太陽が一巡した。
宵闇に身を紛らせ、シュラは昨夜と同じ道を歩んでいた。
折角助けた命がむざむざ散る事態を避けるべく、差し当たり一人の人間が生き抜くに必須と思われる物資を届ける。
目的は、それだけだ。
無性に心がせくのは、自分の不在を誰かに気づかれやしまいかという自己保身と、その後の患者の容態を憂慮する責任感がなせる業。
それ以外の何物でもない。ある、はずがない。
そう自分に言い聞かせつつ、程なくシュラは目当ての家に辿り着いた。
音もなく階段を上がり静かに扉を開けると、淀んだ空気に沈殿するすっかり嗅ぎなれてしまった金臭さがかすかに鼻をつく。
暗闇に慣れた瞳は、扉の向こうに昨夜と同じ光景を捕まえた。
部屋を離れる際振り返り見た情景を一分の狂いもなく再現するように、紅い髪の人形が微動だにせず寝台に横たわっていた。
かすかに不安が胸を過ぎる。
より正確に言うならば、ここへ来る道すがら密かにずっと抱えていた危惧から、目を背けていられなくなった。
死んだように動かないという比喩がただの喩えではなくなっていることを恐れつつ、ゆっくりと近づいたシュラは寝台の端に腰掛けた。
堅く瞼を閉ざしたその相貌に、手にした明かりをそっと近づける。
橙色の明かりに仄かに照らし出された顔をじっと覗き込んだシュラの頬を、かすかな呼気が撫でた。
どうやら杞憂に終わってくれるらしい。
緊張が解け深く息を吐いたシュラは、再びそのかんばせを眺めやった。
身じろぎ一つしないせいか、深い眠りに落ちた姿は初見の印象通りよく出来た人形にしか見受けられない。
無論、この滑らかな白磁のような肌の下には赤い血が通っていることを、シュラは既に知っている。
それでも、際立って端整な美貌が作り物めいた冷たさを感じさせるせいか、昨夜自分が生者に治療を施したという記憶が幻のように思われてならなかった。
現か夢かの判断すらつかなくなるような妖しい心もとなさに襲われつつ、シュラは魅入られたように紅の麗人をみつめていた。
やがて、先程から自分に注がれる光を感じとったか。
眠り姫の美貌に翳を落としていた長い睫がわずかに震えた。
おもむろに瞼が持ち上がり、徐々に紅い瞳が覗く。
「……気がついたか」
シュラが着ている軍服は、主の意に反して相手に威圧感と恐怖を与えてしまうはずだ。
不思議そうに見上げてくる人形を一刻も早く安心させてやろうと、シュラはできるだけ優しい声をかけた。
「心配しなくていい。俺はあんたを助けてやりたいだけだから」
後ろめたいことをしているわけでもないのに早口になっている自分が、訳も無く照れくさい。
しかし、そんなシュラの配慮も虚しく、何度か訝しげに瞬きを繰り返した人形の瞳には、まごうことなき失望の色が広がっていった。
「……違ったのか」
ぼそりと吐き捨てると、人形は気だるげに上体を起こそうとする。
「何がだ?」
手を貸して抱え起こしたシュラは、腕の中の身体の驚くほど華奢な骨格に気づかない振りをしつつ尋ねた。
顔に落ちかかる長い髪をわずらわしげにかきあげた人形は、無機物を見るような冷たい瞳でシュラを一瞥した。
「やっと死神が迎えに来たと思ったのだが」
「……それは期待にそえず申し訳なかったな」
感謝の言葉を期待していた訳ではないとはいえ、美貌の主の第一声は余りにシュラの予想を裏切るものだった。
苦笑を禁じえないシュラに、人形は更に舌鋒を鋭くした。
「あのまま死なせてくれてもよかったのだ。何故、助けた?」
自分の生死に関する話題とも思えないほど淡々と呟くと、真紅の瞳でシュラを見据える。
シュラはじっとその瞳をみつめ返した。
何故、だろう。
その存在を見て見ぬ振りをするだけではない。
傷の治療をし、食糧を運んでやる。
人に干渉しない主義のはずの自分にしては、非常に珍しい行動と言ってよい。
答えは、この瞳だろう。
何も映さない、何も感じない、真紅の瞳。
どこか、似ていた。
鏡に映る自分の、次第に漆黒の闇に覆われていく双眸に。
救いたかったのは、彼というよりもむしろ自分自身の方かもしれなかった。
「……さあね。そうしたかったんだろうな」
シュラは薄く笑うと、煙草を取り出し火を点けた。
暗い部屋に浮かび上がる赤い小さな光が目に沁みる。
近頃、この色がやけに目につくようになってきた。
血の色。炎の色。
そして、目の前の人物の、瞳と髪を染める色。
無言のまま一服終えたシュラは、ちらりと傍らのテーブルを見遣った。
昨夜卓上に置いていった水の瓶の中身は、一晩で半分以下に減っていた。
「それに、あんたも多分どこかでは生きたがってるみたいだがな」
シュラの視線の先を追いかけた人形は、その台詞が全く根拠のないものではないことを渋々ながらも認めたらしい。
それ以上の反駁をしようとはせず、興味なさげに瞳を伏せる。
ふて腐れたようなわかりやすい反応に口元だけで軽く笑ったシュラは、それを合図に持参した背嚢を引き寄せた。
「傷、診せてみろ」
シュラの言葉に、人形は無造作にドレスの裾を捲り上げた。
既に出血は止まったらしいが、それでもかなり赤く染まった包帯が目に飛び込んでくる。
傷口に触れないよう気を遣いつつ包帯を解いたシュラは、白い肌を切り裂く抉るような患部を注視した。
幸いにも薬が効いたようで、化膿の心配はなさそうだった。
安堵したシュラに対し、一方、痛々しい銃創痕を平然とみつめる患者は憎々しげに舌を鳴らした。
「……この様子だと傷は残るな。藪医者め」
「ああ、そりゃ違うな。俺は医者じゃない」
蓋然性の高い前半の台詞はあえて黙殺したシュラの意図を察したか、一瞬沈黙が降りた。
やがて患部に注がれていた患者の視線がつっと方向を変えた。
わずかばかりの驚きを表情に貼り付け、人形はシュラを見上げた。
「……医者でもないのに私を治療したのか?」
「そういうことになるな」
「随分お節介なんだな」
感謝の欠片も含まない患者の暴言を受け流しつつ、シュラは手際よく処置を進める。
「ま、こんな場所なら外から見えるわけじゃない。傷が残ったとしても、それほど困らんだろう」
「いや、困る。売値が下がる」
消毒液が沁みるのか、顔をしかめる患者の言葉の意味を量りかね、シュラは思わず治療の手を止めた。
「……気づいていなかったのか」
突如人形に生命が宿ったかのように、無表情だった真紅の瞳が妖艶な光を放ち出す。
戦慄が走った。
恐怖とも不安ともつかない感情が警報を鳴らす中、シュラは眼前の患者から目を逸らせなくなっていた。
その視線を楽しむように艶然と微笑んだ人形は、見せつけるようにゆっくりとドレスを肩から落とした。
薄暗闇の中、ほの白く裸身が浮き上がる。
透き通るように白い胸元には、蝶が一羽、とまっていた。
片羽をもがれた、飛べない蝶。
それが刺青だとすぐにはわからず、シュラは茫然とその季節外れの蝶を凝視した。
「どうした。男娼を見るのは初めてか」
片羽の蝶の刺青は、娼妓の証だ。
言葉を失い瞠目するシュラに、嘲笑を含んだ揶揄するような声が忍び寄ってきた。
気づかなかったといえば嘘になる。
有閑階級というわけでもないのに戦時下に似つかわしくないドレスを身にまとう者など、その素性は薄々察しがつく。
その上、この中性的な容貌の主が自分と同じ性染色体の組み合わせを持つ側に属していることは、治療の際図らずも知ってしまっていた。
ただ、それでもどこか信じていなかったのは、この美貌のせいかもしれなかった。
人形との錯覚すら与える整いすぎた容貌は、その生業への推察を打ち消させるほどに、邪淫というよりもむしろ気高く清澄な雰囲気を醸し出していたのだ。
しかし、その近寄りがたい高雅な面影は、今はすっかりなりを潜めてしまっていた。
仕事用の態勢に切り替わってしまったのか、人形は毒々しいまでの妖しい香りで男を狂わせる真紅の徒花へと変貌を遂げていた。
艶めかしく潤む紅の瞳に不覚にも囚われそうになったシュラは、ざわざわと不穏に蠢きだした欲望の獣を宥めようと、こっそりと背後に廻した片手をきつく握り締めた。
掌に食い込む爪の痛みの助けを借りてかろうじて理性を保ちながら、平静を装いつつ消毒液の瓶の蓋を閉める。
「身体の方は怪我してないだろう。早く服着ろ。風邪引くぞ」
耳に飛び込む自分の声がかすかに震えているような気がしたが、昨日今日出会ったばかりの人物を誤魔化せる程度には落ち着いているはずだ。
現にそれが過剰な自意識ではなかった証拠に、シュラの言葉を聞いた娼夫は、ふわりと口元に微笑を漂わせたのを最後に人形へと戻っていった。
再び表情を無くした人形が素直に衣服を身につけ始めたことに心中密かに安堵したシュラは、気まずい沈黙を打ち破ろうと声をかけた。
「それより、名前くらい教えろよ。ああ、俺はシュラだ」
「ガニュメデス」
「そりゃ、大層な名だな」
最高神をも魅惑する神話の美少年の名は彼にふさわしいようにも思われたが、シュラはわざと素っ気無くうそぶいた。
しかし、返ってきた声はそれ以上にあっさりとした味気ないものだった。
「源氏名だからな。客は皆そう呼ぶ」
「……俺はおまえの客じゃないから、その名じゃ呼べんな。本名は?」
「忘れた」
さも面倒臭そうに、人形は投げやりな言葉を返す。
「何でもいい。好きに呼んでくれ」
自分に対して、関心も愛着も何一つ抱いていないのだろう。
死神を待っていたというのは、彼の本心かもしれなかった。
自己を取り巻く環境に翻弄され蝕まれる、決して幸福とはいえない彼の人生の一端を垣間見てしまったような罪悪感が、シュラの胸をちくりと刺す。
シュラは少し考えた。
「……じゃ、カミュはどうだ」
いつぞや読んだ本を思い出していた。
現実から浮遊するような心もとない主人公を好んで書いた作家の名が、ふと頭を過ぎった。
外界の干渉を拒み現し世から乖離しようとするその主人公のイメージが、目の前の人形と何故か重なったのだ。
「ご自由に」
その名の由来にも何ら興味をかきたてられないらしく、即座に了承の意が返ってきた。
名前などただの記号でしかないとでも言うように、名を貰った人形は、それでもなお変わらず無表情なままだった。
宵闇に身を紛らせ、シュラは昨夜と同じ道を歩んでいた。
折角助けた命がむざむざ散る事態を避けるべく、差し当たり一人の人間が生き抜くに必須と思われる物資を届ける。
目的は、それだけだ。
無性に心がせくのは、自分の不在を誰かに気づかれやしまいかという自己保身と、その後の患者の容態を憂慮する責任感がなせる業。
それ以外の何物でもない。ある、はずがない。
そう自分に言い聞かせつつ、程なくシュラは目当ての家に辿り着いた。
音もなく階段を上がり静かに扉を開けると、淀んだ空気に沈殿するすっかり嗅ぎなれてしまった金臭さがかすかに鼻をつく。
暗闇に慣れた瞳は、扉の向こうに昨夜と同じ光景を捕まえた。
部屋を離れる際振り返り見た情景を一分の狂いもなく再現するように、紅い髪の人形が微動だにせず寝台に横たわっていた。
かすかに不安が胸を過ぎる。
より正確に言うならば、ここへ来る道すがら密かにずっと抱えていた危惧から、目を背けていられなくなった。
死んだように動かないという比喩がただの喩えではなくなっていることを恐れつつ、ゆっくりと近づいたシュラは寝台の端に腰掛けた。
堅く瞼を閉ざしたその相貌に、手にした明かりをそっと近づける。
橙色の明かりに仄かに照らし出された顔をじっと覗き込んだシュラの頬を、かすかな呼気が撫でた。
どうやら杞憂に終わってくれるらしい。
緊張が解け深く息を吐いたシュラは、再びそのかんばせを眺めやった。
身じろぎ一つしないせいか、深い眠りに落ちた姿は初見の印象通りよく出来た人形にしか見受けられない。
無論、この滑らかな白磁のような肌の下には赤い血が通っていることを、シュラは既に知っている。
それでも、際立って端整な美貌が作り物めいた冷たさを感じさせるせいか、昨夜自分が生者に治療を施したという記憶が幻のように思われてならなかった。
現か夢かの判断すらつかなくなるような妖しい心もとなさに襲われつつ、シュラは魅入られたように紅の麗人をみつめていた。
やがて、先程から自分に注がれる光を感じとったか。
眠り姫の美貌に翳を落としていた長い睫がわずかに震えた。
おもむろに瞼が持ち上がり、徐々に紅い瞳が覗く。
「……気がついたか」
シュラが着ている軍服は、主の意に反して相手に威圧感と恐怖を与えてしまうはずだ。
不思議そうに見上げてくる人形を一刻も早く安心させてやろうと、シュラはできるだけ優しい声をかけた。
「心配しなくていい。俺はあんたを助けてやりたいだけだから」
後ろめたいことをしているわけでもないのに早口になっている自分が、訳も無く照れくさい。
しかし、そんなシュラの配慮も虚しく、何度か訝しげに瞬きを繰り返した人形の瞳には、まごうことなき失望の色が広がっていった。
「……違ったのか」
ぼそりと吐き捨てると、人形は気だるげに上体を起こそうとする。
「何がだ?」
手を貸して抱え起こしたシュラは、腕の中の身体の驚くほど華奢な骨格に気づかない振りをしつつ尋ねた。
顔に落ちかかる長い髪をわずらわしげにかきあげた人形は、無機物を見るような冷たい瞳でシュラを一瞥した。
「やっと死神が迎えに来たと思ったのだが」
「……それは期待にそえず申し訳なかったな」
感謝の言葉を期待していた訳ではないとはいえ、美貌の主の第一声は余りにシュラの予想を裏切るものだった。
苦笑を禁じえないシュラに、人形は更に舌鋒を鋭くした。
「あのまま死なせてくれてもよかったのだ。何故、助けた?」
自分の生死に関する話題とも思えないほど淡々と呟くと、真紅の瞳でシュラを見据える。
シュラはじっとその瞳をみつめ返した。
何故、だろう。
その存在を見て見ぬ振りをするだけではない。
傷の治療をし、食糧を運んでやる。
人に干渉しない主義のはずの自分にしては、非常に珍しい行動と言ってよい。
答えは、この瞳だろう。
何も映さない、何も感じない、真紅の瞳。
どこか、似ていた。
鏡に映る自分の、次第に漆黒の闇に覆われていく双眸に。
救いたかったのは、彼というよりもむしろ自分自身の方かもしれなかった。
「……さあね。そうしたかったんだろうな」
シュラは薄く笑うと、煙草を取り出し火を点けた。
暗い部屋に浮かび上がる赤い小さな光が目に沁みる。
近頃、この色がやけに目につくようになってきた。
血の色。炎の色。
そして、目の前の人物の、瞳と髪を染める色。
無言のまま一服終えたシュラは、ちらりと傍らのテーブルを見遣った。
昨夜卓上に置いていった水の瓶の中身は、一晩で半分以下に減っていた。
「それに、あんたも多分どこかでは生きたがってるみたいだがな」
シュラの視線の先を追いかけた人形は、その台詞が全く根拠のないものではないことを渋々ながらも認めたらしい。
それ以上の反駁をしようとはせず、興味なさげに瞳を伏せる。
ふて腐れたようなわかりやすい反応に口元だけで軽く笑ったシュラは、それを合図に持参した背嚢を引き寄せた。
「傷、診せてみろ」
シュラの言葉に、人形は無造作にドレスの裾を捲り上げた。
既に出血は止まったらしいが、それでもかなり赤く染まった包帯が目に飛び込んでくる。
傷口に触れないよう気を遣いつつ包帯を解いたシュラは、白い肌を切り裂く抉るような患部を注視した。
幸いにも薬が効いたようで、化膿の心配はなさそうだった。
安堵したシュラに対し、一方、痛々しい銃創痕を平然とみつめる患者は憎々しげに舌を鳴らした。
「……この様子だと傷は残るな。藪医者め」
「ああ、そりゃ違うな。俺は医者じゃない」
蓋然性の高い前半の台詞はあえて黙殺したシュラの意図を察したか、一瞬沈黙が降りた。
やがて患部に注がれていた患者の視線がつっと方向を変えた。
わずかばかりの驚きを表情に貼り付け、人形はシュラを見上げた。
「……医者でもないのに私を治療したのか?」
「そういうことになるな」
「随分お節介なんだな」
感謝の欠片も含まない患者の暴言を受け流しつつ、シュラは手際よく処置を進める。
「ま、こんな場所なら外から見えるわけじゃない。傷が残ったとしても、それほど困らんだろう」
「いや、困る。売値が下がる」
消毒液が沁みるのか、顔をしかめる患者の言葉の意味を量りかね、シュラは思わず治療の手を止めた。
「……気づいていなかったのか」
突如人形に生命が宿ったかのように、無表情だった真紅の瞳が妖艶な光を放ち出す。
戦慄が走った。
恐怖とも不安ともつかない感情が警報を鳴らす中、シュラは眼前の患者から目を逸らせなくなっていた。
その視線を楽しむように艶然と微笑んだ人形は、見せつけるようにゆっくりとドレスを肩から落とした。
薄暗闇の中、ほの白く裸身が浮き上がる。
透き通るように白い胸元には、蝶が一羽、とまっていた。
片羽をもがれた、飛べない蝶。
それが刺青だとすぐにはわからず、シュラは茫然とその季節外れの蝶を凝視した。
「どうした。男娼を見るのは初めてか」
片羽の蝶の刺青は、娼妓の証だ。
言葉を失い瞠目するシュラに、嘲笑を含んだ揶揄するような声が忍び寄ってきた。
気づかなかったといえば嘘になる。
有閑階級というわけでもないのに戦時下に似つかわしくないドレスを身にまとう者など、その素性は薄々察しがつく。
その上、この中性的な容貌の主が自分と同じ性染色体の組み合わせを持つ側に属していることは、治療の際図らずも知ってしまっていた。
ただ、それでもどこか信じていなかったのは、この美貌のせいかもしれなかった。
人形との錯覚すら与える整いすぎた容貌は、その生業への推察を打ち消させるほどに、邪淫というよりもむしろ気高く清澄な雰囲気を醸し出していたのだ。
しかし、その近寄りがたい高雅な面影は、今はすっかりなりを潜めてしまっていた。
仕事用の態勢に切り替わってしまったのか、人形は毒々しいまでの妖しい香りで男を狂わせる真紅の徒花へと変貌を遂げていた。
艶めかしく潤む紅の瞳に不覚にも囚われそうになったシュラは、ざわざわと不穏に蠢きだした欲望の獣を宥めようと、こっそりと背後に廻した片手をきつく握り締めた。
掌に食い込む爪の痛みの助けを借りてかろうじて理性を保ちながら、平静を装いつつ消毒液の瓶の蓋を閉める。
「身体の方は怪我してないだろう。早く服着ろ。風邪引くぞ」
耳に飛び込む自分の声がかすかに震えているような気がしたが、昨日今日出会ったばかりの人物を誤魔化せる程度には落ち着いているはずだ。
現にそれが過剰な自意識ではなかった証拠に、シュラの言葉を聞いた娼夫は、ふわりと口元に微笑を漂わせたのを最後に人形へと戻っていった。
再び表情を無くした人形が素直に衣服を身につけ始めたことに心中密かに安堵したシュラは、気まずい沈黙を打ち破ろうと声をかけた。
「それより、名前くらい教えろよ。ああ、俺はシュラだ」
「ガニュメデス」
「そりゃ、大層な名だな」
最高神をも魅惑する神話の美少年の名は彼にふさわしいようにも思われたが、シュラはわざと素っ気無くうそぶいた。
しかし、返ってきた声はそれ以上にあっさりとした味気ないものだった。
「源氏名だからな。客は皆そう呼ぶ」
「……俺はおまえの客じゃないから、その名じゃ呼べんな。本名は?」
「忘れた」
さも面倒臭そうに、人形は投げやりな言葉を返す。
「何でもいい。好きに呼んでくれ」
自分に対して、関心も愛着も何一つ抱いていないのだろう。
死神を待っていたというのは、彼の本心かもしれなかった。
自己を取り巻く環境に翻弄され蝕まれる、決して幸福とはいえない彼の人生の一端を垣間見てしまったような罪悪感が、シュラの胸をちくりと刺す。
シュラは少し考えた。
「……じゃ、カミュはどうだ」
いつぞや読んだ本を思い出していた。
現実から浮遊するような心もとない主人公を好んで書いた作家の名が、ふと頭を過ぎった。
外界の干渉を拒み現し世から乖離しようとするその主人公のイメージが、目の前の人形と何故か重なったのだ。
「ご自由に」
その名の由来にも何ら興味をかきたてられないらしく、即座に了承の意が返ってきた。
名前などただの記号でしかないとでも言うように、名を貰った人形は、それでもなお変わらず無表情なままだった。