無憂宮
White lie


 工房の作業台は、幼いムウには少々高過ぎた。
 しばらく背伸びをして頑張ってはみたものの、この無理な体勢では思うように作業が捗らない。
 やがてあっさりと状況に見切りをつけたムウは、一旦隣接する白羊宮の居室に戻った。
 小さな体には余る椅子を抱え持ち、よろけそうになりながらもえっちらおっちら運んでくると、作業台の前にどんと据える。
 座面に立ち上がってみると、師の目線の高さには遠く及ばないが、それでも直面していた問題は一応解決したようだ。
 満足気に頷いたムウはぐるりと周囲を見渡した。
 さして広くない室内には、様々な工具や資材が壁や棚のあらゆる隙間を駆逐せんとするかのようにぎっしりと並べられ、まるで魔法使いの隠れ家のような不思議な空間を生み出していた。
 これが、世界にたった一つしかない聖衣の修復所。
 修復を手がける人間のみが出入りを許された聖なる地だ。
 修復技術を承継しつつある者としての誇らしさが否が応にも沸き起こり、ムウの自尊心を愛撫する。
 そのくすぐったい面映さを心地よく味わいつつ、ムウはちらりと一隅に目をやった。
 室奥では、再び聖闘士の身に纏われ戦いに赴く日を夢見るように、痛々しい傷を負った聖衣が大人しく復活のときを待っている。
 今日はそのうちの一つの修復を手がけようと、宮を出掛けに優しく微笑んだ師の言葉が、ムウの昂揚感を煽るようにまざまざと甦ってきた。
 聖衣修復は、代々白羊宮の守人が担う務めだ。
 とはいえ、聖闘士としての資格と輝く黄金の聖衣は得たものの、修復師としてのムウはまだ修行の最中にある。
 修復師でありながら教皇という重責をも担う師シオンは、ゆっくりと時間をかけ懇切丁寧に修復術を教え込もうとしているのだろう。
 畏敬の念を強くせずにはいられないほどにその指導は厳しかったが、弟子の手先の器用さと物覚えの良さに師が密かに目を細めていることを、ムウはちゃんと知っていた。
 弟子として指導を受ける時間が、これから先もまだまだ続いていくのは嬉しい。
 しかし、それ以上に、一日も早く修復の知識と技量を身につけ、少しでもよいから多忙を極める師の手助けになりたかった。
 その願いがいかに真摯なものかを証明するように、ムウは一つ一つの師の教えをあますところなく心に刻み付けていた。
 彼が今こうして人気のない工房に入り込んでいるのは、その指導の賜物だ。
 今日甦らせる予定の聖衣は、前聖戦の過酷さを物語るように特に損傷が激しく、深い亀裂がそこかしこに走っていた。
 指示を受けたというわけではなかったが、その傷ついた聖衣の姿を脳裏に描いた瞬間、自己修復力を高めるために傷に塗りこめる充填材を用意しておこうと思い立ったのだ。
 銀星砂に極微量の聖油をとろりとたらすと、大理石の捏ね板の上に円を描くように伸ばしてはまとめる動作を繰り返す。
 さらさらとした粉末状の修復材は丹念に練り上げるムウの手の下で次第に粘度を増していき、ぼってりとした塊になる頃には滑らかになった表面が鈍い艶を帯び始めていた。
 教皇の職務を終え帰ってきた師は、すっかり修復準備の整った工房を目にしたなら、さぞ喜んでくれるだろう。
 自慢の弟子だと、骨ばった大きな手で優しく頭を撫でてくれるだろう。
 だから、もう少し、もう少しだけ、頑張ろう。
 そうしてムウがぐっと両の掌に力を込め一心に修復材を捏ねていたときだった。
 「……粘土遊び?」
 突如かけられた気の抜ける声に、つるりと手が滑った。
 一塊にまとまりつつあった粘材が、作業台の上でぐしゃりと潰れる。
 しばらく無言で自分の手をみつめていたムウは、ゆるゆると視線を戸口に向けた。
 「……違います。ああ、そこから入らないでください!」
 今まさに工房内に足を踏み入れようとしていた子供が、慌てたように後ろへ飛び退る。
 見慣れない修復道具が並ぶ室内は、好奇心に溢れた彼の目には格好の遊び場と映るのだろう。
 豊かな金髪を揺らしながらきょろきょろと物珍しげに周囲を見渡す来訪者に、ようやく気を取り直したムウは作業を再開しながら問うた。
 「何か御用ですか、ミロ」
 「うん、訊きたいことがあるんだ。ムウだったら、よく本とか読んでるし、カミュの次くらいに物知りかなと思って」
 「……そう思うのなら、カミュに尋ねればいいではありませんか」
 言外にカミュには劣ると言われているのが少々不愉快だった。
 知らず知らず声が尖りを含んだが、ミロは自分の台詞がムウを不機嫌にさせたことになど全く気付かない様子で、空を切る音が聞こえそうなほど激しく首を横に振る。
 「ダメだよ。カミュに、教えてやりたいんだから」
 殊更にカミュの名に強勢を置いたミロの返答に、ムウは大きな瞳をゆっくりと瞬かせた。
 およそ自分が興味を引かれないことに関しては絶望的な知識量を誇るミロは、大抵の場合教えられる立場の人間であり、彼自身もその立ち位置を素直に受け入れていたはずだ。
 そのミロが、ありとあらゆる学識を頭に詰め込もうと常に本を抱えているようなカミュに、何やら教えてやりたいと言う。
 ひどく興味をそそられた。
 「何をです?」
 作業の手を休めてようやく来客に向き直ったムウを、ミロは真っ直ぐにみつめてきた。
 「蠍座と水瓶座が仲良しっていう神話とかないの?」
 「……聞いたことがありませんね」
 「なんか一つくらいない? 水瓶の中で溺れた蠍が助けられるとか、そんな情けないのでもいいからさ」
 「どうしてそんなことを訊くんです?」
 悪戯っぽく問い返すムウに、ミロはむくれたように顔をしかめて黙り込む。
 これが答えを承知した上での質問だということを勘良く察したのだろう。
 わざとわからない振りをしたのは、作業を中断させられたことへのささやかな仕返しだった。
 ふざけたような言葉とは裏腹にひどく真剣な表情を浮かべ食い下がるミロの意図くらい、容易に見抜くことができた。
 十二宮の住人全てが、カミュを追い掛け回すミロの姿を一度は目にしたことがある。
 どういうわけかミロは初見からいたくカミュを気にいったらしいのだが、残念ながらカミュの方は警戒心も露に彼から逃げ惑っているらしい。
 初対面の相手にあれほど剥き出しの好意を手加減なくぶつけられれば、人見知りが過ぎるカミュでなくても多少はたじろぐとムウなどは思うのだが、あいにくとミロはそんな繊細な心の機微には考えが及ばないのだろう。
 自分が彼を好きだから、彼にも自分を好きになってほしい。
 いや、きっと好きになるはずだ。
 その自己中心的な思考を後先考えずに行動に移してしまえる幼い傲慢さは、いっそ眩しいほどだった。
 とはいえ、さすがにこの追いかけっこが数日も続くと、いかに不遜なミロとはいえ考えるところがあったのかもしれない。
 会話の糸口を掴むために、自分とカミュを関連づける事象が存在するならば、それが何であろうと縋りたいのだろう。
 ムウは気づかれないよう小さく笑った。
 あまりミロをからかうのも可哀想だ。
 「……そういえば、神話ではありませんが、こんな話がありますよ」
 諦めに暗く沈みかけていたミロの表情が、突如もたらされた希望の光に輝いた。

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