Addiction
聖域はやはり私にとっては故郷のようなものなのだと思う。
シベリアでの生活が落ち着かないというわけではないが、弟子の前では無意識に気を張ってしまっているのだろう。
幼い頃から慣れ親しんだ風景の中、相変わらず豊かな金髪を波打たせて駆け寄ってくるミロの笑顔を目にし、ようやく帰ってきたのだとひどく安堵したのは少々悔しいが事実だ。
だから、天蠍宮で食事をしながら互いの近況を語り合っていたとき、今夜は泊まっていけばいいと言ってくれたミロの言葉は素直に嬉しかった。
幼い頃は毎夜のようにどちらかの寝台に潜り込み、他愛もないことを語り合いながらいつしか眠りに落ちていた。
そんな日々を、やはりミロも懐かしいと思い起こしてくれたのだろう。
久々の再会なのだから、そんな子供じみた振る舞いに及ぶのも悪くない。
そう思った私はミロの提案に頷いてみせたのだが、意外なことにミロは信じがたいとでも言いたげに目を見開いた。
「……本当に、いいの?」
自分から誘っておいて、断られることを前提にしていたとでもいうのだろうか。
恐る恐るといったミロの風情に一瞬戸惑ったが、すぐに合点がいった。
ミロが思い出したのは、楽しい記憶ばかりではなかったのだろう。
いつだったか、寝相の悪いミロに私は思い切り寝台から蹴り落とされたことがある。
頭にきた私は彼を叩き起こし、まだ寝惚けたその耳を引っ張り一頻り不満をぶつけたばかりか、翌朝になってもしばらく彼とは口もきかなかった。
虫の居所が余程悪かったのか随分と不機嫌だった私に、ミロは訳もわからないままただひたすらに謝り続けていたはずだ。
自分が横暴なのだとは少しも思わなかった当時の私でさえ、必死に謝罪を繰り返すミロが少し可哀想になったことを覚えている。
ミロのこの反応がまたこんな展開が繰り返されることに脅えているためだとすれば、なかなかどうして可愛いものではないか。
「別に、構わないが」
苦笑する私に、ミロは妙に厳粛な面持ちで頷いた。
宮の寝台は大人二人が並んで身を横たえてもまだ充分に余裕がある。
黄金聖闘士の居室ともなれば、その品格を保つためにそれなりに贅を尽くした設えが必要とされるものなのかもしれない。
だが生来貧乏性なのか、どうにももったいないと思ってしまう私にはこの広さは少々落ち着かない。
どうせそう頻繁に帰ってくるわけではないのだ。
これから聖域に戻ってきたときには、こうしてミロの寝室を共有させてもらうことにしようか。
そんなことをあつかましく考えていると、傍らのミロが小さく私の名を呼ぶ声がした。
「カミュ」
目を遣ると、こちらに差し伸ばされるミロの手が視界をゆっくりと横切る。
すぐに意図を悟った私は目を閉じた。
おやすみのキス、だ。
子供の頃、保護者代わりだったサガは、よい夢をみられるようにと毎晩私たちの頬にキスを落としてくれた。
愛されていることを実感させてくれるその優しい口付けを、ミロと私は争うようにねだったものだ。
この幸せな入眠儀式は、当然ながらサガの失踪と同時に一旦途絶えることとなる。
しかし、サガ不在の事実を直視することを厭った私たちは、いつしかお互いにキスを交換するのが習慣になっていたのだ。
いつかまたサガに出会えるようにとのこのまじないめいたキスは、かつてはかるく頬に触れるだけのものだった。
だが、互いに抱く好意の質が変わってきた近頃では、少し違う。
頬だけでなく、額に、瞼に、唇に、春の雨のように柔らかな口付けは、あらゆる場所に降り注ぐようになっていた。
私はただ目を閉じ、ミロの腕の中そのキスの雨に酔いしれていればよかった。
しばらくは、それでいい。
吐息に熱が篭り始めるまでは、ただそうしてミロに身を委ねていればいい。
とはいえ、限界はもうすぐそこまで来ていた。
執拗との形容が許されるほど熱いキスに変わる頃には、いつのまにかミロの腕に動きを封じられ、繰り返される口付けに呼吸すら苦しくなり、何一つ考えることなどできなくなる。
意識が朦朧と霞み始めるようなこの艶めいたキスの行く果ては、自律を美徳とする私には理解も想像も及ばない。
未知は悪戯に不安と恐怖を呼ぶ魔物だ。
背筋をぞくりと這い登る妖しい感覚は、次第次第に私の全身を侵蝕しつつあった。
このもどかしいまでに狂おしい情動に支配されたなら、私が私でなくなる予感がしていた。
そんな自己統制すらかなわない自分など見たくもない。
だから、その兆しを感じ取るや、私は一目散に逃げ出すことにしていた。
そうでなければ、おやすみのキスなどできない。
洪水に押し流されるように否応もなく理性を放棄させられる恐怖を覚えさせられては、眠るどころではない。
「ミ……」
もう寝ようと告げようとしたのだが、こんな短い名を呼ぶ余裕さえ与えてもらえず、私の口は再びミロのそれで塞がれた。
するりと侵入してきた生温かい舌を懸命に押し戻そうとしたが、むしろミロを煽る結果に終わったのか、逆に私の舌が絡み取られる始末だ。
どちらのものともつかない唾液が二人の間にぽたりと落ち、ようやく私は何かが違うことに気付いた。
いつものミロなら、ここまで性急で貪欲なキスはしない。
私が少しでも拒む素振りをみせたなら、ミロはすぐにそうと察して離れてくれるはずなのだ。
それなのに、今日のミロはおかしい。
私の意向に注意を払うどころか気付こうともしない。
いや、むしろ気付いた上で私の反応を無視して楽しんでいるようにさえみえる。
このまま骨の髄まで貪りつくされるような気がして訳もなく恐くなった私は、ミロを押しのけようと必死でもがいた。
「ミロ、おまえ、何のつもり……」
「何って……」
軽く目を見張ったミロは、ついで薄く笑った。
口の片方だけをかるく吊り上げる、ミロお得意の嫌な笑い方だ。
「わかるだろ」
妙にざらついた声音が鼓膜を震わせる。
その瞬間、私は自分が何もわかっていなかったことを遅まきながら理解した。
ミロが求めているものは、おやすみのキスでも、ただ枕を並べて語り明かす夜でもない。
ミロが求めているものは 。
その答えを悟るや、私は思い切りミロを突き飛ばしていた。
「……何するんだよ」
油断していたのだろう。
寝台から見事に転げ落ちたミロの恨めしそうな声が床の方から聞こえた。
私は無言のまま乱れた髪を手で整える作業に没頭するふりをした。
注がれる視線にも気付かない風を装いじっと俯く私に、ミロもようよう行き違いがあったことに感づいたのだろう。
小さな溜息のあとやはり小さな軋み音がして、見上げると、寝台の端にミロがこちらに背を向けて腰掛けていた。
手を伸ばせば容易に届くだろう。
だが、その背は何故だかとても遠くにあるような気がして、手を差し伸べることなど到底できなかった。
「ミロ……」
「……やけにあっさり承知するから、おかしいと思ったんだよ」
呼びかけを遮るようにぼそりと呟く声は、ひどく疲れたように乾いていた。
怒った、というよりも、呆れ果てたという口調だ。
我知らず身を竦める私に、ミロはこちらを振り返ることもなく淡々と続ける。
「俺たち付き合いだして結構たつんだから、泊まってくってことはそういう意味だと思うだろ、普通」
私は唇を噛んだ。
普通は、そうなのかもしれない。
だが生憎と私は色恋沙汰にはひどく疎いのだ。
迂闊と責められても反論はできないが、そういった考えが少しも頭を過ぎらなかったのは紛れもなく事実だ。
弁明もできずうな垂れる私に、再びミロは苦笑交じりの溜息を落とす。
「ごめん、やっぱり今日は宝瓶宮帰って」
静かな声は強制ではなく、ただの依頼だ。
しかし、その提案に逆らうことなど、今の私にできるはずもなかった。
聖域はやはり私にとっては故郷のようなものなのだと思う。
シベリアでの生活が落ち着かないというわけではないが、弟子の前では無意識に気を張ってしまっているのだろう。
幼い頃から慣れ親しんだ風景の中、相変わらず豊かな金髪を波打たせて駆け寄ってくるミロの笑顔を目にし、ようやく帰ってきたのだとひどく安堵したのは少々悔しいが事実だ。
だから、天蠍宮で食事をしながら互いの近況を語り合っていたとき、今夜は泊まっていけばいいと言ってくれたミロの言葉は素直に嬉しかった。
幼い頃は毎夜のようにどちらかの寝台に潜り込み、他愛もないことを語り合いながらいつしか眠りに落ちていた。
そんな日々を、やはりミロも懐かしいと思い起こしてくれたのだろう。
久々の再会なのだから、そんな子供じみた振る舞いに及ぶのも悪くない。
そう思った私はミロの提案に頷いてみせたのだが、意外なことにミロは信じがたいとでも言いたげに目を見開いた。
「……本当に、いいの?」
自分から誘っておいて、断られることを前提にしていたとでもいうのだろうか。
恐る恐るといったミロの風情に一瞬戸惑ったが、すぐに合点がいった。
ミロが思い出したのは、楽しい記憶ばかりではなかったのだろう。
いつだったか、寝相の悪いミロに私は思い切り寝台から蹴り落とされたことがある。
頭にきた私は彼を叩き起こし、まだ寝惚けたその耳を引っ張り一頻り不満をぶつけたばかりか、翌朝になってもしばらく彼とは口もきかなかった。
虫の居所が余程悪かったのか随分と不機嫌だった私に、ミロは訳もわからないままただひたすらに謝り続けていたはずだ。
自分が横暴なのだとは少しも思わなかった当時の私でさえ、必死に謝罪を繰り返すミロが少し可哀想になったことを覚えている。
ミロのこの反応がまたこんな展開が繰り返されることに脅えているためだとすれば、なかなかどうして可愛いものではないか。
「別に、構わないが」
苦笑する私に、ミロは妙に厳粛な面持ちで頷いた。
宮の寝台は大人二人が並んで身を横たえてもまだ充分に余裕がある。
黄金聖闘士の居室ともなれば、その品格を保つためにそれなりに贅を尽くした設えが必要とされるものなのかもしれない。
だが生来貧乏性なのか、どうにももったいないと思ってしまう私にはこの広さは少々落ち着かない。
どうせそう頻繁に帰ってくるわけではないのだ。
これから聖域に戻ってきたときには、こうしてミロの寝室を共有させてもらうことにしようか。
そんなことをあつかましく考えていると、傍らのミロが小さく私の名を呼ぶ声がした。
「カミュ」
目を遣ると、こちらに差し伸ばされるミロの手が視界をゆっくりと横切る。
すぐに意図を悟った私は目を閉じた。
おやすみのキス、だ。
子供の頃、保護者代わりだったサガは、よい夢をみられるようにと毎晩私たちの頬にキスを落としてくれた。
愛されていることを実感させてくれるその優しい口付けを、ミロと私は争うようにねだったものだ。
この幸せな入眠儀式は、当然ながらサガの失踪と同時に一旦途絶えることとなる。
しかし、サガ不在の事実を直視することを厭った私たちは、いつしかお互いにキスを交換するのが習慣になっていたのだ。
いつかまたサガに出会えるようにとのこのまじないめいたキスは、かつてはかるく頬に触れるだけのものだった。
だが、互いに抱く好意の質が変わってきた近頃では、少し違う。
頬だけでなく、額に、瞼に、唇に、春の雨のように柔らかな口付けは、あらゆる場所に降り注ぐようになっていた。
私はただ目を閉じ、ミロの腕の中そのキスの雨に酔いしれていればよかった。
しばらくは、それでいい。
吐息に熱が篭り始めるまでは、ただそうしてミロに身を委ねていればいい。
とはいえ、限界はもうすぐそこまで来ていた。
執拗との形容が許されるほど熱いキスに変わる頃には、いつのまにかミロの腕に動きを封じられ、繰り返される口付けに呼吸すら苦しくなり、何一つ考えることなどできなくなる。
意識が朦朧と霞み始めるようなこの艶めいたキスの行く果ては、自律を美徳とする私には理解も想像も及ばない。
未知は悪戯に不安と恐怖を呼ぶ魔物だ。
背筋をぞくりと這い登る妖しい感覚は、次第次第に私の全身を侵蝕しつつあった。
このもどかしいまでに狂おしい情動に支配されたなら、私が私でなくなる予感がしていた。
そんな自己統制すらかなわない自分など見たくもない。
だから、その兆しを感じ取るや、私は一目散に逃げ出すことにしていた。
そうでなければ、おやすみのキスなどできない。
洪水に押し流されるように否応もなく理性を放棄させられる恐怖を覚えさせられては、眠るどころではない。
「ミ……」
もう寝ようと告げようとしたのだが、こんな短い名を呼ぶ余裕さえ与えてもらえず、私の口は再びミロのそれで塞がれた。
するりと侵入してきた生温かい舌を懸命に押し戻そうとしたが、むしろミロを煽る結果に終わったのか、逆に私の舌が絡み取られる始末だ。
どちらのものともつかない唾液が二人の間にぽたりと落ち、ようやく私は何かが違うことに気付いた。
いつものミロなら、ここまで性急で貪欲なキスはしない。
私が少しでも拒む素振りをみせたなら、ミロはすぐにそうと察して離れてくれるはずなのだ。
それなのに、今日のミロはおかしい。
私の意向に注意を払うどころか気付こうともしない。
いや、むしろ気付いた上で私の反応を無視して楽しんでいるようにさえみえる。
このまま骨の髄まで貪りつくされるような気がして訳もなく恐くなった私は、ミロを押しのけようと必死でもがいた。
「ミロ、おまえ、何のつもり……」
「何って……」
軽く目を見張ったミロは、ついで薄く笑った。
口の片方だけをかるく吊り上げる、ミロお得意の嫌な笑い方だ。
「わかるだろ」
妙にざらついた声音が鼓膜を震わせる。
その瞬間、私は自分が何もわかっていなかったことを遅まきながら理解した。
ミロが求めているものは、おやすみのキスでも、ただ枕を並べて語り明かす夜でもない。
ミロが求めているものは
その答えを悟るや、私は思い切りミロを突き飛ばしていた。
「……何するんだよ」
油断していたのだろう。
寝台から見事に転げ落ちたミロの恨めしそうな声が床の方から聞こえた。
私は無言のまま乱れた髪を手で整える作業に没頭するふりをした。
注がれる視線にも気付かない風を装いじっと俯く私に、ミロもようよう行き違いがあったことに感づいたのだろう。
小さな溜息のあとやはり小さな軋み音がして、見上げると、寝台の端にミロがこちらに背を向けて腰掛けていた。
手を伸ばせば容易に届くだろう。
だが、その背は何故だかとても遠くにあるような気がして、手を差し伸べることなど到底できなかった。
「ミロ……」
「……やけにあっさり承知するから、おかしいと思ったんだよ」
呼びかけを遮るようにぼそりと呟く声は、ひどく疲れたように乾いていた。
怒った、というよりも、呆れ果てたという口調だ。
我知らず身を竦める私に、ミロはこちらを振り返ることもなく淡々と続ける。
「俺たち付き合いだして結構たつんだから、泊まってくってことはそういう意味だと思うだろ、普通」
私は唇を噛んだ。
普通は、そうなのかもしれない。
だが生憎と私は色恋沙汰にはひどく疎いのだ。
迂闊と責められても反論はできないが、そういった考えが少しも頭を過ぎらなかったのは紛れもなく事実だ。
弁明もできずうな垂れる私に、再びミロは苦笑交じりの溜息を落とす。
「ごめん、やっぱり今日は宝瓶宮帰って」
静かな声は強制ではなく、ただの依頼だ。
しかし、その提案に逆らうことなど、今の私にできるはずもなかった。