大粒の雨が陰鬱な音を立てて窓を叩き続ける。
雨に濡れる硝子窓に映る自分の顔に向かい、デスマスクは紫煙を吐きかけた。
嫌な雨だ。
二年前、カミュにシュラの死を告げたときも、こんな激しい雨が降っていた。
記憶に鮮明に刻み込まれたあの重苦しい情景に引き戻そうとするような雨音に、デスマスクはわずかに口元を歪める。
過去に戻る必要など、どこにもなかった。
久々にこの哀しい思い出に沈む街を訪れた理由は、過去ではなく現在を見据えるためだ。
親友の忘れ形見の行く末は、戦時中からずっとデスマスクの心の片隅を占める懸念事項だった。
本人がそれを望まなかったとはいえ、親友の遺志を継ぎ彼を保護しなかった自分を、デスマスクはどこかで責め続けていたのかもしれない。
罪悪感にも似た感情は日増しに増大し、だが再会して互いに辛い記憶を掘り起こすのも躊躇われ、結局デスマスクが重い腰を上げたのは終戦後しばらくしてからのことだった。
現在のこの平穏を取り戻しつつある街でなら、デスマスクがカミュのためにしてやれることも何か一つくらいあるかもしれない。
そう思ってここまで足を運んだのだが、その意欲を嘲笑うかのように捜し人の消息はようとして知れなかった。
真紅の髪と瞳という人目を引く容貌だからすぐにわかるだろう、などという楽観的な思惑は見事に外れ、途方にくれたデスマスクが思案の挙句辿り着いたのがこの娼館だった。
思えば、自分はあまりにカミュを知らない。
だが、シュラの性格は我がことのように理解していた。
カミュの素性に関し殊更に言葉を濁し多くを語らなかったシュラの表情と、実際にカミュに会ってみての印象から、彼が光の当たる世界の住人ではなかったことは推察できた。
そこで捜索範囲を歓楽街に絞り聞き込みを重ねたところ、ようやく属する娼妓の名をギリシャ神話にちなんで名づけるという館の情報を得たのだ。
出会った当初、カミュがシュラに名乗ったという唯一の名は、ガニュメデス。
神話の美少年を指すその名からも、この娼館にカミュがいたことは恐らく間違いないだろう。
ここになら、現在のカミュを知る人物の一人くらいいてもおかしくはない。
それが証拠に、ガニュメデスの名を口にするや、館の使用人は不審気な表情を浮かべつつもデスマスクを奥の一間に通してくれたのだ。
そのまま待たされて、一体どれほどの時間が経ったろう。
まだ客を取るには早いはずの時間帯だったが、すぐにはこちらに出向けない事情があるのか、それとも自分の訪問は歓迎されざるものなのか。
いずれにせよ、答えはじきにわかることだ。
何本目かの煙草を灰にしながら、デスマスクは一人待ち続けた。
やがて雨音に紛れ、小さく扉をノックする音がした。
振り返ったデスマスクは、返事も待たずに室内に身体を滑り込ませた人物の姿にわずかに目を見張った。
客商売らしからぬ無作法に戸惑ったからではない。
突然入ってきた青年が思いがけずにあまりに華やかな美貌の持ち主だったというだけだ。
「ガニュメデスを捜しているというのは、あなた?」
「……そうだが、あんたは?」
「私はアフロディーテ。お見知りおきを」
艶やかな唇を綻ばせ、突如現れた青年はそう名乗った。
美の女神の名を称するからには、この娼館随一の美形ということだろう。
豊かな金髪を波打たせ嫣然と微笑むその姿をみれば、その推測の正しさは疑いようもなかった。
勧められもしないのに長椅子に腰を下ろしたアフロディーテは、身振りでデスマスクにも椅子を促す。
話が長くなる、ということか。
何故だか胸騒ぎを覚えたが、折角手繰り寄せたカミュに繋がる貴重な手がかりから逃げ出すわけにもいかない。
覚悟を決めたデスマスクが椅子に身を沈めると、それを見届けたアフロディーテはつと表情を引き締めた。
「……あなたは、シュラ?」
思いがけず耳にした懐かしい名に一瞬虚を突かれたが、デスマスクはかろうじて平静を保った。
「いや、それは俺の親友だ」
「ああ、それじゃ、あなたがお友達さん」
合点がいったようにアフロディーテは頷く。
シュラやその友人である自分のことまで知っているとは、どうやらカミュはこの艶麗な青年には随分と心を許していたらしい。
あの偏屈なカミュにそんな惚気話ができるような友人がいたとは、少々意外ながらも喜ばしいことだ。
思わず微笑を浮かべたデスマスクは、しかし、次の瞬間その表情を凍りつかせた。
友人が、いた 。
なぜ、今、過去形で浮かんだのだろう?
「デスマスクだ。 カミュ、いや、ガニュメデスは……?」
答えを聞くのが無性に怖かった。
訳もなく震えそうになる声が、誰か見知らぬ他人の発したもののように遠くに聞こえた。
アフロディーテはわずかに長い睫を伏せると、小さく息を吐いた。
「……あの子は、死んだよ」
ぽつりと落とされた一言が、鋭利な刃物のようにデスマスクの鼓膜に突き刺さった。
デスマスクがこの街を去り、ちょうど半年程たった頃らしい。
他の街に退避していたアフロディーテが再びこの街に戻ってきたときには、ガニュメデス カミュは娼館から姿を消していたという。
「……あの子を街でみかけたって人もいたから、ああ、堅気に戻れたんだなと喜んでたんだけどさ」
だが、一度苦界に身を落とした人間には、表の世界とは相容れない翳りのようなものがつきまとっているのかもしれない。
どれほど同化しようとあがいても、その努力をせせら笑うように異端としてその存在を浮かび上がらせてしまうのだろう。
数ヵ月後、カミュはひょっこりと館に戻ってきた。
彼自身は何も語らなかったが、そこかしこにうっすらと青痣の残る身体をみれば、事情は知れた。
恐らくは、どこからともなく男娼という過去を嗅ぎつけた不埒な輩に蹂躙されたのだ。
痛々しい傷跡は、それが一人の仕業などではなく、また一度きりなどという生易しい類のものでもないことを告げていた。
「ひょっとしたら、館の差し金なのかもしれないんだけどね。あの子、愛想はないけど、それなりに稼ぐ子だったから」
アフロディーテは形のよい眉を顰めつつ耳に痛い話を淡々と続ける。
真相はわからない。
だが、少なくとも館の保護を受けていれば暴力で虐げられることはないと、追いつめられた挙句そう考えたとしても不思議はないだろう。
結果、カミュが館へ戻る決意を固めたのは確かだった。
「……悔しかったと思うよ。結局、ここから脱け出せなかったんだから」
無理もないけどね、と呟くアフロディーテの声には、どこか自嘲的な響きが込められていた。
同じような経験を、したのかもしれない。
デスマスクは漠然とそんなことを思いつつ、アフロディーテの端正な横顔をみつめた。
何かを振り払おうとでもするように軽く頭を揺らしたアフロディーテは、述懐を続けた。
「もともと口数の少ない子だったけど、帰ってきてからはまた一層無口になっててね」
そう言って、思い出したようにくすりと笑う。
「でも、大切そうに抱えてた荷物のことを聞いたら、『恋人ができた』って笑うんだよ。あんなに嬉しそうに笑うガニュメデス、初めてみた」
「荷物……?」
疑問を差し挟むデスマスクに、アフロディーテは微笑を向けた。
「誰かに話したかったんだろうね。話して、記憶を少しでも確かなものにしたかったんだと思う。あなたのこともそのとき教えてもらったんだ」
一旦言葉を切ったアフロディーテは、過去を懐かしむように瞳を細めた。
「あの子が暇さえあれば抱きしめてたのは、軍用の外套と壊れた拳銃だった」
「ああ……」
デスマスクは溜息をついた。
全て、シュラの形見だ。
数少ないシュラの遺品を、カミュはそれほどまでに大切にしていた。
最後に見たカミュの寂しげな微笑が脳裏にまざまざと甦り、鈍い痛みを覚えたデスマスクは我知らず胸を押さえた。
自分の言葉がデスマスクに与えた動揺がいくらか治まるのを待ってくれたのか、しばらく黙っていたアフロディーテはやがて再び言を紡いだ。
「でね、ガニュメデスを贔屓にしてる客がいたんだけどさ。この人が随分と器用な人でね……」
壊れた暖房をいとも簡単に直してしまう様子を見たカミュが、銃も直せるかと聞いたらしい。
客に対しても無愛想なカミュが珍しく自分から話しかけてきたのだ。
カミュに執心の客が否と答える訳もなかった。
「ちゃんと撃てるように修理してくれちゃったんだよ。ご丁寧に護身用にって弾丸までくれてね」
「まさか……その銃で」
デスマスクの顔色がみるみる青ざめた。
シュラの形見の銃を壊したのは、デスマスク自身だった。
最後にシュラの手に触れていたものだったから、どうしてもその銃をカミュにやりたかったのだが、それを使って妙な気を起こされでもしたら夢見が悪い。
だから、わざわざ発砲できないように細工を施したのだ。
自分も器用な質だったから、そう簡単には修理などできないように念入りに手を加えたつもりだったのだが、全て無駄だったということか。
一気に蒼白になったデスマスクに、アフロディーテは顔の前で両手を振ってみせた。
「違う、違う。確かに自殺かもしれないけど、銃じゃない」
思わず口走った忌まわしい単語に自分でも愕然としたのか、アフロディーテは慌てたように口許を押さえた。
だが、おかげで話を核心へと進める決意が固まったらしい。
アフロディーテはつと視線を窓の外へ向けた。
「今は暗くてよく見えないけど、あの方角に小高い山があるんだ」
デスマスクは記憶を辿った。
確かに街外れには小山がそびえていた。
それほど勾配は急ではなく、女子供の足でも比較的容易に登れるような丘陵だったはずだ。
「しばらく降り続いた雪がようやく止んで、皆ほっとしてたときだった。突然ガニュメデスがいなくなってね……」
館の使用人たちは総出で行方を捜し、その山中で半ば雪に埋もれたカミュを発見した。
山頂の木々が開け街の全貌を見下ろすことができる所だった。
木の根元にもたれかかり目を閉じたカミュは、まるで眠っているようだったという。
「……凍死……? どうして……」
アフロディーテは肩にかかる長い髪をかきあげ少し寂しげに微笑んだ。
「いなくなる前の日にね、あの子、『銃が直った』ってすごく喜んでたんだ。多分それで死んだ恋人の後を追う許しが下りたとでも思ったんじゃないかな」
「馬鹿な……」
「うん、馬鹿だよね。でも、あの子は銃を使わなかったんだよ」
言葉の意味を量りかね眉根を寄せたデスマスクを、アフロディーテはじっとみつめた。
「もし銃を使って自殺していたら、修理した人間は良心の呵責に苛まれるだろう。多分、銃を直してくれた客を苦しめたくなかったんだよ。あの他人に無関心な子がそんな風に人の心情を思いやれたなんて、何だか褒めてやりたくならないか?」
一旦言葉を切ったアフロディーテは、記憶の情景を遡るように目を細めた。
「それに、すごく綺麗な顔してたんだ。この子でもこんな柔和な表情もできるんだってくらい穏やかでね」
恋人の思い出の品だという外套を着込みしっかりと銃を胸に抱きしめていたあの姿をみたら、怒る気も失せた。
そう呟いたアフロディーテは、再びデスマスクの目を覗き込み、ゆっくりと口を開いた。
「……だから、それでもあの子は幸せだったんだと思う。あなたも責めないであげてくれないか」
非難の対象は、自ら命を絶ったカミュなのか、それとも意に反してでも彼を保護しなかったデスマスク自身なのか。
それはわからなかったし、むしろどちらでもよかった。
無言のまま立ち上がったデスマスクは窓辺へと足を向けた。
窓外の景色はいつの間にやら夜の闇に閉ざされていた。
デスマスクはカミュが旅立ったという山の方角に視線を投げた。
この付近で最も高く天に近い山頂を目指して雪道を歩きながら、カミュは何を考えていたのだろう。
眼下に広がる白い街を眺めながら、最期に何を思っていたのだろう。
しかし、稜線すら宵闇に溶け込んだ山が答えてくれるはずもなく、デスマスクが目にしたのは、硝子窓に映りこんだ自分の顔を大粒の雨が伝い落ちていく様だけだった。
「……よかったら、あなたが知ってるガニュメデスの話を聞かせてほしい。私もあの手のかかる子を結構気に入ってたんだ」
背にかかるアフロディーテの声に、デスマスクは窓をみつめたまま頷いた。
親友と捨て猫が如何にして出会い、心を通わせるようになったのか。
語れば長い話になるだろう。
だが、勢いを増した雨は当分降り止みそうもなく、シュラとカミュの思い出をその友人同士が分かち合う妨げとなる事情など何もなかった。
信心の薄いデスマスクだが、今ばかりは天上の崇高なる存在に感謝を捧げたくなった。
彼らの運命が交錯した数ヶ月の奇跡を大切に記憶に留めようという人間が、自分の他にもいた。
それが、無性に嬉しかった。
「……あいつが、シュラがカミュと出会ったのは……」
デスマスクは静かに口を開いた。
アフロディーテは傾聴するように瞼を閉じた。
その淡々と告げられる夜語りの伴奏を務めようとでもいうのか、雨音は絶え間なく響き続けていた。
雨に濡れる硝子窓に映る自分の顔に向かい、デスマスクは紫煙を吐きかけた。
嫌な雨だ。
二年前、カミュにシュラの死を告げたときも、こんな激しい雨が降っていた。
記憶に鮮明に刻み込まれたあの重苦しい情景に引き戻そうとするような雨音に、デスマスクはわずかに口元を歪める。
過去に戻る必要など、どこにもなかった。
久々にこの哀しい思い出に沈む街を訪れた理由は、過去ではなく現在を見据えるためだ。
親友の忘れ形見の行く末は、戦時中からずっとデスマスクの心の片隅を占める懸念事項だった。
本人がそれを望まなかったとはいえ、親友の遺志を継ぎ彼を保護しなかった自分を、デスマスクはどこかで責め続けていたのかもしれない。
罪悪感にも似た感情は日増しに増大し、だが再会して互いに辛い記憶を掘り起こすのも躊躇われ、結局デスマスクが重い腰を上げたのは終戦後しばらくしてからのことだった。
現在のこの平穏を取り戻しつつある街でなら、デスマスクがカミュのためにしてやれることも何か一つくらいあるかもしれない。
そう思ってここまで足を運んだのだが、その意欲を嘲笑うかのように捜し人の消息はようとして知れなかった。
真紅の髪と瞳という人目を引く容貌だからすぐにわかるだろう、などという楽観的な思惑は見事に外れ、途方にくれたデスマスクが思案の挙句辿り着いたのがこの娼館だった。
思えば、自分はあまりにカミュを知らない。
だが、シュラの性格は我がことのように理解していた。
カミュの素性に関し殊更に言葉を濁し多くを語らなかったシュラの表情と、実際にカミュに会ってみての印象から、彼が光の当たる世界の住人ではなかったことは推察できた。
そこで捜索範囲を歓楽街に絞り聞き込みを重ねたところ、ようやく属する娼妓の名をギリシャ神話にちなんで名づけるという館の情報を得たのだ。
出会った当初、カミュがシュラに名乗ったという唯一の名は、ガニュメデス。
神話の美少年を指すその名からも、この娼館にカミュがいたことは恐らく間違いないだろう。
ここになら、現在のカミュを知る人物の一人くらいいてもおかしくはない。
それが証拠に、ガニュメデスの名を口にするや、館の使用人は不審気な表情を浮かべつつもデスマスクを奥の一間に通してくれたのだ。
そのまま待たされて、一体どれほどの時間が経ったろう。
まだ客を取るには早いはずの時間帯だったが、すぐにはこちらに出向けない事情があるのか、それとも自分の訪問は歓迎されざるものなのか。
いずれにせよ、答えはじきにわかることだ。
何本目かの煙草を灰にしながら、デスマスクは一人待ち続けた。
やがて雨音に紛れ、小さく扉をノックする音がした。
振り返ったデスマスクは、返事も待たずに室内に身体を滑り込ませた人物の姿にわずかに目を見張った。
客商売らしからぬ無作法に戸惑ったからではない。
突然入ってきた青年が思いがけずにあまりに華やかな美貌の持ち主だったというだけだ。
「ガニュメデスを捜しているというのは、あなた?」
「……そうだが、あんたは?」
「私はアフロディーテ。お見知りおきを」
艶やかな唇を綻ばせ、突如現れた青年はそう名乗った。
美の女神の名を称するからには、この娼館随一の美形ということだろう。
豊かな金髪を波打たせ嫣然と微笑むその姿をみれば、その推測の正しさは疑いようもなかった。
勧められもしないのに長椅子に腰を下ろしたアフロディーテは、身振りでデスマスクにも椅子を促す。
話が長くなる、ということか。
何故だか胸騒ぎを覚えたが、折角手繰り寄せたカミュに繋がる貴重な手がかりから逃げ出すわけにもいかない。
覚悟を決めたデスマスクが椅子に身を沈めると、それを見届けたアフロディーテはつと表情を引き締めた。
「……あなたは、シュラ?」
思いがけず耳にした懐かしい名に一瞬虚を突かれたが、デスマスクはかろうじて平静を保った。
「いや、それは俺の親友だ」
「ああ、それじゃ、あなたがお友達さん」
合点がいったようにアフロディーテは頷く。
シュラやその友人である自分のことまで知っているとは、どうやらカミュはこの艶麗な青年には随分と心を許していたらしい。
あの偏屈なカミュにそんな惚気話ができるような友人がいたとは、少々意外ながらも喜ばしいことだ。
思わず微笑を浮かべたデスマスクは、しかし、次の瞬間その表情を凍りつかせた。
友人が、いた
なぜ、今、過去形で浮かんだのだろう?
「デスマスクだ。
答えを聞くのが無性に怖かった。
訳もなく震えそうになる声が、誰か見知らぬ他人の発したもののように遠くに聞こえた。
アフロディーテはわずかに長い睫を伏せると、小さく息を吐いた。
「……あの子は、死んだよ」
ぽつりと落とされた一言が、鋭利な刃物のようにデスマスクの鼓膜に突き刺さった。
デスマスクがこの街を去り、ちょうど半年程たった頃らしい。
他の街に退避していたアフロディーテが再びこの街に戻ってきたときには、ガニュメデス
「……あの子を街でみかけたって人もいたから、ああ、堅気に戻れたんだなと喜んでたんだけどさ」
だが、一度苦界に身を落とした人間には、表の世界とは相容れない翳りのようなものがつきまとっているのかもしれない。
どれほど同化しようとあがいても、その努力をせせら笑うように異端としてその存在を浮かび上がらせてしまうのだろう。
数ヵ月後、カミュはひょっこりと館に戻ってきた。
彼自身は何も語らなかったが、そこかしこにうっすらと青痣の残る身体をみれば、事情は知れた。
恐らくは、どこからともなく男娼という過去を嗅ぎつけた不埒な輩に蹂躙されたのだ。
痛々しい傷跡は、それが一人の仕業などではなく、また一度きりなどという生易しい類のものでもないことを告げていた。
「ひょっとしたら、館の差し金なのかもしれないんだけどね。あの子、愛想はないけど、それなりに稼ぐ子だったから」
アフロディーテは形のよい眉を顰めつつ耳に痛い話を淡々と続ける。
真相はわからない。
だが、少なくとも館の保護を受けていれば暴力で虐げられることはないと、追いつめられた挙句そう考えたとしても不思議はないだろう。
結果、カミュが館へ戻る決意を固めたのは確かだった。
「……悔しかったと思うよ。結局、ここから脱け出せなかったんだから」
無理もないけどね、と呟くアフロディーテの声には、どこか自嘲的な響きが込められていた。
同じような経験を、したのかもしれない。
デスマスクは漠然とそんなことを思いつつ、アフロディーテの端正な横顔をみつめた。
何かを振り払おうとでもするように軽く頭を揺らしたアフロディーテは、述懐を続けた。
「もともと口数の少ない子だったけど、帰ってきてからはまた一層無口になっててね」
そう言って、思い出したようにくすりと笑う。
「でも、大切そうに抱えてた荷物のことを聞いたら、『恋人ができた』って笑うんだよ。あんなに嬉しそうに笑うガニュメデス、初めてみた」
「荷物……?」
疑問を差し挟むデスマスクに、アフロディーテは微笑を向けた。
「誰かに話したかったんだろうね。話して、記憶を少しでも確かなものにしたかったんだと思う。あなたのこともそのとき教えてもらったんだ」
一旦言葉を切ったアフロディーテは、過去を懐かしむように瞳を細めた。
「あの子が暇さえあれば抱きしめてたのは、軍用の外套と壊れた拳銃だった」
「ああ……」
デスマスクは溜息をついた。
全て、シュラの形見だ。
数少ないシュラの遺品を、カミュはそれほどまでに大切にしていた。
最後に見たカミュの寂しげな微笑が脳裏にまざまざと甦り、鈍い痛みを覚えたデスマスクは我知らず胸を押さえた。
自分の言葉がデスマスクに与えた動揺がいくらか治まるのを待ってくれたのか、しばらく黙っていたアフロディーテはやがて再び言を紡いだ。
「でね、ガニュメデスを贔屓にしてる客がいたんだけどさ。この人が随分と器用な人でね……」
壊れた暖房をいとも簡単に直してしまう様子を見たカミュが、銃も直せるかと聞いたらしい。
客に対しても無愛想なカミュが珍しく自分から話しかけてきたのだ。
カミュに執心の客が否と答える訳もなかった。
「ちゃんと撃てるように修理してくれちゃったんだよ。ご丁寧に護身用にって弾丸までくれてね」
「まさか……その銃で」
デスマスクの顔色がみるみる青ざめた。
シュラの形見の銃を壊したのは、デスマスク自身だった。
最後にシュラの手に触れていたものだったから、どうしてもその銃をカミュにやりたかったのだが、それを使って妙な気を起こされでもしたら夢見が悪い。
だから、わざわざ発砲できないように細工を施したのだ。
自分も器用な質だったから、そう簡単には修理などできないように念入りに手を加えたつもりだったのだが、全て無駄だったということか。
一気に蒼白になったデスマスクに、アフロディーテは顔の前で両手を振ってみせた。
「違う、違う。確かに自殺かもしれないけど、銃じゃない」
思わず口走った忌まわしい単語に自分でも愕然としたのか、アフロディーテは慌てたように口許を押さえた。
だが、おかげで話を核心へと進める決意が固まったらしい。
アフロディーテはつと視線を窓の外へ向けた。
「今は暗くてよく見えないけど、あの方角に小高い山があるんだ」
デスマスクは記憶を辿った。
確かに街外れには小山がそびえていた。
それほど勾配は急ではなく、女子供の足でも比較的容易に登れるような丘陵だったはずだ。
「しばらく降り続いた雪がようやく止んで、皆ほっとしてたときだった。突然ガニュメデスがいなくなってね……」
館の使用人たちは総出で行方を捜し、その山中で半ば雪に埋もれたカミュを発見した。
山頂の木々が開け街の全貌を見下ろすことができる所だった。
木の根元にもたれかかり目を閉じたカミュは、まるで眠っているようだったという。
「……凍死……? どうして……」
アフロディーテは肩にかかる長い髪をかきあげ少し寂しげに微笑んだ。
「いなくなる前の日にね、あの子、『銃が直った』ってすごく喜んでたんだ。多分それで死んだ恋人の後を追う許しが下りたとでも思ったんじゃないかな」
「馬鹿な……」
「うん、馬鹿だよね。でも、あの子は銃を使わなかったんだよ」
言葉の意味を量りかね眉根を寄せたデスマスクを、アフロディーテはじっとみつめた。
「もし銃を使って自殺していたら、修理した人間は良心の呵責に苛まれるだろう。多分、銃を直してくれた客を苦しめたくなかったんだよ。あの他人に無関心な子がそんな風に人の心情を思いやれたなんて、何だか褒めてやりたくならないか?」
一旦言葉を切ったアフロディーテは、記憶の情景を遡るように目を細めた。
「それに、すごく綺麗な顔してたんだ。この子でもこんな柔和な表情もできるんだってくらい穏やかでね」
恋人の思い出の品だという外套を着込みしっかりと銃を胸に抱きしめていたあの姿をみたら、怒る気も失せた。
そう呟いたアフロディーテは、再びデスマスクの目を覗き込み、ゆっくりと口を開いた。
「……だから、それでもあの子は幸せだったんだと思う。あなたも責めないであげてくれないか」
非難の対象は、自ら命を絶ったカミュなのか、それとも意に反してでも彼を保護しなかったデスマスク自身なのか。
それはわからなかったし、むしろどちらでもよかった。
無言のまま立ち上がったデスマスクは窓辺へと足を向けた。
窓外の景色はいつの間にやら夜の闇に閉ざされていた。
デスマスクはカミュが旅立ったという山の方角に視線を投げた。
この付近で最も高く天に近い山頂を目指して雪道を歩きながら、カミュは何を考えていたのだろう。
眼下に広がる白い街を眺めながら、最期に何を思っていたのだろう。
しかし、稜線すら宵闇に溶け込んだ山が答えてくれるはずもなく、デスマスクが目にしたのは、硝子窓に映りこんだ自分の顔を大粒の雨が伝い落ちていく様だけだった。
「……よかったら、あなたが知ってるガニュメデスの話を聞かせてほしい。私もあの手のかかる子を結構気に入ってたんだ」
背にかかるアフロディーテの声に、デスマスクは窓をみつめたまま頷いた。
親友と捨て猫が如何にして出会い、心を通わせるようになったのか。
語れば長い話になるだろう。
だが、勢いを増した雨は当分降り止みそうもなく、シュラとカミュの思い出をその友人同士が分かち合う妨げとなる事情など何もなかった。
信心の薄いデスマスクだが、今ばかりは天上の崇高なる存在に感謝を捧げたくなった。
彼らの運命が交錯した数ヶ月の奇跡を大切に記憶に留めようという人間が、自分の他にもいた。
それが、無性に嬉しかった。
「……あいつが、シュラがカミュと出会ったのは……」
デスマスクは静かに口を開いた。
アフロディーテは傾聴するように瞼を閉じた。
その淡々と告げられる夜語りの伴奏を務めようとでもいうのか、雨音は絶え間なく響き続けていた。
END