「大丈夫だって。こんな山奥、他に人なんか来ないし」
 反応の無い私の態度を誤解したのだろう。とりなす様に言いつくろうミロは、さらに言を重ねた。
 「脱がせてほしいんなら、喜んでお手伝いいたしますけど?」
 さすがにこういう軽口は、純真な子供の時には言わなかったはずだ。
 軽く睨みつけると、ミロはおどけた笑みを浮かべ肩をすくめてみせた。
 承諾の意を知らしめるべく、私は小さなため息を一つついて答えた。
 ミロの不遜なまでの強引さは、ときに冗句で済ませられない行動となって表れる。
 あまり私が意に従わないと、そのうち今の発言を実践しだしかねないのだ。
 冷たい水は確かに気持ちよさそうで、抵抗しがたい誘惑だった。
 ただ、髪が濡れるのは避けたい。
 私は周囲を見渡し、落ちていた小枝を拾い上げた。
 両手でまとめた髪を捻りあげ、スティック代わりに枝を挿して留める。
 水浴びくらいの短時間なら、これで髪を結い留めておくことができるだろう。
 露になった首筋を吹き抜ける涼やかな風を心地よく感じつつ、私は衣服を滑り落とした。
 冷涼な空気が瞬時に肌を包む。
 しかし、その快適な感触は、すぐに別の熱に取って代わられた。
 「……な……。ちょっと、ミロ?」
 私を空気に触れさせまいとするごとく、ミロが背後から抱きしめてきたのだ。
 「何のまねだ。暑い、離れろ」
 抗議の声が、空しく風に吹き消される。
 むき出しになった首のくぼみに唇を這わせるミロには、せいぜい小鳥のさえずりにしか聞こえないのだろう。
 えてしてこういう場合、彼の聴覚は主人の意向に従うような都合の良い働きしかしないのだ。
 「え、誘ってるんじゃないの?」
 「誰が……!」
 「だって色っぽいんだもん、カミュ」
 ついばむような口付けが、首筋から耳にかけて隙間なく落とされる。
 普段は髪に覆われ外気に曝されることのない部位だけに、其処に与えられる刺激の効果は絶大だった。
 ミロの吐息に揺れた後れ毛が、ふわりと首を撫でる。
 ただそれだけの触感にさえ淫靡な焔は燃え上がり、自制の箍を焼きつくさんと激しく揺らめく。
 霧散しそうな理性を必死で掻き集め、私は最後の抵抗とばかりにミロの瞳を見据えた。
 そのまま、囚われた。
 蒼い瞳にかすかに浮かぶ翳から、視線を外せなくなっていた。
 戦闘の後の昂ぶりと、生命を容易く絶ってしまえる自分に対する嫌悪と、過酷な運命に翻弄される哀しさと。
 貪るように私を抱くのは、彼の手が血に染まった夜の習慣的行為。
 ミロもまた、表に出せない闇を抱えているのだ。
 自己の内なる闇に飲み込まれないよう、私たちは互いに縋りついて生きているのかもしれなかった。
 身体を絡めとるミロの両腕から、私はかろうじて右腕だけを解放した。
 髪に挿した小枝を抜き取り、結い上げた髪を解いたのは、私の方だった。
 紅い髪がはらりとミロに落ちかかる。
 ふと心中に浮かんだ不吉な連想から目を背けるように、私は堅く瞼を閉じた。


 遠くに鳥の声を聞いた。
 突然の侵入者の狂態に姿を潜めていた鳥が、ようやく静寂を取り戻した泉に戻ってこようとしているのだろう。
 かすかに感じる罪悪感に苦笑しつつ、私はゆっくりと身を起こした。
 ミロはまだ眠っていた。
 岸辺を枕に半身を水にたゆたわせたまま、静かに瞳を閉じていた。
 夢を、みているのかもしれない。
 母の胎内で羊水に包まれていた頃の夢を。
 これから自分を待ち受ける運命など知らず、ただ外の世界に焦がれていた日々の夢を。
 願ってしまうのは、私の我侭だろうか。
 たとえ己の未来を知ったとしても、ミロにはこの世に生を受けてほしいと思うのだ。
 そして、私に出会ってほしいと。
 言葉にすることはない想い。
 それでも、夢の中の彼にだけは知っていてほしかった。
 睡郷にまどろむ彼を前にしてなら、私はいつもより素直になれるらしい。
 私はミロの眠りを妨げないよう細心の注意を払いつつ、そっと唇を寄せていた。

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