無憂宮
 あれから幾つもの歳月が過ぎたにもかかわらず、クリスマスが近づくたびに思い出す光景だった。
 特に今夜は、交わした言葉の一語一句や触れ合う肌のぬくもりに至るまで、鮮明に甦ってくる。
 それは、今、カミュがもたれている椅子のせいかもしれなかった。
 かつて幼いカミュを膝の上に乗せてくれたサガのように、自分が深々と身を預けているこの椅子は、不思議と心地がよい。
 もっとも、少々肘掛が狭苦しいのが難点だが。
 「……何?」
 くすりと笑うカミュに、椅子が不思議そうに言葉を発した。
 背中越しにカミュを抱きしめているミロの両腕は、肘掛というよりもシートベルトかもしれなかった。
 何があろうと離さないという、堅い決意のようなものまで伝わってくるのだから。
 「何でもない」
 さらりと受け流されたミロはしばらく無言を貫いていたが、やがてカミュの背後からそっと顔を寄せてきた。
 「なあ、クリスマスだし、懺悔っての、してもいい?」
 肩口にちょこんと顎を乗せられたままの状態では、一語発するたびに吐息と振動が如実に伝わってくる。
 あっけなく肯定されそうな気がして、ずっと訊けないままでいるのだが、ミロがよくするこの仕草は、くすぐったがりの自分に対する嫌がらせかもしれないとさえ思えた。
 肩先から意識を散らそうと、わずかに顔を顰めつつ、カミュは無言で先を促した。
 「子供のときさ、クリスマスにマフラーもらったことあったろ」
 以心伝心とは、こういうことなのかもしれない。
 ちょうど思い返していた幸せな子供時代の記憶を、ミロもまた呼び起こしていたらしい。
 あのとき、サガにもらったプレゼントは、赤いマフラーと黄色いマフラーだった。
 寒さには強いカミュだったが、プレゼントをもらえたことがとても嬉しくて、冬の間中、何処へ行くにも巻いていた。
 懐かしさに頬を緩めるカミュに、ミロは少し脅えたように言葉を続けた。
 「あれさ、枕元にあったの、ホントはカミュに赤、俺のは黄色だったんだよね。だけど、俺、赤がよかったから、こっそりすり替えたんだ」
 「……」
 「ごめん、怒った?」
 「……いや」
 枕元にプレゼントの包みを置いたのは、カミュだ。
 その中身に色の違いがあるなど少しも考えていなかったから、本当はカミュが間違えただけのことかもしれなかった。
 どちらにどの色のマフラーを贈るか、サガには思惑があったのかもしれないが、それはもう今となっては知る術もないことだ。
 だから、もうしばらくの間、真相は秘密にしておこう。
 内心でサガとミロに謝ると、カミュは小さく笑った。
 「おまえがそちらの方がよかったなら、それでいい」
 実は長年気にしていたのかもしれない。
 カミュの言葉に、ミロは心底ほっとしたように晴れ晴れとした笑顔を見せた。
 「うん、すっごい赤が欲しくてさ」
 心の重荷が解かれた解放感だろうか。
 ミロは悪戯っぽく笑うと、カミュの長い髪を束ね持ち、そのままくるりと自分の首に回しかけた。
 「こんな感じ? 似合うだろ」
 「ああ、似合う、似合う」
 気乗りのしない返事を返すカミュに、真紅の髪をマフラーにしたミロの瞳が少し不満気に揺らめく。
 「……赤はカミュの色だから、どうしても欲しかったんだ」
 その声に、先程までのおどけた響きは、もうなかった。
 カミュの髪を首に巻きつけようと、ミロはカミュの傍近くにまで顔を寄せている。
 横目でちらりと見遣ると、思いの他に真摯な光を宿した蒼い瞳が、熱っぽくカミュをみつめていた。
 意識してかしないでか、ミロは時折こうしてカミュを責める。
 かわそうとしてもかわせない、心臓に鋭い剣の切っ先を捻じ込まれたような、呼吸すら覚束ないほどの物苦しさでカミュを苛むのだ。
 無邪気な子供時代の話をしていたせいで、迂闊にも気を抜いていた。
 一抹の後悔と共に、逃げ場を求めたカミュは、ミロからすっと視線をそらした。
 その仕草が、ミロの機嫌を害したらしい。
 ミロは首にかけた紅い髪をぐいと引っ張り、カミュの頭を強引に自分の方に引き寄せた。
 「……痛い」
 「人が真面目に懺悔してるんだから、ちゃんと聞けよ」
 「勝手なことを言うな」
 注意を引きつけたことで満足したのだろう、ねめつけるカミュの視線をものともせず、ミロは闊達に笑った。
 「まあ、とにかく、俺はカミュのこの髪がすっごい好きで、自分もこんな色だったら、と羨ましく思っていたわけだ。それが、赤いマフラーを欲しかった理由」
 以上、懺悔終わり、と、清々しい表情を浮かべるミロを、カミュは不思議なものを見る思いでみつめた。
 「……おまえは、こんな紅毛が羨ましかったのか?」
 今でこそ気にも留めなくなったとはいえ、この紅い、紅すぎる髪色は、かつてはカミュの自己嫌悪の一因としてその存在を誇示していたものだった。
 むしろ太陽の光を散りばめたように輝くミロの黄金の髪こそが、カミュの欲して止まないものだったのに。
 その自分の憧れを、当然のように手にしているミロに、カミュのような紅い髪になりたいなどと言われても到底納得のできるものではない。
 ところが、ミロは平然と頷いた。
 「うん、だって宝石みたいに綺麗だからな」
 陳腐な賞賛の言葉をぬけぬけと述べながら、ミロはカミュの髪を一房梳きとった。
 さらさらと指の間から零れ落ちる髪を、名残惜しそうにじっとみつめる。
 その瞳に浮かぶのは、紛れもない羨望だ。
 ミロの言は、どうやら偽りではないらしい。
 ここにも、カミュの劣等感を粉砕してくれる人物がいた。
 サガがサンタとなって現れた、あの聖なる夜と同じぬくもりが、カミュの内にほのかに灯った。
 幸せに笑っていてという、サガの望んだたった一つのクリスマスプレゼントは、無事叶えることができそうだった。
 もっとも、ミロとは対等の立場でありたいと願うカミュにとっては、ミロのおかげで、というのが、少々癪だったりもするのだが。
 カミュは殊更無愛想な仮面をかぶると、首の後ろに両手を入れて髪を跳ね上げ、ミロの手から真紅の糸を取り戻した。
 これ以上この話を続けていたら、ともすれば口元に浮かびそうになる笑みを、隠し通す自信はない。
 何とかして話題を転じようと、周囲に慌しく視線を走らせたカミュは、テーブルの上のカップにふと目を留めた。
 ホットワインが、まだ半分くらい残っていた。
 蜂蜜とスパイス、それに果物を加えて熱した赤ワインは、シベリアであまりに寒がるミロに出してやって以来、彼のお気に入りの一つとなっていた。
 彼の論法でいくと、それを気に入った理由の何割かは、その深みのある赤い色にあるのかもしれなかったが、そんなことはどうでもいい。
 とりあえず、次の会話のテーマはみつかったのだ。
 カミュはカップに手をのばすと、ちらりとミロを見た。
 「すっかり冷めてしまったな。ミロ、温めてくれ」
 「おまえ、俺を電子レンジと勘違いしてるだろ」
 「そんなことはない。レンジは椅子にはならないからな」
 「……俺、たまに本気で、おまえに愛されてないんじゃって思う」
 不承不承という感じで、それでもミロはカミュの依頼通り、カップを両手でくるみこんだ。
 周囲の気が一瞬すっと静まりかえり、徐々にミロの掌に小宇宙が集まりだす。
 やがてカップから立ち上る湯気がはっきりと見えるようになったころ、瞼を閉じていたミロが、慌てたように目を見開いた。
 「あ」
 「どうした」
 「ごめん、あっため過ぎた……かも」
 かすかに顔を引きつらせたミロは、試飲とばかりに、恐る恐るカップに口を付けた。
 一口飲むやいなや、片手で口元を押さえ、無言でテーブルにカップを戻し置く。
 「……熱すぎて飲めない……」
 ため息を一つつくと、カミュはミロの頬に手を伸ばした。
 「火傷したんじゃないのか、診せてみろ」
 「いいって」
 「いいから」
 負けん気の強いカミュの強情さは、ミロといい勝負だ。
 ただ、弟子を育てた身の強みか。
 その目的が相手の世話をするということにある場合、カミュは逆らいがたい威容さえまとうことができた。
 頑として譲ろうとしないカミュに観念したミロは、渋々と口を開いてみせる。
 「……ああ、やっぱり。冷やしたほうがいいな」
 「氷でも作ってくれるの?」
 「そうだな……」
 カミュは自分の掌をみつめた。
 指先に小宇宙を集中させれば、空気中の水分を利用してたやすく氷を作り出すことができる。
 だが、気が変わった。
 なにしろ今日は、クリスマス。
 特別な日、なのだ。
 口元に小さな笑みを浮かべたカミュは、ミロの頬を両手で挟み込むと、ゆっくりと顔を近づけた。
 驚きの色を浮かべる蒼い瞳を見たような気がするが、無視して唇を重ねる。
 氷のように冷やした舌を差し入れると、ミロは一瞬怯んだ様子だったが、すぐに意図を解したらしい。
 火傷した患部を冷やすべく、カミュの舌に自分の舌を触れさせてきた。
 クリスマスくらい、素直に甘えてやろうと思った。
 カミュがほんの少し積極的になることで、サガはあれほど喜んでくれたのだ。
 ミロも、同じように喜んでくれればいい。
 そう思った結果の行動だった。
 しかし、そのささやかな悪戯心は、すぐに悔恨の情に取って代わる。
 優位に立っていたのはカミュのはずなのに、あっという間に主導権はミロに奪われ、このキスの目的は治療ではなくなってしまったのだ。
 触れ合わせるだけのつもりだった舌は絡みとられ、逃れようとする度に執拗に咥内に引き戻される。
 「……ん……」
 ミロの胸に手を当て懸命に向こうへ押しやると、カミュはかろうじてその腕の中から逃げ出した。
 情けないことに、氷代わりだったはずのカミュの舌は、すっかり温度が上がってしまっていた。
 「え、もう治療終わり?」
 肩で息をつくカミュに、揶揄するような声が降ってきた。
 半分涙目になりながら、それでもカミュは精一杯の虚勢を張ってミロを睨みつけた。
 「……まだ必要なのか?」
 「うん、火傷は充分冷やさなきゃな」
 「では、少し待て。今、氷を作ってやるから、それでも舐めておけ」
 実質上の敗北宣言は、残念ながら、聞き入れてもらえなかった。
 なだめるように訴えるカミュの言葉に耳を素通りさせ、ミロは無邪気とさえいえる笑みを浮かべた。
 「や、さっきの氷がいいな。美味かったし」
 「……溶けない氷の方がいいだろう」
 あんな情熱的なキスをされても自分の舌を冷たく保っていられるほど、カミュの感覚は鈍磨ではない。
 その点、自分の意識から離れた、ただの物体としての氷なら、温度が変わることもなく、治療効果も上がるはずだ。
 羞恥心とプライドが厳選した婉曲表現の真意が、ミロに伝わっていないとは到底思えない。
 それなのに、カミュの瞳を覗きこんできたミロは、わざと理解できない振りをして、口の端を傲慢に持ち上げると、静かに囁いた。
 「……溶かしてやりたいから」
 その声に、ぞくりと背筋に震えが走った。
 いつも思うのだが、ミロ自身には、自分の声はどう聞こえているのだろう。
 隠し切れない情欲を孕んでかすかに掠れた声は、凄絶なまでに妖艶な響きをもってカミュの全身を粟立たせるというのに。
 媚薬のようにカミュを捕らえて離さないこの声音を耳にして、なおもミロが平然と笑っていられる、その理由をどうしても説明づけることはできなかった。
 「じゃ、治療を続けてもらおうか」
 先程カミュがしたように、今度はミロが両手を伸ばし、カミュの頬にそっと添えた。
 その手に力は微塵も込められていないのに、まるで呪縛されたように身動きが取れなくなる。
 ミロの意図するところがわかりすぎるほどわかるのに、それを妨げることができない自分が悔しくて、カミュはぼそりと呟いた。
 「……ワインが、また冷めてしまう」
 「そしたら、また温めてやるよ」
 今度は、ミロがどんなにひどい火傷をしようとも、決して治療などしてやるまい。
 カミュは悲壮な決意を固めつつ、ささやかながらも最後の抵抗を試みようと、近づいてくる蒼い瞳をじっと睨んだ。
 しかし、ありったけの力を瞳に込めているというのに、ミロには何の効力もなかったようだ。
 「……俺、おまえの瞳も好きだな」
 この上なく優しく甘い声でそう囁くと、ミロはにこりと笑う。
 何とずるい男だろう。
 そう言われたカミュが、瞳を見開いていられるわけがないのに。
 結局はミロの思惑通りに操られている自分を内心でののしりながら、カミュは瞼を閉じ瞳を隠した。
 心のどこかに、上手い口実を与えられたと安堵している自分がいることからも、目を背けてしまいたかった。

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