無憂宮
煙草


 夕焼けを見ながら煙草を吸うというのが、最近のシュラの習慣だった。
 宮の壁にもたれてみたり階段に腰掛けてみたり、体勢はそれぞれだったが、この一服が彼の活力剤となりつつあった。
 一本灰にし、二本目に手を出そうかどうしようか迷っていると、階段を上ってくる人物が目に入る。
 久々に修行先から戻ってきているらしいカミュだった。
 夕日よりも鮮やかな真紅の髪をなびかせ、心なしか足取りがいつもより乱暴にみえる。
 (ミロとけんかでもしたか)
 シュラは苦笑した。
 この二人はお互い気が強いせいか、些細なことでよくけんかする。
 仲直りするのも早いのだが、その間ミロに愚痴を聞かされる立場の人間としては閉口していた。
 しかし、カミュはそういった愚痴をこぼさない。
 だから、こうして上ってきてもシュラには害がない、はずだった。
 ところが、思惑と裏腹に、カミュは怒りの表情を浮かべて、シュラの前に立ちふさがった。
 「何だよ」
 シュラの声がわずかにかすれた。
 美人が怒ると凄絶な色気が加わり、恐いのだが眼が離せなくなる。
 普段感情を表に出さないようにしているカミュが相手だと、とくに。
 「煙草」
 カミュはぶっきらぼうに一言呟くと、煙草の箱をシュラの眼前に突きつけた。
 シュラは訳もわからずにそれを受け取った。
 「くれるのか」
 「返す」
 しかし、渡された箱はシュラの好みの煙草ではなかった。
 「この銘柄はデスマスクのだぞ。俺のはもっと軽い」
 「じゃ、デスマスクにも伝えてくれ。ミロに煙草をやるなって」
 カミュは怒りに震える声で続けた。
 「煙草は身体に悪いんだ。発癌物質含有率の高さはもとより、ニコチンは血管を収縮させるし、さらに……」
 シュラは大げさに手を振って押しとどめる。
 「わかった、わかった。健康のためにミロを悪習に染めるな、と言いたいんだな」
 カミュは当然というように大きく頷いた。
 生真面目なカミュは、ミロが最近好奇心で吸い出した煙草が許せないのだ。
 もっとも、ミロの持っている煙草はデスマスクやシュラからもらったものばかりで、自分で買うほどの喫煙家ではない。
 それでも、カミュは血相を変えて取り上げてきたらしい。
 「おまえは、俺らの身体の心配はしないのな。俺らには一回も吸うなって言ったことないくせに」
 ミロに対しての反応と、自分たちへの反応があまりに違い、シュラは少し意地悪を言ってみたくなった。
 心配されるミロが、少し羨ましくもあった。
 カミュもそれに気づいたらしい。
 少し気まずげに、口を尖らす。
 「あなたたちは、もう大人だから。だけど、ミロはまだ身体も精神も未熟なんだ」
 「俺らは自己責任だからいいってことか」
 「……そう、なるかな」
 カミュは少し苦笑した。
 怒りは収まりつつあるらしく、表情が和らいだ。
 シュラは二本目の煙草に火をつけた。
 カミュの方に煙が行かないよう、風下に立ち位置を変える。
 「そんなに怒るんなら、ミロに煙草を止めさせる薬を教えてやろうか」
 カミュの瞳が瞬いた。
 「そんなものがあるのか?」
 「教えてほしけりゃ、耳貸してみな」
 煙草を指に持ち替え、シュラはちょいちょいと手招きした。
 カミュは怪訝そうな顔をしながら耳を寄せる。
 シュラがなにやら囁くと、カミュはみるみる頬を紅潮させた。
 「……それ、本当に効果あると思うか」
 恥ずかしそうにやや上目遣いに問いかけるカミュに、シュラは口の端を上げて頷いた。
 「俺なら、一発」
 「……覚えておく」
 カミュはきびすを返し、天蠍宮に戻ろうとした。
 が、ふと足を止め、シュラを見上げる。
 「あなたも、そんなに吸わないほうがいいと思うが」
 シュラは肩をすくめた。
 「覚えておこう」
 煙を吐き出しつつ、シュラは笑った。


 「俺は、止められないんだよ、もう」
 シュラは遠ざかるカミュの後ろ姿に小さく呟いた。
 煙草という麻薬がなかったら、どうやって罪の意識に耐えられる?
 煙草という小道具がなかったら、どうやって通りかかるおまえを自然に呼び止めることができる?
 「教えてくれよ、カミュ」
 シュラは俯いたまま、紫煙をくゆらせていた。


 二本目の煙草も灰になり、空が日没間際の微妙な色彩に彩られ始めた頃、今度はミロが上がってきた。
 手にはやはり、煙草の箱がある。
 ただ、今度はシュラの愛用の煙草だった。
 「シュラ、これ返す。もういらないから」
 「ああ、カミュに怒られたか」
 ミロはにんまりと笑った。
 豪奢な金髪をくしゃくしゃっと引っ掻き回す。
 「カミュが、煙草の味がするキスは嫌だって」
 どうやら、カミュはシュラの忠告を素直に実行したらしかった。
 「のろけに来たんなら帰れ、バカ」
 ミロは陽気に笑うと、手を振って階段を駆け下りていった。
 シュラは返された煙草の箱を憮然として見つめ、三本目に手を出そうとして躊躇った。
 「ま、今日は止めとくか」
 シュラは空を見上げた。
 夕映えはもう、闇に呑みこまれつつあった。

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