無憂宮
 戦場下において、との留保付きではあるものの、数日の経過と共に人々は普段の落ち着きを取り戻しつつあった。
 元々軍の支配下に置かれていた町だ。
 住民にとっては、嵐のような戦闘が過ぎ去ったあと、重石のように圧し掛かる占領者が名を変えたというだけのことなのだろう。
 国境に程近いという土地柄、古来幾度もその属する国名の変遷を経てきた彼らにとっては、今回の戦闘も些細なことなのかもしれなかった。
 恐らくやるせない諦観のようなものが、連綿と遺伝子によって受け継がれているのだ。
 疲れきった彼らの表情に一様に漂うものの理由を、夜間の居住区警備の任に当たっていたシュラはそう理解した。
 管理統制の便宜を図るため、民間人は一箇所に集結させられていた。
 事実上の住民の虜囚化には、町の三分の一近くが戦闘により破壊され居住にあたわないとの実際的理由もあった。
 その見捨てられた地区の一角に人形の家が含まれていたことを、幸運と思うべきなのだろうか。
 今更他の住民と合流させる算段もつかず、あの紅い髪の人形はゴーストタウンに隠れ住むたった一人の人間となっていた。
 とりあえず水と食糧さえあれば生き延びられよう。
 そう考えたシュラは自らが食糧の運び手となりカミュを匿い通す決意を固め、図らずも彼の生殺与奪の権を一手に握ることとなったのだ。
 そうして人目を盗んではカミュの隠れ家に向かうシュラは、いつも子供に返ったような奇妙な錯覚に襲われる自分に呆れ果てていた。
 猫を拾ったものの飼育を親に反対され、それでも諦められずに餌をやりに行っていた幼い頃の記憶が、今の状況と重なって仕方がない。
 その猫はいつの間にか姿を消したはずだった。
 可愛らしい仔猫だったから誰かに無事拾われたのだと、安堵とそれをはるかに凌ぐ喪失感を同時に味わったように思う。
 それにひきかえ今回は、愛想の欠片もなく人に懐こうともしない高慢な妖猫を相手に、自分は一体何をやっているのか。
 ともすれば浮かびそうになる自嘲の笑いを無理やり押し殺しつつ、シュラはしかつめらしい顔で周囲を見渡し、真面目に任務を遂行している振りをした。


 早朝の光が眩しい。
 夜行性の動物のように殊更日の射さない道を選びつつ、シュラは重い足を引きずっていた。
 夜番を終え一睡もしないままでは、さすがに疲労は頂点に達している。
 割り当てられた宿舎で休むという選択肢もあったが、シュラはあえてそのまま人形の隠れ家へ向かうことにした。
 民間人への配給物資が夜警兵の間に流出しているという噂が真実だったことを、シュラは昨夜身をもって体験していた。
 その恩恵を、カミュにももたらしてやろうと思ったのだ。
 携帯用のコンロと固形燃料を使えば、温かい湯気の立ち上るスープを食べさせてやることもできる。
 いつもわずかばかりのパンと水くらいしか口にしていないカミュには久々のご馳走だろう。
 餌で釣る、というのも失礼な話かもしれないが、これをきっかけに相変わらず冷淡なカミュが少しは心を開いてくれるかもしれない。
 そんな淡い望みを抱きつつ、シュラは眠い目を擦りつつ先を急いだ。


 しかし、程なくシュラのささやかな期待は打ち砕かれることになる。
 得意げに土産を披露したシュラに、カミュはちらりと一瞥を与えただけで、予想していた歓喜の表情など欠片も見せることはなかった。
 感情を表出しないカミュが少しは喜んでくれることを期待していただけに、その無反応ぶりはいつも以上にシュラを落胆させた。
 「……もう少し、何か反応があってもいいんじゃないのか」
 先頃以来の苦労が全く報われず、温厚なシュラも流石に声に含まれる棘を隠せない。
 それをようよう感じ取ったか、カミュは小さく頷いた。
 「ああ、ありがとう」
 それだけだった。
 シュラは溜息をついた。
 初めてカミュと出会ってから、既に一ヶ月近くが過ぎていた。
 毎日とは言わないまでも出来る限り足繁くこの家に通っているシュラに全く害意がないことも、自分が一方ならぬ世話になっていることも、カミュは充分承知しているはずだ。
 それでもカミュは、相変わらず人形のように無表情の仮面を被ったままだった。
 それどころか、彼はおそらくシュラの名前すら覚えていないのだろう。
 未だ一度として名を呼ばれたことがないという事実に気づくと、一気に全身が脱力するような虚しさに襲われる。
 ますます疲労を覚えたシュラは、もう一度欠伸混じりの溜息を漏らした。
 「まあ、いい。昨日寝てないんでな。ちょっとそこで寝させてもらうから、その間に食べとけ」
 カミュの腰掛けている寝台を指差すと、カミュは無言のまま端ににじり寄って場所を空けてくれた。
 言葉を惜しむように沈黙を貫くカミュの態度に、わずかばかりの憤りを覚えるのは否めない。
 しかし、そんなカミュの態度にも、幸か不幸かシュラはもうすっかり慣れてしまっていた。
 怒りを補って余りある諦めを抱いて、シュラは寝台に身を横たえると目を閉じた。
 久方振りの休息だ。
 伸ばした四肢の指先を通じ溜まった疲労がじわりじわりと体外へと溶け出していくような錯覚が、シュラを柔らかく包み込む。
 束の間とはいえゆっくりと休めることの有難さを堪能しつつ、シュラはもうすぐ傍まで来ているのだろう睡魔の訪れを静かに待った。
 とろとろと意識の端が霞みだす独特の覚束なさが心地よい。
 もし夢を見るのなら、せめてその中だけでも幸せを味わいたいものだ。
 そんな愚にもつかない思いが心の片隅をぼんやりと過ぎったとき。
 何か違和感を感じた。
 じっと自分に注がれる視線。迫り来る人の気配。
 密かに天敵に狙いを定められた獲物のような、確かとは判別できない得体の知れない不安がシュラを苛む。
 窮地の兆しを感知し全身に鳴り響く警告音に、シュラは眠りの淵にかけた手を放し目覚めようとした。
 異変に襲われたのは、瞼を持ち上げるのとほとんど同時だった。
 紅と白の二色に染め上げられた視界に、シュラは目を剥いた。
 色覚の異常、というわけではない。
 焦点が合わせられないほどの至近距離にカミュがいたのだ。
 「……今、何をした?」
 自分に降りかかった事態を理解できず呆けたように問いかけるシュラの目の前で、遠ざかるカミュの輪郭がゆっくりと鮮明な像を結んでいく。
 シュラは恐る恐る口元に手をやった。
 温かく柔らかい、唇に触れた今の感触は……。
 「キス」
 表情を微塵も動かさず、淡々とカミュは呟いた。
 「寝るなら気持ちよく寝させてやる。あなたには一応助けてもらったようだが、私は人に借りを作るのは嫌いだ」
 感情の込もらない声で静かに言葉を綴りながら、カミュはシュラの服に手をかけ、手馴れた仕草でシャツのボタンを外していく。
 冷たい指先がかすかに肌に触れ、シュラの背筋をぞくりと震わせた。
 「あいにく私にはこの体しかないのでな。こういう報い方しか私は知らない」
 カミュの口にする台詞とその間も休むことなく動かされる指の動きに、ようやくカミュの意図を悟ったシュラは茫然とした。
 助けてもらった礼に、自分を抱かせてやろうというのだ。
 余りの驚きにシュラが麻痺したように動けなくなっているのをいいことに、カミュの器用な指は瞬く間にシュラの胸元をはだけさせていく。
 やがて全てのボタンを外し終え満足気に薄く笑ったカミュは、横たわるシュラに伸しかかると緩慢な動作で首筋に顔をうずめた。
 一瞬濡れたもので首筋を撫でられシュラが思わず身を竦めると、カミュはその反応を咎めるように自分の身体を密着させその重みでシュラを抑えこんだ。
 剥き出しの肌の上を撫でる長い指と胸に落ちかかってはくすぐる紅い髪が、シュラの欲望を解き放つ鍵を探し這い回り、次第にその身体から一切の力を奪っていく。
 予期せぬ展開に愕然と瞳を見開くことしかできないシュラの耳朶に軽く歯を立てたカミュは、からかうように耳元で囁いた。
 「どうせあなたも礼が欲しくて私を助けたのだろう? 傷が塞がるまでよく我慢してくれたな。それだけは褒めてやる」
 あだっぽい吐息混じりの囁きが、するりと耳に忍び込む。
 その言葉の意味を理解するや、朧に霞みかけていたシュラの意識が覚醒した。
 脳裏を漂う靄を消し去ったのは、衝動的な怒りだった。
 激情に襲われたシュラは、ぐっと手に力を込めた。
 「……ちょっと、待て!」
 怒声と同時に、シュラはむしゃぶりつくように自分に覆い被さる妖艶な獣を思い切り突き飛ばした。
 カミュが身体の上から離れた、その一瞬の隙を逃さず捕まえ寝台から飛び降りると、シュラはカミュに背を向けた。
 治まることを知らない激しい動悸と、ボタンをはめようとするも上手く動かない指が、どうしようもなく腹立たしい。
 乱れた服を直しながらちらりと背後に目をやると、かろうじて転げ落ちるのを免れたらしく寝台にぺたりと座り込んだカミュの姿が見えた。
 余程はねのけられたのが予想外だったのか、カミュは目を丸くしてぽかんとシュラをみつめていた。
 端麗な人形でも妖艶な男娼でもない、何処か幼さすら感じさせる面持ち。
 今までに見せたことのないカミュの素直な感情の発露に、シュラはようやく我を取り戻した。
 人を愚弄するようなカミュの発言に、それほど悪気はないのかもしれなかった。
 恐らくは、これが今日までカミュが生きてきた世界なのだ。
 自分に向けられる他人の好意には必ず裏があるということを、見返りを全く求めない純粋な善意など存在しないということを、カミュは様々な傷を負いながら学んできたのだろう。
 怒りを向けるべきはカミュではなく、彼を形成してきた環境の方だ。
 シュラは自分を落ち着かせようと、一つ息を吐いた。
 「……俺は、そんなことがして欲しくて、あんたを助けたんじゃない」
 わずかに声が震えているようで、そんな自分に苛立ったシュラはかすかに頭を振った。
 「……とにかく、そんなことしなくていいから」
 上手い言葉もみつからず、ただそれだけを繰り返すと、振り返りもせずにシュラは部屋を出た。
 後ろ手に扉を閉めると、理性で無理矢理捻じ伏せられ不満気だった原始的な本能がようやく諦めたように静けさを取り戻していく。
 安堵と疲労と、認めたくはなかったが極微量の未練が複雑に混ざり合った溜息が、思わずシュラの口から漏れていた。

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