階段を駆け上がる靴音がけたたましく響く。
普段カミュの元を訪れるときには足音をひそめていたから、この音が階上のカミュを怯えさせていることくらいわかっていた。
だが、足音を忍ばせる余裕など、ない。
「カミュ!」
合図のノックもせずに扉を開けるや性急に叫ぶシュラを、いつものように寝台で膝を抱えていたカミュは怪訝な表情で迎える。
訝しげにみつめるカミュを正面から見返すこともできず、シュラはそっと顔を背けた。
これから伝えようとすることは、決していい知らせではない。
「ここを出ろ。もうじき戦場になる」
室内に残る食糧を手当たり次第に鞄に詰め込みつつ、シュラはぼそりと声を落とした。
できるだけ淡々と告げたつもりだったが、声に孕む緊張は隠しきれなかった。
この戦時下における奇妙に平穏な隠遁生活が長くは続かないことくらい、最初からわかっていた。
夢だったのかもしれない、と、シュラはぼんやり思った。
気紛れな猫のようなカミュに散々振り回され、ひたすらその安否を気遣うことで、自分が戦場にあることすら時には忘れていた。
その猫が心に占める割合が日に日に大きくなり、これが風船だったならたまらず弾け飛んでしまうような限界を迎えたところで、目が醒めた。
どうして楽しい夢は延々と見続けさせてはもらえないのだろう。
やり場のない怒りにも似た感情に、シュラはぎりっと奥歯を噛みしめた。
「他の民間人は郊外に退避中だ。おまえも合流して……」
「……いやだ」
選択の余地のない提案のはずだった。
それなのに返って来たカミュの言葉はあっさりとそれを拒否するもので、思わず手を止めたシュラは顔を上げた。
いつの間にやらそば近くまで来ていたカミュは、じっとシュラをみつめて繰り返した。
「いやだ、私はここにいる」
「カミュ……」
「ここにいたなら、またシュラにみつけてもらえる。だから、ここに残る」
迷いのない声だった。
一人の時間をもてあました挙句、いつかこんな日が来ることを想定し既に決意を固めていたのかもしれない。
再び街が戦場になろうと留まる方を選べるほどに、カミュにとってはこの隠れ家こそが安息の地だったのだ。
時折訪れる者といえばシュラだけで、いいように他人に侵害されることのない空間と時間はカミュを繭のように優しく包み込んでいたのだろう。
次第に緊迫していく殺伐とした状況の中、そのような穏やかな世界をカミュに与えてやれたことに、ほのかな喜びを感じないではなかった。
だが。
「カミュ」
シュラは静かにカミュの名を呼んだ。
穏やかな声音に何かを感じとったか、カミュはわずかにたじろぐ。
相手の動向に注意を払うなど、何物もその瞳に映さなかったかつてのカミュからは想像もできない反応だ。
ふっと口元を緩めたシュラは、おもむろに着ている外套を脱ぐとそっとカミュの背を包み込んだ。
せめて隠れ家の代わりにカミュを守ってくれる何かを与えてやりたかった。
「頼む」
威圧的とは程遠い声音にも関わらず、たっぷりと想いを込めた請願は逆らいがたい命令として受け止めてもらえたらしい。
きゅっと下唇を噛みしめたカミュは、やがて外套の前をきつく合わせた。
「……わかった」
短い答えの後、外套ごと握りしめた手にさらに力が込められる。
「その代わり、これ、借りてもいいか」
……必ず返すから。
そうぽつりと呟いたカミュはシュラの瞳を覗き込む。
ただの貸し借りの約束などではないと、その紅い瞳はシュラに強く訴えかけていた。
返還には、借主貸主双方の存在が不可欠だ。
必ず返すから必ず受け取れと、絶対に生きて再会しようと、カミュは言外にそう求めているのだ。
「わかった。じゃ、契約成立だな。必ず返せよ」
殊更に何気ない風を装い小さく笑ったシュラは、ぽんとカミュの肩を叩いた。
その手が、ぎゅっと掴まれ引き寄せられる。
「……必ず」
短いが重い一言を囁いたカミュは、シュラを真っ直ぐみつめたままわずかに爪先立ち二人の距離を縮めた。
意図を察したシュラもまたそっと顔を近づける。
かるく頬に口付けたシュラが再び離れると、不服そうに口を尖らせるカミュと目が合った。
シュラは笑った。
「今度会ったら、ちゃんとキスしような」
「お預けということか」
「その方が、また会おうという気になるだろう?」
「……随分と私は信用がないらしいな」
不満げな表情を浮かべていたカミュは、やがて揶揄するように嫣然と微笑んだ。
「そのかわり、再会の暁には濃厚なのを期待させてもらうからな」
「……努力しよう」
肩をすくめたシュラが手を差し出すと、カミュはそっと握ってきた。
迷い子が縋るべき手をみつけたようなその精一杯の握力が愛しくて、シュラもまたぎゅっと握り返してやった。
「じゃ、行くぞ」
シュラの言葉に無言で頷いたカミュは、ようやく足を踏み出した。
先導者への厚い信頼を窺わせるように、その足取りはゆるぎないものだった。
激しい雨の音が耳を打つ。
だが、皆口に出さずとも、この長雨を歓迎していることは確かだった。
この降り続く雨は、禍々しく血に濡れた大地を洗い流そうとする天恵なのだ。
激闘の末敵軍の侵攻を食い止めた駐留軍は、雨が止み次第、新たに派遣された支援部隊と共に反撃に転ずることとなっていた。
一挙に数を減らした軍人たちは天が与えたもうた束の間の休息に心身を委ねていたのだが、その中に一人、民間人収容所に出向く人物の姿があった。
疲れきった表情でうなだれる民間人の中からある人物を別室に呼び出すよう、監理官に伝える。
やがて突然の召喚に応じ扉を開けた人物は、戸口に背を向けて待つ軍人の姿に全ての事情を悟ったらしい。
背中越しに息を呑む気配を痛いほどに感じた軍人は、覚悟を決める時間をたっぷり与えてやろうと、殊更にゆっくりと振り返った。
「……悪いな」
「……いえ」
奇妙なほどに静かなカミュの声を、デスマスクは沈痛な面持ちで聞いた。
促されるままに椅子に腰を下ろしたカミュの前に、デスマスクはごとりと音を立てて拳銃を置いた。
無表情のまま見上げてくるカミュから目を逸らしつつ、乾いた唇を開く。
「おまえにやるよ。あいつが最後に手にしてた銃だ」
撃鉄を起こせないようちょっと細工させてもらったがな、と告げる言葉が、彼の耳に届いているのかは定かでなかった。
およそそれが殺傷能力の高い武器だとは思えないような愛しげな手つきで、カミュはその銃を大切そうに撫で続ける。
デスマスクはその姿を視界に入れないよう、そっと瞳を伏せた。
「……塹壕にいたんだ」
忘れてしまいたい記憶を辿りつつ、淡々と述懐する。
辛い役目だが、これが彼の親友として自分にできるせめてものことであると、自分にはその義務があるとわかっていた。
「夜、まだ暗いうちでな……」
世界が違うことを痛感させられるようにひどく平穏な光を放つ星々を見上げながら、部隊は塹壕で夜を過ごしていた。
夜明けともなれば、ここは再び弾丸が飛び交う戦場となる。
いつ命を落とすともしれない状況下で、少しでも体を休めようと目を閉じる者、異様な昂揚感に襲われのべつ幕なく話し続ける者など、皆狭い空間にひしめき合いながら思い思いに過ごしていた。
自分たちに関して言うならば、デスマスクは後者、シュラは前者だった。
気乗りのしない相槌をシュラに打たせ続けるのもいささか気の毒になり、デスマスクはのそりと立ち上がった。
「ちょっと、見張りがてら辺りを散歩してくる」
「今からか?」
特別待遇が黙認されているデスマスクとはいえ、この突飛な行動は流石にシュラを驚かせたようだ。
呆れ声のシュラに、デスマスクは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。
「ついて来なくていいぞ。ま、おまえは愛しい仔猫の夢でもみとけ」
「ああ、そうさせてもらおう」
からかわれることにももう慣れてしまったのか、平然とそう言ってのけたシュラはごそごそとうごめくと何やら取り出した。
「一応、持ってけ。俺にはこれがあるから」
傍らの小銃を顎で示したシュラの手には、拳銃が握られていた。
確かに敵の斥候と遭遇する危険は絶無とは言えない以上、手にする武器が多いに越したことがなかった。
「ああ、じゃ、ご好意に甘えて借りとくかな」
「そうしろ。少なくともおまえの銃よりは手入れが行き届いているはずだ」
「はいはい、さようで」
憎まれ口で隠された心配性の友人らしい配慮は、くすぐったくもありがたい。
シュラの心遣いをしかと受け取ったデスマスクは、状況にそぐわない妙に温かな気分でその場を後にした。
それが、運命の分かれ目だった。
「……ほんの数分後だったよ。凄まじい爆撃音がして振り返ると、塹壕は跡形もなくなってた。以来、ほとんどの仲間が消息不明だ」
デスマスクは一息に言い放った。
陰鬱な事実をそれ以上詳細に語ることなど、できなかった。
「……そうか」
ぽつりと呟いたカミュが銃を握り締める様が、視界の端に映る。
それに気付かない振りをしたデスマスクは再びカミュに向き直った。
「……で、これからのことなんだが、おまえはどうする?」
「どうする、とは?」
「俺はもうすぐ移動になるんでな、悪いがもうおまえの面倒はみてやれんのよ」
だが、親友の愛した人を、そのまま見捨てていくほどに非情にもなりきれない。
デスマスクは早口で言葉を繋いだ。
「正直言ってこの街に残るのは勧められん。どこか他に行きたいところがあれば、便宜を図るが」
どこか、という単語に強勢を置いたのは、かつての想い人の存在をそこに感じ取ってくれればいいと思ったためだ。
少なくともシュラの話を聞く限り、サガ上級大将は喜んでカミュを庇護してくれることだろう。
カミュを慈しんでくれるのであれば、たとえそれが自分でなくてもシュラは少しも気にしないはずだ。
親友は、そういう男だった。
だから、思案の挙句それが最善の策だという結論に達したのだが、その思惑はあっけなく打ち崩される。
「……ありがとう」
小さく呟いたカミュは、ゆっくりと顔を上げた。
「だが、遠慮する。私はこの街に留まろうと思う」
「……ここは危険だって言ってんだよ」
言葉の裏に込めた配慮はいかほど伝わっているのか。
かつてシュラが味わわされていたのと同種の苛立ちを覚えたデスマスクはわずかに顔を歪めた。
が、カミュはデスマスクの表情など気にした風もなくにこりと笑う。
「危険かもしれないが、私はここでシュラと出会ったのだ。せめて思い出と生きることくらい許されてもいいだろう」
そうさらりと告げる真紅の瞳には強い光が宿っていた。
柔らかい口調とは裏腹に強固な意志を湛えた瞳は、一歩も引くまいとデスマスクに挑みかかるようだった。
「……そうか」
デスマスクは小さく息を吐いた。
シュラがカミュを評して気紛れで頑固な猫だと苦笑していた、その気持ちがよくわかる。
無理に説得しようとは、どうしても思えなかった。
「じゃ、こっちの方で書類いじって、形式的にも他の民間人に紛れ込ませとくから。ちょっとこれに記入してくれ」
どこかでこんな展開を予測していたのだろう。
我ながら感心する手際のよさに苦笑を浮かべつつ、デスマスクは一枚の紙を机上に置いた。
氏名や生年月日等の記入欄が整然と並ぶ、民間人管理用の登録原簿用紙だ。
ペンを差し出してやると、カミュは興味なさげな一瞥を与え首を振った。
「名はカミュ。あとはそちらで適当に埋めておいてくれ」
「適当にって……な」
あまりに人を喰った返事に片頬を引きつらせたデスマスクは、思わず荒ぶりそうになる声を懸命に抑えた。
「大体そのカミュって名だって、シュラが思いつきで名づけたもんだろうが」
「……そうかもしれないな」
カミュは怯んだ様子もなく微笑んだ。
「だが、シュラに出会って私は生まれ変わったんだ。だから……」
「……そうか」
言葉を中途で遮り、デスマスクは小さく息を吐いた。
過去の自分の記録は、何一つ必要ない。
この我侭は、全てを捨てて新しく一人の人間として人生をやり直そうとする、その決意表明ということか。
シュラが救ったのは、ただカミュの生命というだけではないらしい。
ほんの少し、シュラが羨ましくなった。
「じゃ、七百歳とかにしとくからな」
「別に構わないが」
軽口をにこりと笑って受け流すカミュに、デスマスクもまた笑みを返すと、ついですっと表情を引き締めた。
「……ありがとな、カミュ」
シュラを愛してくれて。
デスマスクはそっと口の中で呟いた。
シュラもまたカミュに出会って変わったことを、デスマスクはよく知っていた。
ひどく厭世的だったシュラが楽しそうに未来を語るようになったのは、偏にカミュのおかげだ。
「……礼を言うのは私の方だ」
瞳を伏せたカミュは静かに首を横に振った。
その瞳の端が、わずかに濡れて光っているように見えた。
普段カミュの元を訪れるときには足音をひそめていたから、この音が階上のカミュを怯えさせていることくらいわかっていた。
だが、足音を忍ばせる余裕など、ない。
「カミュ!」
合図のノックもせずに扉を開けるや性急に叫ぶシュラを、いつものように寝台で膝を抱えていたカミュは怪訝な表情で迎える。
訝しげにみつめるカミュを正面から見返すこともできず、シュラはそっと顔を背けた。
これから伝えようとすることは、決していい知らせではない。
「ここを出ろ。もうじき戦場になる」
室内に残る食糧を手当たり次第に鞄に詰め込みつつ、シュラはぼそりと声を落とした。
できるだけ淡々と告げたつもりだったが、声に孕む緊張は隠しきれなかった。
この戦時下における奇妙に平穏な隠遁生活が長くは続かないことくらい、最初からわかっていた。
夢だったのかもしれない、と、シュラはぼんやり思った。
気紛れな猫のようなカミュに散々振り回され、ひたすらその安否を気遣うことで、自分が戦場にあることすら時には忘れていた。
その猫が心に占める割合が日に日に大きくなり、これが風船だったならたまらず弾け飛んでしまうような限界を迎えたところで、目が醒めた。
どうして楽しい夢は延々と見続けさせてはもらえないのだろう。
やり場のない怒りにも似た感情に、シュラはぎりっと奥歯を噛みしめた。
「他の民間人は郊外に退避中だ。おまえも合流して……」
「……いやだ」
選択の余地のない提案のはずだった。
それなのに返って来たカミュの言葉はあっさりとそれを拒否するもので、思わず手を止めたシュラは顔を上げた。
いつの間にやらそば近くまで来ていたカミュは、じっとシュラをみつめて繰り返した。
「いやだ、私はここにいる」
「カミュ……」
「ここにいたなら、またシュラにみつけてもらえる。だから、ここに残る」
迷いのない声だった。
一人の時間をもてあました挙句、いつかこんな日が来ることを想定し既に決意を固めていたのかもしれない。
再び街が戦場になろうと留まる方を選べるほどに、カミュにとってはこの隠れ家こそが安息の地だったのだ。
時折訪れる者といえばシュラだけで、いいように他人に侵害されることのない空間と時間はカミュを繭のように優しく包み込んでいたのだろう。
次第に緊迫していく殺伐とした状況の中、そのような穏やかな世界をカミュに与えてやれたことに、ほのかな喜びを感じないではなかった。
だが。
「カミュ」
シュラは静かにカミュの名を呼んだ。
穏やかな声音に何かを感じとったか、カミュはわずかにたじろぐ。
相手の動向に注意を払うなど、何物もその瞳に映さなかったかつてのカミュからは想像もできない反応だ。
ふっと口元を緩めたシュラは、おもむろに着ている外套を脱ぐとそっとカミュの背を包み込んだ。
せめて隠れ家の代わりにカミュを守ってくれる何かを与えてやりたかった。
「頼む」
威圧的とは程遠い声音にも関わらず、たっぷりと想いを込めた請願は逆らいがたい命令として受け止めてもらえたらしい。
きゅっと下唇を噛みしめたカミュは、やがて外套の前をきつく合わせた。
「……わかった」
短い答えの後、外套ごと握りしめた手にさらに力が込められる。
「その代わり、これ、借りてもいいか」
……必ず返すから。
そうぽつりと呟いたカミュはシュラの瞳を覗き込む。
ただの貸し借りの約束などではないと、その紅い瞳はシュラに強く訴えかけていた。
返還には、借主貸主双方の存在が不可欠だ。
必ず返すから必ず受け取れと、絶対に生きて再会しようと、カミュは言外にそう求めているのだ。
「わかった。じゃ、契約成立だな。必ず返せよ」
殊更に何気ない風を装い小さく笑ったシュラは、ぽんとカミュの肩を叩いた。
その手が、ぎゅっと掴まれ引き寄せられる。
「……必ず」
短いが重い一言を囁いたカミュは、シュラを真っ直ぐみつめたままわずかに爪先立ち二人の距離を縮めた。
意図を察したシュラもまたそっと顔を近づける。
かるく頬に口付けたシュラが再び離れると、不服そうに口を尖らせるカミュと目が合った。
シュラは笑った。
「今度会ったら、ちゃんとキスしような」
「お預けということか」
「その方が、また会おうという気になるだろう?」
「……随分と私は信用がないらしいな」
不満げな表情を浮かべていたカミュは、やがて揶揄するように嫣然と微笑んだ。
「そのかわり、再会の暁には濃厚なのを期待させてもらうからな」
「……努力しよう」
肩をすくめたシュラが手を差し出すと、カミュはそっと握ってきた。
迷い子が縋るべき手をみつけたようなその精一杯の握力が愛しくて、シュラもまたぎゅっと握り返してやった。
「じゃ、行くぞ」
シュラの言葉に無言で頷いたカミュは、ようやく足を踏み出した。
先導者への厚い信頼を窺わせるように、その足取りはゆるぎないものだった。
激しい雨の音が耳を打つ。
だが、皆口に出さずとも、この長雨を歓迎していることは確かだった。
この降り続く雨は、禍々しく血に濡れた大地を洗い流そうとする天恵なのだ。
激闘の末敵軍の侵攻を食い止めた駐留軍は、雨が止み次第、新たに派遣された支援部隊と共に反撃に転ずることとなっていた。
一挙に数を減らした軍人たちは天が与えたもうた束の間の休息に心身を委ねていたのだが、その中に一人、民間人収容所に出向く人物の姿があった。
疲れきった表情でうなだれる民間人の中からある人物を別室に呼び出すよう、監理官に伝える。
やがて突然の召喚に応じ扉を開けた人物は、戸口に背を向けて待つ軍人の姿に全ての事情を悟ったらしい。
背中越しに息を呑む気配を痛いほどに感じた軍人は、覚悟を決める時間をたっぷり与えてやろうと、殊更にゆっくりと振り返った。
「……悪いな」
「……いえ」
奇妙なほどに静かなカミュの声を、デスマスクは沈痛な面持ちで聞いた。
促されるままに椅子に腰を下ろしたカミュの前に、デスマスクはごとりと音を立てて拳銃を置いた。
無表情のまま見上げてくるカミュから目を逸らしつつ、乾いた唇を開く。
「おまえにやるよ。あいつが最後に手にしてた銃だ」
撃鉄を起こせないようちょっと細工させてもらったがな、と告げる言葉が、彼の耳に届いているのかは定かでなかった。
およそそれが殺傷能力の高い武器だとは思えないような愛しげな手つきで、カミュはその銃を大切そうに撫で続ける。
デスマスクはその姿を視界に入れないよう、そっと瞳を伏せた。
「……塹壕にいたんだ」
忘れてしまいたい記憶を辿りつつ、淡々と述懐する。
辛い役目だが、これが彼の親友として自分にできるせめてものことであると、自分にはその義務があるとわかっていた。
「夜、まだ暗いうちでな……」
世界が違うことを痛感させられるようにひどく平穏な光を放つ星々を見上げながら、部隊は塹壕で夜を過ごしていた。
夜明けともなれば、ここは再び弾丸が飛び交う戦場となる。
いつ命を落とすともしれない状況下で、少しでも体を休めようと目を閉じる者、異様な昂揚感に襲われのべつ幕なく話し続ける者など、皆狭い空間にひしめき合いながら思い思いに過ごしていた。
自分たちに関して言うならば、デスマスクは後者、シュラは前者だった。
気乗りのしない相槌をシュラに打たせ続けるのもいささか気の毒になり、デスマスクはのそりと立ち上がった。
「ちょっと、見張りがてら辺りを散歩してくる」
「今からか?」
特別待遇が黙認されているデスマスクとはいえ、この突飛な行動は流石にシュラを驚かせたようだ。
呆れ声のシュラに、デスマスクは悪戯っぽく片目をつぶってみせた。
「ついて来なくていいぞ。ま、おまえは愛しい仔猫の夢でもみとけ」
「ああ、そうさせてもらおう」
からかわれることにももう慣れてしまったのか、平然とそう言ってのけたシュラはごそごそとうごめくと何やら取り出した。
「一応、持ってけ。俺にはこれがあるから」
傍らの小銃を顎で示したシュラの手には、拳銃が握られていた。
確かに敵の斥候と遭遇する危険は絶無とは言えない以上、手にする武器が多いに越したことがなかった。
「ああ、じゃ、ご好意に甘えて借りとくかな」
「そうしろ。少なくともおまえの銃よりは手入れが行き届いているはずだ」
「はいはい、さようで」
憎まれ口で隠された心配性の友人らしい配慮は、くすぐったくもありがたい。
シュラの心遣いをしかと受け取ったデスマスクは、状況にそぐわない妙に温かな気分でその場を後にした。
それが、運命の分かれ目だった。
「……ほんの数分後だったよ。凄まじい爆撃音がして振り返ると、塹壕は跡形もなくなってた。以来、ほとんどの仲間が消息不明だ」
デスマスクは一息に言い放った。
陰鬱な事実をそれ以上詳細に語ることなど、できなかった。
「……そうか」
ぽつりと呟いたカミュが銃を握り締める様が、視界の端に映る。
それに気付かない振りをしたデスマスクは再びカミュに向き直った。
「……で、これからのことなんだが、おまえはどうする?」
「どうする、とは?」
「俺はもうすぐ移動になるんでな、悪いがもうおまえの面倒はみてやれんのよ」
だが、親友の愛した人を、そのまま見捨てていくほどに非情にもなりきれない。
デスマスクは早口で言葉を繋いだ。
「正直言ってこの街に残るのは勧められん。どこか他に行きたいところがあれば、便宜を図るが」
どこか、という単語に強勢を置いたのは、かつての想い人の存在をそこに感じ取ってくれればいいと思ったためだ。
少なくともシュラの話を聞く限り、サガ上級大将は喜んでカミュを庇護してくれることだろう。
カミュを慈しんでくれるのであれば、たとえそれが自分でなくてもシュラは少しも気にしないはずだ。
親友は、そういう男だった。
だから、思案の挙句それが最善の策だという結論に達したのだが、その思惑はあっけなく打ち崩される。
「……ありがとう」
小さく呟いたカミュは、ゆっくりと顔を上げた。
「だが、遠慮する。私はこの街に留まろうと思う」
「……ここは危険だって言ってんだよ」
言葉の裏に込めた配慮はいかほど伝わっているのか。
かつてシュラが味わわされていたのと同種の苛立ちを覚えたデスマスクはわずかに顔を歪めた。
が、カミュはデスマスクの表情など気にした風もなくにこりと笑う。
「危険かもしれないが、私はここでシュラと出会ったのだ。せめて思い出と生きることくらい許されてもいいだろう」
そうさらりと告げる真紅の瞳には強い光が宿っていた。
柔らかい口調とは裏腹に強固な意志を湛えた瞳は、一歩も引くまいとデスマスクに挑みかかるようだった。
「……そうか」
デスマスクは小さく息を吐いた。
シュラがカミュを評して気紛れで頑固な猫だと苦笑していた、その気持ちがよくわかる。
無理に説得しようとは、どうしても思えなかった。
「じゃ、こっちの方で書類いじって、形式的にも他の民間人に紛れ込ませとくから。ちょっとこれに記入してくれ」
どこかでこんな展開を予測していたのだろう。
我ながら感心する手際のよさに苦笑を浮かべつつ、デスマスクは一枚の紙を机上に置いた。
氏名や生年月日等の記入欄が整然と並ぶ、民間人管理用の登録原簿用紙だ。
ペンを差し出してやると、カミュは興味なさげな一瞥を与え首を振った。
「名はカミュ。あとはそちらで適当に埋めておいてくれ」
「適当にって……な」
あまりに人を喰った返事に片頬を引きつらせたデスマスクは、思わず荒ぶりそうになる声を懸命に抑えた。
「大体そのカミュって名だって、シュラが思いつきで名づけたもんだろうが」
「……そうかもしれないな」
カミュは怯んだ様子もなく微笑んだ。
「だが、シュラに出会って私は生まれ変わったんだ。だから……」
「……そうか」
言葉を中途で遮り、デスマスクは小さく息を吐いた。
過去の自分の記録は、何一つ必要ない。
この我侭は、全てを捨てて新しく一人の人間として人生をやり直そうとする、その決意表明ということか。
シュラが救ったのは、ただカミュの生命というだけではないらしい。
ほんの少し、シュラが羨ましくなった。
「じゃ、七百歳とかにしとくからな」
「別に構わないが」
軽口をにこりと笑って受け流すカミュに、デスマスクもまた笑みを返すと、ついですっと表情を引き締めた。
「……ありがとな、カミュ」
デスマスクはそっと口の中で呟いた。
シュラもまたカミュに出会って変わったことを、デスマスクはよく知っていた。
ひどく厭世的だったシュラが楽しそうに未来を語るようになったのは、偏にカミュのおかげだ。
「……礼を言うのは私の方だ」
瞳を伏せたカミュは静かに首を横に振った。
その瞳の端が、わずかに濡れて光っているように見えた。