無憂宮
 傍らに感じるぬくもりを、心地良いものと味わっている余裕はなかった。
 表情を強張らせたシュラは、努めて冷静な声を絞り出そうとした。
 「……何を考えている」
 「温かいな、と」
 他人の心を翻弄して楽しんでいるようなカミュの暢気な返事に、シュラは渋面を作った。
 「そうじゃない。なんでこんな危険な真似をするんだと訊いているんだ」
 「あなたの隣がそれほど危険だとは思わないが」
 人を喰った笑みを浮かべたカミュは、それでも下手にシュラの機嫌を損ねるまいとしたか、すっと身を遠ざけた。
 ひしと寄り添っていた身体の合間に流れ込む空気が妙に冷たい。
 しかし、遠ざかったカミュの重みとぬくもりを惜しむ気持ちよりも、安堵の方がはるかに優るのは否めなかった。
 シュラはひとつ息を吐いた。
 「ここに来ること自体が危険だと言っているんだ、馬鹿」
 戦闘を目前に控え殺気立つ軍人の只中では、カミュのような存在は破壊と支配の衝動を徒に煽る結果になりかねない。
 兵営に忍び込んだカミュの姿を最初にみとめたのがデスマスクで本当によかったと、シュラは密かに胸を撫で下ろしていた。
 さもなければ、一体何のために今まで苦労してカミュを匿い続けたのか、わからなくなるところだった。
 「……あなたが心配になったのだから、仕方ないだろう」
 健気な行動に褒美を貰えると思いきや、逆に叱責を受け不満が募ったのだろう。
 カミュは不貞腐れたように嘯いた。
 この耳障りのよい言葉は、シュラがカミュの命綱であるからにすぎない発言ということくらい、嫌というほど承知していた。
 にもかかわらず、カミュの口から再びこの殊勝な台詞を聞けたことを、心のどこかで喜んでいる自分がいる。
 緩みそうになる表情を無理矢理引き締め、シュラは殊更に苛立った風を装い舌打ちした。
 「大体、俺がどこにいるかも知らないくせに、どうやって俺をみつけるつもりだったんだ」
 「……悪いが、恐らくあなたより私の方が、この辺りの施設には詳しい」
 カミュの声にわずかに滲んでいた甘えにも似た響きが消えた。
 不審を感じたシュラが見守る中、カミュは真正面を見据えたまま神託でも告げるようにもったいぶって口を開いた。
 「あなたに割り当てられた部屋は、旧中央病院別館右翼、奥の階段横の一階小部屋。違うか?」
 シュラは沈黙で答えた。
 言葉を失い瞠目するシュラの表情で、カミュは自分の言葉の正しさを容易に察したはずだった。
 「……何故、それを……?」
 「軍というものは何かにつけて過去の様式を踏襲するものだろう。だから、以前あなた方の軍がこの町を占拠していたときと同様、今回も病院を兵営として利用していると思った」
 あとは日常について語るあなたの言葉の端々から総合的に判断したまでのこと、と、カミュは事もなげに千里眼の種明かしをする。
 と、カミュはシュラに一瞥を与えると、出会ったばかりの頃のような妖しいまでに艶麗な微笑を浮かべた。
 「……ついでに、もう一つ教えてやろうか」
 ざわりと肌を逆撫でされるような嫌な感覚が、唐突にシュラを襲う。
 何の根拠もなく、続く台詞を聞くべきではないと耳を塞ごうと思ったが、間に合わなかった。
 逃れることもかなわず、淡々としたカミュの声が、シュラの耳にするりと滑り込む。
 「当時、私は司令官の愛人だった。だから、軍に占領された施設も自由に出入りできたし、おかげで内部の構造も把握しているという訳だ」
 予想外の告白に、シュラは目を見張った。
 以前自軍がこの街を占拠していたのは二年以上前に遡るはずだった。
 そのときの駐留部隊の長が誰だったのかは、つい最近知ったばかりだ。
 「……当時の司令官って……。まさか、サガ上級大将……?」
 「ああ、そんな名前だったかな。もう忘れたけど」
 まるでその言葉が偽りでない証でも立てるように、カミュは興味なさげにけろりと呟く。
 黙り込んだシュラの横顔に、カミュはくすりと笑いかけた。
 「どうした? それほど驚くようなことか?」
 「……来てたよ、昨夜」
 愕然と表情を失くすシュラに、カミュは訝しげに眉をひそめた。
 「誰が?」
 「サガ上級大将」
 「……そう」
 さすがに驚きを隠せない様子のカミュに、シュラはこの数日来の自身の不在の理由をかいつまんで説明した。
 「……この街で少し休憩してから、次の陣営に向け出立されたんだが……」
 その休息中、サガの意外な要請にシュラは驚かされた。
   「現在保護下にある民間人の登録原簿……ですか」
 命令を復唱するシュラにサガは頷いた。
 「以前私がこの街にいたとき、少々馴染みになった人たちがいてね。彼らの消息を知りたい」
 軍人らしからぬほどに節度と礼儀を重んじるサガは、いかに占領軍とはいえ、この街でも一目置かれていたことだろう。
 支配者と被支配者という枠を越え、民間人と友好を深めていたとしても不思議はなかった。
 そうしてシュラの提出した台帳にざっと目を走らせていたサガは、しかしやがて、小さな溜息と共にかすかに長い髪を揺らした。
 捜し人の記録をみつけられなかったのだと、その背は雄弁に語っていた。
 敵軍の奇襲によりこの街が陥落したのは、サガが不在の間の出来事だという。
 別れを告げる間もなく行方不明になった知人に想いを馳せるその横顔はあまりに寂しげで、傍らに侍していたシュラですら胸が痛むほどだった。
 だからこそ、シュラは動揺を隠せなかったのだ。
 もしも、サガが捜し求めていたその人がカミュのことならば、記録にないのも当然だ。
 隔離保護された民間人とは異なる場所に、シュラが密かに隠匿してしまったのだから。
 焦燥に駆られたシュラはカミュをみつめた。
 「まだそう遠くには行っていないはずだ。今追いかけたなら……」
 「別に、いい」
 あっけない一言で、カミュは言い募るシュラを遮った。
 「私があの人の愛人だったのは、随分前の話だ。そんなもう名前も覚えていない人のことなど、今更……」
 しれっと言い放つカミュの薄情な一言が、シュラの胸の内を鋭く刺激した。
 その冷淡な口ぶりに怒りを覚えた、のかもしれない。
 しかし、それ以上の何かが、シュラに密かに合図を送っているような気がした。
 シュラは懸命にそのシグナルの意味を探り、やがて、読解した、ように思った。
 その理解の正誤は皆目わからなかったが、何故だか無性に確かめねばならないという衝動がシュラを苛んで止まない。
 「……カミュ」
 「何?」
 「もう覚えていない、ということは、以前は名前を覚えていた、ということか」
 「昔はな。それなりに好きだったから」
 さらりと言ってのけたカミュは平然と肩を竦めてみせた。
 「だが、それが何か?」
 しかし、息を詰めたシュラにその問いかけは届かない。
 代わりに先のカミュの言葉が、繰り返しシュラの脳内に響き渡っていた。
 好きだったから、名を覚えていた。
 正解だ。
 からからに乾いて口の中に貼り付く舌を、シュラは必死で動かした。
 「……おまえ、覚えてないのか」
 「だから、男の名は覚えないと、確か前にも言ったと思うが……」
 素っ気無く呟くカミュに向かい、シュラは何かに脅えたようにゆっくりと首を廻らせた。
 「……覚えてるんだよ、覚えてないのか?」
 言葉足らずの台詞の意味を量りかねたか、不審そうにただ瞬きを繰り返すカミュを、シュラはじっとみつめた。
 「……覚えてるんだよ、おまえ」
 馬鹿の一つ覚えのようにただそう繰り返す声が、どうしようもないほどに震えていた。
 シュラの視線を真っ直ぐに受け止めていた紅い瞳の奥が不安気に揺れだしたのは、しばらくしてのことだった。
 「……そうだ、覚えてる」
 うわ言のように、カミュはぼんやりと呟いた。
 何かに助けを求めようとでもするかのごとく落ち着きなく周囲を彷徨っていた瞳が、やがてシュラの上で恐る恐る動きを止める。
 縋るようにひたと注がれる紅の瞳に、シュラはこくりと喉を鳴らした。
 カミュの唇が、かすかに動いた。
 「……私は、あなたの名を、覚えている」
    シュラに何かあったのかと思った。
 再会して程なく、安堵したカミュが漏らした一言が、残響を伴って甦ってきた。

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