無憂宮
2004 Christmas


 冬の夜は、寒いから。
 暖かいギリシャとはいえ、夜はめっきり冷え込むようになった頃、そう言って笑いながら、ミロは宝瓶宮に枕と毛布を抱えてやってきた。
 冷たいシーツを早く温めて快適に眠るには、二人分の体温があった方がいい。
 そんな取って付けたような適当な理由だったが、別段拒む理由もなかった。
 小さな子供が二人一緒に寝たところで、宮の寝台はまだまだ充分な広さを有している。
 それに、夜の闇の中でのおしゃべりはどこか秘密めいていて、昼間とはまた違った楽しさを与えてくれるのだ。
 眠りの淵にたゆたいながら、ミロの楽しげな声を聞く。
 なかなか愉快な子守唄に、幸せな夢の訪れを確信しつつ眠りにつけるというのは、贅沢なことかもしれなかった。
 時折、宿泊場所が天蠍宮に変わることはあっても、そうした日々が平穏無事に続いていた。
 そんな、ある夜。


 「あ、カミュ、調度いいところに来た。手伝って」
 断られることなど少しも考えていないのだろう、満面の笑みを浮かべたミロが、両手を振って招き入れる。
 それはいつもの光景ではあったが、今日のミロの立ち位置は、尋常ではない。
 部屋の中央には、彫刻の施された大きな箱が据えられていた。
 彼はその箱から上体を突き出していたのだ。
 まるで中身がミロのびっくり箱を見るようで、カミュは思わず戸口で一瞬立ち止まった。
 「……何してるの?」
 聖衣箱の中で、という後半の語句を飲み込みつつ、カミュは警戒しつつゆっくりとミロに近づいた。
 悪戯好きのミロのことだ。
 本当に、びっくり箱のように何か企んでいるのかもしれないとの危惧が、どうしても拭いきれなかったのだ。
 「それ取って」
 協力申請を承諾したわけでもないのに、質問への答えもなく、ミロは当然のようにカミュに指示を下す。
 ミロは何かに夢中になると、いつもこうだ。
 一々不快に思うこともなくなるほど、ミロの傍若無人振りにすっかり慣れてしまったカミュは、彼が指差す方を見た。
 箱から追い出された蠍座の聖衣が、主人に代わって謝罪するように平伏している。
 その脇には、ミルクの入ったカップと、クッキーを盛った皿が置いてあった。
 床上からカップと皿を取り上げたカミュは、不審気にミロをみつめた。
 「……わざわざそんな所で食べるの?」
 「僕じゃないよ、サンタさんがね」
 「サンタ……さん?」
 瞳をぱちくりと瞬かせるカミュに、ミロは得意げに鼻の頭を擦った。
 「そうだよ。今年一年、僕はいい子だったから、今夜サンタさんが来てくれるんだ」
 僕はいい子。
 そう言ってのけるミロの図々しさは、賞賛に値する。
 闘技場の壁に落書きしてみたり、女神神殿に忍び込もうとしてみたり、無断で聖域の外に遊びに出かけてみたり……。
 そうして毎回サガとアイオロスにこっぴどく叱られていたのは、そのミロなのに。
 くすりと笑いがこみ上げてきたが、ミロが基本的に’いい子’であることは、カミュが一番よく知っている。
 しかし、そもそも、それを食べるのがミロではなくサンタだとしても、なぜ聖衣箱に入って菓子を食べなくてはならないのだろう。
 疑問に答えはでないまま、それでも言われたとおり、カミュはミロに皿を手渡した。
 「ありがと」
 受け取ったミロは、箱の底に皿を置くと、箱の縁に両手をかけて出てこようとした。
 重心を損なって倒れないよう、慌てて箱に飛びついて支えるカミュを尻目に、ミロはひらりと床に着地する。
 「あと、棒か何かないかな。蓋が閉まらないように、つっかい棒にしたいんだけど」
 聖衣箱の蓋を開いたり閉じたりしつつ、ミロはきょときょとと周囲を見渡す。
 カミュもつられて視線を巡らせてみたが、あいにく役に立ちそうな物は目につかなかった。
 「……氷の棒でよければ、作ってあげるけど?」
 「あ、それ、いいね。お願い!」
 長さはこれくらいかな、と、ミロが両手を広げて示す。
 カミュはその中間で掌を合わせると、ゆっくりと左右に開いていった。
 離れていく掌を繋ぐように、徐々に氷の糸が伸びていく。
 ミロが希望する程度に手を広げたころには、カミュの手の間には細い氷柱が出現していた。
 「うん、カンペキ!」
 満足そうに手を出してくるミロを、冷たいから、と、かわすと、カミュは聖衣箱に向き直った。
 試行錯誤を繰り返した後、なんとか半開きにした蓋を氷柱で支えることに成功する。
 ほっと息をついたカミュは、ついでミロに視線を転じた。
 「……で、これで、何がしたいの?」
 「わかんない?」
 「わかれば訊かない」
 「それもそうか」
 何が可笑しいのか、ミロはけたけたと笑った。
 「サンタさんを捕まえようと思ってさ。ほら、箱の中のクッキーを取ろうとして棒が外れたら、蓋が閉まって閉じ込められるだろ?」
 ……サンタは小鳥じゃないんだけど。
 そう言いたかったが、喉元でぐっと堪えると、カミュはミロの次の台詞を無言で促した。
 ミロの思考は、カミュの予想をはるかに裏切ったところで展開されるのだ。
 とりあえず言いたいことを全部吐き出させないと、反論の糸口も掴めない。
 「そしたら、一緒にトナカイのそりに乗せてもらおうよ、カミュ」
 楽しみだな、と、ミロは幸せそうに笑う。
 その脳裏には既に、サンタのそりで夜空を駆け抜ける自分たちの姿が描かれているのだろう。
 地上の明かりをはるか遠くに見下ろしつつ、星が瞬く夜空を風を切って飛ぶ自分たちの姿が。
 「……そうだね」
 期待に満ちたその笑顔があまりに眩しくて、カミュもつい釣り込まれるように微笑んでいた。


 枕元に靴下をおいとかなきゃ。
 煙突ないけど、大丈夫かな。
 サンタさんが来るまで、寝ないで待ってようよ。


 やはりクリスマスの夜は特別なのだろう。
 ベッドに入ってからも、瞳をきらきらと輝かせたミロは次から次へと話題をみつけては話し続け、カミュもまたそれをにこにこと聞いていた。
 それでも、幼い子供の常として、夜が更けるにつれて誘惑を増す睡魔には勝てなかったか。
 次第に口数が減り、瞼が重そうに垂れ下がり、気がつけば二人とも、すっかり眠りの国に囚われていた。
 ただ、概してカミュの眠りはミロよりも浅い。
 時計の短針が垂直ではなくなり始めた頃、室内に滑り込んだかすかな気配に、カミュはぼんやりと瞳を開いた。
 「……あ」
 期せずして、二人の声が重なった。
 ベッドの傍近くに立つ人物と、目が合ってしまった。
 無論、それはサンタではない。
 サンタにしては、はるかに痩せて背が高い。
 サンタというには、あまりに親しく馴染んだ人。
 カミュは目を擦りながら起き上がった。
 「何してるの、サガ?」
 「あ、いや、別に……」
 二人ともすっかり眠りこけていると安心していたのだろう、いつも超然と落ちついているサガには珍しく、表情に隠し切れない動揺が走った。
 「……それ、ひょっとしてクリスマスの……?」
 カミュの言葉に、サガは手にした包みに視線を落とした。
 綺麗にリボンがかけられた、プレゼントの包みが二つ。
 眠る二人の枕元にこっそりと置いて立ち去るはずだったクリスマスの贈り物だろう。
 カミュが注視する中、一瞬の逡巡の後、サガは事態を誤魔化すことに決めたらしい。
 いつもにもまして優しい笑みが、サガの口元に浮かぶ。
 「そうだよ。サンタクロースに預かったんだ。ほら、女神の結界があるから、サンタも聖域には入れないからね……」
 さしものサガも、この嘘はちょっと苦しい。
 カミュはくすりと笑った。
 「気にしないでください。サンタなんて本当はいないって、もう僕は知ってるから」
 ミロは信じてるけど、と、カミュは妙に大人びた笑みを浮かべた。
 不測の事態とはいえ、サンタはいないという現実を、幼い子供に突きつけてしまったサガの心情を慮ったのだ。
 もっとも、本当に気を遣うならば、サガの嘘に気づかず騙された振りをしてやるべきなのだろうが、生憎カミュはそこまで大人には成りきれていない。
 子供らしからぬ冷めた言葉に、ほんの少し、サガは切なげに眉をひそめた。
 それでも、それ以上幼い心に踏み込むことは自粛したか、カミュの発言については何も言わず、ただ黙って手にした包みを差し出す。
 「ありがとうございます」
 明日の朝、ミロが起きるまで開けられないのが残念。
 そう言いながら、カミュは大事そうに包みを受け取ると、枕元に並べて置いた。
 たとえ贈り主がサンタではなくても、プレゼントをもらえるのは嬉しい。
 それが、初めてもらうクリスマスプレゼントなら、なおさらだ。
 その様子を無言でみつめていたサガは、やがて、気を取り直したようにカミュに笑いかけた。
 「……ところで、カミュ。あれはなんだい?」
 サガが指差した先には、ミロが仕掛けたサンタ捕獲用の罠がある。
 カミュは少し困ったように微笑んだ。
 その企図したところを、隠すことなく告げるべきか。
 随分迷ったが、もともとカミュは事態を誤魔化す算段には長けていない上、相手は怜悧なサガだ。
 カミュが弄する程度の小細工など、通用するとはとても思えない。
 観念したカミュは、上目遣いにサガをみつめると、小さな声で呟いた。
 「ミロが、サンタを捕まえようとしたんです」
 「そう、ミロらしいね」
 「……怒らないんですか?」
 聖衣箱の間違った使い方をしたミロが怒られてしまうかもしれない。
 そんなカミュの懸念は、拍子抜けするくらいあっさりと打ち砕かれた。
 安堵と猜疑の混ざった複雑な表情を浮かべるカミュに、サガは微笑を返した。
 「クリスマスだからね、今日は特別」
 異教の救世主の生誕祭も、基本的理念は聖域におけるそれと変わらない。
 深い愛情と優しさに包まれる一日であれ、と、サガは神官の口調を真似ておどけてみせた。
 カミュの瞳から一抹の緊張が拭い去られる。
 紅の瞳から翳りが失せるのを満足気に見守ったサガは、踵を返すと聖衣箱に近づいた。
 蓋を開け内部を覗きこんだサガは、ミロの目論見に反して箱に閉じ込められることもなく、そこから無事クッキーとミルクを取り出した。
 「では、サンタの代わりに頂こうか。カミュもおいで」
 箱にもたれ、床に長い足を投げ出して座ったサガは、悪戯っぽく片目を閉じた。
 頷いたカミュは小走りに駆け寄り、サガに後ろから抱えてもらうようにして、その足の上にちょこんと腰を下ろす。
 サガと二人きりのときは、そこがカミュの定位置だった。
 ここは、一番サガに近くて、最も安心できる、カミュのお気に入りの場所なのだ。
 「ミルクは少し温めたほうがいいな。ちょっと待って」
 カミュ越しにカップを両手でくるんだサガは、高めた小宇宙を掌に集中させる。
 程なく温かそうな湯気の上がりだすカップを、サガはカミュに手渡した。
 こくんと一口飲んだ後、カミュはじっとカップに視線を注ぐ。
 温かいミルクが喉を通り過ぎ、体を内から温めてくれる気がした。
 ほんのりとした安らぎのようなぬくもりは、カミュには作り出すことのできないもの。
 手の届かない、憧れ、だった。
 「いいなあ、サガは」
 「何が?」
 「こうやって、小宇宙でミルクを温めることができるんだもの。ミロも温められるのに……」
 僕にはできないから、と、ぼそりと呟いたカミュは軽く唇を噛んだ。
 小宇宙の属性の違いだということは充分理解しているつもりだった。
 それでも、皆にできることが自分にはできないという事実に変わりはない。
 コンプレックスの塊のような自分は、こんな些細なことでも、無力感に打ちのめされてしまう。
 いつもは胸の中に収めておく慨嘆だった。
 それでも、背中に感じるサガのぬくもりと、そのサガと視線を合わせないですむ今のこの体勢が、カミュの舌を滑らかにする。
 クリスマスは、特別だから。
 だから、素直に甘えてもいいのだ。
 そんな言い訳も、心の中でそっと呟いてみた。
 「……そうだね、これは、カミュにはできないことだね」
 サガの声が、静かに耳をえぐった。
 人に改めて言われると、少し胸が痛む。
 我知らずきゅっと体を縮みこませるカミュに、サガは続けて言葉を紡いだ。
 「でも、私たちは冷やすことはできないんだ。それは、カミュにしかできないんだよ」
 温かいものが欲しければ、私やミロに頼めばいい。いつでも喜んで力になるから。
 そう言って、サガは膝の上のカミュをふわりと抱きしめた。
 表層に張り巡らしそうになっていた氷の武装に、澄んだ音を立てて亀裂が入るのを感じた。
 俯いたままの視界に、溶け落ちる氷の薄片を見た気さえする。
 一切の動きを止めたカミュに、サガはなおも静かに語りかけた。
 「そのかわり、私たちも、冷たいものが欲しいときにはカミュに頼むから。君は大変だよ、一人でみんなの依頼に応えなくてはならないからね」
 穏やかなサガの声に包まれていると、泣きたくなるほどの幸せを実感する。
  ありがたいことに、サガはカミュの劣等感を長所と錯覚させてくれる才の持ち主だった。
 サガと会話をしていると、徐々に、しかも着実に、自分をそれほど嫌いではなくなっていく。
 目には見えない内心の変化が、如実に判るのだ。
 しばらく自分を抱く腕の心地よさに酔いしれていたカミュは、やがてふと顔を上げた。
 「……そうだ、サガにもクリスマスプレゼントをあげなきゃ。何がいいですか?」
 言葉では言い尽くせない感謝の念を、形にして表すいい機会だと思った。
 できうるかぎり、サガの希望に応えてあげたい。
 保護者の喜ぶ顔を期待しつつ、カミュはサガを仰ぎ見た。
 しかし、サガは笑ってかぶりを振る。
 「君が幸せそうに笑っていてくれれば、それで充分だよ」
 見上げた先のサガは、慈しみ深い聖母のように微笑んでいた。
 無償の愛を与えられるばかりで、自分は何の返礼もできないというのに。
 折角の提案をすげなく却下され、カミュは少し不満気に唇を尖らせた。
 が、それも、束の間。
 表情を輝かせたカミュは、サガの腕を振りほどいた。
 怪訝そうにみつめるサガの視線を真っ向から受け、カミュは懸命に背伸びをすると、にこりと笑う。
 「Joyeux Noël!」
 クリスマス、おめでとう。
 心を込めてそう告げると、カミュはサガの頬にキスを落とし、ぎゅっと細い腕でサガを抱きしめ返した。
 「サガ、大好き」
 キスをするのも、抱きしめるのも、好意を言葉に乗せるのも、いつもサガから。
 そうされる度に嬉しくてたまらないのに、自分から試みるのは初めてだった。
 クリスマスは、特別だから。
 その一言が、カミュに勇気を与える呪文だった。
 聖夜の魔法が起こす、ささやかな奇跡。
 サガの嬉しそうな笑顔に、カミュも素直に溢れてくる喜びを噛みしめていた。

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