無憂宮
 数日に及ぶ大任に、肉体的にというよりも精神的な疲労の方が限界に近づいていた。
 形ばかりの労いの言葉を賜りようやくその重責から解放されたシュラは、疲れ果てた足を引き摺るようにして久方ぶりに自室に戻った。
 立て付けの悪い扉が、主の帰着を妨げる最後の砦になろうとするごとく耳障りな音を立てる。
 普段は苛立ちの元凶でしかないその軋む扉に、やっと帰ってきたという懐かしいようなほっとしたような感慨を抱くのも束の間、すかさず室内から声がかけられた。
 「お、帰ってきたか。お疲れ」
 洒落者のこだわりを発揮してか、誰が見ている訳でもないのに鏡に向かい何度も帽子を被りなおしていた同室者が、にやりと笑いかけてきた。
 素っ気無い歓待の言葉は先程上官が口にしたそれほど華やかではないが、その声の響きは彼がシュラの身を案じていてくれたことをそこはかとなく窺わせる。
 「全く、へとへとだ」
 友人の気持ちに感謝しつつも表面上はやはり無愛想な台詞を返したシュラは、つかつかと寝台に歩み寄るとそのままどさりと身を投げ出した。
 固くて閉口していたはずの粗末な寝台に王侯貴族の誂え品のような居心地の良さを感じてしまうのは、この数日来の緊張が一気に解けたせいだろう。
 このまま全身の輪郭が朧になりずるずると溶け出していきそうな奇妙な感覚に襲われたが、それでもいいとシュラはうっとりと目を閉じた。
 「靴ぐらい脱げよ」
 呆れたと言わんばかりの口調とは裏腹に、デスマスクは甲斐甲斐しくシュラの軍靴の紐を緩める。
 常日頃人の世話になることを厭うシュラも、さすがに今ばかりはその手を振り払う元気もなく、黙ってされるがままに任せていた。
 「……で、どうだった?」
 程なくシュラの足を締め付けていた枷を解き放ったデスマスクが、言葉少なに問う。
 寝台にうつ伏せたまま、シュラは淡々と答えた。
 「嵐の前の静けさって奴だな。そろそろ来る。……と、専らの噂だった」
 この数日間、視察に訪れた将校の護衛の任に抜擢されたシュラは、小競り合いの続く前線基地に派遣されていた。
 先の彼の発言は、前線の兵士たちとの会話から導き出された結論だった。
 小規模な衝突こそあれ、ここのところ目立った戦闘が展開されているわけではない。
 総攻撃の日は近いと、殺伐とした緊迫感と現実逃避の異様なまでの昂りが渾然一体となった不可思議な気が、兵営には満ちていた。
 デスマスクはさもあらんと頷いた。
 「サガ上級大将だろ、視察官。あの人を遣すからには、本部もそう思ってるってことだろうな」
 その卓越なる見識で軍略家として名を馳せた若き将校の存在は、世評に疎いシュラでさえも噂に聞いたことがあった。
 士官学校出の高級武官ということで、彼の護衛を任じられた当初は少々気が重かったのだが、実際に会ってみるとその印象は大きく変わる。
 部下に対しては高圧的であるべきと思い込んでいる軍人が多い中、サガは軍服を身に纏っているのが不思議なほどに穏やかで、シュラのような一兵卒にも何くれとなく気を配ってくれた。
 だが、時折見せる眼光は鋭く、この人物を欠いたならば敗戦は必至との錯覚さえ起こさせるほどの風格を漂わせていたことは確かだ。
 だから、アドレナリンの過剰放出による異常な熱気に溢れる彼の地で、シュラは一人冷徹さを保ちつつ一瞬たりとも気を抜かずにその警護の役を熱心に務めたのだ。
 結果として、その任が解かれた今、まるで抜け殻のように疲労困憊しているというわけである。
 力なく突っ伏したままのシュラの背に、デスマスクの声が低く届く。
 「……おまえ、そろそろ仔猫をどうにかしといた方がいいんじゃないのか?」
 別に興味はないんだが、とでも言いたげに、デスマスクはさらりと二人の間だけで通じる隠語を口にした。
 シュラがカミュと名づけ匿っている妖猫の安全は、この街が戦場ではないから保障されているだけのことだった。
 遠くない将来、戦況次第では戦闘の余波はここまで及びうる。
 そう仮定するならば、弾丸が飛び交う真っ只中にたった一人放り出される可能性すらある今の状況は、逆に危険極まりない。
 非武装地帯として建前だけでも一応は無難が約される民間人の居住区に移動させた方が望ましいことは、火を見るよりも明らかだった。
 「……そうだな。明日にでも提案してみるかな」
 あのひねくれた紅毛の猫が素直に承知してくれるとは思えないが、と苦笑いを浮かべつつ、シュラはゆっくりと起き上がった。
 束の間とはいえゆったりと身を横たえたということで、幾分疲れも取れたようだ。
 思考の対象が、徐々に戦争という深刻な現実から遠ざかっていくのはそのせいだろう。
 その行き着く先が相も変わらず卑近な猫の話題ということに内心で呆れながらも、シュラはつとデスマスクを見上げた。
 「で、結局、俺がいない間、あいつのところには行ってないのか?」
 今回の派遣辞令はあまりに突然に下されたため、カミュに連絡を取る間もなかった。
 生活必要物資は充分に届けてあったから、このまま宿営地を後にしたとしても当座の心配はなかったのだが、自分が二度と帰ってこないかもしれないとの危惧は拭えない。
 そう考えたシュラは街を離れる前に、念のためデスマスクにだけはカミュの居場所を教えておいたのだった。
 デスマスクは大仰に肩を竦めてみせた。
 「猫にひっかかれたくはないんでな」
 「……ああ、それは賢明な判断だったかもしれんな」
 数日前の会話を思い出しながら、シュラはふっと口元を緩めた。
 別れ際、自分に何かあったら猫の世話を頼むと告げると、デスマスクはじろりとシュラをねめつけ、いつになく激しい調子で突っぱねたのだ。
 その激昂ぶりは、口にこそ出さないものの、無事に帰ってきてシュラが自分で世話をしろという意図の表れだ。
 そう解したシュラはあえて何も言わなかったのだが、いざ帰ってきてみると、その理由はこんな馬鹿げたもので誤魔化されていた。
 自分が不在の間に口実を考えていたのかもしれないと思うと意味もなく笑いが込み上げてくるが、そうまでして徹底して真意を隠そうとするデスマスクの心情に配慮し、ここは我慢してやるべきだろう。
 笑いを抑えようと努力した挙句わずかに頬を引きつらせるシュラを、デスマスクは仏頂面で見据えた。
 「疲れてるんなら、シャワーでも浴びてとっとと寝ろよ」
 都合の悪い話題を転換しようとしたのだろうが、その発言はシュラにはとても魅力的なものに聞こえた。
 確かに、汗と埃を洗い流して熱い湯に打たれれば、疲労の回復も早そうだ。
 提言を実行すべく立ち上がろうとしたシュラに、デスマスクの調子付いた声が続く。
 「あ、俺、今晩夜警だから。一人寝は寂しいかもしれんが、我慢しろよな」
 「……むしろ静かに寝られてありがたい」
 この数日間の張り詰めた神経を解きほぐすいつものような軽口の応酬に、シュラは自らの無事の帰還を改めて実感していた。


 暗い闇の中にいた。
 目の前にかざした手指の形ですら覚束ないような暗黒世界。
 その只中で、重力の呪縛から解き放たれたように上も下もない空間をひたすら漂っていた。
 何も、考えず。何も、感じず。
 極度の疲労は、そんな死の一歩手前のような深い眠りをシュラにもたらしていた。
 いつ醒めるともつかない夢は、延々と繰り返し上映される黒い塗料で塗りつぶされた無声映画のようだ。
 それを退屈するでもなくただぼんやりと眺めやっていたシュラは、突如感じたわずかばかりの違和感に眉をしかめた。
 頬がひやりと冷たいものに撫でられる。
 感覚が戻るということは、脳の奥底から全神経に向け、眠りの淵から浮上するよう命令が発せられたということだ。
 暗闇に蕩けそうな自堕落な一時を充分すぎるほど味わったシュラは、固く閉じあわされたままだった瞼をゆるゆると持ち上げた。
 「……起きたか」
 耳元で聞こえるのは、デスマスクの声だ。
 彼が夜番を終えて戻ってくるほどの時間が経ったのだろうかなどと暢気に思いつつ、シュラは緩慢に起き上がろうとした。
 「動くな!」
 びしりと鋭い声で制される。
 何故、と、訊こうとしたが、まだ寝惚けた舌は上手く動こうとはしない。
 早々に能動的な動作に見切りをつけたシュラは、視覚聴覚といった受動的な感覚器に頼ることにし、そこで愕然とした。
 デスマスクが手にしたものを見た。
 銀色に鈍く輝く細長の物体。
 彼が手慰みによく弄んでいるナイフだと、思うよりも先に全身に戦慄が走る。
 先程頬を掠めた冷たさの原因は、この刃ということか。
 友人が自分に刃を向けるその真意がわからず、シュラは茫然とデスマスクをみつめた。
 ひたと注がれるシュラの視線を感じてか、彼はゆっくりと口の端を持ち上げた。
 いつもと少しも変わらない人を喰ったような不遜な笑みだ。
 「……静かにしろ。シュラ、おまえ、営倉行きだ」
 だが、その馴染み深い顔が口にした台詞は、およそ耳にしたことのないほど冷淡な内容だった。

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