無憂宮
和解


 シベリアの夜は、これほど暗く、寂しかっただろうか。
 カミュは何本目かの薪を暖炉に放り込んだ。
 ぱちぱちと炎がはぜる音が、不思議と心を和ませる。
 氷の聖闘士と呼ばれるだけに、気温的にはそれほど苦にはならないのだが、暖炉に火を入れて正解だった。
 炎のゆらめきが、暖められた空気が、カミュの無聊を慰めてくれる。
 カミュは窓の外を見やった。
 すっかり日も暮れ、雪混じりの風がごうごうと音を立てて吹きつけていた。
 かつて自分が修行時代を過ごした小さな家は、風雪に朽ちることなく存在していた。
 住人がいなくなってもう何年も経つのだが、少し手を入れれば、生活になんら支障はなさそうだった。
 しかし、簡単な掃除と買い物を終えようやく落ち着くと、今度はひしひしと寂寥感が襲ってきた。
 この家に一人でいるのは、初めてだった。
 もともと一人が苦になる性質では無いのだが、この家では違った。
 かつて師と過ごした記憶が、そこかしこにこびりついている。
 二人でいたから、この凍てついた夜が苦痛ではなかったのだ。
 それだけではない。
 ギリシャの生活に、慣れすぎた。
 容赦なく照りつける太陽が懐かしい。
 存分に注がれているときには閉口していたくせに、シベリアに来るとそのわずかな光でも渇望させられていた。
 贅沢なことだ。
 口元が自嘲的に歪む。
 あれば鬱陶しいのに、なければ寂しいとは。
 ふと、脳裏を太陽の色の髪をした少年がよぎった。
 違う。あいつではなくて、太陽のことだ。
 慌てて頭を振って、頭に浮かぶ少年のイメージを振り払う。
 忘れていたのに、忘れようとしているのに、思い出してしまった。
 カミュは手の甲で唇をぬぐうと、そのまま膝を抱えて、小さくため息をついた。


 (カミュ、カミュ、聞こえる?)
 ぼんやりと炎をみつめていたカミュの頭に、突然声が鳴り響いた。
 (ミロか?)
 聞きなれた声は、間違えようも無い。
 ミロの声を最大限拾えるように、カミュは瞳を閉じ精神を集中させた。
 (うん、近くにいると思うんだけど、どこにいるのかわからなくて。誘導してくれない?)
 (近くって?)
 カミュは狼狽した。
 ここは、シベリアだ。ミロが一度も来たことが無い、氷の大地だ。
 無意味と知りつつ、条件反射的に辺りをぐるりと見渡す。
 既に窓の外は冷たい吹雪になりかけていた。
 カミュは軽く舌打ちした。
 いくら聖闘士とはいえ、ギリシャ育ちのミロはただでさえ寒さに弱いのだ。
 この雪の中、たった一人で一体彼は何をしているのだろう。
 (わかった。迎えに行くから、なにか話しかけ続けて)
 (うん、早くね)
 ミロの声が、ほっとしたように響いた。
 相変わらず、静かに過ごさせてはくれないらしい。
 独りの夜の寂しさに埋もれていたカミュの口許が、かすかにほころんだ。


 声を頼りに、程なくカミュはミロにたどり着いた。
 捜し人は雪に埋もれる針葉樹の陰で、ぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
 「何してるんだ、おまえ」
 思ったよりも早く目指す相手と出会えた安堵感からか、カミュは呆れ顔で近づいていった。
 「いや、すごい寒くて。とりあえず動こうと思って」
 ミロは寒さに歯をがちがちと鳴らしながら笑った。
 髪も、まつげも、すっかり雪に凍り付いている。
 それでも笑顔は温かくて。
 相変わらず、太陽を思わせる明るい笑顔だった。
 何故だか眩しくて、カミュは目を細めた。
 雪明りのせいかもしれなかった。


 熱い風呂に入ったミロは、ようやく人心地がついた様子だった。
 暖炉の火で手をあぶりながら、幸せそうにくつろいでいる。
 「生き返るー。シベリアがこんなに寒いと思わなかった。冷凍庫より寒い」
 カミュはミロの頭に乾いたタオルをかぶせ、ごしごしと乱暴に拭きはじめた。
 「どうしてここがわかった」
 「昔、教えてくれたじゃん、この辺で修行したって」
 カミュは記憶をたどった。
 確かに教えたことがあった。
 しかし、それは子供の頃、書庫にあった地球儀を指差しての他愛も無い話の中でだ。
 そんな何年も前の曖昧な指示だけを頼りに来たのだろうか。
 ミロらしいといえばらしいが、あまりの無策ぶりにカミュはめまいを覚えた。
 「いたた、いたい、いたいって」
 呆れた余り、無意識に髪を拭く手に力がこもってしまったらしい。
 ミロの悲鳴にカミュは我に返った。
 「あ、すまん……」
 慌ててミロの頭を覆うタオルを外すと、蒼い目の端に涙が浮かんでいた。
 すっかりしょげかえった表情のミロに、くすりと笑いが込み上げる。
 「大げさだな。そんな泣くほど痛いわけないだろう」
 「……痛いからじゃないよ……」
 ミロがぼそりと呟く。
 捨てられた仔犬のように哀切な声が、カミュの胸に響いた。
 「なんで何も言わずに、こんなとこに引っ込んじゃうんだよ。こないだのこと、そんなに怒ってるのか?」
 カミュは俯いた。
 先日のミロの告白を思い出すと、頬に血が上る。
 燃えるような熱い瞳で、ミロは言い切ったのだ。
 カミュが好きだ、と。
 友情ではない、恋情の宣言は、想起するだけでも激しくカミュを動揺させた。
 それでも、表向きはかろうじて平静を装う。
 心を閉ざすことには慣れていた。
 ただ、ミロを前にした時は、その必要が無かっただけだ。
 今までは。
 「別に。もう忘れたから」
 言い終わらないうちに、ミロが勢いよく立ち上がった。
 「なんだよ、それ……」
 蒼い瞳に悲痛な色が浮かぶ。
 いままで見たことが無いほど傷ましげな表情だった。
 「そんなこと、言わせない。忘れたなら何度でも言ってやるから。俺は……」
 「もう、よせ」
 カミュは首を振った。
 胸の奥がずきんと痛んだ。
 この場から逃げ出したかったが、真摯なミロの瞳はそれを許さない。
 視線に絡みとられ、檻に捕らえられた小動物のように身体が強張った。
 「……私は、おまえをいい友人だと思っている」
 視線を合わせないまま、カミュは小声で続けた。
 ミロが固く拳を握り締めるのが、視界の隅にぼんやりと入った。
 「俺も、そう思ってる」
 「なら……」
 「でもそれだけじゃ嫌なんだ!」
 悲鳴にも似た叫びだった。
 抑制が解かれたように、ミロは立て続けに訴え始めた。
 「ずっと傍にいたいんだ、カミュが俺の傍で笑っててくれれば、それだけでいい。おまえが好きなんだ!」
 ミロはカミュの両肩を、壊れんばかりにぎゅっと掴んだ。
 肩にめり込んだ指が、痛いほど熱い。
 苛烈な炎のようで、カミュは少し脅えた。
 戦闘中のミロは、敵に回したくない存在だった。
 実力に裏打ちされた自信と誇りが、燃えさかる火炎と化してミロを包み込む。
 どこかそれを思い出した。
 「……それなら、友達でもいいだろう、今のままでも」
 足元に視線を落としつつ、カミュは振り絞るように声を出した。
 ごく微量だが、声に震えが混じっていることに、ミロは気がついただろうか。
 「友達だったら、カミュに俺以外の奴がいたって文句言えないじゃん。俺はおまえのたった一人の存在になりたいんだから」
 独占欲と執着心。
 どちらもカミュの苦手とするものだった。
 俯いたまま、カミュは息を落とした。


 ため息は、雄弁だった。
 ミロの手に無意識に込められた力が、空中に吸い取られるように消えていく。
 あたかも、はかない雪の結晶のように。
 カミュはすっと身を引くと、ミロの拘束を解いた。
 ゆっくりと身をかがめて、床に落ちたタオルを拾い上げる。
 ことさらに時間をかけた動作で、場の支配権を取り戻そうとしているのだろう。
 「……悪いが、おまえの傍にはいられない」
 ミロの目が見開かれた。
 明確な、拒絶。
 この世の終わりを告げられたかのように、ミロはがっくりと力を落としうなだれた。
 カミュは顔を背けたまま、さらに続けた。
 「弟子をとるんだ、ここで」
 「弟子って……? おまえが?」
 驚愕するミロに、カミュは頷いた。
 「氷の闘技を身につけている聖闘士は、今は私だけだから。先日、教皇から正式に辞令が下った」
 「そんな……」
 ミロの瞳が悲愴感に翳る。
 教皇命令では、ミロがどうあがいても覆すことなど不可能だった。
 この遠く冷たい土地に、カミュを取り上げられてしまうとは。
 絶望が、深まる。
 「だって、そんなこと、一言も……」
 「言おうにも、おまえは最近、私を避けていたじゃないか」
 何事も無かったかのように、カミュはミロの脇をすり抜けた。
 台所に向かう彼の後を、ミロは追いかける。
 いつも、追いかけていた気がした。
 嬉しいときも、哀しいときも。最初にカミュに聞いてほしくて、いつもカミュを捜していた。
 そしていつもカミュはすぐに姿を現し、傍で微笑んでいてくれたのだ。
 こんな遠い北の国などではなく、傍で。
 「食事、してないんだろう。材料が少ないから、たいしたものはできないぞ」
 すっかり平静に戻ったカミュの言葉に、ミロは突然空腹を覚えた。
 そういえば、カミュがいなくなった事に気づいてから大騒ぎで捜しまわっていて、何も食べていなかったのだ。
 失恋して、しかもその想い人が遠く離れた地に行ってしまうというのに、体は妙に現実的だ。
 可笑しくもないのに、口許がかすかに笑いの形に歪んだ。
 「俺、手伝う」
 「邪魔だからいい。そっちで座ってろ」
 自分のペースを取り戻したカミュは、相変わらずつれない。
 ミロは少しむきになった。
 「じゃ、邪魔しないように、そばにいる」
 カミュはミロを見た。
 紅い瞳に、あきらめたような色が浮かぶ。
 「……好きにしろ」
 ミロはうなずいた。
 こうしてそばにいられるのも、あとわずかだと思うと、一秒たりとも無駄にしたくなかった。


 カミュはとりあえず二、三日シベリアで過ごし、生活準備を整えるつもりだったらしい。
 食料といっても日持ちのする缶詰や乾物しかなかったのだが、その限られた食材でも温かい料理を作ってくれた。
 ミロは熱いスープをゆっくりと口に運んだ。
 これからはなかなか口にできなくなるカミュの料理を味わいたいのに、なぜか味覚は麻痺したようで、ただその熱さだけが体内を通り過ぎていく。
 ああ、どっか壊れたな。
 ミロは他人事のように、そう結論付けた。
 自分を構成する重要な部品が、欠けたのだ。
 常に傍にいたカミュは、自分の一部でもあったのだから。
 一方のカミュは、黙々と機械的に手を動かしているミロに眉をひそめていた。
 珍しくも落ち込んだミロに、罪悪感にも似た良心の呵責を感じているようだった。
 「……何か話したらどうだ。黙っているのはおまえらしくない」
 「……たまには、帰ってくるよな」
 ミロの発言は確認ではなく、願望だった。
 言外に含まれる切実な想いを知ってか知らずか、カミュは軽くうなずいた。
 「そうだな。半年に一回くらいは、修行の成果の報告に戻ると思う」
 「えっ、そんなに少ないの?」
 思わず率直な反応を返すミロに、カミュは微苦笑を浮かべた。
 スープに入れたスプーンをかき回す。
 カミュらしくもない無作法な振る舞いだった。
 無意識に、次の話題の提起をためらっているのかもしれなかった。
 「……だから、さっきの話だが、離れているうちに、おまえの気も変わると思う」
 カミュはスプーンを動かす手を止めずに、さらりと言う。
 「あれは、無かったことにしよう」
 ミロはカミュを愕然としてみつめた。
 目の前の少年が突然異国の言葉を語りだしたように、ミロの頭は発言の理解を拒んでいた。
 目の前のミロの動揺にも気がつかないのか、カミュはなおも淡々と続ける。
 「おまえは飽きっぽいから、きっとすぐに忘れるさ」
 ミロの表情がみるみる強張る。
 自分の想いはそんな簡単なものではない。
 散々悩んだ挙句、ようやく決意しての必死の告白だったのだ。
 それなのに、いつもの気紛れだとしか思われていないのは心外だった。
 しかし、猛然と反論しかけたミロは、ふと口をつぐんだ。
 瞳が悪戯っぽくきらりと輝く。
 不敵な笑みを浮かべつつ、ミロはカミュに挑むような視線を投げた。
 「じゃ、提案。おまえがそばにいなくても、俺の気持ちが変わらなかったら、俺とつきあう。どう?」
 予想外の反駁を受けたカミュは、口をぽかんと開けてミロを凝視した。
 「……何でそうなるんだ?」
 「うん? おまえ、俺が飽きっぽいから、おまえのことすぐ忘れると思ってるんだろう? なら、問題ないじゃん。俺があきらめなかったら俺の勝ち、忘れたらおまえの勝ちってことで」
 ミロは勝ち誇ったように片目を閉じた。
 カミュの発言を逆手に取った反撃方法の効果に、絶対の自信があった。
 わがままで押し切ろうとすると、かえってカミュも意固地になる。
 しかし、強引ながらも理詰めで攻めれば、少なくとも考慮の対象にはしてくれるのだ。
 カミュとは違う意味で、ミロも頑固だ。
 言い出したことは、なかなか変えない。
 それは長年の経験から、カミュも充分承知しているはずだった。
 カミュはため息をつくと、困ったように微笑んだ。
 自分の言葉が少なからず人を傷つけるものであったことにも、遅まきながら気づいたのだろう。
 謝るかわりに、ミロの提案を熟考してみたらしかった。
 「じゃ、もしそうだったら、考えてみる、ということで手を打とう」
 「よしっ、商談成立!」
 ミロは満面の笑みで握手を求めてきた。
 カミュは大げさなため息と共に片手を差し出す。
 ミロはその手をきつく握ると、はしゃぐ子供のように上下に激しく振った。
 成約の喜びに、突然の訪問者は、ようやく以前のように闊達に話し出した。
 「どうせ修行ったって二年位だろ。俺、楽勝だね」
 「私たちとは違う。五、六年はかかるだろう」
 「は? なんで」
 「小宇宙を目覚めさせるところから始めるんだぞ」
 「えっ、小宇宙ってみんな生まれたときから目覚めてるんじゃないの?」
 本気で顔中に驚きを浮かべているミロに、カミュは苦笑した。
 シベリアの夜は、もう寂しくはなかった。

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