無憂宮
 自己嫌悪にとっぷりと浸りつつ宝瓶宮への階段を登る。
 重い足を引きずりようやく寝室に辿りついた私は、そのまま寝台にどさりと身を投げ出した。
 毛布に隠れるように顔を埋めると、かすかに太陽の香りがする。
 長く主不在の宮の寝具とも思えないこの心地よい安らぎは、留守を頼んだミロの配慮の賜物だろう。
 私の帰還予定に合わせ、忘れずに寝具に日を当てておいてくれたらしい。
 私が今夜の誘いを断り自宮に帰ることも、充分見越していたということか。
 私は小さく息を吐いた。
 ミロを好きだという気持ちに偽りはない。
 彼の私に対する想いを知って以来何年もかかってようやく出した結論なのだから、その点に関しては間違いはない。
 ただ、それが情交に及ぶとなると話は別だった。
 私はそっと指先で唇に触れてみた。
 ミロの口付けを散々受け止めてきたこの唇は、かるく指でなぞるだけでもあの甘美な感触を思い起こさせてくれる。
 最初の頃こそ戸惑ったものの、キスにはすぐに慣れた。
 唇がこれほどまでに敏感なことにいささか驚いたが、その甘やかな刺激は決して嫌いではない。
 しかし、それ以上の行為となると、途端に沸き起こる緊張と恐怖にどうしても身体が強張ってしまうのだ。
 だから、積極的に求めてこない彼の優しさに甘え、時折眩しそうに私をみる彼の視線の意味に気付かない振りを続けていた。
 どちらかと言えば早熟なミロには申し訳ないという自覚はありつつも、私は話題がそちらへ及ぶことすら殊更に避けていたのだ。
 つくづくと自分が嫌になる。
 狡猾で、我侭で、臆病で、こんな矮小な人間などミロにはふさわしくない。
 いや、むしろミロのためには、その方がいいのかもしれない。
 幼馴染で親友で、だから恋人にもならなければいけないなどという法はない。
 だが、そうしてミロを解放してやろうと考える端から、一方で彼を失うことを惜しみ何とか繋ぎとめようと画策する私がいる。
 ミロのために、一体私はどうするべきなのだろう。
 自分のとるべき行動に迷うとき、子供の頃の習慣で、私はいつも胸の中のサガに問いかけることにしていた。
 穏やかな微笑を浮かべたサガと議論を重ねるうちに自ずと答えをみつけだせるのだが、残念ながら今回ばかりはその方法は役に立たない。
 こんな痴話喧嘩めいた下世話な相談など、いくら想像の中とはいえサガに持ちかけるわけにはいかない。
 だから、私は一人毛布にくるまり、この問題と向き合うしかなかった。
 幸か不幸か、夜はまだ長い。
 考える時間だけはたっぷりとあった。


 寝室に差し込むいつもより明るい光に、ここはシベリアではないことを思い出す。
 今日の修行内容を考えなくてもよいことに少しほっとしながら、私はうつらうつらと夢との境目を漂いつつ昨日の出来事を思い浮かべた。
 昨日久々に聖域に戻った私は、天蠍宮でミロと食事をし、そして……。
 「……おはよう」
 不意にかけられた声に私は飛び起きた。
 慌てふためく私の姿がおかしいのか、傍らの椅子に座ってこちらをみていたミロがくすりと笑う。
 少しも気付かなかった。
 いつからミロはここにいたのだろう。
 寝起きのまだぼんやりとした頭では何も考えられず、私はとりあえず曖昧に頷いてみせた。
 「朝食、お持ちしましたんで。食べるだろ」
 ベッドサイドのテーブルをみると、ハムやらチーズやらを切って載せただけのオープンサンドが用意されていた。
 「……ああ、ありがとう」
 ベッドで食事など、行儀は悪いしシーツにパン屑は散るしであまり気が進まなかったが、折角のミロの好意を無下にするのも忍びなかった。
 何より昨夜のことを思えば、私はミロに対して強く出られる立場にはないのだ。
 甦る記憶の気まずさにミロの顔を真っ直ぐみれない私に、ミロは少し困ったように笑った。
 「そんなに緊張するなよ。寝起きを襲おうってわけじゃない」
 「別に、緊張などしていない」
 「だったらいいけど。はい、コーヒー」
 ミロが手渡してくれたマグカップを両手で包み込み、殊更に時間をかけてコーヒーを二口三口と飲む。
 猫舌ということもあるが、こうして何か他にする作業があるおかげで余計なことを考えずにすむのがありがたかった。
 だが、残念ながらミロはそんな私の内心の思いになど頓着ないようだ。
 「……昨夜は、悪かったな」
 前触れもなく最も避けたかった話題を持ち出され思わずむせる私から、ミロは苦笑と共にカップを取り上げさらに続けた。
 「でもさ、いい機会だから、この辺ではっきりさせときたいんだけど」
 ミロの表情が引き締まり、蒼の瞳が射抜くように私を見据える。
 その鋭い視線に脅えた私は逃げ出したくてたまらなくなったが、何故か魅入られたように身動き一つできなかった。
 「俺、おまえのこと、ああいう邪な欲望込みで好きだから」
 いきなり核心を突くミロの言葉に、私はもう誤魔化しとおすことなどできないのだと悟った。
 とはいえ、ずっと目を背け先延ばしにしてきたこの問題を、私はまだ直視する勇気が持てない。
 どうしてよいのかもわからずただ俯く私に、呆れたミロは苦笑いを浮かべるしかなかったのだろう。
 「だけど、おまえが嫌なら何もしないから、安心しろ」
 ぽんぽんと子供をあやすように私の頭をかるく叩いたミロは、ついで冗談めかして「正直辛いけど、我慢するから」と付け加えた。
 軽口めいた最後の一言は、普段は隠しおおせているミロの本心なのだろう。
 やはりミロに過度に抑制を強いているのだと思うと、罪悪感にも似た感情が耐え難いほどに沸き起こる。
 「……すまない」
 無意識にぽつりと言葉が出た。
 かろうじて出たその声に導かれるように、私は思い切って顔を上げた。
 「すまない。次に帰ってきたときには……」
    どうするというのだろう。
 まだ、自分がミロと情を交わすという光景を想像することすら覚束ないというのに。
 明らかに不確実な決意は最後まで言うことができなかった。
 舌先で途切れた言に、それが口先だけの言い逃れだと敏感に察したらしく、ミロはわずかに表情を歪めた。
 「そんな期限決めてできるもんなら、一時間後とかに設定してよ」
 冷たい声が胸を抉るように突き刺さった。
 私はどうしていつもこうなのだろう。
 どうしていつも無神経な言動でミロを傷つけてしまうのだろう。
 泣きたいのはむしろミロの方だろうに、あまりの自己嫌悪に涙腺が緩みそうになった私は言葉もなく顔を伏せた。
 「冗談。無理するな」
 沈む私の気を引き立てようと笑いを含んだミロの声がしたが、顔は上げられなかった。
 身動き一つしない私に業を煮やしたか、ミロは私の顔を両手で挟み込むと無理矢理上を向かせた。
 綺麗な蒼の瞳が真っ直ぐに私を覗き込む。
 私は自分の置かれた状況も忘れ、その吸い込まれそうな美しい瞳に見惚れた。
 「待つから。おまえがいいって言うまで、いつまでだって待つから。俺、結構忍耐力には自信あるんだぜ」
 そう言って、ミロはにこりと笑う。
 子供の頃からずっと、私を支え励ましてきた朗らかな笑顔だ。
 「……何故、おまえは私をそれほど大事にしてくれるんだ」
 思わず口をついてでたのは、素朴な疑問だった。
 これといって取り得もない、むしろ扱いづらくて厄介なはずの私に、何故ミロがこれほどまでに執着するのか。
 彼を慕う人間など他にいくらでもいるだろうに、よりにもよって何故私だったのか。
 ずっと尋ねてみたかった、だが恐くて訊けなかった質問に、ミロは訝しげに小首を傾げた。
 「何でって……。カミュだから、かな。他に理由いる?」
 ミロは質問の意図がわからないといった風情で、不思議そうに私をみつめる。
 彼にとっては、この質問もその答えも、自明すぎて考えたこともないということなのだろうか。
 いつだってミロはこうだ。
 彼の中で確立した基準は少しもぶれることはなく、ミロはいつだって自分の行動に自信と誇りを過剰なまでに伴わせることができるのだ。
 私は小さく息を吐いた。
 決心がついた。
 ミロを解放などしてやるものか。
 たとえ私がどんなに彼を悩ませたとしても、それはそう望んだミロの自業自得なのだから、構うものか。
 私はミロの髪を一房手に取り、その癖のある金髪を手綱のようにぐいと引っ張って彼を引き寄せた。
 驚くミロが何か言おうとする前にその唇をキスで塞ぎ、またすぐに離れる。
 「……私も同じだ。ミロだから、こういうことをしたいと思う」
 照れ臭さのあまり視線を合わせることもできず、まるで怒ったようにぶっきら棒な口調になった。
 だが、そんな愛想のない告白でも彼を喜ばせることに成功したらしく、ミロは極上の笑みを浮かべてくれた。
 「なあ、何もしないから、そっち行っていい?」
 弾んだ声でそう言ったかと思うと、返事も待たずに寝台に上がる。
 それはあまりに機敏な動きで、気付いたときには私はすっかりミロに背中から抱えられるような体勢になっていた。
 背に感じるミロの温もりは心地よいが、この妙に煩く鳴り響く心臓の音が聞こえてしまうかと思うといたたまれない。
 わずかに身を硬くする私を、ミロはぎゅっと抱きしめた。
 「俺、こうしてるだけでも結構幸せなんだよね。おまえ、人に触られるの苦手なのに、俺だけは許してくれるもんな」
 「……おまえは避けても避けても近づいてくるから、諦めただけだ」
 「ああ、じゃ、俺の粘り勝ちってことで」
 楽しげに笑ったミロは、ついで私の首筋にそっと口付けた。
 「おまえ、初めはキスも苦手だったけど、今は大分慣れたからもう嫌じゃないだろ」
 素直に肯定することもできず、どう返事をすればよいものか迷った私は沈黙を守った。
 その沈黙をミロは都合よく無言の肯定と受け取ったらしく、満足げに続ける。
 「だからさ、結局慣れもあると思うんだよね。こうやってちょっとずつ慣らしていけば……」
 そう言いながら、ミロの唇は首筋を這い登り耳まで到達していた。
 彼が一語発する度に唇が肌の上を微妙に滑り、熱い吐息がかかる。
 息が詰まるような甘美な刺激に、私はきつく目を閉じ拳を握り締めた。
 何もしない、と言ったあの言葉は嘘だったのか。
 そう詰問してやりたかったが、そんな余裕などもはやどこにもなかった。
 ざわりと波立つ感覚を必死で堪える私の気も知らず、ミロは平然とうそぶく。
 「いつかは慣れて大丈夫になるかもしれないし、そしたら……」
 一旦言葉を切ったミロは、続く台詞を熱っぽく耳元で囁いた。
 率直な、あまりに率直過ぎるその一言は、私をこの髪色ほどに赤面させるに充分なものだった。
 「……調子に乗るな」
 「あ、怒った?」
 少しも反省の様子のないあっけらかんとした声でミロは笑う。
 怒ってはいない。
 だが、たとえ怒っていたとしても、こうして耳朶を甘噛みされていてはその怒りをぶつけることなどできはしなかっただろう。
 抑制を強いられる代償として、ミロは私を篭絡しようとてぐすね引いて待ち構えているのかもしれない。
 それなのに、感情も思考も全てミロの甘いキスによって麻痺させられてしまったのか、何故か少しも腹がたたないのが我ながら不思議でならなかった。

BACK          CONTENTS