朦朧と霞む意識の中、シュラは重く被さる瞼をゆっくりと持ち上げた。
早朝の山中のように厚い靄が立ち込めているのか、白濁した室内の様子はしかとは判じえない。
せめて自分の周囲の状況だけでも手探りで把握しようと試みるが、どんなに力を込めてみてもどういうわけか枷でもかけられたように体の自由が利かなかった。
底知れぬ不安が込み上げる中、それでもシュラは怯みそうになる自分を叱咤し現状理解に努める。
今の自分の感覚を信頼するのならば、硬い寝台らしきものに横たわっているようだった。
かろうじて動く首だけを廻らしてみると、シュラの目覚めを待ちかねていたかのように、靄の一角がにわかに動きをみせ始めた。
古の預言者を前に忽然と海が割れたとかいう伝承のように、靄は左右に吸い取られるごとく消えていき、合間に道ができていく。
そうして作られた狭い通い路を、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる人の姿があった。
鮮麗な色彩を誇る人影の正体は、訝しむまでもなくすぐに知れた。
カミュだ。
感情の欠片すら浮かべない真紅の硝子玉のような二つの瞳が、じっとシュラを見据える。
何をする気だ?
問いかけようとするも、からからに乾いた喉から発せられたのは、音にもならない吐息だけだった。
自分に降りかかろうとする運命の意味もわからず、状況を切り抜ける能力も一切奪われた今、シュラは赤子のように無力だ。
極度の緊張と不安に苛まれるシュラから、紅い瞳は一向に視線を逸らそうとはしなかった。
氷のように冷たい瞳に射すくめられ、シュラの背筋がぞくりと凍りついた。
言いようも無い恐怖に息を呑んだところで、シュラは目覚めた。
見慣れた宿営先の部屋だった。
恐る恐る四肢を動かしてみたが、これといって別段支障はない。
だが、不可解な夢からまだ完全には解放してはもらえないらしく、心臓がとくとくと激しく鳴り響いている。
落ちかかる前髪を払おうと無意識に手を持っていくと、額はじっとりと冷たい汗に濡れていた。
嫌な夢だ。
記憶の再現ともいえる夢の残像が脳裏を過ぎり、シュラは執拗に追いかけてくる悪夢から逃れようと頭を振った。
歪みながら消えていくカミュの幻を苦みばしった表情で見送ると、やるせない自己嫌悪のようなものが込み上げてくる。
今朝方のカミュの行動は、自身が思っている以上の衝撃をシュラに与えていたのだろう。
見返りなど求めず親身に世話をしてきた、つもりだった。
いつかは心を開いてくれると、人形の仮面を外し笑顔をみせてくれるときがくると、心の何処かで期待していた。
それがただの偽善的な自己満足でしかなかったことを、シュラはこんな惨めな形で思い知らされたのだ。
カミュにとってシュラは、身体目当てにおためごかしな親切を施す、名もない数多の男の一人に過ぎなかった。
そしてシュラ自身、あのとき確かに狂おしいまでの欲望を覚えたのは、認めたくはないが事実だった。
醜くあさましいシュラの姿を、カミュは蔑むように一瞥した。
その突き刺さるような冷たい視線が、夢の中までつきまとってくるほど怖かったのだ。
嫌々ながらも夢判断に後味の悪い結論を下したシュラは、ようよう起き上がると一つ大きく息をついた。
「よくうなされてたな」
唐突にかけられた声に、びくっと全身が跳ねる。
心配、というよりも揶揄するような声の先を見遣ると、口元をにやりと歪めた男に辿り着いた。
デスマスク。
通称なのか本名なのかすらわからない名で知られた、謎の多い男だった。
代々軍の高官を輩出してきた家系の出だというまことしやかな噂も常に彼の周囲を賑わわせていたが、それもあながち根拠がないというわけでもない。
悪魔の異名を取る厳酷な上官でさえ、陰ではどこか媚びるようにデスマスクに便宜を図っていた。
もっともらしい理由をつけて、こうして士官でもないデスマスクに大部屋ではなく二人部屋を割り当てられていることも、その一つだろう。
とはいえ、何故か初対面から意気投合したおかげで彼の同室者となったシュラとしては、結果的に余禄に預かっているわけだから、その特別待遇に文句を言う筋合いもなかった。
詳しい事情も訊かずに、ただそれがシュラの頼みだというだけで、その人脈と特権を駆使してカミュの薬や食料を調達してくれているのもデスマスクなのだから、尚更だ。
そうはいっても、しんみりと友情の有難さに感じ入るなどといった湿っぽい関係は、自分たちには似合わない。
「うなされてると思ったなら、起こせよ」
シュラの憎まれ口に、デスマスクは調子のよい笑みを浮かべた。
「こないだ起こしてやったら、睡眠の邪魔するなって怒られたからな。俺、素直だろ」
「……素直って言葉の意味、今度辞書で調べてこい」
「ああ、少なくともおまえのことじゃないってことだけは、調べなくてもわかるかな」
寝ぼけた頭が、いつもどおりの軽口の応酬の間に覚醒していく。
全身にまとわりつく夢魔の残滓を振り払おうと、両腕を大きく伸ばしストレッチを繰り返すシュラの目の前に、水の入ったコップが差し出された。
タイミングが良すぎてその気配りに感謝する間もないというのが、デスマスクの行動パターンだった。
もっとも礼を言ったところで、気味悪がられるか他愛もない冗句で返されるのが関の山だろう。
冷たい水を一気に飲み干すことでその心遣いに報いたシュラは、おかげでようやく人心地がついた気がした。
ほっと息を吹き返したようなシュラに、デスマスクは片頬だけで器用に笑ってみせた。
「で、何かお悩み中なわけ?」
「……何の話だ?」
デスマスクは傍らの椅子を引き寄せると行儀悪く逆向きに跨り、背もたれに組んだ両腕を載せた。
「いや、拾った猫に情がわいたかと思ってな」
にやりと笑うデスマスクから、前触れもなく鋭い言葉の矢が放たれた。
虚を突かれたシュラの呼吸が一瞬止まる。
表情を取り繕うこともできず全身を硬直させたシュラの反応がよほど期待通りだったのか、デスマスクはやに下がった笑みを浮かべつつ、すっと手を伸ばしてきた。
シュラの首筋にかすかに冷たい指先が触れ、すぐにまた離れていく。
「どう見ても、おまえのじゃないよな、これ」
悪戯っぽく笑うデスマスクは、シュラの首に張り付いていたらしい髪の毛を摘み上げていた。
色も長さも、シュラの黒く短い髪からは程遠い。
垂れ下がる一筋の紅い長糸越しに、シュラはしばらく無言でデスマスクを見据えた。
「……俺のだって、言ったら?」
ようやく漏らされた感情を抑えた低い声に、デスマスクは大げさに肩を竦めて見せた。
「おまえがそう言うんなら、そうなんだろう、と思うだけ」
「じゃ、そういうことにしといてくれ」
「了解」
蠱惑的に片目を瞑って見せたデスマスクは、芝居がかった仕草でぱっと指を放し、紅い髪をはらりと床に落とした。
その行く末も見届けずに、ポケットから煙草を取り出すと、一本自分用に抜きとり残りを箱ごとシュラに放る。
このあまり触れられたくない話題が終わったと判断してよいものか、迷うシュラは自分も煙草を手にしながら、ちらりとデスマスクに視線を投げた。
煙を吐き出し美味そうに目を細めるデスマスクの表情は、いつも斜に構えた彼には珍しいほど和んで見えた。
「おまえはいい奴だが、真面目過ぎるのが欠点だからな。たまにはこういうのもいいだろう」
「……なんだ、いきなり?」
唐突に下された人物評価に、貰い煙草に火を点けようとしていたシュラは思わず手を止めた。
「もっと楽に生きなさいって。人生一度っきりよ」
訝しげに見返すシュラに、デスマスクはふうっと煙を吐きかけ、からからと笑った。
「まあ、そんな融通の利かない不器用な奴だから、こんな意味のない戦争に参加してるんだろうけどな」
「意味がないって、おい……」
胡散臭い大義名分で飾られた参戦理由は、崇高な精神を唱えば唱うほど真実とはかけ離れていく。
そう理解はしていても、それを言葉に出して認めることは、戦場にいる自分たちの存在理由を真っ向から否定するようなものだった。
苦笑するしかないシュラに、笑いを収めたデスマスクの低い声がさらに追い討ちをかける。
「いい加減、気づいてんじゃないの、おまえも。ここで死んでも、ただの犬死にだって」
デスマスクの瞳が、ほんの一瞬だけ凄惨な光を宿す。
軽佻浮薄な言動の下に巧妙に隠された、デスマスクの暗い心の闇を垣間見てしまった気がした。
だが、それに気づかない振りをしてやるのが、シュラの友人としての情けだ。
雄弁な沈黙を、吐き出した煙草の煙で覆い隠してやると、デスマスクは既にいつもの軽口ばかりを叩く男に戻っていた。
「ま、そういう訳だから、今度の戦闘で、おまえの腕とか足とか、致命傷にならない程度に撃ってやろうかと思って」
「……なんでそういう結論になるんだよ」
物騒な計画をさらりと楽しげに口にするデスマスクに、シュラは呆れて問い返した。
「怪我したら、軍役免除ってことで大手を振って田舎に帰れるぞ。ええっと……、羊飼いだったか、家業?」
「……山羊だ」
「そうそう、それ。田舎なら、猫を連れて帰っても心置きなく飼えるだろうが」
思わせぶりな口調に、シュラはつい誘われて苦笑いを浮かべた。
デスマスクの鋭い洞察力には、いつも舌を巻かされていた。
ここ数週間のシュラの行動を、彼は全く興味がないような顔をしつつも逐一観察していたのだろう。
そして漠然とではあるだろうが、シュラが抱えこんだ秘密の意味に気づいているのだ。
もっとも彼の推測は、大枠は合っているのかもしれないが、根本的な理解の前提が狂っているようだ。
シュラは煙草をふかしつつ、さりげなく訂正を加えた。
「それはそうかもしれんが、猫の方が田舎を……というより、俺を嫌ってるみたいでね」
「……へえ、そんなもんか?」
「そんなもんだ」
期せずして、二人は同時に煙を吐き出した。
空中で出会ったその煙が混じり合って消えていく様を、シュラは目をすがめてみつめていた。
が、すぐに煙がいたく目にしみるような気がして、そっと視線を外す。
「それに、俺が除隊になったら、誰がおまえみたいに無鉄砲な輩の援護をしてくれると思うんだ?」
「……そりゃ考えてなかったな」
いいアイデアだと思ったんだが、と、デスマスクは心底残念そうに舌打ちした。
そして無言のまま煙草を灰皿に押し付けて消すと、しばらく迷った素振りを見せた後、シュラの手から煙草の箱を取り戻す。
二本目の煙草に火を点けながら、デスマスクは何か思い付いたように小さく笑った。
「……しかしよ。おまえ、猫飼いだしてから死にたくなくなったろ?」
よかった、よかったと、デスマスクは小さな子供でもあやすように、いやに優しげに繰り返す。
シュラは不満顔で反駁した。
「昔から死にたいと思ったことは一度もないが?」
「いや、嘘だね。おまえ、ずっと死に場所探してますって目してただろうが。自分で気づかんかった?」
「……ああ、気づかなかった」
それはおまえだろうと、自殺願望の存在を疑わせるような狂気めいた戦闘を繰り広げるのはむしろデスマスクの方だと、言いかけた言葉はシュラの舌先で発せられることもなく溶けていった。
鏡に映る自分の沈んだ瞳を思い起こすと、納得せざるをえなかった。
鏡を見ることさえ厭わしくなる、この感情を失くした暗い瞳の意味を端的に表現するのなら、おそらくデスマスクが指摘した通りなのだろう。
そして、このように明瞭に言語化されたおかげで、シュラは同時に気がついてしまった。
カミュと、そして目の前にいる、この男と。
それはシュラと比較的関わり合いの深い人間が、共通して瞳に宿すものでもあった。
シュラがデスマスクと妙に波長が合ったのは、殊更カミュに入れ込んでしまったのは、そのせいなのかもしれなかった。
おそらく無意識に、シュラは相手の中に自分の闇を見出していたのだろう。
だから、放っておくことができなかった。
カミュを救おうと危険を冒してまで奔走することは、どこかで自分自身の救済の代償行為だったのだ。
「まあ、それだけでも猫に感謝、だ」
一方的に下した結論に満足したようで、デスマスクはそう言い捨てると立ち上がった。
ついで、ふと思い出したようにシュラを見下ろす。
「そうだ、俺、昼飯食いっぱぐれるぞって、おまえを呼びに来たんだった」
「……飯、ねえ……」
額に手をあてたシュラは、自分の体としばらく相談し、食事よりも睡眠の方が優先課題だという結論に達した。
「あまり食欲がないんでな。今日はいらん」
デスマスクは少し意外そうに瞬きを繰り返したが、とりたてて反論しようという気は起きなかったらしい。
「じゃ、俺だけ食堂行って来るかな。……ああ、紅毛の仔猫ちゃんに何か餌いるか?」
「……いや、とりあえずいい。当座の食料は今朝置いてきたから」
ぬけぬけと訊いてくるデスマスクに、やはりぬけぬけとシュラは答えた。
共犯めいたその返事に、デスマスクは煙草をくわえたまま意地の悪い笑みをみせた。
「宝石とか花とか、猫のお気に召しそうなキレイな餌も調達できるが、どうする?」
「……うるさい」
からかうように手を振りながら去っていくデスマスクの後ろ姿に、シュラは思い切り煙草の煙を吹きかけてやった。
早朝の山中のように厚い靄が立ち込めているのか、白濁した室内の様子はしかとは判じえない。
せめて自分の周囲の状況だけでも手探りで把握しようと試みるが、どんなに力を込めてみてもどういうわけか枷でもかけられたように体の自由が利かなかった。
底知れぬ不安が込み上げる中、それでもシュラは怯みそうになる自分を叱咤し現状理解に努める。
今の自分の感覚を信頼するのならば、硬い寝台らしきものに横たわっているようだった。
かろうじて動く首だけを廻らしてみると、シュラの目覚めを待ちかねていたかのように、靄の一角がにわかに動きをみせ始めた。
古の預言者を前に忽然と海が割れたとかいう伝承のように、靄は左右に吸い取られるごとく消えていき、合間に道ができていく。
そうして作られた狭い通い路を、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる人の姿があった。
鮮麗な色彩を誇る人影の正体は、訝しむまでもなくすぐに知れた。
カミュだ。
感情の欠片すら浮かべない真紅の硝子玉のような二つの瞳が、じっとシュラを見据える。
何をする気だ?
問いかけようとするも、からからに乾いた喉から発せられたのは、音にもならない吐息だけだった。
自分に降りかかろうとする運命の意味もわからず、状況を切り抜ける能力も一切奪われた今、シュラは赤子のように無力だ。
極度の緊張と不安に苛まれるシュラから、紅い瞳は一向に視線を逸らそうとはしなかった。
氷のように冷たい瞳に射すくめられ、シュラの背筋がぞくりと凍りついた。
言いようも無い恐怖に息を呑んだところで、シュラは目覚めた。
見慣れた宿営先の部屋だった。
恐る恐る四肢を動かしてみたが、これといって別段支障はない。
だが、不可解な夢からまだ完全には解放してはもらえないらしく、心臓がとくとくと激しく鳴り響いている。
落ちかかる前髪を払おうと無意識に手を持っていくと、額はじっとりと冷たい汗に濡れていた。
嫌な夢だ。
記憶の再現ともいえる夢の残像が脳裏を過ぎり、シュラは執拗に追いかけてくる悪夢から逃れようと頭を振った。
歪みながら消えていくカミュの幻を苦みばしった表情で見送ると、やるせない自己嫌悪のようなものが込み上げてくる。
今朝方のカミュの行動は、自身が思っている以上の衝撃をシュラに与えていたのだろう。
見返りなど求めず親身に世話をしてきた、つもりだった。
いつかは心を開いてくれると、人形の仮面を外し笑顔をみせてくれるときがくると、心の何処かで期待していた。
それがただの偽善的な自己満足でしかなかったことを、シュラはこんな惨めな形で思い知らされたのだ。
カミュにとってシュラは、身体目当てにおためごかしな親切を施す、名もない数多の男の一人に過ぎなかった。
そしてシュラ自身、あのとき確かに狂おしいまでの欲望を覚えたのは、認めたくはないが事実だった。
醜くあさましいシュラの姿を、カミュは蔑むように一瞥した。
その突き刺さるような冷たい視線が、夢の中までつきまとってくるほど怖かったのだ。
嫌々ながらも夢判断に後味の悪い結論を下したシュラは、ようよう起き上がると一つ大きく息をついた。
「よくうなされてたな」
唐突にかけられた声に、びくっと全身が跳ねる。
心配、というよりも揶揄するような声の先を見遣ると、口元をにやりと歪めた男に辿り着いた。
デスマスク。
通称なのか本名なのかすらわからない名で知られた、謎の多い男だった。
代々軍の高官を輩出してきた家系の出だというまことしやかな噂も常に彼の周囲を賑わわせていたが、それもあながち根拠がないというわけでもない。
悪魔の異名を取る厳酷な上官でさえ、陰ではどこか媚びるようにデスマスクに便宜を図っていた。
もっともらしい理由をつけて、こうして士官でもないデスマスクに大部屋ではなく二人部屋を割り当てられていることも、その一つだろう。
とはいえ、何故か初対面から意気投合したおかげで彼の同室者となったシュラとしては、結果的に余禄に預かっているわけだから、その特別待遇に文句を言う筋合いもなかった。
詳しい事情も訊かずに、ただそれがシュラの頼みだというだけで、その人脈と特権を駆使してカミュの薬や食料を調達してくれているのもデスマスクなのだから、尚更だ。
そうはいっても、しんみりと友情の有難さに感じ入るなどといった湿っぽい関係は、自分たちには似合わない。
「うなされてると思ったなら、起こせよ」
シュラの憎まれ口に、デスマスクは調子のよい笑みを浮かべた。
「こないだ起こしてやったら、睡眠の邪魔するなって怒られたからな。俺、素直だろ」
「……素直って言葉の意味、今度辞書で調べてこい」
「ああ、少なくともおまえのことじゃないってことだけは、調べなくてもわかるかな」
寝ぼけた頭が、いつもどおりの軽口の応酬の間に覚醒していく。
全身にまとわりつく夢魔の残滓を振り払おうと、両腕を大きく伸ばしストレッチを繰り返すシュラの目の前に、水の入ったコップが差し出された。
タイミングが良すぎてその気配りに感謝する間もないというのが、デスマスクの行動パターンだった。
もっとも礼を言ったところで、気味悪がられるか他愛もない冗句で返されるのが関の山だろう。
冷たい水を一気に飲み干すことでその心遣いに報いたシュラは、おかげでようやく人心地がついた気がした。
ほっと息を吹き返したようなシュラに、デスマスクは片頬だけで器用に笑ってみせた。
「で、何かお悩み中なわけ?」
「……何の話だ?」
デスマスクは傍らの椅子を引き寄せると行儀悪く逆向きに跨り、背もたれに組んだ両腕を載せた。
「いや、拾った猫に情がわいたかと思ってな」
にやりと笑うデスマスクから、前触れもなく鋭い言葉の矢が放たれた。
虚を突かれたシュラの呼吸が一瞬止まる。
表情を取り繕うこともできず全身を硬直させたシュラの反応がよほど期待通りだったのか、デスマスクはやに下がった笑みを浮かべつつ、すっと手を伸ばしてきた。
シュラの首筋にかすかに冷たい指先が触れ、すぐにまた離れていく。
「どう見ても、おまえのじゃないよな、これ」
悪戯っぽく笑うデスマスクは、シュラの首に張り付いていたらしい髪の毛を摘み上げていた。
色も長さも、シュラの黒く短い髪からは程遠い。
垂れ下がる一筋の紅い長糸越しに、シュラはしばらく無言でデスマスクを見据えた。
「……俺のだって、言ったら?」
ようやく漏らされた感情を抑えた低い声に、デスマスクは大げさに肩を竦めて見せた。
「おまえがそう言うんなら、そうなんだろう、と思うだけ」
「じゃ、そういうことにしといてくれ」
「了解」
蠱惑的に片目を瞑って見せたデスマスクは、芝居がかった仕草でぱっと指を放し、紅い髪をはらりと床に落とした。
その行く末も見届けずに、ポケットから煙草を取り出すと、一本自分用に抜きとり残りを箱ごとシュラに放る。
このあまり触れられたくない話題が終わったと判断してよいものか、迷うシュラは自分も煙草を手にしながら、ちらりとデスマスクに視線を投げた。
煙を吐き出し美味そうに目を細めるデスマスクの表情は、いつも斜に構えた彼には珍しいほど和んで見えた。
「おまえはいい奴だが、真面目過ぎるのが欠点だからな。たまにはこういうのもいいだろう」
「……なんだ、いきなり?」
唐突に下された人物評価に、貰い煙草に火を点けようとしていたシュラは思わず手を止めた。
「もっと楽に生きなさいって。人生一度っきりよ」
訝しげに見返すシュラに、デスマスクはふうっと煙を吐きかけ、からからと笑った。
「まあ、そんな融通の利かない不器用な奴だから、こんな意味のない戦争に参加してるんだろうけどな」
「意味がないって、おい……」
胡散臭い大義名分で飾られた参戦理由は、崇高な精神を唱えば唱うほど真実とはかけ離れていく。
そう理解はしていても、それを言葉に出して認めることは、戦場にいる自分たちの存在理由を真っ向から否定するようなものだった。
苦笑するしかないシュラに、笑いを収めたデスマスクの低い声がさらに追い討ちをかける。
「いい加減、気づいてんじゃないの、おまえも。ここで死んでも、ただの犬死にだって」
デスマスクの瞳が、ほんの一瞬だけ凄惨な光を宿す。
軽佻浮薄な言動の下に巧妙に隠された、デスマスクの暗い心の闇を垣間見てしまった気がした。
だが、それに気づかない振りをしてやるのが、シュラの友人としての情けだ。
雄弁な沈黙を、吐き出した煙草の煙で覆い隠してやると、デスマスクは既にいつもの軽口ばかりを叩く男に戻っていた。
「ま、そういう訳だから、今度の戦闘で、おまえの腕とか足とか、致命傷にならない程度に撃ってやろうかと思って」
「……なんでそういう結論になるんだよ」
物騒な計画をさらりと楽しげに口にするデスマスクに、シュラは呆れて問い返した。
「怪我したら、軍役免除ってことで大手を振って田舎に帰れるぞ。ええっと……、羊飼いだったか、家業?」
「……山羊だ」
「そうそう、それ。田舎なら、猫を連れて帰っても心置きなく飼えるだろうが」
思わせぶりな口調に、シュラはつい誘われて苦笑いを浮かべた。
デスマスクの鋭い洞察力には、いつも舌を巻かされていた。
ここ数週間のシュラの行動を、彼は全く興味がないような顔をしつつも逐一観察していたのだろう。
そして漠然とではあるだろうが、シュラが抱えこんだ秘密の意味に気づいているのだ。
もっとも彼の推測は、大枠は合っているのかもしれないが、根本的な理解の前提が狂っているようだ。
シュラは煙草をふかしつつ、さりげなく訂正を加えた。
「それはそうかもしれんが、猫の方が田舎を……というより、俺を嫌ってるみたいでね」
「……へえ、そんなもんか?」
「そんなもんだ」
期せずして、二人は同時に煙を吐き出した。
空中で出会ったその煙が混じり合って消えていく様を、シュラは目をすがめてみつめていた。
が、すぐに煙がいたく目にしみるような気がして、そっと視線を外す。
「それに、俺が除隊になったら、誰がおまえみたいに無鉄砲な輩の援護をしてくれると思うんだ?」
「……そりゃ考えてなかったな」
いいアイデアだと思ったんだが、と、デスマスクは心底残念そうに舌打ちした。
そして無言のまま煙草を灰皿に押し付けて消すと、しばらく迷った素振りを見せた後、シュラの手から煙草の箱を取り戻す。
二本目の煙草に火を点けながら、デスマスクは何か思い付いたように小さく笑った。
「……しかしよ。おまえ、猫飼いだしてから死にたくなくなったろ?」
よかった、よかったと、デスマスクは小さな子供でもあやすように、いやに優しげに繰り返す。
シュラは不満顔で反駁した。
「昔から死にたいと思ったことは一度もないが?」
「いや、嘘だね。おまえ、ずっと死に場所探してますって目してただろうが。自分で気づかんかった?」
「……ああ、気づかなかった」
それはおまえだろうと、自殺願望の存在を疑わせるような狂気めいた戦闘を繰り広げるのはむしろデスマスクの方だと、言いかけた言葉はシュラの舌先で発せられることもなく溶けていった。
鏡に映る自分の沈んだ瞳を思い起こすと、納得せざるをえなかった。
鏡を見ることさえ厭わしくなる、この感情を失くした暗い瞳の意味を端的に表現するのなら、おそらくデスマスクが指摘した通りなのだろう。
そして、このように明瞭に言語化されたおかげで、シュラは同時に気がついてしまった。
カミュと、そして目の前にいる、この男と。
それはシュラと比較的関わり合いの深い人間が、共通して瞳に宿すものでもあった。
シュラがデスマスクと妙に波長が合ったのは、殊更カミュに入れ込んでしまったのは、そのせいなのかもしれなかった。
おそらく無意識に、シュラは相手の中に自分の闇を見出していたのだろう。
だから、放っておくことができなかった。
カミュを救おうと危険を冒してまで奔走することは、どこかで自分自身の救済の代償行為だったのだ。
「まあ、それだけでも猫に感謝、だ」
一方的に下した結論に満足したようで、デスマスクはそう言い捨てると立ち上がった。
ついで、ふと思い出したようにシュラを見下ろす。
「そうだ、俺、昼飯食いっぱぐれるぞって、おまえを呼びに来たんだった」
「……飯、ねえ……」
額に手をあてたシュラは、自分の体としばらく相談し、食事よりも睡眠の方が優先課題だという結論に達した。
「あまり食欲がないんでな。今日はいらん」
デスマスクは少し意外そうに瞬きを繰り返したが、とりたてて反論しようという気は起きなかったらしい。
「じゃ、俺だけ食堂行って来るかな。……ああ、紅毛の仔猫ちゃんに何か餌いるか?」
「……いや、とりあえずいい。当座の食料は今朝置いてきたから」
ぬけぬけと訊いてくるデスマスクに、やはりぬけぬけとシュラは答えた。
共犯めいたその返事に、デスマスクは煙草をくわえたまま意地の悪い笑みをみせた。
「宝石とか花とか、猫のお気に召しそうなキレイな餌も調達できるが、どうする?」
「……うるさい」
からかうように手を振りながら去っていくデスマスクの後ろ姿に、シュラは思い切り煙草の煙を吹きかけてやった。