無憂宮
月下氷人


 天蠍宮での酒宴は珍しいイベントではない。
 人を惹きつけるミロの天賦の才は、相手が黄金聖闘士であってもその効力を遺憾なく発揮する。
 必然、彼の守護する宮には人が集まり、人が集まれば会話も弾み、会話が弾めば喉も渇く。
 酒豪ぞろいの聖闘士たちが相手ともなれば、この因果の流れは逆転し、初めから酒瓶持参で訪れる輩さえいるほどだった。
 ただ、今夜の客は、珍しい存在だ。
 獅子座のアイオリア。
 比較的夜が早い規則正しい生活をしていることと酒に強くないということで、酒席にはあまり姿を見せない彼が、今日は柄にもなく酔っていた。
 「アイオリア、水でも飲むか」
 今まで何度となくかけられた酒席の誘いを断ってきたのは、ただの口実ではなかったらしい。
 酒に弱いのは真実なのだろう。
 もともと血色の良い顔をさらに朱に染め、重たそうにかぶさる瞼を必死で持ち上げているアイオリアを案じたカミュが、さりげなく声をかけた。
 しかし、それに答えたのは本人ではない。
 「大丈夫、まだまだイケルって」
 「ミロ、おまえには訊いてない」
 「えー、カミュ、冷たい。俺のことも心配してよ」
 「するだけ無駄だ」
 あっさりとミロの抗議を却下したカミュは水を注いだグラスを手の中で冷やすと、無言でアイオリアに手渡した。
 酔った自分を自覚していたのか、白く曇るグラスを受け取ったアイオリアは、ビールを飲むときよりも速く、一気に水を流し込んだ。
 ふぅっと、大きく息をつく様は、グラスの中身が水でなければ、いっぱしの酒飲みのそれだ。
 「よし、もう一杯いくか」
 「もう無理に勧めるな。そのくらいにしておけ」
 酒瓶を手にしたミロは、呆れ顔のカミュに嗜められ不満げに頬を膨らませた。
 豊かな表情の変化には、しかし、カミュの琴線に訴える効果はもはやない。
 一々ミロの我侭をきいてなどいられないと、カミュは平然とミロから酒瓶を取り上げた。
 そして、訝しげに視線を転じる。
 先程から自分たちにじっと注がれるまなざしの主と、目が合った。
 「何だ、アイオリア?」
 「……おまえら、いいな。仲が良くて」
 酔眼朦朧としたアイオリアが、白い歯を見せにこりと笑った。
 酒席でこうして揶揄されるのには、もう慣れていた。
 普段なら、他に娯楽はないのだろうかと呆れつつ、耳を素通りさせる類の戯言だ。
 ただ、今日は予想もしていなかった人物からの無邪気な一言。
 その衝撃は大きかった。
 酔ってもいないカミュの頬が、途端に紅潮する。
   「うん、仲いいよ。羨ましいだろ」
 「馬鹿……!」
 見せ付けるように抱きついてくるミロに鉄拳を喰らわせ、カミュは弁明すべくアイオリアを振り返った。
 が、その勢いは途端に失速する。
 視界に入ったのは、テーブルに突っ伏し高いびきをかくアイオリアの姿だったのだ。
 この様子なら、朝になれば今の会話も目にした光景もすっかり忘れているだろう。
 心底安堵したカミュは、今度は険しい顔でミロに向き直った。
 無論、人前で不埒な言動に及んだミロを叱責するためだ。
 説教は、悪事の直後が最も効果的だ。
 弟子の指導で培った教育理論を実践すべく、カミュは口を開いた。
 「……どうした?」
 しかし、音として発せられたのは、意図とは異なる疑念の言葉だった。
 腕組みしたミロが、真剣に何かを考えるように眉根を寄せていたのだ。
 「俺たちが仲良くて羨ましいって言ってたよな、リア」
 酒の席におけるミロの思案顔など、いまだかつてお目にかかったことはない。
 驚きに言葉をかけることもできないカミュが見守る中、しばらく考え込んでいたミロは、やがて大きな音を立てて両手を打ち合わせた。
 「よし、決めた!」
 「……何をだ?」
 ミロの突拍子もない思いつきは、大抵の場合、カミュを巻き込むことをも想定にいれたものだ。
 結局はミロに振り回されることになる付き合いの良い自分を呪いつつ、カミュは戦々恐々として問うた。
 「リアに幸せのおすそ分けだ。あいつの恋を応援するぞ!」
 「……は?」
 自分でも呆れるほど間抜けな声が出た。
 もっとも、ミロの思考は、この思い付きをどう実践するかという課題に集中しているらしい。
 幸いにも、カミュの反応などミロの感覚器を素通りするだけだったようだ。
 既にカミュもこの計画の共謀者であると思っているのか、ミロは勝手に話を進めていく。
 「俺が聖域に張り巡らせた情報網によると、リアの相手は鷲座だ」
 「白銀の?」
 鷲座の魔鈴は、先の聖戦で黄金聖闘士不在の聖域の防備にあたった勇士として名を馳せていた。
 十二宮の事情にすら疎いカミュでさえ瞬時にその姿を脳裏に描くことができる、数少ない聖闘士の一人だ。
 ミロはおもむろに頷いた。
 「お互い意識はしてるが、じれったいことになかなか先へ進まんらしい。そこでだ」
 一旦言葉を切ったミロは、じっとカミュの瞳を覗きこんだ。
 「俺たちできっかけを作ってやろうと思うんだが」
 「そうは言うが……」
 ミロの情報網とやらがどれほど当てになるものなのかさっぱりわからないし、アイオリアに仲を取り持つよう頼まれたという訳でもない。
 それは余計なお世話というものになりはしないだろうか。
 気乗りのしないカミュの反論を粉砕するかのように、ミロは畳み掛けた。
 「俺たちだって、こうなるにはきっかけが必要だったろ? で、今は幸せだ。違うか?」
 違う、などと言ったのなら、視線で焼き殺されるだろう。
 酔いも手伝ってか、妙に迫力のあるミロの瞳に屈したカミュは、曖昧に頷いてみせた。
 「じゃ、アイオリア支援プロジェクトの成功を祈って!」
 満足気に笑うミロは、カミュの手にしたグラスに勢いよく自分のグラスをぶつけた。
 乾杯というにはあまりに乱暴な行為に酒が零れるのも気にならないようで、そのまま上機嫌でグラスを飲み干す。
 「もったいないことをするな」
 手を振って雫を払うカミュの声に、わずかばかりの怒気がこもった。
 酒に濡れた手の感触が不愉快で、苛立ちを隠す気にもならない。
 「ああ、悪い。濡れた?」
 見て判らないかと毒づきたくなるのをぐっとこらえ、仏頂面のカミュは無言でミロに手を突き出した。
 「……お詫びが必要?」
 ミロの瞳に悪戯な光が宿る。
 閃光のような危険信号。
 が、そう感知した時には既に遅く、伸ばした手はしっかとミロに捉えられていた。
 手首を拘束するミロの手は、その握力の強さを痛いほどに伝えてくる。
 「綺麗にしてあげるから」
 手に零れた酒を拭き取ってくれるのかという期待は、もろくも崩れ去った。
 いや、拭き取ってはくれていた。
 ただし、カミュの想定とは異なることに、拭き取るのは布などではない。
 ぴちゃぴちゃと淫靡な音をたて、ミロはカミュの手を濡らした酒を舐めとっていた。
 長い舌でミルクの皿を舐めまわす猫のように、隅から隅まで丹念に舌を這わせていく。
 指先をしゃぶるミロの舌の触感が、くすぐったさから逃れがたい快楽に変わるのは、時間の問題だった。
 「……ミロ、アイオリアが……」
 傍で熟睡しているアイオリアにちらりと視線を走らせつつ、カミュは掠れた声でささやかな抗議を試みた。
 「大丈夫、眠れる獅子は起きない」
 やはりアイオリアに一瞥を与えたミロは、妙に自信たっぷりにそう断言した。
 「どうして言い切れる?」
 「さっき、ちょっと中枢神経いじっといたから」
 「……おまえは……!」
 「ああ、あんまりおっきな声出すと、さすがに起きるかも」
 口の端をにやりと持ち上げたミロは、お静かにとでも言うように、カミュの唇に人差し指を添えた。
 熱い指が唇を焼き、酒の匂いが鼻先をくすぐる。
 カミュから言葉を奪ったミロの指は、そのままゆっくりと唇の輪郭をなぞっていった。
 「俺の指も綺麗にしてくれない?」
 酒混じりの吐息に覆われたミロの熱っぽい囁きを遠くに聞いた。
 人に羨ましがられるほど、自分たちは幸せなのだろう。
 少なくとも、求める相手にこれほどまでに欲されている、自分はそうだ。
 やはりミロに振り回されている自分を腹立たしく思いつつも、カミュは酒に濡れて光るミロの指をそっと口に含ませた。
 ミロから漂ってくるのと同じ酒気が、途端に咥内に氾濫し、カミュの身体の奥底目指して侵蝕していく。
 グラスから飲む酒よりも、はるかに酔える気がした。


 さわやかな秋の陽射しに照らされる小道を、アイオリアは黙然と歩いていた。
 落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回していた視線が、やがて前方の一点に集中する。
 「……さっさと行くよ」
 自分に注がれる視線を察したか、きびきびとした歩調で前を行く魔鈴が振り返りもしないで呟いた。
 「あ、ああ」
 狼狽した声が我ながら情けなく、アイオリアはわざとらしい咳をして誤魔化してみた。
 この道行きは、突然の女神の呼び出しに端を発したものである。
 普段の彼女は、荘厳な女神というよりも、可愛らしい少女という感じだ。
 その鳶色の瞳にいつもにも増した茶目っ気を浮かべた沙織は、アイオリアと魔鈴に特命を与えたのだった。
 「……八つ葉のクローバー、ですか?」
 「そう、探してきてほしいの」
 四つ葉ならともかく、八つ葉のクローバーなど聞いたこともない。
 アイオリアは目を瞬かせた。
 「しかし、女神……」
 「心配しないで。地図があるから、そのとおりに行ってくれればいいの」
 にっこりと微笑む沙織には、少女とはいえやはり逆らいがたい気品と風格がある。
 言いよどむアイオリアの傍らで、跪いていた魔鈴が顔を上げた。
 「……なぜ、私たちに?」
 現実的な疑問を口にできるのは、やはり同性だからだろうか。
 魔鈴の冷静な質問は、至極的を得たものである。
 平時とはいえ、聖闘士を二人、それも黄金聖闘士までを動員しなくてはならないほどの任とは、どう考えても思えない。
 しかし、その問いかけも沙織の予想の範囲内だったのだろう。
 沙織は少し恥ずかしそうに瞳を揺らめかせた。
 「だって、女神とあろう者が幸福のお守りを欲しがってるなんて、人に言えないじゃない。その点、あなたたちは口が堅そうだから……」
 ね、お願い、と、両手を合わせて頼み込まれては、相手が女神でなくても断れるアイオリアではない。
 渡された手書きの地図とやらが、どう見てもミロの筆跡によるものという疑問はあったが、その任務を遂行すべく、魔鈴と共に聖域を後にしたのである。

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