2004 ミロ誕
久々に訪れる極北の地には、重苦しい灰色の雲が覆いかぶさっていた。
天空から厚くのしかかる雪雲が放つ圧迫感に、この土地の虜囚となった錯覚さえ覚える。
もうすぐ、雪が降る。
ここが見渡す限りの氷と雪の世界に変わるのも、それほど先の話ではあるまい。
聖域と地続きとは到底思えない気候の差に、ミロはわずかに肩をすくめ身震いした。
これからやって来る長い冬の前の、ささやかな慰問。
自分の誕生日がその口実になるような時期にあるというのは、素直に喜んでよいものかはわからなかった。
それでも、彼との再会が嬉しいことに変わりはない。
荒涼とした大地を吹き抜ける風に髪をなぶらせつつ、ミロはかすかに口許を綻ばせた。
突然戸口に姿を現した自分を、真紅の瞳に驚愕の色を浮かべて迎えるカミュの表情は、予想通りだった。
それに続く、およそ歓迎されているとは思えない無愛想な台詞も、想定通り。
「……何をしに来た?」
「俺、誕生日なんだよね。祝ってもらおうと思って。あ、パーティーの準備はしてきたから、ご心配なく」
立ちはだかるカミュの脇をすり抜け、ミロは屋内に足を踏み入れた。
案内も待たずにずかずかと歩みを進め、居間へと続く扉を開ける。
食堂にも教室にもなるこの家の広間には、実用本位の主人の意向を反映してか、余計な装飾品などなにもない。
ただ、壁際の暖炉でちらちらと演舞を見せている炎が、唯一の色を添えているだけだ。
そんな簡素な部屋なのに、何故か不思議と寒々しさはなかった。
むしろ、やんわりと包み込んでくれる部屋の空気が、冷たい外気にさらされた身体に心地よい。
暖炉の熱だけではなく、ここに住まう師弟の密なる関係が醸し出すぬくもりのためかもしれなかった。
ミロの知らぬ世界を築き上げつつある親友に感じる、かすかな誇りと羨望を押し隠しつつ、ミロはぐるりと室内を見渡した。
ちょうどギリシャ語の勉強をしていたのだろう。
机上に所狭しと本やノートを広げたまま、こちらを窺っていた二人の弟子と目が合う。
「……聖域には、あなたを祝ってくれる人は誰もいないんですか?」
いつもながらの憎まれ口を叩く兄弟子が、悪戯な笑みを浮かべつつ見上げてきた。
どこか自分と同じ匂いがするこの子供を、ミロは嫌いではない。
少なくとも、今のところは。
「残念ながら、俺のファンは多すぎるんでな。俺が誰と過ごすかで喧嘩になったら困るだろ?」
アイザックの髪をかるくくしゃっとかき回し、ミロは口の端を持ち上げつつ、空いた椅子に腰を下ろした。
「それに、一番俺が誕生日を祝って欲しい奴は、ここにいるからな」
ちらりと投げた視線の先で、カミュは不機嫌そうな顔のまま、つっとそっぽを向いた。
相変わらず、つれない。
弟子の面前、ということもあるだろうが、再会を喜ぶ素振りすら見せてくれないのは、少し寂しい。
もっと正直に、もっと素直になってくれればいいのに。
とはいえ、その天邪鬼なカミュを可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱み、というものだろう。
くすりと湧き起こる笑みを慌てて押し殺したミロは、次いで隣に座る弟弟子を見遣った。
先程から、彼がじっと自分をみつめていることくらい、とっくに気づいていた。
「何だ、氷河? 少しはギリシャ語話せるようになったのか?」
一年の修行期間の差は大きい。
大分流暢になったアイザックに比べ、氷河はまだ簡単な会話しかできなかったはずだ。
言葉を知らない分、氷河は瞳に語らせようとするのだろう。
氷河は、座ったミロと目線の高さをそろえようとするように立ち上がった。
綺麗な碧い瞳を見開き、ミロの顔を真正面から覗き込んでくる。
「ミロ、お誕生日なの?」
「ああ、そうだけど?」
訝しげに問い返すミロに、氷河はにっこりと笑った。
「誕生日、おめでとう」
そう言いざま、氷河はミロの頬にかるくキスを落とした。
「……え?」
何の前触れもない唐突な口付けに瞳を瞬かせるミロに、氷河は泰然として微笑んだ。
「誕生日には、マーマはいつもこうしてくれました」
あっけにとられたのはミロだけではなかった。
アイザックもカミュも、その場にいる全ての人間が、言葉もなく呆けたように氷河を注視した。
それでも、氷河は自分に注がれる視線に気づかないのか、にこにこと幸せそうに笑っている。
実は自分は天使だったのだと背中の羽を見せられても、今の氷河だったら納得できる。
そんな思いが胸中に渡来していたのは、自分一人だけではあるまい。
それでもやはり、目の前にいるのは、小さくて泣き虫で、そのくせ負けず嫌いな、自分たちがよく知っている氷河なのだ。
凍りついたように動きを止めた三人の中で、最初に呪縛を解いたのは、ミロだった。
「……おまえ、いい子だねーっ! どっかのひねくれ師弟とは大違いだ。ありがとな!」
痛い痛いと上げられる悲鳴にはかまわず、無邪気な天使の頭を引き寄せると、乱暴に撫で回す。
その嬉々とした姿は、相手の迷惑そうな顔にも頓着なく子猫を抱き上げる、幼い子供のそれだ。
しばらくしてようやく解放された氷河は、不満そうに唇を尖らせながら、すっかり乱れた金髪を手櫛で整えた。
そのさまを視界の端に入れながら、ミロは机の上に身をのりだすと、反対側に座るアイザックに顔を突き出した。
「ほら、アイザック。おまえにはこっちの頬にキスさせてやるぞ」
「遠慮しときます!」
かなり本気で迷惑がるアイザックを、ミロは楽しげに見遣った。
「なんだ、冷たい奴だな。あ、じゃ、師匠は……?」
言いさした言葉は、途中で途切れた。
振り返ったミロが目にしたのは、大きな旅行鞄を手にしたカミュの姿だったのだ。
「……何? どっか行くの?」
カミュは戸口に向かいながら、小さく頷いた。
「ああ、聖域にな」
ミロの蒼い瞳が、不信に見開かれた。
いくら招かれていないとはいえ、客を目の前にして茶の一つも出さずに、しかも今から遠出すると言い放つ、そんな無神経な人間が自分の交友範囲の一番近しい所にいるとは信じたくなかった。
「俺、聞いてないけど?」
「当然だ。教皇には謁見申請したが、おまえには伝えていない。もしおまえが知っていたなら、聖域の情報管理体制に問題があることになる」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
不満気に反論を展開しようとしたミロは、口を噤んだ。
こちらを向いたカミュが放つ、氷の刃にも似た冷たい眼差しに射竦められたのだ。
「おまえがここにいるなら、ちょうどいい。子供たちのギリシャ語をみてやってくれ」
それ以上の会話を一方的に断ち切るように、カミュは自分の希望だけを述べ、さっさと戸口に足を運ぶ。
追いかける間も、呼び止める隙も与えない。
そんなオーラを全身から発散させつつ扉に手をかけたカミュは、ふと動きを止めた。
そして、些細な忘れ物を思い出したように、ちらりと室内を振り返る。
「ああ、それから、誕生日おめでとう」
淡々とした声が、開け放たれた扉から吹き込む風に乗って流れ込んできた。
これほど心のこもらない祝辞を献呈されるのは、生まれて初めてだ。
返す言葉に惑うミロを無視して、カミュは家の外へと身を滑らせた。
冬支度に色を無くしつつある風景の中、紅い髪をなびかせた後ろ姿の残像だけが、しばらく名残を留めていた。
沈黙に支配された室内は、気温が一気に氷点下に落ち込んだ感じさえする。
その陰鬱な空気を救おうとしたか、アイザックがおずおずと口を開いた。
「あの、さ。追いかけたら?」
この世の災厄を一身に背負ったような暗澹たる表情のミロが、そろそろと声の主に視線を転じる。
不幸が空気感染するとでも思っているのか、アイザックは必要以上に早口で続けた。
「その、あなたが持ってきたパーティー支度とやらは、俺たちがもらってやるからさ」
傍らに立つ氷河も、兄弟子の言葉に賛同するように大きく頷いていた。
小さな子供なりに、心配している。
恐らくはミロではなく、様子のおかしい師のことを、だろうが、妙に彼らが頼もしく感じられた。
気遣わしげにみつめる二人の視線の中、ミロは俯いた。
そして、胸の奥につかえた重荷を取り去るように、深々と息を吐く。
「……おまえらを、今日ほど可愛いと思ったことはないな」
ぼそりと呟くやいなや、金の髪を波打たせ、ミロは勢いよく顔を持ち上げた。
その蒼い瞳には、来た時と同じ、活気と自信に満ちた強い光が宿っていた。
「よし、行ってくる! ああ、食い物はやるが、酒は飲むなよ。俺がカミュに怒られるからな」
一息にまくし立てたミロは、瞬時に身を翻すと扉に向かって駆け出した。
「……ドアくらい、閉めてけよな」
残されたアイザックが吐き捨てるように毒づく言葉など、その耳に届いているはずもなかった。
「……何をしに来た?」
「俺、誕生日なんだよね。祝ってもらおうと思って。あ、パーティーの準備はシベリアに置いてきちゃったけど」
ほんの少し前、極北の地において交わされた問答とほとんど同じやりとりが、宝瓶宮の入り口で繰り返されていた。
あからさまに迷惑そうな顔をするカミュを押しのけるようにして、ミロは宮内に足を踏み入れる。
シベリアの家と同じ、簡素な部屋。
ただ一つ異なるのは、こちらの方は、殺風景な外観のままにすっかり冷え切っていることだ。
主の心情を具象化したような室内の中ほどまで足を進め、ミロはゆっくりとカミュを振り返った。
わずかに怯む真紅の瞳を捉えるように、焦点を合わせる。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
この発言が、許可を求めるものではなく意思の主張であることくらい、長い付き合いのカミュには察しがつくはずだった。
無言のままのカミュが視線をそらさないように、ミロはことさら瞳に力を込めて彼を見据えた。
「俺、なんかおまえを怒らせるようなことした?」
ふて腐れた子供のようにかすかに唇を尖らせたカミュは、きっとミロを睨み返してきた。
視線が、ぶつかる。
沈黙が、続く。
どちらが先に口火を切るか。
こういった根競べの勝者は、大抵の場合カミュだったが、今回ばかりは違うらしい。
やがて、カミュはすっと視線を外した。
「……た」
「は?」
カミュがなにやら口の中で呟く言葉に、ミロは即座に反応した。
どんなにかすかな音であろうと、こういう状況でミロの聴覚が聞き逃すはずも無い。
観念したか、カミュは気まずげに顔をしかめつつ、小さく言葉を紡いだ。
「シベリアに、来た」
「……それのどこが悪い?」
カミュ流の理論には、時として理解に苦しまされるが、よくよく聞いてみると彼なりに筋の通ったものが多い。
今回も、自分の考えの及ばないところで、カミュの逆鱗に触れてしまったのだろう。
一抹の諦観と、苦笑と、懸念と。
複雑に混ざり合った感情を隠しつつ静かに問い返すミロを、カミュは鋭い眼差しでねめつけた。
「私が、おまえの誕生日を祝ってやろうと聖域に帰るつもりだったのだ。それなのに……」
「……要するに、俺がシベリアに行ったから、予定が狂ったってこと?」
それは、予想外。
カミュの怒りの原因の馬鹿馬鹿しさに、こみ上げてくる笑いを必死で飲み込み、ミロは無理にしかつめらしい顔をつくってみせた。
「それだけではない。おまえは、私がおまえを祝う気などないと決め付けていた。それが許せない」
自ら祝宴の支度までしてやって来るなど人を馬鹿にしている、と、頬を紅潮させなおも言い募るカミュに、ミロは口の端をにやりと持ち上げた。
「……じゃあ、聞くけど。おまえは、どうやって俺の誕生日を祝ってくれるわけ?」
「……え?」
シベリアでのミロとの再会以来、胸の内に抱え込んできた不満を洗いざらいぶちまけていたカミュが、戸惑ったように瞳を瞬かせた。
誕生日を祝おうとしても、数ヶ月ぶりに帰ったばかりの宮には、幾本かのワインボトル以外、何もない。
弟子の指導に明け暮れる日々では、余分な買い物をしている暇もなかった。
その現実に、思い至ったのだろう。
思いもかけない反撃に狼狽し、落ち着きなく瞳を泳がせるカミュに、ミロは静かに近づいた。
「俺は、カミュが誕生日を祝ってくれないなんて思ってないよ。ただ、おまえに面倒をかけたくなかっただけ」
カミュの傍近くまで歩み寄ったミロは、カミュの頬を両手で挟みこむと、じっと顔を覗き込んだ。
一点集中型のカミュの思考は、時折呆れるほど柔軟性を欠くのが難点だ。
その考えを軌道修正させるには、一旦彼の注意を他に向けさせることが必要だった。
間近に迫るミロの、瞳に、髪に、唇に、カミュの意識はほんの少し動揺を見せる。
それが、彼の心に入り込む一瞬の隙。
「だから俺は、シベリアに、パーティーの準備までして、行きました。……まだ、怒ってる?」
好機をすかさず捉えたミロは、一言一言にありったけの思いをこめ、カミュの耳元に囁いた。
熱を帯びた吐息混じりの囁きは、耳に掛かる紅い髪を揺らし、その耳朶をほんのりと朱に染めてゆく。
上目遣いにミロを睨んでいたカミュの瞳から、氷がじわじわと溶け出すように、徐々に険が取れていった。
怒りの炎は、消えつつある。
安堵と共にミロが手を放すと、カミュはばつが悪そうに、それでもまだ不機嫌な仮面を被りつつうそぶいた。
「……買い物に行く。付き合え」
「何の?」
「決まっている。おまえの誕生日祝いの……」
再び気色ばむカミュに、ミロは優しく微笑んでみせた。
「やっぱり、おまえ、わかってないな。俺は、何にもいらない」
「だって……」
ミロがシベリアに宴の支度まで整えてやって来たのは、祝って欲しいからだろう。
紅い瞳が、そう言いたげに訝しそうに揺れていた。
その瞳に映る自分は、とても幸せそうな表情をしている。
自分がこんな表情ができるのは、カミュが傍にいるときだけだということに、どうして彼はいまだに気がつかないのか。
胸の奥に灯る温かな光球をどこかくすぐったく感じながら、ミロは小さく笑った。
「パーティーはひよこちゃんたちのためだって。俺は、おまえが傍にいて、ちゃんと心を込めておめでとうって言ってくれればそれでいいの」
年に一度の誕生日くらい、最愛の相手と共に過ごしたい。
ミロが願うは、ただ、それだけ。
祝いの品など、何もなくていい。
ただ、カミュがいてくれれば、それでいい。
それがまごうことなきミロの本心であることを、ようやく理解してくれたのだろう。
シベリアを発つときに残した捨て台詞を思い出し反省したか、カミュは仄かに赤面しつつも素直に頷いた。
「おめでとう、ミロ」
「それだけ?」
欲の深いミロの言葉は、先程の台詞と矛盾している。カミュはわずかに眉をひそめた。
この表情を見たいがために、わざと彼を困らせようとしてしまうミロの習性に、カミュはまだ感づいていなかった。
内心でくすりと笑いつつ、ミロは意味ありげにその紅い瞳を覗きこんだ。
「たまには、弟子に教えられることもあるんじゃないの、先生?」
カミュは小首を傾げると、考え事をするときの癖で、顎に指をかけ視線を床に落とした。
やがて、記憶を辿ったカミュは、先程の氷河の言動に思い至ったのだろう。
ああ、と小さく呟くと、氷河からの贈り物を再現すべく、ミロの頬にそっと顔を近づける。
と、カミュがその頬に触れる前に、ミロは一歩後ずさった。
正解の筈のキスをかわされ、訳もわからない様子で瞳を見張ったカミュに、ミロは揶揄するように口角を上げた。
「悪い、頬はおまえの弟子たちが予約済みなんでね。生憎、ここしか空いてない」
軽く舌を鳴らす音と共に、ミロは人差し指で自分の唇を弾き、悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
一瞬呆けたように動きを止めた後、求められている祝福の意味を悟ったカミュが、大仰なため息をつく。
「……まだ、12時前だ。おまえの誕生日は来ていない」
「んー、時差ってもんがあるからね。世界のどっかでは、もう8日だと思うよ」
もう一つ、盛大なため息が、カミュの口から漏れた。
我侭を通す理屈の構築は、カミュよりもミロの方が圧倒的に上手い。
それでも、普段のカミュはもう少し抵抗を試みるのだが、今日は珍しく逆らわないことにしたらしい。
今度はかわされないようにと警戒してか、カミュは腕を伸ばしてミロの頭を引き寄せると、何も言わずに瞳を閉じた。
言葉にならない祝意が、重ねられた唇から伝わってきた。
年に一度は、伝えたい。
あなたがこの世に生を受け、私と同じ時代を共に生きる、全ての奇跡に感謝をこめて。
誕生日、おめでとう。
久々に訪れる極北の地には、重苦しい灰色の雲が覆いかぶさっていた。
天空から厚くのしかかる雪雲が放つ圧迫感に、この土地の虜囚となった錯覚さえ覚える。
もうすぐ、雪が降る。
ここが見渡す限りの氷と雪の世界に変わるのも、それほど先の話ではあるまい。
聖域と地続きとは到底思えない気候の差に、ミロはわずかに肩をすくめ身震いした。
これからやって来る長い冬の前の、ささやかな慰問。
自分の誕生日がその口実になるような時期にあるというのは、素直に喜んでよいものかはわからなかった。
それでも、彼との再会が嬉しいことに変わりはない。
荒涼とした大地を吹き抜ける風に髪をなぶらせつつ、ミロはかすかに口許を綻ばせた。
突然戸口に姿を現した自分を、真紅の瞳に驚愕の色を浮かべて迎えるカミュの表情は、予想通りだった。
それに続く、およそ歓迎されているとは思えない無愛想な台詞も、想定通り。
「……何をしに来た?」
「俺、誕生日なんだよね。祝ってもらおうと思って。あ、パーティーの準備はしてきたから、ご心配なく」
立ちはだかるカミュの脇をすり抜け、ミロは屋内に足を踏み入れた。
案内も待たずにずかずかと歩みを進め、居間へと続く扉を開ける。
食堂にも教室にもなるこの家の広間には、実用本位の主人の意向を反映してか、余計な装飾品などなにもない。
ただ、壁際の暖炉でちらちらと演舞を見せている炎が、唯一の色を添えているだけだ。
そんな簡素な部屋なのに、何故か不思議と寒々しさはなかった。
むしろ、やんわりと包み込んでくれる部屋の空気が、冷たい外気にさらされた身体に心地よい。
暖炉の熱だけではなく、ここに住まう師弟の密なる関係が醸し出すぬくもりのためかもしれなかった。
ミロの知らぬ世界を築き上げつつある親友に感じる、かすかな誇りと羨望を押し隠しつつ、ミロはぐるりと室内を見渡した。
ちょうどギリシャ語の勉強をしていたのだろう。
机上に所狭しと本やノートを広げたまま、こちらを窺っていた二人の弟子と目が合う。
「……聖域には、あなたを祝ってくれる人は誰もいないんですか?」
いつもながらの憎まれ口を叩く兄弟子が、悪戯な笑みを浮かべつつ見上げてきた。
どこか自分と同じ匂いがするこの子供を、ミロは嫌いではない。
少なくとも、今のところは。
「残念ながら、俺のファンは多すぎるんでな。俺が誰と過ごすかで喧嘩になったら困るだろ?」
アイザックの髪をかるくくしゃっとかき回し、ミロは口の端を持ち上げつつ、空いた椅子に腰を下ろした。
「それに、一番俺が誕生日を祝って欲しい奴は、ここにいるからな」
ちらりと投げた視線の先で、カミュは不機嫌そうな顔のまま、つっとそっぽを向いた。
相変わらず、つれない。
弟子の面前、ということもあるだろうが、再会を喜ぶ素振りすら見せてくれないのは、少し寂しい。
もっと正直に、もっと素直になってくれればいいのに。
とはいえ、その天邪鬼なカミュを可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱み、というものだろう。
くすりと湧き起こる笑みを慌てて押し殺したミロは、次いで隣に座る弟弟子を見遣った。
先程から、彼がじっと自分をみつめていることくらい、とっくに気づいていた。
「何だ、氷河? 少しはギリシャ語話せるようになったのか?」
一年の修行期間の差は大きい。
大分流暢になったアイザックに比べ、氷河はまだ簡単な会話しかできなかったはずだ。
言葉を知らない分、氷河は瞳に語らせようとするのだろう。
氷河は、座ったミロと目線の高さをそろえようとするように立ち上がった。
綺麗な碧い瞳を見開き、ミロの顔を真正面から覗き込んでくる。
「ミロ、お誕生日なの?」
「ああ、そうだけど?」
訝しげに問い返すミロに、氷河はにっこりと笑った。
「誕生日、おめでとう」
そう言いざま、氷河はミロの頬にかるくキスを落とした。
「……え?」
何の前触れもない唐突な口付けに瞳を瞬かせるミロに、氷河は泰然として微笑んだ。
「誕生日には、マーマはいつもこうしてくれました」
あっけにとられたのはミロだけではなかった。
アイザックもカミュも、その場にいる全ての人間が、言葉もなく呆けたように氷河を注視した。
それでも、氷河は自分に注がれる視線に気づかないのか、にこにこと幸せそうに笑っている。
実は自分は天使だったのだと背中の羽を見せられても、今の氷河だったら納得できる。
そんな思いが胸中に渡来していたのは、自分一人だけではあるまい。
それでもやはり、目の前にいるのは、小さくて泣き虫で、そのくせ負けず嫌いな、自分たちがよく知っている氷河なのだ。
凍りついたように動きを止めた三人の中で、最初に呪縛を解いたのは、ミロだった。
「……おまえ、いい子だねーっ! どっかのひねくれ師弟とは大違いだ。ありがとな!」
痛い痛いと上げられる悲鳴にはかまわず、無邪気な天使の頭を引き寄せると、乱暴に撫で回す。
その嬉々とした姿は、相手の迷惑そうな顔にも頓着なく子猫を抱き上げる、幼い子供のそれだ。
しばらくしてようやく解放された氷河は、不満そうに唇を尖らせながら、すっかり乱れた金髪を手櫛で整えた。
そのさまを視界の端に入れながら、ミロは机の上に身をのりだすと、反対側に座るアイザックに顔を突き出した。
「ほら、アイザック。おまえにはこっちの頬にキスさせてやるぞ」
「遠慮しときます!」
かなり本気で迷惑がるアイザックを、ミロは楽しげに見遣った。
「なんだ、冷たい奴だな。あ、じゃ、師匠は……?」
言いさした言葉は、途中で途切れた。
振り返ったミロが目にしたのは、大きな旅行鞄を手にしたカミュの姿だったのだ。
「……何? どっか行くの?」
カミュは戸口に向かいながら、小さく頷いた。
「ああ、聖域にな」
ミロの蒼い瞳が、不信に見開かれた。
いくら招かれていないとはいえ、客を目の前にして茶の一つも出さずに、しかも今から遠出すると言い放つ、そんな無神経な人間が自分の交友範囲の一番近しい所にいるとは信じたくなかった。
「俺、聞いてないけど?」
「当然だ。教皇には謁見申請したが、おまえには伝えていない。もしおまえが知っていたなら、聖域の情報管理体制に問題があることになる」
「いや、そういうことじゃなくてだな」
不満気に反論を展開しようとしたミロは、口を噤んだ。
こちらを向いたカミュが放つ、氷の刃にも似た冷たい眼差しに射竦められたのだ。
「おまえがここにいるなら、ちょうどいい。子供たちのギリシャ語をみてやってくれ」
それ以上の会話を一方的に断ち切るように、カミュは自分の希望だけを述べ、さっさと戸口に足を運ぶ。
追いかける間も、呼び止める隙も与えない。
そんなオーラを全身から発散させつつ扉に手をかけたカミュは、ふと動きを止めた。
そして、些細な忘れ物を思い出したように、ちらりと室内を振り返る。
「ああ、それから、誕生日おめでとう」
淡々とした声が、開け放たれた扉から吹き込む風に乗って流れ込んできた。
これほど心のこもらない祝辞を献呈されるのは、生まれて初めてだ。
返す言葉に惑うミロを無視して、カミュは家の外へと身を滑らせた。
冬支度に色を無くしつつある風景の中、紅い髪をなびかせた後ろ姿の残像だけが、しばらく名残を留めていた。
沈黙に支配された室内は、気温が一気に氷点下に落ち込んだ感じさえする。
その陰鬱な空気を救おうとしたか、アイザックがおずおずと口を開いた。
「あの、さ。追いかけたら?」
この世の災厄を一身に背負ったような暗澹たる表情のミロが、そろそろと声の主に視線を転じる。
不幸が空気感染するとでも思っているのか、アイザックは必要以上に早口で続けた。
「その、あなたが持ってきたパーティー支度とやらは、俺たちがもらってやるからさ」
傍らに立つ氷河も、兄弟子の言葉に賛同するように大きく頷いていた。
小さな子供なりに、心配している。
恐らくはミロではなく、様子のおかしい師のことを、だろうが、妙に彼らが頼もしく感じられた。
気遣わしげにみつめる二人の視線の中、ミロは俯いた。
そして、胸の奥につかえた重荷を取り去るように、深々と息を吐く。
「……おまえらを、今日ほど可愛いと思ったことはないな」
ぼそりと呟くやいなや、金の髪を波打たせ、ミロは勢いよく顔を持ち上げた。
その蒼い瞳には、来た時と同じ、活気と自信に満ちた強い光が宿っていた。
「よし、行ってくる! ああ、食い物はやるが、酒は飲むなよ。俺がカミュに怒られるからな」
一息にまくし立てたミロは、瞬時に身を翻すと扉に向かって駆け出した。
「……ドアくらい、閉めてけよな」
残されたアイザックが吐き捨てるように毒づく言葉など、その耳に届いているはずもなかった。
「……何をしに来た?」
「俺、誕生日なんだよね。祝ってもらおうと思って。あ、パーティーの準備はシベリアに置いてきちゃったけど」
ほんの少し前、極北の地において交わされた問答とほとんど同じやりとりが、宝瓶宮の入り口で繰り返されていた。
あからさまに迷惑そうな顔をするカミュを押しのけるようにして、ミロは宮内に足を踏み入れる。
シベリアの家と同じ、簡素な部屋。
ただ一つ異なるのは、こちらの方は、殺風景な外観のままにすっかり冷え切っていることだ。
主の心情を具象化したような室内の中ほどまで足を進め、ミロはゆっくりとカミュを振り返った。
わずかに怯む真紅の瞳を捉えるように、焦点を合わせる。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
この発言が、許可を求めるものではなく意思の主張であることくらい、長い付き合いのカミュには察しがつくはずだった。
無言のままのカミュが視線をそらさないように、ミロはことさら瞳に力を込めて彼を見据えた。
「俺、なんかおまえを怒らせるようなことした?」
ふて腐れた子供のようにかすかに唇を尖らせたカミュは、きっとミロを睨み返してきた。
視線が、ぶつかる。
沈黙が、続く。
どちらが先に口火を切るか。
こういった根競べの勝者は、大抵の場合カミュだったが、今回ばかりは違うらしい。
やがて、カミュはすっと視線を外した。
「……た」
「は?」
カミュがなにやら口の中で呟く言葉に、ミロは即座に反応した。
どんなにかすかな音であろうと、こういう状況でミロの聴覚が聞き逃すはずも無い。
観念したか、カミュは気まずげに顔をしかめつつ、小さく言葉を紡いだ。
「シベリアに、来た」
「……それのどこが悪い?」
カミュ流の理論には、時として理解に苦しまされるが、よくよく聞いてみると彼なりに筋の通ったものが多い。
今回も、自分の考えの及ばないところで、カミュの逆鱗に触れてしまったのだろう。
一抹の諦観と、苦笑と、懸念と。
複雑に混ざり合った感情を隠しつつ静かに問い返すミロを、カミュは鋭い眼差しでねめつけた。
「私が、おまえの誕生日を祝ってやろうと聖域に帰るつもりだったのだ。それなのに……」
「……要するに、俺がシベリアに行ったから、予定が狂ったってこと?」
それは、予想外。
カミュの怒りの原因の馬鹿馬鹿しさに、こみ上げてくる笑いを必死で飲み込み、ミロは無理にしかつめらしい顔をつくってみせた。
「それだけではない。おまえは、私がおまえを祝う気などないと決め付けていた。それが許せない」
自ら祝宴の支度までしてやって来るなど人を馬鹿にしている、と、頬を紅潮させなおも言い募るカミュに、ミロは口の端をにやりと持ち上げた。
「……じゃあ、聞くけど。おまえは、どうやって俺の誕生日を祝ってくれるわけ?」
「……え?」
シベリアでのミロとの再会以来、胸の内に抱え込んできた不満を洗いざらいぶちまけていたカミュが、戸惑ったように瞳を瞬かせた。
誕生日を祝おうとしても、数ヶ月ぶりに帰ったばかりの宮には、幾本かのワインボトル以外、何もない。
弟子の指導に明け暮れる日々では、余分な買い物をしている暇もなかった。
その現実に、思い至ったのだろう。
思いもかけない反撃に狼狽し、落ち着きなく瞳を泳がせるカミュに、ミロは静かに近づいた。
「俺は、カミュが誕生日を祝ってくれないなんて思ってないよ。ただ、おまえに面倒をかけたくなかっただけ」
カミュの傍近くまで歩み寄ったミロは、カミュの頬を両手で挟みこむと、じっと顔を覗き込んだ。
一点集中型のカミュの思考は、時折呆れるほど柔軟性を欠くのが難点だ。
その考えを軌道修正させるには、一旦彼の注意を他に向けさせることが必要だった。
間近に迫るミロの、瞳に、髪に、唇に、カミュの意識はほんの少し動揺を見せる。
それが、彼の心に入り込む一瞬の隙。
「だから俺は、シベリアに、パーティーの準備までして、行きました。……まだ、怒ってる?」
好機をすかさず捉えたミロは、一言一言にありったけの思いをこめ、カミュの耳元に囁いた。
熱を帯びた吐息混じりの囁きは、耳に掛かる紅い髪を揺らし、その耳朶をほんのりと朱に染めてゆく。
上目遣いにミロを睨んでいたカミュの瞳から、氷がじわじわと溶け出すように、徐々に険が取れていった。
怒りの炎は、消えつつある。
安堵と共にミロが手を放すと、カミュはばつが悪そうに、それでもまだ不機嫌な仮面を被りつつうそぶいた。
「……買い物に行く。付き合え」
「何の?」
「決まっている。おまえの誕生日祝いの……」
再び気色ばむカミュに、ミロは優しく微笑んでみせた。
「やっぱり、おまえ、わかってないな。俺は、何にもいらない」
「だって……」
ミロがシベリアに宴の支度まで整えてやって来たのは、祝って欲しいからだろう。
紅い瞳が、そう言いたげに訝しそうに揺れていた。
その瞳に映る自分は、とても幸せそうな表情をしている。
自分がこんな表情ができるのは、カミュが傍にいるときだけだということに、どうして彼はいまだに気がつかないのか。
胸の奥に灯る温かな光球をどこかくすぐったく感じながら、ミロは小さく笑った。
「パーティーはひよこちゃんたちのためだって。俺は、おまえが傍にいて、ちゃんと心を込めておめでとうって言ってくれればそれでいいの」
年に一度の誕生日くらい、最愛の相手と共に過ごしたい。
ミロが願うは、ただ、それだけ。
祝いの品など、何もなくていい。
ただ、カミュがいてくれれば、それでいい。
それがまごうことなきミロの本心であることを、ようやく理解してくれたのだろう。
シベリアを発つときに残した捨て台詞を思い出し反省したか、カミュは仄かに赤面しつつも素直に頷いた。
「おめでとう、ミロ」
「それだけ?」
欲の深いミロの言葉は、先程の台詞と矛盾している。カミュはわずかに眉をひそめた。
この表情を見たいがために、わざと彼を困らせようとしてしまうミロの習性に、カミュはまだ感づいていなかった。
内心でくすりと笑いつつ、ミロは意味ありげにその紅い瞳を覗きこんだ。
「たまには、弟子に教えられることもあるんじゃないの、先生?」
カミュは小首を傾げると、考え事をするときの癖で、顎に指をかけ視線を床に落とした。
やがて、記憶を辿ったカミュは、先程の氷河の言動に思い至ったのだろう。
ああ、と小さく呟くと、氷河からの贈り物を再現すべく、ミロの頬にそっと顔を近づける。
と、カミュがその頬に触れる前に、ミロは一歩後ずさった。
正解の筈のキスをかわされ、訳もわからない様子で瞳を見張ったカミュに、ミロは揶揄するように口角を上げた。
「悪い、頬はおまえの弟子たちが予約済みなんでね。生憎、ここしか空いてない」
軽く舌を鳴らす音と共に、ミロは人差し指で自分の唇を弾き、悪戯っぽく片目を閉じてみせた。
一瞬呆けたように動きを止めた後、求められている祝福の意味を悟ったカミュが、大仰なため息をつく。
「……まだ、12時前だ。おまえの誕生日は来ていない」
「んー、時差ってもんがあるからね。世界のどっかでは、もう8日だと思うよ」
もう一つ、盛大なため息が、カミュの口から漏れた。
我侭を通す理屈の構築は、カミュよりもミロの方が圧倒的に上手い。
それでも、普段のカミュはもう少し抵抗を試みるのだが、今日は珍しく逆らわないことにしたらしい。
今度はかわされないようにと警戒してか、カミュは腕を伸ばしてミロの頭を引き寄せると、何も言わずに瞳を閉じた。
言葉にならない祝意が、重ねられた唇から伝わってきた。
年に一度は、伝えたい。
あなたがこの世に生を受け、私と同じ時代を共に生きる、全ての奇跡に感謝をこめて。
誕生日、おめでとう。