無憂宮
2005 ミロ誕


 扉を開けた宮主は、さも迷惑そうに眉をしかめた。
 びっしょりと濡れた髪にガウンを引っ掛けただけという湯上りと思しき出で立ちからは、この露骨な表情での応対も無理はない。
 しかも、この仏頂面のおかげで、目の前にいるのが双子の弟の方だということがわかるのだから、不機嫌な出迎えに苦情を言う気などミロには毛頭無かった。
 これがもし如才ない兄ならば、内心の不興などおくびにも出さず穏やかに微笑んだまま、適当な口実を展開し体よく客を追い帰すはずだ。
 好都合。
 ミロは口の端を吊り上げた。
 「話があるんだけど」
 返事は待たなかった。
 言い捨てるが早いか、ミロは扉とカノンの間の狭い隙間に身を滑り込ませる。
 脇を通り抜けざま、カノンの体から仄かな石鹸の匂いがした。
 その温もりを伴う香りが気分が悪くなるほど不愉快で、ミロはぐっと呼吸を止めた。


 「何だよ、話ってのは」
 髪をタオルで乾かしながら悠然と追いかけてきたカノンがぶっきらぼうに問う。
 十二宮はどこも似たような造りなのだが、自然と住人の個性を反映した独特の雰囲気を醸し出していた。
 双児宮は常に落ち着いた風格を感じさせる。
 この貫禄すら漂わせる上質な静寂は、ミロが身に纏うにはまだまだ時間が必要なもの。
 依然として追いつくことのできない年長者への劣等感を苦々しく飲み込みながら、居間の中ほどまでずかずかと足を進めたミロは、そこでくるりと反転し宮主を見据えた。
 「サガ、いないんだよな」
 「あいつに聞かれたらまずい話か?」
 あくまで自分の質問に固執しようとするカノンに、ミロは口元だけで冷たく笑ってみせた。
 「一応、あんたの身を案じてやってんだけどな」
 もし自分が恐れている通りの事態なら、ミロだけではなくサガもやはり平静ではいられまい。
 弟に対して情け容赦の無い兄よりはミロの尋問を受けた方が、カノンにとっては数千倍も有難いはずだった。
 やがて、ミロの口元からすっと笑みが消えた。
 「……俺が言いたいことくらい、わかるだろう」
 頭に被せたタオルで半分以上表情を隠したまま、カノンは動きを止めた。
 二人の間で室内の空気が俄かに緊張を孕みだす。
 不用意に動けば皮膚が切り裂かれそうなほどぴんと張り詰めた雰囲気の中、ミロは静かに声を落とした。
 「最近のあんた、カミュとやけに仲がいいじゃん。何で?」
 ここ数日というもの、日中はカミュの姿は聖域の何処にもなかった。
 いつものように書庫に篭っているのだろうと初めは気にも留めていなかったミロだが、日没と共に宮に帰ってきたカミュからかすかな潮の香が漂ってきたとき、不審を覚えた。
 何気なく何処に行っていたのかと尋ねても歯切れの悪い曖昧な答えしか返ってこなかったとき、不審は疑惑に変わった。
 何か、自分に言えないことがある。
 視線を合わせようともせず落ち着きなく瞬きを繰り返すカミュを問い質しても、こういう場合の彼が頑として口を割らないことは、長年の経験から嫌というほど思い知らされていた。
 だから、その場は退いた。
 その代わり、翌日外出するカミュの後をこっそりとつけ、ミロは見た。
 聖域からかなり離れた岩陰で待ち構えていた双子の一人と合流し、連れ立って歩いていくカミュの姿を、見てしまった。
 自分に隠れて、恋人がこそこそと他の誰かと会っている。
 ざわりと全身が総毛立つような衝撃に襲われたミロは、それでも何とか冷静さを保ち、さらに数日間の追跡調査の結果、カミュが連日カノンと行動を共にしているという事実に辿り着いた。
 その事実の意味付けを、ミロは拒んだ。
 裏切り。心変わり。失恋。
 考え出すと、思考はぐるぐる巡った挙句、悪い方にしか向かおうとしない。
 だから、直接本人からの釈明を求め、ミロは意を決し双児宮を訪れたのだ。
 「……そのことか」
 カノンはどさりと長椅子に腰を下ろすと、何事もなかったように再び髪を乾かす作業に専念し始めた。
 平然としたカノンの様子にますます苛立ちをかきたてられたミロは、ともすれば高ぶりそうになる声を必死で抑え言い募った。
 「理由が説明できないってのかよ」
 「というより、面倒くさい。訊くならあっちに訊いてくれ」
 長い髪の合間からちらりと覗く瞳が、ミロを通り越した先に視線を投げる。
 つられて振り返ったミロは息を呑んだ。
 目の前に、カミュがいた。
 雫が滴り落ちそうなほどしとどに濡れた髪をタオルで包みバスローブを羽織る、疑いようもなくつい今しがたまでシャワーを浴びていた、という格好で立ちつくしていた。
 大きく見開いたカミュの瞳に浮かぶ色を読み取ったミロは、心の何処かで信じていなかった危惧が現実となったことを悟った。
 紅い瞳は、犯行現場を押さえられた犯罪者のように落ち着き無く揺れていた。
 驚きと混乱に襲われ、失態を誤魔化そうと懸命に言い訳を考えているのが、容易に見て取れた。


 「……おまえ、何やってんだよ」
 乾いた唇から零れた声が、他人のもののように遠くに聞こえた。
 「おまえこそ、どうした。幽霊でも見たような顔をして」
 ぎこちなく微笑んだカミュが問い返す。
 「俺?」
 ミロは深く息を吐いた。
 ちらりと視線を走らせ、カミュとカノンを見比べる。
 さして親しい素振りも見せていなかったこの二人は、いつ、何がきっかけで言葉を交わすようになったのだろう。
 ミロの目を盗み、逢瀬を繰り返すまでに。
 カミュの全てを独占し知り尽くしたと思い上がっていた。
 そんな傲慢で愚かな自分を引き裂いてしまいたくなる衝動に駆られつつ、ミロはぽつりと呟いた。
 「……そうだな、何やってんだろうな、俺。おまえの浮気現場にまで押しかけて」
 「は? 浮気?」
 カミュはミロの台詞の一部を拾うと、訳がわからないといった様子で瞳を瞬かせた。
 その、一見無邪気な仕草が、ミロの導火線に火を点ける。
 この数日間、内心でじくじくと鬱積していたものが一気に怒声となって奔出した。
 「だってそうだろ、毎日毎日俺に隠れてこいつと会って! 俺が気づかないとでも思ってたのかよ!」
 ミロの罵倒に、カミュはようやく自分に向けられる怒りの意味を察したようだ。
 しばらく呆けたように口を半開きにしたまま佇んでいたカミュは、やがていなすように小さく笑った。
 「ミロ、それは違う……」
 「へえ、他の男のところでシャワーまで浴びてるのに、何が違うんだよ? あ、それとも浮気じゃなくて、本気ってことか?」
 激昂するミロを扱いかねたか、カミュは救いを求めるようにつっと視線を外した。
 その縋るような眼差しの先にカノンがいる。
 紅い瞳が追い求めるものを敏感に察し、ミロは自虐的な笑いの形に口元を歪めた。
 「……おまえ、昔サガのこと好きだったもんな。やっぱり、こういう顔、好みなんだろ」
 舌が滑った。
 しまったと、思ったときには、もう遅かった。
 吐き捨てた言葉は、重苦しい沈黙によって迎えられた。
 一瞬にして表情を失くしたカミュの顔からすっと血の気が引いていく。
 透き通るように青ざめ幽鬼のごとく佇むカミュの姿に、何か得体の知れない冷たい恐怖がミロの背筋をそろりと這い登る。
 いくら怒りに任せたとはいえ、あまりに不躾な発言の撤回と謝罪をしなければならない。
 そう、頭ではわかっているものの、舌はからからに乾いた口内に貼りついたまま一向に動こうとはしなかった。
 視界の端にカミュが震える拳を握り締めるのを見た、次の瞬間には頬に激痛が走る。
 思い切り殴られ、よろけつつもかろうじて踏み止まったミロは、ようやく我に返って顔を上げた。
 目にしたのは、無言で踵を返し立ち去るカミュの後ろ姿だった。
 水気を含んだままの長い髪から雫がひとつ、振り落とされる。
 床を濡らした水滴を、ミロはただ呆然とみつめていた。


 取り返しのつかないことをしてしまった、気がした。
 高価な陶磁器をうっかり手から滑り落としてしまった子供のように、時間を巻き戻したいという愚にもつかない思いだけがミロの頭の中を渦巻く。
 だが、口の中にじわりと広がる血の味とずきずきと痺れたように頬に広がる痛みが、それは叶うはずもない願いだと無情にも告げていた。
 「……今のは、おまえが悪いな」
 身を裂くごとき悔悟の念に苛まれ俯くミロに止めを刺すように、カノンの声が静かに響く。
 「……うるさい」
 「八つ当たりもいいところだ。ガキかよ」
 「うるさい……!」
 「何より、好きでサガと同じ顔をしている訳じゃない俺に対して失礼だ」
 傷口に塩をすり込むようにねちねちといたぶられ、たまりかねたミロはきっとカノンを睨みつけた。
 自分を責める、その怒りの矛先が、いつのまにやらカノンへの理不尽な憤怒に取って代わられようとしていたが、自暴自棄になったミロにはそれを止めるだけの理性は残っていなかった。
 しかし、あまりにも泰然と構える相手の姿が、猛る感情をぶつけることをかろうじて思いとどまらせる。
 打ち込まれるミロの鋭い眼光にも臆した風も無く、カノンは平然と長椅子にもたれたまま、片腕を脇机に伸ばした。
 しばらく引き出しの中を何やらまさぐった後、目当ての物を見つけたのだろう。
 口元に薄笑いを浮かべたまま、ミロの方をちらりと見遣ると手にした物を放り投げる。
 綺麗な放物線の終着点は、ミロの掌の上だった。
 飛び込んできた物体を、ミロは訝しげに凝視した。
 掌の中で、小さな珠が銀白色の光沢を放っていた。
 清澄にも妖艶にも映る不可思議な煌きを纏う、それは一粒の真珠だった。
 訳もわからず顔を上げたミロは、意地悪くからかうようなカノンの笑みに迎えられた。
 「教えてやるよ。それが、俺とカミュのデートの理由」
 「……どういうことだ?」
 カノンは大仰な溜息を吐いてみせた。
 「……やっぱり、あいつの勘違いだったか」
 続く説明を無言で促すミロに、カノンは肩を竦めた。
 「おまえ、誕生日に欲しい物、カミュに何て言ったか覚えてるか?」
 わずかに眉をしかめつつ、ミロは記憶を遡った。
 誕生日には、何が欲しい?
 毎年、風が秋の気配を色濃く伝えてくる頃に交わされる会話だった。
 いつもミロの答えは同じで、その度にカミュは頬に朱を散らしつつ、他にはないのかと詰問する。
 今年も同じ遣り取りが繰り返されたのは確かなのだが、自分はそのとき何と答えただろう。
 求めるものは例年通りなのだが、今年はちょっとした悪戯心で、答えに少し趣向を凝らしてみたような気もした。
 朧に霞む記憶の再現に苦しむミロを見かねたか、カノンはくつくつ笑いながらあっけなく答えを明かしてくれた。
 「笑えるぞ。『ガードの固い宝石』、だとさ」
 カノンの言葉に、ミロは一瞬の沈黙の後、得心が行ったように両手を打ち合わせた。
 「……ああ!」
 思い出した。
 ミロが望むものは、たった一つ。
 どれほど時を経ようと変わらぬその回答を、今年は気紛れに暗喩でくるんでみせたのだ。
 幾重にも守られた至高の宝石のイメージは、他人をなかなか心の内に踏み込ませようとしないカミュの暗示のつもりだった。
 「ああ、じゃない。おかげでこっちは散々苦労させられてだな」
 「何で?」
 不思議そうに聞き返すミロに、脱力したカノンは呆れたとでも言いたげに深々と長椅子にもたれた。
 「……おまえ、その表現であいつに伝わると本気で思うのか? 自分が宝石になぞらえられてるなんてこと、たとえ教皇並に長生きしたってあの鈍いカミュがわかるわけないだろう!」
 ミロは手の中の真珠に視線を落とした。
 ようやくわかった、かもしれない。
 カノンは苦虫を噛み潰したような顔で重々しく頷いた。
 「おまえが欲しがってるのは、堅い貝に守られた真珠だろうってのが、あいつの理解したところだ」
 真珠貝は海の生き物。
 だから、海界を知り尽くしたカノンの助力を仰ぎたい。
 そう生真面目な表情を崩さずに真っ直ぐ見上げてきたカミュの依頼を断れるほど、カノンは冷淡になりきれなかった。
 そしてそれこそが、この数日間、カミュがカノンと二人で聖域を離れていた理由だったのだ。
 「毎日潮の香を染み付かせて帰ったら、いくらおまえでも怪しむだろう? だから、カミュはここでシャワーを浴びてから宮に戻ってたというわけだ」
 傍迷惑な話だ、と、嫌がってるというよりもむしろ楽しんでいる風情で、カノンはぼそりと呟くと言葉を切った。
 ミロはきゅっと唇をかみ締めた。
 知り合って日も浅いカノンに頼みごとをするなど、人付き合いの不得手なカミュにとっては一大決心を要する事態だったはずだ。
 そんな困難に立ち向かってまで、カミュが大海の中から贈り物にふさわしい真珠を探しだそうとしたのは、全てミロのため。
 にもかかわらず、悋気に囚われたミロは、カミュの言うことに耳を貸そうともしなかった。
 いや、そればかりか、一方的な思い込みでその人格を侮辱する発言を浴びせかけさえしてしまった。
 先刻までの行動を省みれば、今、自分がなすべきことは、自ずと知れた。
 ミロは掌の中の宝珠を見た。
 その艶々とした輝きが大層綺麗で、視界をじわりと滲ませそうになる。
 ミロはぐっと手を握り締め、真珠を手中に封じ込めた。
 「……俺、カミュに謝ってくる」
 「ああ、行くなら上じゃなく下な。あいつもそれくらいの分別はかろうじて残っていたらしいぞ」
 双児宮を後にしたカミュの行き先が自宮ではないということまで、カノンはきちんと把握していたらしい。
 確かに、あの人目を憚らざるをえない格好で口さがない巨蟹宮の住人と鉢合わせする気まずさを考えたら、人の良い金牛宮の主を頼るのは賢明な選択に違いない。
 ミロは頷いた。
 「わかった。悪かったな、カノン」
 「全くだ。でかい貸しにしといてやる」
 承知したとでもいうように口の端をにっと持ち上げたミロは、ふと足を止め振り返った。
 「それから、ありがとう。あんた、俺の誕生日祝いだと思って、一生懸命真珠探してくれたんだろ」
 「……早く行け、バカ」
 ふてくされた表情のカノンに犬でも追い払うかのごとくしっしっと手を振られ、ミロは声を立てて笑いながら駆け出していった。

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