無憂宮
 「……第一段階は計画通りだな」
 魔鈴と二人きりの出張に緊張の色が隠せないアイオリアは全く気づいていなかったが、気配を感知されないだけの最低限の距離をおいて、彼らを尾行する者がいた。
 「女神まで巻き込んで、一体どうするつもりなのだ」
 呆れた、と言わんばかりのカミュのうんざりした口調を気にもとめず、ミロはにやりと笑った。
 「女神も応援してたぞ、あいつらのこと」
 「しかし……」
 「まあ、聞け。もうすぐ、第二段階つり橋効果作戦を開始するからな」
 「はぁ?」
 最近スパイ物の映画でも観たのだろうか。
 そう疑いたくなるほど勿体をつけつつ、ミロは彼の立てた自称’綿密な’作戦の説明を始めた。
 「つり橋効果って知ってるか? つり橋を渡る時のドキドキを恋愛のドキドキと錯覚して恋に落ちるってやつ」
 「……情動二要因理論か?」
 「んー、何だかよくわかんないけど、多分それ。この先につり橋があるから、二人に渡ってもらう。これが第二段階」
 あまりに楽天的な計画に、カミュはため息をついた。
 「あのな、ミロ。彼らは聖闘士だぞ。つり橋を渡るくらいで心拍数が上がると思うか?」
 「上がらないかな?」
 「望みは薄いな」
 冷たく言い捨てられても、ミロは一向にこたえた様子はなく、その顔から得意気な笑みは消えなかった。
 「そんなときのために、第三段階。八つ葉のクローバー探しだ! 共同作業により、親密度が高まるって寸法だ」
 それも、なかなか達成しにくい目標だしな、とミロは快活に笑った。
 計画の成功を信じて疑うことのない晴れやかな笑顔に躊躇いつつも、カミュは言いにくそうに口を挟んだ。
 折角上機嫌なミロの気分を損ねたくはないが、現実から目を背けるわけにもいかない。
 「しかし、見つからなかったらどうする。八つ葉など、そうそうあるわけではあるまい」
 「甘いな、カミュよ」
 立てた人差し指を左右に振るという芝居がかった仕草で、ミロはカミュの諌言を退けた。
 ついでミロは周囲を見渡し、少し離れた草地に歩み寄る。
 クローバーの群生地だ。
 しばらくその中に座り込んでいたミロは、やがておもむろにカミュに向けて握った手を差し出した。
 「なんだ?」
 カミュの目の前で、一本一本指が開かれていく。
 その手の中には、二つの四つ葉のクローバーが摘み取られていた。
 子供の頃から、ミロはこういったものを探すのが得意だった。
 一つも見つけられないカミュのために、よくミロはカミュの分まで探し出してくれたものだった。
 すっかり忘れかけていた幼い頃の記憶が甦る。
 迸る思い出の中に流されそうになったカミュを現実へと引き戻すのは、やはりミロだった。
 「ほら、こうすると八つ葉になるだろ」
 ミロは手にした四つ葉の茎を重ねもった。二つのクローバーの、重なった葉数は八枚。
 八つ葉、だ。
 カミュの目前にかざされたクローバーの向こうで、蒼い瞳が悪戯っぽく笑っていた。
 「二人が共にあることで、幸が訪れる。そういうメッセージもこめてみました、ってね」
 問題はあいつらがそういう繊細な意図に気づくかどうかだがなと、ミロはアイオリアたちが過ぎ去った方角を見遣った。
 カミュからみれば破綻だらけな計画なのだが、ミロの中ではそれがこの作戦の唯一の難点なのだろう。
 先程までの自信に満ち溢れた表情に、ほんの少し影が落ちる。
 カミュは口許を綻ばせつつ、軽く息を吐いた。
 ミロの塞いだ顔など、見たくはない。
 彼にはやはり、笑顔が似合うのだ。
 「ちょっと、貸してみろ」
 意図を図りかねたか、不思議そうに瞳を瞬かせるミロに、カミュは微笑んで手を差し出した。
 「……違う」
 何を勘違いしたのか、ミロはカミュが差し出した手をぎゅっと握り締めてきた。
 思い切り爪を立ててやると、小さな悲鳴を上げ、ようやく手を離す。
 「冗談です」
 あまり反省を感じさせない謝罪の言葉と共に、ミロはカミュの掌にクローバーを載せた。
 痛々しい爪痕の残る手にわざとらしく息を吹きかけているミロを横目に見つつ、カミュは掌に凍気を集めた。
 程なく、カミュの手の上のクローバーは、重なり合った八つ葉の状態のままに凍りつく。
 「頃合を見て、二人に届けてやろう」
 「すご……」
 しばらくの間目を丸くして氷葉を覗き込んでいたミロは、やにわに座り込んだ。
 ミロの突飛な行動は、さすがのカミュにも予測がつかない。
 「どうした?」
 「俺のも作って! 今、四つ葉探すからさ」
 地面に顔をつけんばかりにして必死にクローバーを選り分けるミロに、カミュはくすりと笑みを漏らした。
 「アイオリアたちに追いつけなくなるぞ」
 「だけど……」
 不満げに唇を尖らせるミロに、カミュはくるりと背を向け歩き出した。
 「……そんなものなら、いつでも作ってやるから」
 呟いた台詞を耳にするやいなや、飛び上がるように立ち上がったミロが追いかけてくるのを背中越しに感じた。
 その顔に眩いほど喜色に満ちた笑みを浮かべていることも、後ろを振り返るまでもなくわかった。


 彼らが追いついた頃には、すでにアイオリアと魔鈴はつり橋の中ほどまで渡っていた。
 ミロの思惑が外れたことを証明するように、二人とも平然と揺れる橋を歩んでいる。
 「……おっかしーな。もっとこう、寄り添って歩くとかしないかな」
 「怖くなければ、つり橋だって地上と同じだろう」
 魔鈴を先に一列になって歩く姿は、先程まで目にしていた通りだ。
 そこには恐怖など微塵も存在していない。
 つり橋効果の前提となる緊張状態の発生など、期待しようもなかった。
 ミロは悪戯を思いついた子供のように舌なめずりをした。
 「もっとスリルが必要ってことか」
 「……何をする気だ?」
 全身が総毛立つようなとてつもなく嫌な予感に囚われつつ、カミュが尋ねる。
 「揺らす」
 簡潔な応え。
 ミロの小宇宙が、すっと指先に集中した。
 嵐の前の不気味な静寂のように不穏な雰囲気を漂わせながら、ミロの人差し指の辺りに小宇宙が燻りだす。
 指で拳銃を模ったミロは、にやりと笑いつつ、その狙いをつり橋付近に設定した。
 「バン!」
 口で発射音を真似る様は、まるで子供が遊んでいるようだ。
 しかし、あいにくミロは無邪気な子供などではなかった。
 ミロの射撃は、小宇宙の弾丸を込めたものだ。
 その威力は、玩具の拳銃の比ではない。
 「……あれ?」
 「馬鹿、強すぎる!」
 小宇宙の配分を間違えたか。
 つり橋を掠めただけとはいえ、その衝撃波に、つり橋は嵐の海に翻弄される小船のように大きく揺らいだ。
 橋上の二人も、突然の足場の崩壊に、たまらず体勢を崩す。
 隠れ見守っていたことも忘れ飛び出そうとしたミロを、カミュが慌てて引き戻した。
 「大丈夫だ」
 カミュが指差す方を見たミロは、安堵の息と共に大きく胸を撫で下ろした。


 アイオリアには、何が起きたのかさっぱりわからなかった。
 ただ、近づいてくる波動を察知した瞬間、意思とは無関係に体が勝手に動いていた。
 聖闘士としての本能は、たとえそれが平時であろうと、いかに油断していようと、アイオリアを守ってくれるらしい。
 尋常ではない烈風を感じた刹那、アイオリアは前を行く魔鈴を抱き寄せ、向こう岸へと跳んでいたのだ。
 何だったんだ、今のは。
 久々に堅い地面を踏みしめたアイオリアは、不審に襲われつつ後ろを振り返った。
 つり橋はまだ先程の余韻を残し、遊園地のアトラクションのように激しく左右に揺れていた。
 「……いい加減、下ろしてくれない?」
 素っ気無くかけられた声に、アイオリアは突然腕の中の重みを自覚した。
 跳躍の際、咄嗟に魔鈴を抱き上げた。
 今の自分たちは、いまだにそのままの体勢でいるのだ。
 「うわっ……!」
 あまりに自分の近くに存在する顔と、鍛えられた聖闘士とはいえ女性特有の柔らかさを持つ身体に、ようやく魔鈴を抱き上げていることに気づいたアイオリアは動転した。
 「……あのさ、私は落とせじゃなくて、下ろせって言ったんだけど」
 動揺したアイオリアの腕から振り落とされた魔鈴は、かろうじて受身をとり怪我は免れたものの、不機嫌そうに地面に座り込んでいた。
 「す、すまない。びっくりして……」
 アイオリアが差し出した手を、魔鈴はきゅっと握って立ち上がった。
 そのまま、しばらくつないだ手を離さない。
 アイオリアは、魔鈴を見た。
 仮面に隠されたその表情はわからない。
 自分にも、仮面が欲しかった。
 今の自分は、必死で表情を押し殺して冷静な振りをしているのだから。
 それでも、つないだ手を通じて、激しく鳴る心臓の鼓動は伝わってしまっているのかもしれない。
 彫像のように固まってしまったアイオリアを、魔鈴はじっと見上げてきた。
 「……でも、一応礼は言っておく。ありがとう」
 言うやいなや、魔鈴はさっと手を離し身を翻した。
 「さ、行くよ」
 歩き出す魔鈴が、さっきより早足になっているのは気のせいだろうか。
 魔鈴に握られた自分の手と、遠ざかる後ろ姿を交互にみつめていたアイオリアは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 「魔鈴」
 びくっと足を止めた魔鈴が振り返る。
 アイオリアは口を開いた。
 「……クローバー、君の分も見つけるから」
 魔鈴は軽く首を傾げた。
 「……見つけられるもんならね」
 「任せとけ」
 「……期待しとくよ」
 仮面の下で、魔鈴がかすかに笑ったような気がした。
 アイオリアも、自然と顔が綻んでいた。


 「あとは二人次第だな」
 木立の合間に姿を消しつつあったアイオリアたちを、カミュは微笑んで見送った。
 その言葉に、ミロも満足気に頷く。
 「ああ、アイオリアが頑張ってくれそうだ。ひょっとして、あいつ、昨夜の俺たちに触発されたのかもな」
 「昨夜って……。だが、ミロ、アイオリアは……」
 散々酔っ払った後、ミロの神経麻酔により昏睡していたはずだ。
 昨夜の痴態が脳裏にまざまざと甦ってきたか、カミュはわずかに頬を赤らめつつ問うた。
 ミロは肩をすくめ、けろりと答える。
 「ああ、あれ、嘘」
 「……は?」
 「リアは酔いつぶれて寝てただけ。いや、そう言わないと、カミュがその気にならないかと思ってさ」
 作戦の成功を確信し上機嫌のミロは気がつかなかった。
 カミュの周囲の気温が降下し、空気はぴんと張り詰めだしたことに。
 カミュはかすかに震える声で呟いた。
 「……念のため確認するが、昨夜はいつ起きても不思議はないアイオリアが隣室にいた、ということか?」
 「うん、まあ、そういうことになる……な……」
 ようやくミロはカミュの全身から白く立ち上る冷気に気づいた。
 笑顔がそのまま、引きつったように凍りつく。
 「だ、だから、寝室行くまで我慢したろっ? でなきゃ、あのままテーブルに押し倒してたって」
 必死に弁解するミロの声が空しく響く。
 血の気が失せるほど拳を握り締め、わなわなと全身を震わせながら俯いていたカミュが、ゆっくりと顔を上げた。
 「……ミロ」
 凄絶なまでに美しい微笑が、そのかんばせに宿っていた。
 この氷の微笑を浮かべたカミュは、危険だ。
 ミロの背筋が、恐怖にぞくりと凍りついた。
 「奈落の底に落ちて来いっ!」
 カミュの拳が炸裂した。
 怒りに満ちた冷酷な微笑の迫力に麻痺したように動けなくなっていたミロは、防御すら間に合わなかった。
 崖下に吹き飛ばされ、それでもかろうじて崖の中腹にしがみつく。
 しかし、放たれた凍気にすっかり凍りついた岸壁にいつまで取りすがっていられるものか。
 寒さに震えつつ、ミロは恐る恐る頭上に声をかけた。
 「お、おーい、カミュ? カミュさん?」
 ちらりと下を覗き込む、紅い瞳と目が合った。
 ミロを助ける気など毛頭ないということが、その冷厳な瞳から嫌というほど読み取れた。
 「しばらくそこで頭を冷やせ」
 「落ちるって、マジで!」
 上空から降ってきた、シベリアに吹きすさぶ風よりも冷たい声に、ミロは悲鳴を上げた。
 が、返ってくる言葉はない。
 ただ足音だけが遠ざかり、やがて、黄金聖闘士の感覚をもってしても、カミュの気配は感じ取れなくなった。
 「……冷たい……」
 かじかむ手に息を吹きかけ温めつつ、ミロは氷壁に貼り付いていた。
 相手の攻撃に即座に対応できるよう、常に体勢を整えておけ。
 修行中、幾度となく聞かされた戦闘の基本。
 恋愛にもそれは当てはまるのだと、いつかアイオリアに忠告してやろうと思った。

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