無憂宮
 奇跡的に保たれた均衡が崩れることを恐れるように、互いに身じろぎ一つできなかった。
 呼吸すら憚るように息をつめ、怯えにも似た視線だけを絡み合わせたまま、いくばくかの時が流れる。
 緊張を孕んだ重苦しい沈黙を破ったのは、やはりその原因を作り出した方だった。
 「……すまない。あなたの名は忘れるから、あなたも今の会話は忘れてくれ」
 か細い呟きを落としたカミュは、刻み込まれた記憶を振り落とそうとでもするかのように、何度も何度も頭を振る。
 長い髪を振り乱し激しく身を震わせるカミュを、シュラは呆然とみつめた。
 「カミュ……」
 「……やはりあのとき死なせてくれればよかったのだ。どうして私の前に現れた!」
 声をかけるシュラを撥ねつけるように、カミュは真紅の瞳を燃え立たせ鋭く睨みつける。
 「やっとあの人の名を忘れられたというのに。記憶を消すのに私がどれほど苦労したか、あなたは知らないだろう!」
 激情をぶつけるようにそう言い放ったカミュは、思わず口走った自分の理不尽な物言いにようやく我に返ったのか、続いてぽつりと声を落とした。
 「……酷いな、また私にあんな思いをしろと言うのか」
 カミュは虚ろな微笑を浮かべた。
 かなり無理をしてその仮面を被っていることは、暗く沈む瞳から容易に知れた。
 「カミュ」
 シュラはもう一度、心を込めてカミュの名を呼んだ。
 穏やかで優しいその声音が効を奏したか、怯えた小動物のような瞳でカミュはおずおずとシュラを見返す。
 その紅い瞳をじっとみつめながら、シュラはゆっくりとカミュに手を伸ばした。
 頬に指先が触れるや、カミュはびくりと身を竦め顔を背ける。
 明白な拒絶の仕草に構わず、シュラはカミュの頬を両手で挟みこむと静かに問うた。
 「……おまえは、俺の名を忘れたいのか」
 答える代わりに、自分を拘束する手から何とかして逃れようと、カミュはもがく。
 シュラはぐっと手に力を込め、俯こうとするカミュの顔を無理矢理上向かせると、惑いに揺れる紅い瞳をじっと覗き込んだ。
 「俺は、覚えていてもらいたい」
 うるさいほどに高鳴る心臓の音が漏れ聞こえているかもしれないが、それでも構わなかった。
 ささやかなようですこぶる贅沢なこの願いがいかに真摯なものか、少しでも伝えることができるなら、それを恥とは思わなかった。
 「記憶を無駄にさせるようなことはしないから、だから、このまま覚えていてくれないか」
 返事はなかった。
 言葉がその意識に届いたのか不安になるほどに、カミュはシュラの眼差しをそのまま跳ね返そうとするごとく、ただ無表情にみつめ返すだけだった。
 やがて、沈黙が永遠に続くかとすら思われ始めた頃、カミュは小さく息を吐いた。
 「……放してくれないか。頭が痛い」
 カミュの頬に伸ばした手に、夢中になるあまり思わず必要以上に力が入ってしまっていたらしい。
 慌てたシュラが手を放すと、カミュは仏頂面のままかるく頭をさすった。
 「……馬鹿力。思いきり締め付けてくれたな」
 不機嫌そうに吐き捨てたカミュは、ついで何事もなかったように薄く笑う。
 「別に気を使ってくれなくていい。あなたの名を覚えてしまったのは、ただの私のミスだ」
 「……ミス、ねえ」
 シュラにしてみれば真剣な告白のつもりだったのだが、ようやく得られた返答はあまりに予想外の方向に突き抜けていて、怒りを通り越して苦笑が込み上げてきた。
 「何がおかしい?」
 「いや、じゃ、これもミスかな、と思って」
 思わせぶりに一旦言葉を切りちらりと横目で見遣ると、カミュは好奇心に負けたようで続きが気になって仕方がないという顔をしていた。
 思惑通りの反応に密かに満足したシュラは、続く言葉をさりげなく落とした。
 「この戦争が終わったら、おまえを俺の田舎に連れて行こうかと思ってたんだが」
 「……は?」
 斜め上を行く問答合戦でも繰り広げている気分だった。
 だが、ぽかんと目を見張るカミュの呆けた表情を見る限り、相手をより驚かせることに成功したのはシュラの方だ。
 勝利を確信したシュラはにやりと笑った。
 「俺の家、山羊飼ってるんだが、よかったら世話してみないか」
 山羊、と小さく繰り返したカミュは、その単語から想像される情景を自分に認識させようとでもするかのように幾度か瞬きをした。
 やがて、しかつめらしい顔つきでゆっくりとシュラに向き直ったカミュは、不服そうに口を尖らせる。
 「生憎だが、私は動物は嫌いだ」
 「……そう、か」
 遠回しに一切を拒絶しているのか、カミュの真意を量りかねたシュラはつい眉を顰めた。
 その困惑した表情がよほど面白かったらしく、カミュはくつくつと肩を震わせる。
 一頻り笑った後、すっと表情を引き締めたカミュは、じっとシュラの瞳をみつめおもむろに口を開いた。
 「……だが、シュラの世話なら、してみてもいい」
 たったこれだけの一言が、ずしんと胸に響いた。
 名を呼ばれることがこれほど嬉しいなどと、今まで思いもしなかった。
 口にすることで、記憶は更に深まるはずだ。
 この短い応えは、シュラの名を、シュラへの好意を忘れる努力を放棄したという証だった。
 湧き上がる叫びだしたくなるほどの幸福感をかろうじて抑えたシュラは、無性に感じてしまう照れ臭さを隠そうと殊更に渋面を作ってみせた。
 「どちらかといえば、俺がおまえの世話をさせられるんじゃないのか」
 「嫌か?」
 分かりきった答えをわざわざ言わせようとしているのか、カミュは甘えを含んだ瞳でからかうようにシュラを見上げてくる。
 勝ち誇るカミュの誘いにむざむざと乗ってやるのが何となく癪で、シュラは何も答えなかった。
 紅い瞳が訝しげに曇り出す頃を見計らい、自分を仰ぎ見るカミュの顎に無言のまま軽く手を添える。
 かすかに緊張をうかがわせはするものの先程とは違い何の抵抗もみせないカミュに、少々意地悪な、だが無上の喜びを覚えつつ、シュラはゆっくりと顔を近づけていった。


 硬い寝台の上に、シュラは無造作に自分の外套を広げかけた。
 毛皮で裏打ちされた軍用の防寒具は、充分とは言えないまでもそれなりにかりそめの褥の役割を果たしてくれることだろう。
 少なくとも寝台の端に腰掛けたカミュはその感触をいたく気にいったらしく、毛足の長い裏地を何度も心地良さそうに撫でていた。
 「なかなかいいな。暖かいし柔らかいし」
 カミュはついでシュラに悪戯な視線を投げかけた。
 「いいのか、本当に。汚れても……」
 「いいから」
 思わず赤面したシュラは、それ以上言わせまいと慌ててカミュの言葉を遮った。
 房事に関しては、それを生業としていたカミュの方が圧倒的にシュラよりも手慣れているのは当然だ。
 味わう必要のない劣等感にも似た感情を粉砕してやろうと配慮しての軽口かもしれなかったが、答えに窮する発言であることには変わりなかった。
 言葉に詰まるシュラをしばらく楽しげに眺めていたカミュは、やがてすっと表情を固くした。
 ゆっくりと持ち上げられた手がするりと肩からドレスを落とし、闇の中に仄白く裸身を浮かび上がらせる。
 「……シュラ……」
 躊躇いがちに差し伸べられた手が、かすかに震えていた。
 一度はシュラに拒まれた、その記憶に苛まれているのかもしれない。
 今までの余裕綽々といったカミュの態度は、再び拒絶される不安を抑え込もうとしてのことなのだと、ようやくシュラは思い至った。
 偽悪的に振舞うことしかできないカミュの、素直とは程遠い不器用さが愛おしい。
 どうしようもない程いじらしい思いに駆られたシュラは、そっとカミュを抱き寄せた。
 案じることなどないのだと、ただ自分を信じてくれればいいのだと伝えたくて、優しく髪をかき撫でながら、唇に頬に首筋に何度も何度もキスを落とす。
 腕の中のカミュの身体から徐々に強張りが溶け、吐息が艶を帯び始めた頃、ふと目を開けたシュラは口付けを止めた。
 「……やはり気になるか?」
 鎖骨辺りでキスの嵐が止んだことで、シュラの視線の先にあるものに感づいたのだろう。
 カミュは少し寂しげに瞳を伏せた。
 「無理しなくていい。この刺青が気になるのだろう?」
 カミュは胸元にとまる蝶をそっと手で覆い隠した。
 この、片羽の蝶の刺青は娼夫特有のものだと、シュラとて知らなくはない。
 「……そういう訳じゃないが、気になる、と言えば気になるな」
 俯いたカミュはきゅっと拳を握り締める。
 シュラはその手首を掴むと、そっと蝶から引き離した。
 「これじゃ飛べないだろう」
 言うなり、シュラはカミュの胸元に口付け強く吸い上げる。
 「……シュラ……?」
 訝しげなカミュに、程なく身を起こしたシュラは笑みを浮かべてみせた。
 「羽をやるよ。これで、おまえは自由だ」
 カミュは視線を落とした。
 シュラの口付けが残したかすかな鬱血は、ちょうど蝶の刺青の傍らに位置していた。
 あたかも蝶に薄赤い羽根が生えたようにみえるその痕を、カミュはしばらく言葉もなく凝視していた。
 「……ありがとう」
 やがて、ぼんやりと感情のこもらない声で呟いたカミュは、そろそろと顔を上げた。
 泣きたいのか笑いたいのか、恐らくそれすら自分でも分からないのだろう。
 激しく波打つ感情に惑うように表情を歪めたカミュは、そのままシュラの腕の中に勢いよく飛び込んできた。
 背に腕を回しひしと縋りつくカミュを、シュラは強く抱きしめた。
 ようやく過去から解き放たれた蝶が未来を自在に飛ぶために、少しでも自分が支えになろうと、心の内に密かに思い定めていた。

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