無憂宮
 念を送るべくすっと指を持ち上げたムウは、修復対象の聖衣を一つ、宙に浮かべてみせた。
 今にも崩れそうなその聖衣の姿は、動物を模ったオブジェ形態なことともあいまって、まるで傷ついた小動物のようだ。
 ミロの眉が痛々しげに顰められるのを横目でちらりとみたムウは、静かに言葉を紡いだ。
 「この聖衣とあなたの聖衣には大きな違いがあるのですが、わかりますか?」
 講義のようなムウの質問に、しかつめらしい顔を作ったミロは小首を傾げて答えた。
 「……俺のの方がカッコイイ?」
 「……そういうことではありません」
 的外れな返答にかくりと頭を垂れたムウは、軽い咳払いの後、あっけなく自ら解答を明かした。
 「この聖衣は、今は主不在の上激しい損傷を負ったため、死んだも同然の状態にあります。その証拠に聖石を御覧なさい」
 聖衣に象嵌される聖石は、小宇宙を増幅する役割を果たすと言われていた。
 動物を模した星座の聖衣の場合、それは大概瞳の部分にあたる。
 この聖衣の場合も例外ではなかったが、その聖石はムウの言葉を裏付けるように、遺骸の眼のごとく白濁した膜に覆われていた。
 ミロの喉が脅えたようにこくりと鳴った。
 ムウはそんな音など聞こえなかったかのように、殊更にもったいぶった口調で説明を続けた。
 「残念ながら見ての通り、この聖石は何の情報も私たちに与えてくれません。ですが、生きた聖衣の聖石は、たくさんのことを教えてくれるのです」
 「そうなんだ……」
 全く知らなかったという様子で、ミロは口も目もこれ以上ないというくらいに丸くした。
 しかし、それが修行時代の自分の知識のあやふやさを露呈することに遅まきながら気付いたのか、慌てて口を引き結ぶ。
 「で、それが今、何の関係があるんだよ」
 素朴な疑問に我が意を得たりと、ムウは意味ありげに微笑んでみせた。
 「聖石が告げる情報の中には、その聖衣の主と相性のよい相手に関するものも含まれているのですよ」
 聖闘士は常に単独で行動するというわけではない。
 征討に派遣される聖闘士が複数人となることもままあることだった。
 そしてその折には、技の相乗効果のみならず聖闘士同士の性格の合致までふまえた人選がなされるのだが、この決定要素として聖石のもたらす情報は非常に重視されているという。
 したり顔で滔々と説くムウは、一旦言葉を切るとミロの瞳をじっと見据えた。
 「ところで、あなたとカミュの聖石はどんな色でした?」
 互いの聖衣の姿を思い起こそうとしてか、ミロは天井付近を見上げ視線を彷徨わせた。
 自慢の聖衣である以上、蠍座の紅の聖石は考えるまでもなくすぐに思い浮かんだはずだ。
 一方、水瓶座の聖石は……。
 やがて、ムウが言わんとしていることをようやく悟ったらしく、ミロは「あっ」と大きな声を上げた。
 微笑んだムウは静かに頷いた。
 「……あなたたちの瞳の色によく似ていると、私はそう思うのですが、いかがです?」
 ミロの、水瓶座の聖石を思わせる蒼の瞳に、みるみる歓喜の色が浮かぶ。
 「うん、俺もそう思う! 嬉しいな、俺たち相性いいんだって、早速カミュに教えてやろうっと!」
 先程までの思いつめた様子もどこへやら、外へ向かって走り出そうとしたミロは、すぐにたたらを踏むように立ち止まった。
 転びそうになりながらもその反動を利用して勢いよく振り返り、室内に残されたムウににっこりと笑いかける。
 「ムウ、ありがとう。やっぱり、おまえ、すごいや」
 「いえ、それほどでもありませんよ」
 惜しみない賞賛を真正面から浴びせられ、ムウは照れくさそうに長い睫を伏せた。
 謙遜してみせるムウに、ミロは満面の笑みで無邪気に続ける。
 「いや、ホントにすごいって。あ、そうだ、今度このお礼に、とかげのしっぽやるよ!」
 「……いりません」
 拒絶の返事が届くより早く、ミロは背を向けて駆け去っていく。
 ミロとしては純粋な謝礼のつもりなのか、それともこの工房を妖しい魔術の研究所か何かと完全に勘違いしているのか。
 小さな疑問だけが、残されたムウの胸の内に残った。


 ようやく作業を終えたムウは、一まとめにした充填材を濡れた布で覆い包んだ。
 乾燥しないようきっちりと隙間なく包み込んだことを確認すると、静かに戸口を振り返る。
 「いつまでそこに隠れているつもりです?」
 問いかけに促されるように、きいと小さな悲鳴を上げながら扉が開いた。
 その隙間からおずおずと顔を覗かせたのは、目も醒めるような紅髪の子供だった。
 噂をすれば影、だ。
 とはいえ、ムウが新たな訪問者の気配を察したのは、ミロが帰って随分経ってからのことだったから、先程まさにこの場所で自分のことが話題に上がっていたことなど、彼は少しも知らないのだろう。
 「すまない。パン作りの邪魔をしてはいけないと思った」
 弁解するような彼の言葉の意味を一瞬量りかねたムウは、作業台の上を見た。
 なるほど、捏ね上げられた充填材は、確かに発酵中のパン生地のように見えないこともない。
 しかし、かなり譲歩してやるならば、という留保条件が必須なことは明白だ。
 思わず溜息が漏れた。
 「……カミュ、あなた、だんだんミロと思考回路が似てきましたね」
 独り言じみた声がよく聞き取れなかったのか、訝しげに眉を顰めるカミュに、ムウは苦笑しつつ向き直った。
 「何でもありません。それより、何か?」
 カミュが自発的に他人の宮を訪れるというのは珍しかったから、この質問は至極当然なものだ。
 少し言いよどんだカミュは、やがて意を決したようにムウを見上げてきた。
 「さっき、ミロが妙なことを言ってきたのだが、それは本当だろうか?」
 ムウはきょとんと瞬きを繰り返した。
 「……ひょっとして、聖石の話ですか?」
 「ああ、ミロはムウに聞いたと言っていた」
 真剣な表情で、カミュは答えを求めてひたとみつめてくる。
 その紅い眼差しを、ムウは何故だか非常に心地よいものとして受け止めた。
 先程ミロに語ってきかせた聖石の話は、全く根拠のないムウの作り話だった。
 聖石が様々な情報を蓄えているというのは確かに事実らしかったが、その詳細は教皇でもないムウには知る由もないことだ。
 ミロを喜ばせた石色の話にしても、蠍座の石はその主星アンタレスの色彩に染まっているというだけであり、水瓶座のそれが青いのは水と氷を司る星だからというに過ぎない。
 少し考えてみれば容易にわかることであり、すっかり熱くなり周りが見えなくなってしまっているミロはともかく、聡いカミュには到底この嘘は通じないとわかっていた。
 にもかかわらず、ムウがこんな出鱈目な話を持ち出したのは、ミロの熱意に打たれたからだ。
 懸命にカミュと友誼を深めようとするミロを、応援してやりたくなった。
 いや、そればかりでなく、ミロとカミュが仲の良い友達になれば、カミュのためにも良いことだと思った。
 親から離れ、世間と隔絶した聖域に生き、いつ命を落とすやもしれぬ戦闘に身を投じる自分たちには、そうして互いに支えあう仲間が必要だと、そう思ったのだ。
 とはいえ、さすがに少々お節介が過ぎるかとも懸念されたのだが、幸いにもそんな心配は杞憂に終わってくれるらしい。
 眼前のカミュの、今にも笑みこぼれそうな唇を必死で噛みしめて平静を装っている様を見るかぎり、彼が聞きたがっている返事は、少なくとも否定ではない。
 もしかしたら、きっかけを求めていたのは、ミロだけではなかったのかもしれない。
 ムウの小さな嘘が鍵となり、かちりと錠が外れる音がした。
 胸の奥を柔らかな羽で優しく撫でられたような、そんな温かい感覚がにわかに込み上げてくる。
 そのぬくもりをいとおしく抱きしめながら、ムウは静かに口を開いた。
 「……あなたが本当だと思うのなら、それは真実になるのではありませんか」
 神託を告げるようなムウの声が厳かに響き渡る。
 真紅の瞳をじっと覗き込むと、カミュは少し怯みながらも、それでもムウから目を背けることはなかった。
 沈黙の中、心を決めるに足りるだけの時間が流れ行く。
 やがて、やや強張っていたカミュの表情から、すっと力が抜けた。
 「……わかった。ありがとう」
 小さな吐息と共に漏らされた短い謝辞には、言葉では表しきれない思いがたっぷりと載せられている。
 隠されたメッセージまでもしっかりと受け止めた証に、ムウは師にしか見せたことのないとびきり上等の笑みを浮かべてみせた。
 「どういたしまして。……あ、とかげのしっぽはいりませんから!」
 おまけのように付け足された一言に訳もわからない様子で頷いたカミュは、次いできゅっと表情を引き締めると、「行って来る」と決意表明のような呟きを落とし踵を返した。
 ムウは微笑んでカミュの背を見送った。
 どこへ行くのかなど、訊かずともわかっていた。


 しゅんしゅんと湯が沸く音が聞こえ始めた。
 その合図を待っていたかのように、今日三人目の訪問者が白羊宮を訪れる。
 瞳を閉ざしているにもかかわらず全く危なげのない滑るような足取りで近づいてくるのは、人形のように整った顔とか細い手足の持ち主   シャカだった。
 茶の支度をしていたムウは、振り返ることもなく平然と来客を迎えた。
 どうも白羊宮を食堂と勘違いしているきらいのあるシャカは、よくこうしてふらりとやって来ては当然のように食事を共にしていくので、もう彼の突然の来訪にはすっかり慣れてしまっていた。
 「やはり来ましたね」
 「そろそろ団子が出来た頃かと思ってな。茶を呼ばれに来た」
 「……団子なんて作ってませんけど」
 繊細な美貌には似つかわしくない食い意地の張った台詞を投げかけたシャカは、怪訝そうに首を傾げた。
 「しかし、君はずっと何やら捏ねていたはずだが」
 「……私の周りは、どうしてこう理解のない人たちばかりなんでしょうね」
 繰り返される誤解を訂正する労を厭ったムウは、呆れたようにぼそりと声を落とすと、二つの湯飲みに茶を等分に注ぎいれた。
 「まあ、いいでしょう。菓子はありませんが、茶くらい飲んでいってください」
 「ふむ、仕方があるまい」
 意識してかしないでか、呼ばれてもいない客にしては傍若無人な態度を貫くシャカには、毎度のこととはいえ苦笑するしかない。
 くすりと笑いつつ、ムウはシャカに茶を勧めた。
 「そうそう、茶請けになるかはわかりませんが、今日は面白いことがありましたよ」
 「ほう、私も先程面白いものを見たが」
 是非とも聞いてくれと言わんばかりの口調に、心に訴えてくるものの存在を敏感に感じ取ったムウが無言で続きを促すと、シャカは記憶の情景を呼び起こそうとするように表情を茫と霞ませた。
 夢見るようにわずかにほころんだ唇から伝えられる風景は、ムウの思ったとおりだった。
 「ミロとカミュが、手を繋いで何処かへ駆けて行ったのだ。二人とも、何やらひどく楽しげに笑っていた」
 「……そうですか」
 脳裏に描いた微笑ましい光景に誘われたのか、ふわりと表情を和らげるシャカに釣られたように、ムウも笑みを浮かべた。
 たくさんの蒲公英の綿毛の中にぽんと飛び込んでみたような、ほわほわと頼りない、だが不思議と幸せな気持ちで胸が一杯になっていく。
 そのほのぼのとまろやかな情感は、胸の内だけでは収まりきらず、やがてムウの全身に、さらには室内までをも満たそうと、どんどんどんどん膨張していく気さえした。
 「君も、随分嬉しそうだな」
 周囲に色濃く漂い始めた、両腕を伸ばしてかき集め大切に仕舞い込みたくなるような柔和な気を感じたか、やはり優しげに微笑みながら、シャカが穏やかな声でそっと囁く。
 「……ええ、とても良い充填材を作ることができましたのでね」
 ムウは晴れやかな笑顔で頷いた。

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