LOVELESS BUTTERFLY
小さな集落は、一夜にして廃墟に変わった。
国境に近いこの町は、主要街道に程近いこともあり、前線への補給地として、それなりに重要な意味をもつ地域だった。
しかし、それは戦場に立つ人間にとってのこと。
ただ立地条件が補給地に適していたというだけで戦争に巻き込まれる住人には、迷惑な押し付けでしかない。
機を見るに敏かつ資力に恵まれた人々は、戦の勃発と共に早々に町を捨てていた。
残ったのは、無力な人々。
いつの時代もそうだった。戦争の犠牲になるのは、常に弱者だ。
力ある者は、より多くを手に入れるために、か弱き市井の人々を踏みにじる。
自分もその蹂躙される側の一人だったから、痛いほどにわかる。
シュラは夕闇に霞みだした空を仰いだ。
かすかに血の匂いが混じる風にも、すっかり慣れてしまった。
今朝からの掃討戦の残務処理に追われ、体は疲弊しきっていた。
生き残った敗残兵を捕らえ、民間人を一旦収容し、町を自軍の占領下に置く。
前線が移動するまで、この町を支配する軍が変わるだけのことだ。
ただそれだけのことに、どうしてこんなに多くの血が流される必要があるのだろう。
それが戦争なのだと、一言で片付けてしまうには、あまりにも犠牲が大きすぎる。
しかし、一々その事実を直視していては、自分の精神がもたないことも重々承知していた。
所詮、軍人なのだから。
感情を捨て去らなければ、こんな職業を続けてはいられない。
人を殺すのが、軍人、だから。
シュラは夕日に照らされる建物を見た。
白日の下では眩しいほどに光を反射する白壁は、地上近く、目線よりやや低い部分が所々赤く染められていた。
陽光のせいだと、思うことにした。
一軒一軒、人の気配を捜し歩く。
どこに潜むやもしれぬ敵兵との遭遇。その絶望にかられた捨て鉢の反撃を受けるかもしれないという緊張感が、絶えず身を覆う。
そこかしこに転がる死体の間をすり抜け、汗のにじむ手で構えた銃を握り直す。
この区画が最後だ。ここを調べ終われば、町に居る「生きた」人間を、全て自軍の管理下に置けるはずだ。
そうすれば、しばらくの間は移動もなく、束の間とはいえ安泰な日々が過ごせるはずだった。
シュラは小さな家に足を踏み入れた。
機銃掃射の痕が残る壁以外は、どこにでもあるような名もない一家の穏やかな生活の名残に溢れていた。
暖かみのある色合いの絨毯に、使い込まれて飴色に鈍く光る家具。
この居間で、幸せな家庭の団欒が繰り広げられていたのだろう。
マントルピースの上には、いくつもの家族写真が飾られていた。
写真の中の笑顔はどれも楽しげだが、写真立の割れたガラスが、それはもう戻らない遠い日の記憶であることを告げている。
この人たちは、生きているのだろうか。
感傷に転化しないよう、薄い膜を張るごとく思考の輪郭をことさらに曖昧にぼやかしながら、シュラは周囲に慌しく視線を走らせた。
視覚も聴覚も、五感の全てを総動員して、人の姿を捜し求める。
いや、むしろ安寧を求めて、この建物が無人であることを願っていると言った方が正しい。
ささやかな自嘲の念と共に一階を調べ終わったシュラは、ついで階段へと重い足を向けた。
小さな家だ。人が隠れていられるような場所も、そうはない。
短い廊下に面した扉を警戒しつつ開いていくが、どこにも人の気配は無かった。
何ら異変は起こらないまま、程なく調査対象は突き当たりの部屋を残すのみとなる。
最後の扉を前にして、シュラはかすかに安堵の息をついた。
できることなら、誰にも会いたくはなかった。
それが敵兵であれ民間人であれ、自分に注がれる脅えた瞳が、凶器のようにシュラに襲い掛かる。
正確には、自分の手にした銃と、背後に控える軍の力に対して向けられる恐怖の視線だが、どちらでも同じことだ。
人でなくなっていく自分を痛感させられることに、かわりはない。
シュラは音を立てずに最後の扉を開いた。
この家の主寝室だったのだろう。
据えられた大きな寝台と天井まで届くクローゼットが、圧迫感と共にシュラを迎えた。
沈澱していた室内の空気が、突然の侵入者の存在に、本来の役目を思い出したように漂いだす。
かすかに血の匂いが鼻についた。
誰か、いる。
シュラは瞳をすっと細めた。
慎重に室内を見渡す。
一見したところ、誰もいない。
だが、シュラの内に鳴り響く警鐘は、確かに人の存在を告げているのだ。
壁際に置かれた姿見には、寝台の下に潜む人影は映っていない。
他に人が身を隠せそうな場所といえば、クローゼットしかなかった。
誰かに聞かれはしまいかと心配になるほど、心臓が煩いまでに拍動を繰り返す。
やがて、意を決したシュラは、足音を潜めてクローゼットに近づいた。
扉を開くと同時に攻撃を受ける可能性を考慮すると、正面からではなく横から扉を開けるのが得策に思われる。
クローゼットの側面に添って立つと、手近にあった暖炉の火かき棒を取り上げ、静かに扉の取っ手に差し込む。
一瞬の静寂の後、シュラは息をつめ、一気に扉を開け放った。
剥き出しになったクローゼットの内部が、壁際の鏡に映し出される。
シュラはこくりと唾を飲み込んだ。
いた。
膝を折った姿勢で、まるでそこが自分のためにあつらえられた箱でもあるかのように収まっている人物が、鏡面に姿を現した。
長い髪と、白く細い腕。
どうにも戦人には見えないが、油断はできない。
すぐには次の行動に移りかね、しばらく鏡を注視していたシュラは、やがてふと違和感に気づいた。
隠れ居る現場が発覚したにもかかわらず、鏡の中の人影は慌てふためくどころか身じろぎもしないのだ。
シュラの脳内で、ようやく一つの結論が形作られてくる。
詰め込まれた服の隙間に押し込められているのは、一体の人形だ。
緊張が、少し解けた。
シュラはかすかに息を吐きながら、クローゼットの正面に回った。
覆いかぶさる服をかきわけ、人形を検める。
人形師の入魂の作だろう。
白皙の肌に真紅の髪と瞳がよく映える、等身大の精巧な磁器人形だった。
その顔の造作を見たシュラは、思わず感嘆の息を漏らした。
美しいと、思った。
長い睫がかすかに翳を落とす切れ長の瞳も、すらりとした鼻梁も、今にも言葉を紡ぎだしそうな艶やかな唇も。
完全なまでの左右対称をなすパーツで構成された相貌は、究極美への飽くなき追求の成果か。
精緻を尽くしたその造形は、ただの愛玩用などというよりも、芸術品という域に達している。
このような小さな家の片隅ではなく、美術館などで照明を当てられ麗々しく飾り立てられているほうがふさわしいとさえ思えた。
自分が置かれている状況も忘れ、シュラは陶然とその人形に見惚れた。
と、シュラの瞳が、愕然と見開かれる。
人形が、まばたきをしたのだ。
物憂げな表情のまま、人形はわずかに顔を動かした。
茫洋とした視線が、ゆっくりとシュラに向けられる。
その瞳は、何も映していなかった。
シュラが手にした銃も視界に入っているはずなのに、感情の全く無い硝子玉のような瞳が、ただひたすらまっすぐにこちらをみつめていた。
言葉も無く、シュラは立ち尽くした。
全ての光を呑み込んでしまうような闇を湛えた真紅の双眸から、視線を外すこともできなかった。
時が、止まった。
突然階下に生じた音が、静寂を引き裂く。
床を踏み鳴らす荒っぽい靴音と、扉を蹴破るけたたましい音が、屋内に響き渡る。
「シュラ! どうした、誰かいたのか!」
同じ任務に従事していた朋友の声がした。
戻りの遅いシュラを案じているのだろう。声にかすかな苛立ちがこもっている。
我に返ったシュラは、目の前の麗人に意識を戻した。
虚無的な紅い瞳には相変わらず漣程の動きも無く、生気を感じられないほどに整い過ぎたかんばせは仮面のごとく冴え冴えと凍りついたままだ。
人形だ。
ここにいるのは、人ではない。
人形、なのだ。
「……いや、誰もいない。次へ行こう」
階下に向かって声を張り上げると、シュラはクローゼットの扉に手をかけた。
その無表情な紅い瞳に見据えられながら、静かに扉を閉じる。
人形は、再び闇の中に戻っていった。
小さな集落は、一夜にして廃墟に変わった。
国境に近いこの町は、主要街道に程近いこともあり、前線への補給地として、それなりに重要な意味をもつ地域だった。
しかし、それは戦場に立つ人間にとってのこと。
ただ立地条件が補給地に適していたというだけで戦争に巻き込まれる住人には、迷惑な押し付けでしかない。
機を見るに敏かつ資力に恵まれた人々は、戦の勃発と共に早々に町を捨てていた。
残ったのは、無力な人々。
いつの時代もそうだった。戦争の犠牲になるのは、常に弱者だ。
力ある者は、より多くを手に入れるために、か弱き市井の人々を踏みにじる。
自分もその蹂躙される側の一人だったから、痛いほどにわかる。
シュラは夕闇に霞みだした空を仰いだ。
かすかに血の匂いが混じる風にも、すっかり慣れてしまった。
今朝からの掃討戦の残務処理に追われ、体は疲弊しきっていた。
生き残った敗残兵を捕らえ、民間人を一旦収容し、町を自軍の占領下に置く。
前線が移動するまで、この町を支配する軍が変わるだけのことだ。
ただそれだけのことに、どうしてこんなに多くの血が流される必要があるのだろう。
それが戦争なのだと、一言で片付けてしまうには、あまりにも犠牲が大きすぎる。
しかし、一々その事実を直視していては、自分の精神がもたないことも重々承知していた。
所詮、軍人なのだから。
感情を捨て去らなければ、こんな職業を続けてはいられない。
人を殺すのが、軍人、だから。
シュラは夕日に照らされる建物を見た。
白日の下では眩しいほどに光を反射する白壁は、地上近く、目線よりやや低い部分が所々赤く染められていた。
陽光のせいだと、思うことにした。
一軒一軒、人の気配を捜し歩く。
どこに潜むやもしれぬ敵兵との遭遇。その絶望にかられた捨て鉢の反撃を受けるかもしれないという緊張感が、絶えず身を覆う。
そこかしこに転がる死体の間をすり抜け、汗のにじむ手で構えた銃を握り直す。
この区画が最後だ。ここを調べ終われば、町に居る「生きた」人間を、全て自軍の管理下に置けるはずだ。
そうすれば、しばらくの間は移動もなく、束の間とはいえ安泰な日々が過ごせるはずだった。
シュラは小さな家に足を踏み入れた。
機銃掃射の痕が残る壁以外は、どこにでもあるような名もない一家の穏やかな生活の名残に溢れていた。
暖かみのある色合いの絨毯に、使い込まれて飴色に鈍く光る家具。
この居間で、幸せな家庭の団欒が繰り広げられていたのだろう。
マントルピースの上には、いくつもの家族写真が飾られていた。
写真の中の笑顔はどれも楽しげだが、写真立の割れたガラスが、それはもう戻らない遠い日の記憶であることを告げている。
この人たちは、生きているのだろうか。
感傷に転化しないよう、薄い膜を張るごとく思考の輪郭をことさらに曖昧にぼやかしながら、シュラは周囲に慌しく視線を走らせた。
視覚も聴覚も、五感の全てを総動員して、人の姿を捜し求める。
いや、むしろ安寧を求めて、この建物が無人であることを願っていると言った方が正しい。
ささやかな自嘲の念と共に一階を調べ終わったシュラは、ついで階段へと重い足を向けた。
小さな家だ。人が隠れていられるような場所も、そうはない。
短い廊下に面した扉を警戒しつつ開いていくが、どこにも人の気配は無かった。
何ら異変は起こらないまま、程なく調査対象は突き当たりの部屋を残すのみとなる。
最後の扉を前にして、シュラはかすかに安堵の息をついた。
できることなら、誰にも会いたくはなかった。
それが敵兵であれ民間人であれ、自分に注がれる脅えた瞳が、凶器のようにシュラに襲い掛かる。
正確には、自分の手にした銃と、背後に控える軍の力に対して向けられる恐怖の視線だが、どちらでも同じことだ。
人でなくなっていく自分を痛感させられることに、かわりはない。
シュラは音を立てずに最後の扉を開いた。
この家の主寝室だったのだろう。
据えられた大きな寝台と天井まで届くクローゼットが、圧迫感と共にシュラを迎えた。
沈澱していた室内の空気が、突然の侵入者の存在に、本来の役目を思い出したように漂いだす。
かすかに血の匂いが鼻についた。
誰か、いる。
シュラは瞳をすっと細めた。
慎重に室内を見渡す。
一見したところ、誰もいない。
だが、シュラの内に鳴り響く警鐘は、確かに人の存在を告げているのだ。
壁際に置かれた姿見には、寝台の下に潜む人影は映っていない。
他に人が身を隠せそうな場所といえば、クローゼットしかなかった。
誰かに聞かれはしまいかと心配になるほど、心臓が煩いまでに拍動を繰り返す。
やがて、意を決したシュラは、足音を潜めてクローゼットに近づいた。
扉を開くと同時に攻撃を受ける可能性を考慮すると、正面からではなく横から扉を開けるのが得策に思われる。
クローゼットの側面に添って立つと、手近にあった暖炉の火かき棒を取り上げ、静かに扉の取っ手に差し込む。
一瞬の静寂の後、シュラは息をつめ、一気に扉を開け放った。
剥き出しになったクローゼットの内部が、壁際の鏡に映し出される。
シュラはこくりと唾を飲み込んだ。
いた。
膝を折った姿勢で、まるでそこが自分のためにあつらえられた箱でもあるかのように収まっている人物が、鏡面に姿を現した。
長い髪と、白く細い腕。
どうにも戦人には見えないが、油断はできない。
すぐには次の行動に移りかね、しばらく鏡を注視していたシュラは、やがてふと違和感に気づいた。
隠れ居る現場が発覚したにもかかわらず、鏡の中の人影は慌てふためくどころか身じろぎもしないのだ。
シュラの脳内で、ようやく一つの結論が形作られてくる。
詰め込まれた服の隙間に押し込められているのは、一体の人形だ。
緊張が、少し解けた。
シュラはかすかに息を吐きながら、クローゼットの正面に回った。
覆いかぶさる服をかきわけ、人形を検める。
人形師の入魂の作だろう。
白皙の肌に真紅の髪と瞳がよく映える、等身大の精巧な磁器人形だった。
その顔の造作を見たシュラは、思わず感嘆の息を漏らした。
美しいと、思った。
長い睫がかすかに翳を落とす切れ長の瞳も、すらりとした鼻梁も、今にも言葉を紡ぎだしそうな艶やかな唇も。
完全なまでの左右対称をなすパーツで構成された相貌は、究極美への飽くなき追求の成果か。
精緻を尽くしたその造形は、ただの愛玩用などというよりも、芸術品という域に達している。
このような小さな家の片隅ではなく、美術館などで照明を当てられ麗々しく飾り立てられているほうがふさわしいとさえ思えた。
自分が置かれている状況も忘れ、シュラは陶然とその人形に見惚れた。
と、シュラの瞳が、愕然と見開かれる。
人形が、まばたきをしたのだ。
物憂げな表情のまま、人形はわずかに顔を動かした。
茫洋とした視線が、ゆっくりとシュラに向けられる。
その瞳は、何も映していなかった。
シュラが手にした銃も視界に入っているはずなのに、感情の全く無い硝子玉のような瞳が、ただひたすらまっすぐにこちらをみつめていた。
言葉も無く、シュラは立ち尽くした。
全ての光を呑み込んでしまうような闇を湛えた真紅の双眸から、視線を外すこともできなかった。
時が、止まった。
突然階下に生じた音が、静寂を引き裂く。
床を踏み鳴らす荒っぽい靴音と、扉を蹴破るけたたましい音が、屋内に響き渡る。
「シュラ! どうした、誰かいたのか!」
同じ任務に従事していた朋友の声がした。
戻りの遅いシュラを案じているのだろう。声にかすかな苛立ちがこもっている。
我に返ったシュラは、目の前の麗人に意識を戻した。
虚無的な紅い瞳には相変わらず漣程の動きも無く、生気を感じられないほどに整い過ぎたかんばせは仮面のごとく冴え冴えと凍りついたままだ。
人形だ。
ここにいるのは、人ではない。
人形、なのだ。
「……いや、誰もいない。次へ行こう」
階下に向かって声を張り上げると、シュラはクローゼットの扉に手をかけた。
その無表情な紅い瞳に見据えられながら、静かに扉を閉じる。
人形は、再び闇の中に戻っていった。