無憂宮
 深更に至り、寒暖計の数値はますます下がりつつあるようだった。
 空気の冷たさを視覚化でもしたように荒涼とした周辺の状景が、冴え冴えとした月の光にほのかに浮かび上がる。
 いつのまにやら冬がすぐ傍まで来ていたことを仄白む吐息に教えられたシュラは、ぼんやりと周囲を眺め回した。
 夜半ともなれば行き交う人もそうそういないのが常だったが、さすがに近日中に大規模な戦闘を控えていると囁かれる状況下では勝手が違うらしい。
 エネルギーを持て余しているのか、否が応にも高まる緊張を解きほぐそうとしてなのか、用もないのに寒空の下を出歩く酔狂な輩の姿も時折見受けられた。
 だが、シュラに突如降りかかった災厄に、彼らが気付いた様子はない。
 外套を着込み毛布を抱え持ったシュラが理由も告げられず営倉に追い立てられている最中だなどと、誰も思いもしないのだろう。
 衆人環視の中の連行ではないだけ、まだよかったのかもしれない。
 そうして無理矢理見出した幸運に意味もなく笑いが込み上げてくるのは、現実逃避願望のなせる業か。
 機械的に交互に繰り出す足の運びをふわふわと空を漂うような心もとないものに感じつつ、シュラは横目でちらりと隣を行くデスマスクを見遣った。
 やはり夢か、さもなければ悪い冗談だと思った。
 隣を行くのは、自分に何か異変があったならカミュを託してもいいとさえ信頼していた、友人、だ。
 その彼が、ナイフを片手にちらつかせつつシュラを投獄せんとするなどと、にわかに信じられるものではない。
 「デス……」
 「黙って歩け」
 平生のにやけた調子など微塵も感じさせない、随分と酷薄な声だった。
 シュラは小さく息をついた。
 少なくとも、今のデスマスクに何を言ったところで無駄だということに間違いはないようだ。
 自分の知らないところで何が起こっているのか、事情の見当もつかない以上、下手に動くのは得策ではない。
 渋々ながらもそう結論を下したシュラは、デスマスクの言葉に従い無言で足を動かし続けた。
 営倉は、軍律徹底を期した威嚇効果の具現化だ。
 当然のことながら、そこで過ごす時間はお世辞にも快適とは言えまい。
 身を切るような夜風だけが原因ではないだろうが、宿営地の外れにある営倉に辿りつくまでに体が芯まで冷え切ってしまった気がして、シュラは毛布をしっかりと抱え直した。
 無論、営倉内に暖房など望むべくもないから、この毛布はかなり有難いものになるはずだった。
 こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそか、既に対処法の検討に移り変わっている自分の切り替えの早さに苦笑しつつ、シュラは威圧的に立ちはだかる営倉の扉をみつめた。
 この分厚い扉の向こうが、今宵の宿。
 いつまで続くかわからない不安の時を過ごす監獄だ。
 我知らず身を硬くして立ち尽くすシュラの傍らで、鍵束をじゃらじゃらと嫌な音を立てて繰っていたデスマスクが、ようやく目当ての一本をみつけたらしい。
 静かに鍵穴に鍵を差し入れると、掛け金の外れる音がごとりと重く響いた。
 「入れよ」
 促されたシュラは足を踏み入れた。
 営倉入りなど初めての経験だ。
 場違いとは承知しつつ抑えきれない好奇心に駆られたシュラは、天井近くに設けられた明り採りの小窓から差し込むさやかな月の光を頼りに内部を見渡した。
 営倉という湿っぽい役目を果たすにふさわしい、所々壁の塗りが剥がれ煉瓦が顔を覗かせる陰鬱な小部屋だった。
 がらんとした室内にあるのは、月明かりも届かない暗闇の奥に据えられた小さな寝台らしき物だけのようだ。
 やがて夜陰に慣れたシュラの瞳は、おぼろげにとはいえその闇の中に動くものの姿を捉えた。
 訝しさに目を眇めその正体を理解した瞬間、心臓をいきなり鷲掴みにされたような衝撃がシュラを襲う。
 「……おまえ、自分の猫くらいしっかりしつけとけ」
 先程までとは打って変わった、含み笑いを帯びた揶揄するようなデスマスクの声が、かろうじてシュラを現世に繋ぎとめるよすがだった。
 言葉を失い瞠目するシュラを目指して、闇の中から人影が音もなく近づいてくる。
 「おかえり……と言うべきだろうか」
 月光が、その声の主を照らし出した。
 夜目にも鮮やかな真紅の髪が、月華の粒子を纏って煌いていた。


 くつくつと楽しげに笑うデスマスクの声が、茫然とするシュラの鼓膜を静かに震わせる。
 「……ちょっと待て。頼むから俺にわかるように説明しろ」
 目覚めてからこの方、シュラを取り巻く状況は少々慌しく動き過ぎた。
 一気に押し寄せた安堵の念に脱力したシュラは、両手で頭を抱えその場にふらふらと崩れ落ちた。
 「まあ、平たく言っちまうと、有能で職務熱心な夜警が、兵営をうろついてる猫をみつけて捕まえたってだけの話なんだがな」
 自力での状況把握を早々に放棄し端的な説明を求めるシュラに、デスマスクは殊更に自らに冠した形容詞を強調しつつ、にやりと笑った。
 「捕まえてみたら、この珍しい毛並みは誰かさんの飼い猫じゃないかってことで、人にみつからないところに保護しといてやったというわけだ」
 「……それならそうと早く……」
 舌打ちするシュラの憎々しげな眼光を、デスマスクは肩を竦めてさらりと受け流した。
 「すぐに言っちまったら、つまらんだろうが。ま、ちょっとした茶目っ気ってやつ? 感動の再会に備えて髭も剃ってやったんだし、固いこと言うなよ」
 シュラは頬に軽く手を触れた。
 確かに、このところ手入れする暇も無く伸び放題だった無精髭は、いつの間にか綺麗に姿を消している。
 シュラを凍りつかせたナイフの用途はこれだったのだと、真相を知るやそのあまりの馬鹿馬鹿しさに気が抜けてしまい、怒る気にもなれなかった。
 デスマスクはちらりと腕時計に目を走らせた。
 「まだしばらくは人目につくかもしれんが、さすがに夜明け前になれば大丈夫だろう。その頃また鍵開けに来てやるから、そしたら帰れ」
 じゃ、ごゆっくり、と、悪戯に片目を閉じたデスマスクは、そう言い残すと踵を返した。
 重々しく扉が閉まる音、続いて乱暴に鍵をかける音が響き渡り、その残響が消えた後には反動のような静寂が訪れた。
 残されたのは、二人だけ。
 シュラはそろそろとカミュを見上げた。
 相変わらず感情を窺い知ることのできない仮面のような表情のまま、カミュは黙ってシュラを見下ろしていた。
 「……なんでおまえがここにいるんだ……?」
 「あなたに会いに」
 思わず口をついて出た情けない問いかけに平然と答えたカミュは、シュラと目線を合わせるように床にすっと膝をついた。
 「あなたが来ないから」
 真紅の瞳が真っ直ぐシュラを覗き込んできた。
 嘘も言い訳も、何一つ許さない真摯な瞳だった。
 紅の瞳に宿る光のあまりの強さに思わず息を呑むシュラに、畳みかけるようにカミュは続ける。
 「あなたを待っていたのに、来ないから。クローゼットの中でずっとあなたを待っていたのに、いつまで経っても来ないから……!」
 余程孤独と不安に耐えかねたのか、ありったけの苛立ちをぶつけるように言い募ると、カミュはそこで小さな溜息と共に言葉を切った。
 「……だから、シュラに何かあったのかと思った。無事なら、いい」
 不貞腐れたような呟きを落としたカミュは、言いたいことを全て吐き出して気がすんだのか、やがてふいと立ち上がった。
 くるりと身を翻したカミュの姿は闇に吸い込まれ、程なくかすかに寝台の軋む音がした。
 大方、いつも隠れ家でそうしているように、寝台の上で膝を抱えてうずくまっているのだろう。
 この数日間も、ずっとそうして我が身を抱きしめて、押し寄せる心もとなさと懸命に戦っていたのかもしれない。
 しばらく出張する旨を伝える時間的余裕がなかったとはいえ、今のカミュにとってはシュラだけが唯一の生命線だったのだから、ひどく心配をかけたという事実に変わりは無い。
 そう思うと、カミュが不憫でならなかった。
 「……すまない」
 殊勝に頭を下げるシュラに、しかし、赦免の言葉は返ってこなかった。
 その代わり聞こえたのは、小さなくしゃみだ。
 意外な反応に目を瞬かせたシュラは、音の聞こえた寝台の方向から手にした毛布へと視線を移した。
 「……ああ、寒いのか。ここに毛布あるから、使えよ」
 「いらない」
 「だが、寒いんだろう?」
 「あなたの持ってきた物なんだから、あなたが使えばいい」
 心配のあまり居ても立ってもいられず隠れ家を飛び出してきたというこの捨て猫を、いじらしいと思ったのも束の間だった。
 早くも普段のままの強情で可愛げの欠片もない論法に戻ったカミュに、苦笑を押し殺したシュラはわざと聞こえるように溜息をついてやった。
 「意地を張るなよ」
 「そういうわけではない……」
 言い終わらないうちに、虚勢を張るカミュを裏切るようなくしゃみがもう一つ聞こえた。
 やれやれ、どこまでも手のかかる……。
 カミュに気付かれないように小さく笑ったシュラは、毛布を広げつつつかつかと寝台に向かった。
 暗がりの中、案の定膝を抱えたカミュは、近寄るシュラを不審げに見上げている。
 その視線を遮るように、シュラはカミュの頭からばさりと毛布を覆い被せた。
 「……だから、私はいいと……」
 毛布の下からか細い抗議の声が上がる。
 もぞもぞと毛布の山がうごめき、やがてその下からカミュが顔を覗かせた。
 わずかに気まずげに眉を顰めた表情は、寒さに凍えていた身体を包む毛布が思いの他に心地よくて、その温もりを手放しがたくなったせいだろう。
 シュラは子供をあやすように笑ってみせた。
 「どうだ、気が変わったか?」
 「……あなたが毛布を使うと言うのなら、私も使ってみてもいい」
 ご都合主義の交換条件を提示しながら、カミュは挑むような瞳でシュラを見据える。
 貧困な想像力を駆使してカミュの言葉の意味を理解しようとしたシュラは、程なくある結論に達ししばらく黙り込んだ。
 「……それは、俺に一緒に毛布にくるまれってことか?」
 「広げたら、二人ぐらい大丈夫だろう?」
 事もなく言ってのけると、カミュはマントのように毛布を翻し、おもむろにシュラに視線を注ぐ。
 じっとみつめてくる紅い瞳に屈するに、それほど時間はかからなかった。
 今度はわざとではない溜息を漏らしたシュラがゆっくりと寝台に腰を下ろすと、待ちかねていたようにカミュが背中から毛布を広げかけてくる。
 背を覆う毛布の感触にに冷え切った体の緊張が解け、ほっとしたのも束の間だった。
 傍らに、するりと猫が忍び込んできた。
 自分に都合よく成立した取引に気をよくしたのか、遠慮なく暖を貪ろうとカミュがぴたりとシュラに身を寄り添わせてきたのだ。
 毛布とは異なり存在感のあるカミュの温もりに、普段は世話役としての使命感で黙殺している感情がむくりと鎌首を持ち上げる。
 突如押し寄せる後悔に、シュラの表情が強張った。
 あまりこの人形に入れ込むべきではないことくらい、初めからわかっていた。
 それなのに軍規に反してまでカミュの世話を続けてきたのは、この美貌の人形が人間に戻る瞬間を見たかったからだ。
 いつカミュに生命が宿るかと期待しては裏切られを繰り返す間に、余りにも長くカミュをみつめ過ぎてしまったと、気がついたときにはもう既に手遅れだった。
 いつの頃からか、彼を手放そうとしない理由は、ただの醜悪な独占欲となっていた。
 ときに愛という美名で偽られるこの歪んだ感情は恐ろしいほどに貪欲で、怪我を治療し身体の機能を保全するだけでは飽き足らず、その心までも開かせようとシュラを躍起にさせた。
 懸命な努力の甲斐あってか一種の信頼のようなものを獲得することはできたのだが、欲張りな感情は我侭な子供のようにもっともっとと求めて止まない。
 その心も肉体も、カミュを構成する全てを手中に入れたいと、シュラの内で声高に叫ぶのだ。
 強欲な自分を隠し通すことができたのは、ただ折角確立しつつあった友好関係を反古にすることへの臆病な恐怖心からだった。
 だが、吐息のかかりそうなこの至近距離では、とくとくと早鐘を打ち始めた心音やわずかに緊張を孕む筋肉など、シュラに生じた微細な変化の意味に気付かれてしまいかねない。
 ようやく一息ついたというのに、今すぐ冷たい夜闇の中に駆け出してしまいたいような衝動に駆られ、こくりと喉を鳴らしたシュラは膝の上の拳を白くなるほど握り締めた。

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