無憂宮
kiss


 花束を手に、カミュは双児宮に向かっていた。
 カサブランカの甘やかな香に包まれたカミュは、自然と緩んでしまう口許を引き締めようと、懸命に無駄な努力を重ねていた。
 凛とした気高さと優美さを漂わせるこの大輪の花は、どこかサガに似ている。
 幼い頃、野辺で摘んだ花を嬉しそうに受け取ってくれたサガは、きっとこの花も喜んでくれるはずだった。
 サガの嬉しそうな笑顔が見たくて行動してしまうという点では、自分は子供の頃と全く変らないらしい。
 そんな自分に苦笑しながらも、カミュは目指す宮に辿り着いた。
 「サガ……」
 宮内に足を踏み入れたカミュは、小首を傾げた。
 珍しいこともあるものだ。
 長椅子に横たわったサガは、眠りの国の囚われ人と化していた。
 仰臥した胸の上に置かれた本が、寝息と共にかすかに上下している。
 よほど深い眠りに落ちているのだろう。近づく人の気配に気づいた様子もなく、静かな呼吸音だけが空気に混じって聞こえる。
 穏やかな寝顔をみつめるのは、恋人に許された特権だと思う。
 それでも、普段のサガはかつての保護者としてのスタンスを崩したくないのか、カミュの前で無防備な寝姿をさらすことは滅多に無い。
 貴重な機会を堪能させてもらおうと、カミュはくすりと笑いつつ、サガの傍らに膝をついた。
 じっと、そのかんばせをみつめる。
 カミュの口許を漂っていた微笑はやがて消え、かわって感嘆の息が漏れた。
 この人は、なんて綺麗な顔をしているのだろう。
 細い筆で一刷きしたような眉も、長い睫に飾られた瞼も、すらりとした鼻梁も、やや薄らかな唇も。
 完全なる対称を成す顔の構成部分の一つ一つが、精緻な芸術品のように見えてくる。
 審美眼などなかった子供の時も、漠然とサガは綺麗だと感じていた。
 しかし、大人になった今、こうして間近で凝視しても、つくづくその感想は真実であったと思うのだ。
 腕の中の花が途端に見劣りがするような気がして、カミュはわずかな落胆と共に白い花弁に視線を移した。
 そのとき。
 「……もう、起きてもいいだろうか」
 突如かけられた声に、カミュは文字通り飛び上がった。取り落としそうになった花束を慌てて抱え直す。
 「サ、サガ、寝てたんじゃ……」
 「いつ目覚めのキスをくれるのかと待っていたんだがね。どうも期待はできないようだから」
 悪戯な笑みを含んだ瞳をカミュに向けながら、サガはゆっくりと上体を起こした。
 カミュの口から漏れるのは、ため息に変った。
 眠っていると思うからこそ、サガの相貌に見惚れることができたのだ。
 彼が目覚めてしまった以上、カミュの優位はあっという間に終わりを告げる。
 どうあがいても、経てきた時間と経験の差には敵わない。
 サガの瞳に映る自分は、いつまでたっても幼い子供のままなのだ。
 「……キス、してほしかったんですか?」
 カミュの挑発的態度は、精一杯の虚勢。
 もっとも、おそらくサガには背伸びをした子供のように微笑ましいものと映っているのだろう。
 そうわかっていても、自分はこうして可愛げのない台詞を呟く。
 つくづく天邪鬼な自分に呆れつつも、カミュは挑むようにサガの瞳を見据えた。
 「君の視線が口で止まったからね。君が、キスしたいのかと思った」
 不必要に二人称のアクセントを強め、サガはわずかに瞳を細めた。
 やはり、見抜かれている。
 どこかで安堵する自分と、子供扱いを不満がる自分がせめぎあう。
 どうやら先程まで優位に立っていると誤解していた影響か、今日は後者が強いらしい。
 「そんなんじゃありません、ただ……」
 「ただ?」
 言葉に詰まったカミュは、喉の奥を不明瞭に鳴らした。
 墓穴を掘った。
 揶揄するように瞳を揺らめかせるサガに、まさかその美貌に見惚れていたなどと誰が言えよう。
 「……ただ、唇が薄いなと思って……」
 必死で脳内の情報をかき集めてとっさに出てきた言葉は、サガにとっても予想外だったようだ。
 訝しげに眉根を寄せるサガに、カミュは必死で言い募った。
 「ほら、ギリシャ人には珍しいじゃないですか、サガみたいな唇」
 事態を誤魔化すためとはいえ、愚かしいことを口走っていることは自分でも重々承知だ。
 さぞ滑稽に見えるだろうと思うと、ますます頬が赤らんでいくが、今更どうしようもない。
 「やれやれ、固定観念に囚われるような君ではないと思っていたがね」
 認識を改めねばならないようだと、サガは肩を震わせくつくつと笑った。
 その声が楽しげであればあるほど、カミュは我が身が縮んでいくような錯覚を覚える。
 敵わない。
 所詮、対抗しようとする方が間違っていたのだ。
 羞恥に苛まれ、サガの顔を見ることもできずに俯くカミュを憐れんだか。
 笑声はすぐに止み、穏やかで優しい声がかけられる。
 「私の唇が薄い理由を教えてあげようか」
 打って変わった真摯な口調に、カミュはようやく顔を上げた。
 頬に長い指が伸ばされるのを、視界の端で捉える。
 妙に緩慢なその手の動きに催眠効果でもあるかのように、カミュの身体は動きを止めた。
 「……やはり薄い唇の持ち主と、キスがしやすい」
 腕に抱えた花が落ちた。
 抗議のごとく立ち上る強い香は、現実感もなく茫洋と霞む世界を漂いだす。
 サガは、嘘つきだ。
 瞳を閉じたまま、カミュは思った。
 軽く触れ合わせるだけの口付けならともかく、こんなキスに、唇の薄さなんて関係ない。
 こんな、息が苦しいほど、舌の絡みつく濃厚なキスには。
 少しも、関係ない。
 そう反論してやろうと、思う意識は、瞬く間に散り散りに砕け散った。
 ただ、その切ないほどの快い苦しさに耐え切れなくなり、カミュは縋りつくようにサガの背に腕を廻した。
 腕の中の大輪の花は優雅で気品に満ち溢れ、やはりほのかに甘美な香がする気がした。
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