無憂宮
 何度繰り返した行為かなど、既にわからなくなっている。
 それでも、カミュと唇を重ねるたびいつも、初めてキスをしたときのような昂ぶりと、えもいわれぬ幸福感に包まれるのは何故だろう。
 唇を触れ合わせ、互いの舌を絡ませる。
 器官の接触でしかないこの行為に意味を与えるのは、無形の心か。
 恋だとか愛だとか、それがどのような名で呼ばれていようと、一向に構わない。
 ただミロは中毒患者のように、カミュの唇を貪った。
 熱くやわらかい口腔内を舌先に探索させ、翻弄するように逃げ惑うカミュの舌を捕獲する。
 追い詰められた獣のような荒い息づかいと、時折かすかに漏らされるくぐもった甘い声が、ミロをますます耽溺させた。
 狩猟にも似たこのゲームは、ミロの首に回されたカミュの腕の重みが増す頃に、一旦終わりを告げる。
 未練をたっぷり味わいながらも解放してやると、カミュは糸の切れた操り人形のように、力なくその場に崩れ落ちた。
 激しく肩で息をつくさまは、戦闘の後を想起させる。
 もっとも、それが殺伐とした戦ではなかった証に、とろんと焦点を失ったカミュの瞳は今にも泣き出しそうに潤み、力なく半開きになった唇からはどちらのものともつかない唾液が一筋伝い落ちていた。
 日頃、清雅な印象の強いカミュのこんな艶めかしい表情を、作り出すのも、目にするのも、自分だけ。
 自分だけが許された特権に優越感を味わいながら、ミロはカミュの傍らにおもむろに腰を下ろした。
 顔を動かすのも大儀そうに、カミュは視線だけをミロに向けた。
 濡れたように光る紅い瞳と、仄かに上気した白い肌。
 つい最近、どこかで見た気がする。
 この色のコントラストに既視感を覚えたミロは、わずかに瞳を細めてカミュをみつめ直した。
 何処で見たのだろう。こんな華やかな色合いなど、カミュのいない聖域では、そうそう目にすることなどないのに。
 不審と好奇に駆られ記憶の回廊をめぐると、案ずるまでもなく、すぐに正答に思い当たった。
 ……ああ、なるほど。
 ミロは一つ、小さな含み笑いを漏らした。
 「……何がおかしい」
 口づけだけで足が萎えている自分を馬鹿にされたと思ったのだろう。
 呼吸も整わないまま、カミュは不興気に呟いた。
 折角機嫌を直してくれたのに、また不愉快な表情に戻られては困る。
 ミロは慌てて取り成すように首を振った。
 「いや、ちょっと思い出したことがあってな」
 弁解するミロを胡乱気に見遣るカミュは、どうにも納得しかねる様子だ。
 彼の性質からいうと、回答を得られるまで、しばらくこの疑問に拘泥するのは必至だろう。
 ミロはくすりと口角を持ち上げた。
 答えを教えてほしいのなら、やぶさかではない。
 それでカミュが後悔しても、自業自得というものだ。
 「カミュ、俺、やっぱ欲しいものあったわ」
 「何?」
 さりげなさを装い餌を投げると、カミュはあっけないほど素直に食いついてきた。
 続く言葉を促すカミュに内心で詫びを入れると、かすかに感じる罪悪感に目をつぶる決心がついた。
 「や、自分で買ったんだけどさ。さっきシベリアで、ひよこちゃんたちにやっちゃったんだよな」
 腕組みをしたミロは、さも残念そうに顔を歪めてみせた。
 「入手可能な物なら、私が後で用意するが?」
 誕生日祝いだからな、と、カミュは真摯な瞳でミロの答えを求めてきた。
 思惑通りの展開。
 ミロは緩みそうになる表情を、必死で引き締めた。
 「ホント? 嬉しいな。いや、ケーキなんだけどね」
 ミロが口にした事物の平凡さに、明らかにほっとしたカミュは莞爾として微笑んだ。
 「なんだ、それなら明日買いにいけばいい」
 「いや、今、欲しい」
 「無理を言うな」
 駄々っ子にも似たミロの台詞に、カミュは困ったように肩をすくめた。
 普段子供を相手にしているせいか、その表情が途端に妙に和やかになるのが、訳もなく妬ましい。
 幸か不幸か、ミロはカミュが寛容にならざるをえない、幼く聞き分けがないだけの純心な子供ではないのだ。
 それを、思い出させてやろう。
 ミロはぺろりと舌なめずりをすると、右手の人差し指に軽く唇を当てた。
 それと呼応するかのように瞬時に鋭く尖るミロの爪を、カミュは怪訝な顔でみつめていた。
 喧嘩をしているわけでもないのに、こんな穏やかな会話の最中なのに、なぜ今、戦闘態勢をとる必要があるのだろう。
 そんな疑問を顔中に張り付かせたカミュに、ミロは優しく微笑みかけると、その指をカミュの喉に突きたてるように添わせた。
 そして慈愛に満ちた微笑を浮かべたまま、肌に触れるか触れないかという絶妙の距離を保ちつつ、ゆっくりと指を下ろしていく。
 紅い瞳が見開き、爪の下でカミュの喉仏がこくりと動いた。
 ミロはにやりと笑った。
 「だって、美味そうだったんだぜ、あのケーキ」
 紅い爪が、カミュの鎖骨の間をくぐり抜けた。
 「上につやつやした真っ赤な苺がのっててさ」
 紅い爪が、カミュの胸元のボタンを一つ、切り落とした。
 「全体はやわらかくて真っ白い生クリームで飾られてて」
 紅い爪が、二つ目のボタンを切り、透き通るように白い胸をはだけさせた。
 「そういえば、紅と白って、誰かさんとおんなじ色だよな。……ねえ、食べていい?」
 三つ目のボタンを断ち切る前に、カミュの手がのろのろと持ち上がり、胸元を切り裂くミロの指に重ねられた。
 垂れ下がった紅い髪に隠され、俯いた表情は窺えない。
 ただ、囁きよりもかすかな声が、自分で脱げる、と伝えてきた。


 「食後のコーヒーはいかが? ……って、いってもインスタントだけど」
 芳醇な香りを漂わせたカップを二つトレイにのせ、ミロは寝室に戻ってきた。
 情事の後、先に次の行動を開始するのは、大抵ミロの方だった。
 情交の疲労が色濃く残るカミュは、気だるげにベッドに潜り込んだまましばらく動こうとしない。
 いや、正確には、動けないのだろう。
 特に、今回は久々の再会。
 思い返してみると、時折苦痛に歪む表情が、その負担の大きさを物語っていたような気がする。
 だから、このコーヒーサービスは、ささやかな見舞いのつもりだった。
 カミュ不在の宝瓶宮でミロが一人過ごす時間のために、勝手に持ち込んでいたコーヒーがこんな形で役に立つとは思わなかったが。
 苦笑しつつも、いつもより一つ多くカップを用意するのが嬉しかったのも事実である。
 そんなミロの密かな心配りを、一体どのくらい理解しているのか。
 うつぶせたまま枕に顔を埋めていたカミュが、億劫そうに視線だけ動かした。
 「……何が食後だ……」
 「ああ、食べたのは俺だけか」
 軽口を叩きつつサイドテーブルにコーヒーを置き、ベッドの端に腰を下ろしたミロを、カミュはむくれ顔で睨みつけてきた。
 普段、人前ではつんと取り澄ました表情を崩さないカミュだけに、そんな憎たらしげな表情でさえ愛しく思われる。
 紅く燃える視線を春のそよ風のように微笑ましく受け止めていたミロは、やがて気遣わしげにその顔を覗き込んだ。
 「声、ちょっとおかしくない? 風邪でもひいた?」
 少し嗄れた響きの声が、耳に引っかかった。
 ほんのりと赤みがさす頬は、情欲の名残などではなく熱のせいなのだろうか。
 自分自身の体には頓着ないが、カミュの体調は気になって気になって仕方がない。
 健康管理の大切さについて人には煩く忠告するくせに、肝心の自分は平気で無茶をする。
 そんな矛盾の塊のようなカミュを子供の頃から見てきたのだ。
 強制的にカミュに休養をとらせるのは、当時から変わらぬミロの役目。
 すっかり医者の目になったミロの注視に、居心地悪げに表情を曇らせたカミュは、すっと視線を外した。
 「……違うと、思う」
 ぽつんと呟く声と同時に、カミュの頬がさらに赤みを増した。
 しばらくきょとんとみつめていたミロの瞳に、次第に悪戯な光が宿りだす。
 「……ひょっとして、啼きすぎた……?」
 カミュの顔が、途端に鮮烈な朱に染まった。
 そして、真っ赤になった顔を見られまいとしたか、ぐいと毛布を頭の上にまで引き上げ隠れてしまう。
 毛布を引き剥がしてその表情を見てやりたいという意地悪な衝動に駆られる自分を抑え、ミロはくすくす笑った。
 「そういえば、今日はいつもより声出してたよね、カミュ」
 普段のカミュは、少なくとも理性の欠片が残っている間だけは、ベッドの上でも大人しい。
 必死に声を押し殺して眉根を寄せる表情がぞくぞくするほど色っぽくて、ますます彼を籠絡してやろうとミロを挑発する結果になっていることを、カミュは知らないのだ。
 ところが、先程までのカミュは平生と異なり、ほんのわずかな刺激にも顕著な反応を示してくれていた。
 喉の奥から漏れ聞こえる啜り泣きにも似た嬌声に、背中に喰いこむ爪の痛さも感じなかった。
 それ程に、今日のカミュはよく啼いた。
 いつものように、声を聞かせて、とねだる必要もないくらいに。
 と、艶めいた回想に顔を緩めていたミロは、何かしら引っかかるものを感じ、笑みを消した。
 ねだる必要もない……?
 催淫剤でも使ったかと錯覚する程の乱れようは、久しぶりの情事だからかと思っていたのだが、それだけではないのかもしれない。
 ミロはカミュの形に膨らんだ毛布を見下ろした。
 「……そうやって考えると、今日は一回も『イヤ』って言わなかったな。やっぱり、俺の誕生日だから?」
 毛布の下のカミュは微動だにしない。
 その無反応ぶりが、ミロの言葉が正鵠を射ていることを顕著に告げていた。
 どうしよう。こいつ、可愛すぎ。
 片手で顔を覆ったミロは、呼吸困難になりそうなくらい、くつくつと激しく肩を震わせた。
 カミュには迷惑な話だろうが、彼を可愛いと思えば思うほど、からかいたくなるのがミロの性分だ。
 悪戯心に、火がついた。
 「ああ、だから俺がシベリアに行ったら怒ったんだ。なんだ、こうやって祝ってくれるつもりだったなら、最初からそう言えばいいのに」
 「ちが……っ!」
 毛布を跳ね上げ勢いよく身体を起こしたカミュは、途中で反撃の言葉を飲み込んだ。
 無言のまま顔をしかめて全身を震わせているところをみると、まだカミュの身体には耐え難い疼痛が残っているらしい。
 「……お大事に……」
 「誰のせいだ……」
 何のフォローにもならないミロの言葉に憎々しげに毒づいたカミュは、ベッドに横たわると再び毛布にくるまった。
 不機嫌そうに唇を尖らせたまま、ミロの方を見ようともしない。
 その姿は、まるで拗ねた子供。
 こんな師の姿を、シベリアにいる彼の弟子たちが目にしたら、一体何と言うだろう。
 込み上げてくる笑いを懸命に押し留め、ミロは精一杯優しい声を出した。
 「まあ、コーヒーでも飲んで、機嫌直してよ」
 「……紅茶の方がいい」
 我侭な反応を返せるようになったということは、心情的にも肉体的にもそれほど心配はいらないということだ。
 安心したミロは、サイドテーブルからコーヒーカップをとった。
 ほんの少し冷めてしまったが、猫舌のカミュにはちょうどいい温度。
 「そんなこというなよ。折角淹れたんだぜ」
 温かい香気を味わいながら、ミロはカップに口をつけた。
 カフェインの効果か。
 喉を通る琥珀の液体が、じわじわと体中に広がり、疲労を癒してくれる気がする。
 「うん、おいしい。味見してみる?」
 芳しい香りに釣られたか、ミロに独り占めさせるのが悔しかったのか。
 カミュは無言で頷くと、そろそろと起き上がった。
 横になり過ぎてぼんやりと霞む頭を覚醒させようと、瞳を閉じ両手でこめかみを押さえ、二、三度、気だるげに長い髪を揺する。
 寝起き特有のこの仕草をみせるカミュが、呆れるほど無防備なことくらい、長年の経験で知り尽くしていた。
 俺もおまえも、つくづく学習能力がない。
 口元にかすかな自嘲の笑みを過ぎらせつつ、ミロは音もなく手を伸ばした。
 形のよい顎に指をかけくいと引きあげると、突然加えられた動作に驚きを浮かべた双眸と目が合う。
 つかまえた。
 しばし、沈黙。
 「おいしい?」
 「……味などわかるか」
 コーヒー味のキスの後、仏頂面のカミュは、口元を手の甲で拭っていた。
 口移しに飲み損ねたコーヒーに濡れた手がぬらぬらと光り、妙に艶めかしい。
 カミュから目をそらせなくなっている自分を誤魔化すため、ミロはあえて冗談めかして笑ってみせた。
 「ああ、一口じゃ足んない? じゃ、もう一回……」
 「自分で飲む!」
 「飲ませてあげるって。俺の誕生日なんだし、今日は俺の言うことを聞いてよ」
 無邪気なほどににっこり笑うミロを、カミュは視線で凍れとばかりに睨みつけてきた。
 が、やがて、いくらねめつけても全くダメージを受けないその満面の笑みに屈したか。
 小さなため息と共に、徐々に諦観がカミュの表情を支配していく。
 「……今の言葉、私の誕生日まで覚えておけ」
 「了解」
 ミロは、笑った。
 これから時計の針が進み、今日という日が終わりを告げるまで。
 今日だけは、何でも望みをかなえてもらえる王様気分を味わおう。
 だって今日は、誕生日なのだから。
 渋々と腕の中で瞳を閉じるカミュをみつめつつ、さて、次は何をねだってやろうかと、ミロは密かにほくそえんでいた。

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