無憂宮
 宮を出て行くミロと入れ替わるように、部屋の奥の扉が音もなく開いた。
 「誤解は解けた、ようだね」
 「ああ、一応な」
 中断させられていた髪を乾かす作業に再び勤しみながら、カノンは自分と同じ顔をした来訪者をじろりと見上げた。
 「全く、何なんだ、あいつらは。一体おまえはどんな教育してきたんだよ、サガ」
 「残念ながら、私が彼らの世話をしていたのは、子供の頃のほんの一時だけでね」
 幼い日の情景を思い返しているのか、サガは口元に微笑を刻みながらカノンと向かい合った椅子に腰を下ろした。
 先日来のカミュとカノンの行動は、サガも承知した上でのことだった。
 いつまでたっても子離れできないカミュの保護者は、ことカミュに関する件に限っては日頃の冷静な判断力をかなぐり捨てる恐れが多分にある。
 それも相手が弟ともなれば、万が一にでもサガにあらぬ誤解を与えたならば、彼は容赦なくカノンを拳で難詰することだろう。
 そう我が身の安全を危惧したカノンは、依頼を受ける条件として、サガの了承を得ることをカミュに要求したのだ。
 ミロの激昂ぶりをみるにそれはつくづく正しい措置だったのだと、心中ひそかに胸を撫で下ろしたカノンは、胡散臭そうにサガを見た。
 「何が楽しいんだよ。顔がにやけてるぞ」
 「ミロが言っていただろう。昔、カミュは私のことを好きだった、と。嬉しいじゃないか」
 「……しっかり過去形でも、か」
 「ああ、嬉しいね」
 その言葉は、嘘偽りないサガの本心なのだろう。
 心底幸せそうな安らいだ笑みが、サガの口元を優しく飾る。
 今なら、サガの心境が少しわかるかもしれない。
 そんな兄の姿を横目で見ながら、カノンは少しばかりの忌々しさを味わいつつも、サガと共感している自分の存在を渋々と認めていた。
 あまり他人に心を許さないカミュに頼りにされることは、思いの外に愉快な経験だった。
 カミュをして取らせたこの行動は偏にミロのためのものであり、カノンがその依頼に応じたのも当初は同じ理由だった。
 聖戦時、自分を最初に仲間と認めてくれたミロに対する礼を、カミュへの協力を通して果たすことができると思ったのだ。
 しかし、今は少し違う。
 行動を共にするうちに、一見無表情なカミュも意外に感情豊かなことに気づかされた。
 おまけにカミュはその怜悧な外見からは想像もつかないほどに一生懸命で不器用で、そのあまりの愚直ぶりに呆れたカノンは、いつの間にやら自分が何とかしてやらねばならないという使命感に駆り立てられてしまった。
 結果として、この真珠採取は、ミロとカミュ二人のための作業へと、カノンの内でその目的は徐々に変化を遂げていったのだ。
 これからは、サガ同様自分もやはり、人騒がせな若い恋人たちの幸せを願ってしまうのだろう。
 損な役回りだ、などと思いつつ、カノンは頭に被せたタオルごと、くしゃりと濡れた髪をかき回した。


 海風に乱れる長い髪を手で押さえつつ、ミロはカミュの姿を捜し海岸を歩いていた。
 カミュの後を追い金牛宮を訪れたミロは、そこへ偶然居合わせていたムウにちくちくと嫌味を言われながらも、何とかカミュが海へ向かったことを聞き出したのだ。
 求める人の姿は、程なく見つかった。
 吹き乱れる風に髪をなぶらせて、カミュは岬の突端に佇んでいた。
 先程までの格好での外出はやはり憚られたか、ムウに衣服を借りたのだろう。
 カミュの肩口に巻いたストールが激しくはためき、風の強さを物語っていた。
 いつもと違う服装に身を包んだカミュは、まるで自分の知らない他人のようだ。
 無論、それは後ろめたさからくる錯覚なのだろうが、どうにも怖気づきその名を口にすることすらためらう自分がいることは否めない。
 なんとか勇気を振り絞り背後から近づいたミロは、風に押し戻されないよう声を張り上げた。
 「カミュ!」
 呼びかけても返事は無く、ミロの接近に気づいた素振りも無かった。
 ミロは構わず足を進めた。
 「カミュ、ごめん!」
 相変わらず、カミュは振り向きもしない。
 しかし、頬に当たる潮風が冷たさを増したところをみると、ミロの存在を先刻承知しているのだろう。
 「すまない! 申し訳ない! 俺が悪かった!」
 思いつく限りの謝罪の言葉を繰り返しながら、ミロは一歩一歩足を踏み出した。
 カミュとの距離が短くなるにつれ、威嚇するように冷気を帯びた風が猛り狂う。
 それでもミロは身を切るような風の攻撃に耐えつつ、歩みを止めなかった。
 あと、一歩。あと、少し。
 やがて、手を伸ばせば風になびくカミュの髪に触れるという所まで近づくと、吹き付ける風に含まれた冷たさが心なしか少しだけ和らいだ。
 「カミュ……」
 「ばかか、おまえは」
 海をみつめたままのカミュの声が、風に乗って流れてきた。
 「事情はカノンが念波で教えてくれた。あまりに馬鹿馬鹿しくて言葉も出ない」
 そう言うわりに、よく喋ってる気がするが。
 などとは、流石のミロも今ばかりは言えなかった。
 「はい、すみません。仰るとおり、俺が大馬鹿でございました」
 殊勝に頭を下げるミロに、カミュは不機嫌そうな調子を崩さず続けた。
 「あんな紛らわしいことを言わなくても、欲しければ素直にそう言えばいいのだ、ばか」
 ぶつぶつと、なおもカミュは独り言のように毒づく。
 忌々しげなカミュの台詞に首を竦めたミロは、一瞬の沈黙の後、数度瞬きを繰り返した。
 言葉が、するりとミロの内に滑り込んだ。
 心の底にすとんと落ちたカミュの発言が、じわりじわりとミロの中で熱を帯びていく。
 蒼い瞳が光を宿した。
 「……カミュ。今、自分がスゴイこと言ってるって、わかってる?」
 「何が?」
 相変わらず無愛想な声に、わずかばかりの動揺が混じって聞こえた。
 風に仄かに混じる冷気さえ、落ち着き無く揺らめいて感じられる。
 ミロは口の端を持ち上げると小さく笑った。
 「じゃ、お言葉通り、素直に言うよ。……カミュが、欲しい」
 かすかに身を強張らせるカミュの背中に突き刺されとばかりに、ミロは声高らかに叫んだ。
 「今年も来年も、ずっとずっと、誕生日にはカミュが欲しい……!」
 「……わかった、わかったから、黙れ……!」
 ようやくカミュが振り返った。
 その髪と瞳の色が肌にも溶けだしてしまったかのように頬を朱に染め、狼狽しきった表情で必死にミロを黙らせようと瞳で訴えかけてくる。
 彼にしては珍しく慌てふためく姿が無性に可笑しかったが、笑い出したくなるのを何とか堪えたミロは、懸命に真面目くさった顔を作った。
 「とにかく、俺は、カミュが欲しい。以上!」
 これ以上ないほど晴れやかに言ってのけると、ここ数日来の鬱屈が全て消え去り、ようやくミロ本来の太陽のような輝くばかりの笑みが浮かぶ。
 一気に立場を逆転されたカミュは、必死で涙を堪えている意地っ張りな子供のような顔をしてミロをみつめていた。
 やがて、カミュは瞳を伏せるとつっと視線を外した。
 そうして眼下に広がる海を眺めやったまま、ぽつりと小さく呟く。
 「……おまえ、さっき、私がサガやカノンの顔を好きだと言っていたな」
 唐突に再現された自身の失言に、頬を殴られた痛みの記憶が瞬時に甦る。
 ミロは咄嗟に頬を庇いつつ、再び燻り始めたカミュの怒りの炎をどうにかして鎮めようと目まぐるしく頭を回転させた。
 「え、あ、あれ……。いや、その、何て言うか、口が滑ったと言いますか……」
 「気にしなくていい。事実、そうだ」
 予想外にさらりと肯定され、呆気にとられたミロは瞳を見張った。
 「あの二人は、本当に彫刻のように端正な顔立ちをしていると思う」
 カミュは何かを思い切るように小さく息を吐くと、ミロに向き直り穏やかに微笑んだ。
 「……だが、おまえの顔も、私はそれなりに気に入っている。それでは、駄目か?」
 決して褒めているとは言えないひねくれたこの台詞も、カミュにとっては最大級の賛辞なのだろう。
 そして、それは同時に彼が先のミロの発言を許したという秘められた宣言でもあることを、ミロはカミュの少し照れくさそうな表情からはっきりと理解した。
 「……いや、光栄だ」
 内心の驚きを巧妙に押し隠し、ミロは努めて厳粛な声を落とした。
 長年の経験から、これほど早くカミュから許しを得ることができるなど思いもしなかった。
 年長者には比較的素直なカミュの性質を把握したカノンが、上手く彼を宥めてくれたのだということは想像に難くない。
 カノンに、自分を取り巻く全ての人間に感謝を捧げようと、ミロは思った。
 ミロが素敵な誕生日を迎えられるようにと心を砕いてくれた人たちのためにも、自分は幸をこの手に掴みとらねばならないと。
 だから、ミロはすっと手を差し伸べた。
 「カミュ」
 怪訝そうにその手をみつめるカミュに、ミロはにやりと笑いかけた。
 「そろそろ誕生日祝いを頂こうかと思うのだが、如何かな」
 「……調子に乗るな」
 「いいじゃん、誕生日くらい」
 誕生日。
 この一言が、カミュの抑制を解き放つ呪文になるのだろう。
 ミロの誕生日なのだからという正当化理由で羞恥心をなんとか誤魔化したらしいカミュは、それでもあくまで渋々といった姿勢を崩さずそろりと自分の手を差し出した。
 そのタイミングを、待ち構えていたミロが逃すはずもない。
 すかさずその手をぐいと引っ張り、バランスを崩したカミュを両の腕の中へと閉じ込めると、ミロはぐっと腕に力を込めた。
 「ごめん、カミュ。やっぱり前言撤回するわ」
 一瞬、カミュの身体がぴくりと震えた。
 だがすぐに何事もなかったように平然と、カミュは両手を突っ張りミロの胸を押し戻そうとする。
 「……では、何が欲しいのだ」
 つれない素振りとは裏腹に、よくよく耳をすませねば聞き落としてしまいそうな極微量の失望がカミュの声に滲んでいた。
 相変わらず、救いがたいほどに天邪鬼。
 どうしようもなく込み上げてくる愛しさに、ミロはくすりと笑った。
 「いや、欲しいのは同じなんだけどさ。誕生日だけじゃなくて、一年三六五日、毎日欲しいなっと」
 「何を我侭なことを……」
 呆れた口調で偽装しようとしたカミュの本心を、口元から漏れる安堵の溜息が雄弁に語る。
 ミロは悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
 「あれ、知らなかった? 俺、欲張りなんだって」
 「……知っている。嫌というほどな」
 憎々しげなかすかな呟きと共に、俯いたカミュはそのままふわりとミロに身をもたせかけてきた。
 潮風に遊ばれる真紅の髪がミロの鼻先をかすめ、海の香を伝えてくる。
 「……今度は、天蠍宮のシャワー使ってよ」
 耳元に囁いた誘いに返事はなかった。
 そのかわり、そろそろとミロの背に廻された細い腕が、ぎゅっとその輪を縮めてきた。

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