無憂宮
 好都合にも新月の夜だった。
 黒い紙に極細の筆でさっと一刷きしたような月が放つ光など高が知れている。
 そして、昼の戦闘で送電線が断たれたのか、灯火管制が敷かれたように暗く沈み込む町では、そんなささやかな月星の輝きしか地上を照らすものはない。
 暗夜に人知れず行動しようとする者にとっては、おあつらえ向きな闇夜だ。
 闇が姿を隠してくれることを喜ぶのは後ろ暗いところのある人間ばかりだと思っていたが、と、シュラは失笑を浮かべつつも街路を歩いていた。
 確かに、今の自分の行動は少々後ろめたいものなのだ。
 本来ならば、今頃は宿舎で朋輩が繰り広げる愚にもつかない与太話を聞くともなしに聞いているはずだった。
 前線に比べれば小競り合いという程度の戦闘でも、勝利は勝利だ。
 住民から供出という名目で強奪した糧食は、日頃の粗末な食餌に慣れてしまった舌が驚くほどの御馳走となり、部隊全員の腹を満たしてくれていた。
 腹が膨れれば気も緩む。
 その後の流れとして、命を磨り減らせる日々を送る軍人達が狂ったように陽気に浮かれ騒ぐのも当然だった。
 それでもどこか虚しさが漂うのは、この時間が決して長くは続かないことを、皆が理解しているからだろう。
 嫌というほどわかった上で、誰もがわざとその現実から目を背けようとしているのだ。
 まるで、視線を合わせるやいなやばっさりと鎌を振り下ろす死神がそこにいるかのように、皆、何かを恐れていた。
 恐れるあまりに、酒宴は異様な高揚感に包まれた乱痴気騒ぎにまで発展する。
 そんな常軌を逸したような束の間の憩いのときだからこそ、シュラは容易に宿営地を抜け出すことができたのである。
 点呼までに宿舎に戻れば、どこで何をしていようと誰も干渉してこない。
 特に日頃から気紛れな単独行動の多いシュラである。その姿が見えないからといって、騒ぎになる心配もなかった。
 それでも宿営地を離れ町に繰り出すのは軍律違反であることに変わりは無い。
 人に見咎められないように、シュラは最大限の注意を払いつつ足を進めていた。
 裏道を三ブロック程歩き、前方が無人であることを確認しつつ角を曲がる。
 目指すは、昼間の人形の家だ。
 真紅の瞳と真紅の髪の持ち主のイメージが、暗い夜道にぼんやりと浮かび上がる。
 既に他の住民は、軍の管理統制下におくため一定の街区に集合させられているはずだ。
 従って、あの人形はこの半分廃墟と化した町に潜むたった一人の民間人だった。
 他の人々と共に収容した方がよかったとは、シュラにはどうしても思えなかった。
 シュラの所属する部隊は、有能な指揮官と強運に恵まれたおかげか、小さいながらもかなりの戦功を上げていた。
 本国から送られてきた勲章がいくらで売れるかと冗談交じりに話題にできる人間が何人もいるほどに、軍本部からの評価も高く、逆に敵陣からは鬼神のように恐れられていた。
 その驕りが、軍規の徹底を妨げる。
 戦場を離れたところでは、生命に危険のない分、その傾向は顕著だった。
 町の占拠は、軍全体としては戦略上の拠点の確保を意味するのだろうが、現場の部隊では違う。
 美味い酒と食料、そして女を有する慰安所に逗留しているという認識に過ぎない。
 それは、この部隊でも、いや、この部隊だからこそ当てはまる理論だった。
 シュラにはわかっていた。
 あの美貌が、餓えた戦人の目に留まらない訳がない。
 死んだ方がましとさえ思える地獄になど、自分の手で突き落とすことはできなかった。
 この先の見えない状況下ではいつまで町に隠れ住むことができるかもわからないが、それでもシュラにできる限りは自分が匿ってやろうと思ったのだ。
 それは、多くの人を手にかけてきた男がせめてもの罪滅ぼしに善行を施すという、勝手で傲慢な自己満足にすぎないのかもしれないのだが。
 それでも構わない、と、シュラは背嚢を背負い直すと先を急いだ。


 記憶通りの道を逆行し、程なくシュラは目的地に辿り着いた。
 小さな民家。
 この二階の寝室で、ほんの数時間前、シュラは人形に出会ったのだ。
 静かに階段を上がり、突き当りの部屋の扉を軽くノックする。
 何気なくとってしまった普通の客のような行為に苦笑しつつも、シュラはゆっくりと扉を開けると部屋の中に体を滑り込ませた。
 見たところ、何も変化はない。
 窓のカーテンは閉ざされたまま。クローゼットの扉はあのときシュラが閉めたまま。
 ただ、以前ここを訪れたときよりも、澱んだ空気にこもる鉄臭さが鼻を突いた。
 シュラはわずかに眉を顰めた。
 そろそろと背を這い登る不吉な予感を無理やり抑えこみつつ、シュラはクローゼットの扉を開けた。
 何層にも重なる衣装のカーテンに隠れるように、膝を抱えて俯いて、人形は昼間と同じ姿勢でそこにいた。
 違うのは、鉄の臭いが強くなったこと。あの印象的な真紅の瞳が閉じられたこと。そして、白さを増した蝋のような肌が、汗でほのかに湿っていたこと。
 人形の身体に何らかの異変が起きているのは明らかだった。
 「おい、しっかりしろ」
 シュラは人形を箱の中から抱えだそうと手を伸ばした。
 と、抱き上げようとした手が、ぬるりと滑る。
 すっかり嗅ぎなれてしまった金属臭から予測はついていたが、人形はどこかに傷を負っているのだろう。
 黒いドレスのせいで出血箇所はわからないが、じっとりと濡れた手の感触からいって、かなり失血しているはずだった。
 考える間もなく、シュラは抱き上げた華奢な身体を傍の寝台に横たえた。
 薄ぼんやりと、紅い瞳が開いた。
 目の前のシュラに気づいたか、ほんの少し口の両端が持ち上がる。
 笑おうとしたのかもしれなかった。
 シュラを誰かと間違えているのかもしれないが、それでも表情が動くことが嬉しい。
 人形ではなく、生きた人間を相手にしているのだと再認識できることを内心で喜びながら、シュラはわざとぶっきらぼうに告げた。
 「傷を治療してやる。何処を怪我した? 診せてみろ」
 しかし、問いかけに反応はない。
 言葉がわからないのか、人形は真紅の瞳を不思議そうに瞬かせるだけだった。
 「止血の必要があるだろ。このままだと、おまえ、死ぬぞ」
 脅しめいた言葉にも、相変わらず人形はきょとんとして黙りこくっていた。
 それほど暢気な性質でもないシュラを、かすかな苛立ちが襲う。
 このまま出血を放置したままでは、脅し文句が現実のものとなる公算が高い。
 「……わかった。勝手にしろ、俺も勝手にするから」
 舌打ちしたシュラは、窓に近づくとカーテンの端に触れた。
 寒冷地の窓を飾るにふさわしい、かなり重厚な生地だった。
 この布ならば、室内の明かりを外に漏らすこともないだろう。
 安堵したシュラは、持参した背嚢から蝋燭を取り出すと火を灯した。
 寝台を振り返ると、ちろちろと揺れる炎に照らされ横たわる人影は、一層人形に見えた。
 シュラは幻影を振り払うべく、二、三度首を横に振った。
 人形などではない。
 だから、助けなくてはならないのだ。
 それも、一刻も早く。
 横たわる人の全身は、踝まで届く漆黒のベルベットのドレスで覆い隠されていた。
 その滑らかな生地が最も濡れている所、それが受傷箇所だ。
 探した。
 見つけた、ように思う。
 大体のあたりをつけたシュラは、わずかな躊躇いのあと、黒いドレスの裾を捲り上げた。
 真っ白い脚が、流れる血に幾筋も赤く染まっている。
 黒いドレス、白い肌、そして赤い血が織り成す色のコントラストのどこか倒錯的な美しさに目眩を覚えそうになりながらも、シュラは自分を奮いたたせると流血の源を探した。
 ふくらはぎから膝へと視線を走らせ、やがて傷口に辿りつく。
 大腿部に銃創があった。
 貫通していたならまだよかったが、あいにく銃弾は中に留まったままらしい。
 予想していたよりもはるかに酷い傷に、シュラの表情が引き締まる。
 戦場で同じような傷の応急処置をした経験があった。
 そのときの患者は筋骨隆々とした見上げるような大男だったが、痛みに耐えかねずっと大暴れしていたために、治療の間中大変な苦労をした。
 数人がかりで押さえつけられつつ激痛に泣き叫ぶ声は、いまだに耳に焼きついて離れない。
 できることならば、医者でもない自分が施術する事態は避けたかった。
 だが、迷っている場合ではなかった。
 このまま出血が止まらなければ、確実に、死ぬ。
 意を決したシュラは、蝋燭の明かりを頼りに、治療に役立ちそうな物を求めて部屋中を探した。
 つい先日までは人が住んでいた家だ。必要と思われる物は、程なく全てが揃った。
 あとは、体力と精神力。
 患者というよりもむしろ医者の方に必要なのが通常と異なる要件だが、と、シュラは深々と一つ息を吐いた。
 それでも、今この場にいる自分しか、目の前の怪我人を助けられる者はいないのだ。
 シュラは患者に向き直った。
 「今から怪我の手当てするから。麻酔もないし、かなり荒療治になるが、覚悟しろよ」
 依然として患者に反応は無かったが、口に出すことで自分にも気合が入った。
 まずは出血を止める必要がある。
 家探ししてかき集めたタオルを押し当て鼠蹊部を圧迫する。
 白いタオルはみるみる赤く染まっていくが、手が痛くなるほど力を込めた甲斐があってか、次第に流血は治まっていった。
 ついで、シーツを裂いて作った紐で、患者の手足をベッドの柵に繋ぎとめる。
 なにしろ、今回は患者を押さえつけてくれる協力者は誰一人いないのだ。暴れられては治療の妨げになる。
 しかし、その必要もないのかもしれないと思うほど、患者は力なく為すがままになっていた。
 ますます人形のようだが、治療が始まったら嫌でも人間に戻るだろう。
 そのときが来ることを恐れつつ、シュラは、舌を咬まないように、悲鳴を殺すように、畳んだタオルを患者の口に咬ませた。
 ようやく不審を覚えたか、物問いたげな紅い瞳がじっとシュラを見上げてくる。
 シュラは安心させるように笑いかけた。
 「大丈夫。俺が、助けるから」
 本当は逃げ出したいくらいなのに、自信に溢れたこの口ぶりはどうだ。
 嘘がうまい自分につくづく感心しつつ、シュラは持参した酒の小瓶を手にした。
 一口、自分のために飲む。これは景気付け。
 そしてもう一口、口に含むと、今度は傷の洗浄のために吹きかける。
 寝台に縛り付けた身体がびくんと跳ねた。傷に沁みるのだろう。
 しかし、まだまだ治療は始まったばかりだ。
 本当に辛いのは、これからだ。
 シュラは刃先をライターの火で炙ったナイフを、ゆっくりと傷口に近づけた。
 息を止め、銃弾をえぐり出そうと傷口にそっと差し入れる。
 「……っ!」
 真紅の瞳がかっと見開き、声にならない叫びが部屋中に響き渡った。


 この薄暗い明かりの下での医療用の器具も用いない素人手術で、動脈を傷つけなかったのは奇跡といってもよいだろう。
 何とか銃弾を摘出したシュラは、包帯代わりのタオルできつく患部を締め付けた。
 これで失血が止まり、傷口が化膿しなければ、問題はないはずだった。
 緊張から解放されたシュラは、ぐったりと横たわった患者の手足の拘束を解くと、ようやくその顔を見た。
 さすがに疲れ果てたか、紅い瞳は焦点を結んでいなかった。
 ただ、意識は朦朧としているものの、気を失うまでには至らなかったらしい。
 あの激痛に耐え抜くとは、たおやかな外見とは裏腹に強いものだ。
 ある種の尊敬すら覚えつつ、シュラは背嚢のポケットを漁った。
 たしか、どこかに化膿止めの抗生物質を入れておいたはずだ。
 ようやく目当ての品を見つけたシュラは、寝台に横臥する人物に声をかけた。
 「薬、飲めるか? ……って、訊く方がバカだよな」
 指一本ですら動かせない状態の患者に返事を期待する方が間違っている。
 シュラは反応のない華奢な身体をできるだけ静かに抱き起こすと、コップの水を口許に添えてやった。
 しかし、極度の衰弱からか、自力では水を飲むことすらできないらしい。
 コップから流れ出た水は、力なく開かれた唇を濡らすだけで外へ滴り落ちていく。
 シュラは頭を掻いた。
 と、なると、薬を飲ませる方法は、あれしかない。
  「……なんと言うか、やましい気持ちとかじゃないんだからな。誤解するなよ」
 自分にかけられた言葉の意味を理解するほど、今のこの患者は覚醒していないことは百も承知だが、それでも言わずにはいられなかった。
 相手が美人過ぎるというのも、困りものだ。
 治療と割り切れなくなりそうで、恐い。
 人形だと、思おう。
 よくできた、人形だと。
 そう自分に言い聞かせると、シュラは人形の顎に指をかけ上を向かせた。
 そして、自分の口に含んだ薬と水を口移しに飲ませるため、ゆっくりと唇を重ねていった。

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