無憂宮
 『……この、バカサガ!』
 『カノン、兄に向かって何だ、その口の利き方は!』
 サンタの格好をしたサガは、寒風吹きすさぶ非常階段に出ると、怒りと寒さに震えながら念波を送った。
 間髪いれずに返答してきた相手は彼の双子の兄   本物のサガである。
 長い説教が始まりそうになるのを勘よく察したカノンは機先を制し、迷子の黄金聖闘士を二人保護したことをかいつまんで説明した。
 『……そうか。では、あの子たちはおまえと一緒なのだな』
 よほど二人のことを心配していたのだろう。
 すこぶる不機嫌そうだったサガの思念が途端に和らぐ。
 その態度の急変振りに、何故かこみ上げてきた不愉快な苦味を仏頂面でなんとかやり過ごすと、カノンはサガに現在地を教えた。
 『……とにかく、すぐ来い!』
 そう伝え終わるや否や、目の前の空間が歪みを生じる。
 召喚に応じ、虚空を切り裂き瞬時に現れたサガは、たっぷり数十秒間は続く重苦しい沈黙と共に、まるで珍獣でも見るような冷ややかな瞳でカノンを凝視した。
 「……何だ、そのふざけた格好は?」
 「うるさい、バイト中なんだよ」
 この道化のような姿を見られたくなくてわざわざ聖域から遠く離れた街までやって来たのに、サガの方から出向いて来られては、せっかくの苦労が水の泡だ。
 我知らず赤らむ頬を糊塗するように、カノンは手にしていたサンタの帽子を被り直すと、殊更忌々しげに毒づいた。
 「ったく、あの赤毛のガキは相変わらず根性曲がりだな。一体誰に似たんだか」
 「……気づかれた、か?」
 「多分な。またえらく性格の悪い罠を仕掛けてきやがった」
 外見上も小宇宙上も至極似たものを持つ双子を見分ける最大の鍵は、幼い子供に対する日常の何気ない態度の差だ。
 どれほど注意深く偽装しても、日頃子供と接していない人間の言動はどこかぎこちなくぼろを出しやすい。
 そう考えたカミュは賢明だったと言わざるをえまい。
 コーヒーが小さな子供向けでない飲み物だなどと、もう何年も前に子供を卒業してしまったカノンが覚えているわけがなかった。
 とはいえ、失態は失態だ。
 自嘲気味に舌打ちするカノンに、わずかにサガは眉をひそめた。
 今、サガが何を胸に抱いているのか。
 わかりたくもないのに、サガの想いがカノンには我が事のようによくわかる。
 横目でその表情を捉えたカノンは、無意識のうちにやはり同じように眉根を寄せていた。
 カノンという秘された存在に、カミュが薄々感づいていることは知っていた。
 それでも、サガが内緒にしておきたいのなら、カノンが自らをサガだと偽るのなら、素直にその意に沿おうと、カミュは幼いなりに心を砕いているのだろう。
 それが証拠に、カミュの口からカノンの話題が出たことは一度もない。
 いつかは真実を教えてもらえる日が来る。
 そう信じて、ひたすらじっと待っているのだ。
 まだ稚い子供なのに健気じゃないか、と、自責の念をかすかな苦笑で誤魔化しながら、サガが以前語っていたことを思いだす。
 そして同時に、そう語るサガの瞳の奥に静かに燃え盛る炎を見たとき、彼が口にしなかった秘めた決意まで察してしまったことも、カノンの脳裏に鮮やかに甦ってきた。
 カミュのためにも、いつか教皇にならなくてはならない。
 そう、サガは心中密かに思い定めていた。
 そうして教皇の地位に上り詰め、空位となった双児宮の衛士にカノンを叙した暁には、晴れてカミュに真実を語り、暗黙裡に強いてしまった心遣いに謝罪と感謝を述べようと企図していた。
 だが無論、今はまだ、そのときではない。
 愛情を傾けている子供に隠し事をしている心苦しさは、サガの内で日増しに大きくなっているはずだった。
 教皇を目指す必要などないと、兄の心状を憂えたカノンがどれほど言を尽くしたところで、サガの耳には届かなかった。
 誰が望んだわけでもないのに自ら十字架を背負い込もうとするのは、サガの悪癖だ。
 原因はサガ自身にあるとはいえ、結果としてその存在だけで無自覚にサガを苦しめてしまっているカミュを、ゆえにカノンは嫌っていた。
 もっともカミュを厭う理由は他にもあるのだが、カノンはそちらには気づかない振りをすることに決め込んでいた。
 カノンが目を背け続けるもう一つの理由。
 それは、自分のひねくれた想いを直視させられる苦痛からの逃避だった。
 その形容しがたい感情の存在を知り愕然としたカノンは、必死で打ち消そうともがき苦しんだ。
 しかし、その徒労を嘲笑うごとく、まるで難解な幾何学の問題にさっと補助線が引かれたように、カミュの出現は己のサガへの執着心を鮮明に浮かび上がらせたのだ。
 カノンに対しては行動を律するよう何かにつけ厳しく叱責するサガが、カミュを前にするや蕩けそうなほど優しく甘い笑みを浮かべる。
 もちろん相手は黄金聖闘士とはいえまだまだ手のかかる小さな子供で、一方自分はサガと対等であることを求められている、その違いだということくらいは十分わかっているつもりだった。
 だが、それでも、サガが嬉しそうに相好を崩してカミュの話題に触れるたびに、遮二無二その話の腰を折りたくなる衝動に駆られてしまう。
 それが、サガから手放しの愛情を注がれる幼子への馬鹿げた嫉妬なのだとは、断じて認めたくなかった。
 そんなカノンの内心の葛藤は、幸か不幸か上手く隠し通せているのだろう。
 思いの淵に沈みこむ弟の異変に気づいた風もなく気遣わしげにミロの様子を問うサガの声に、ようやく現実世界に浮上したカノンはさらりと答えた。
 「ああ、あっちは大丈夫だろう。やっぱり子供はああいう素直で単純バカな方がずっといいな」
 本人が聞いたら烈火のごとく怒り出しそうな失礼な評価を下したカノンは、ついで、仕事に戻る、とぶっきらぼうに言い放つと、くるりと背を向けた。
 「カノン」
 呼び止めるサガの声に、カノンは振り返った。
 サガは自分と同じ深い藍の瞳で、真っ直ぐにカノンを見据えてきた。
 「……今夜は、そちらに行くから」
 クリスマスだから。
 一人きりでは寂しすぎる夜になるから。
 言葉にはされなかったが、その発言の奥底に、たしかにカノンはサガの声を聞いた気がした。
 唐突に胸の内にほんのりと温かな灯がともったようで、その心地よいくすぐったさに釣られたカノンはくすりと笑った。
 「無理するな。おまえは子守で忙しいだろう」
 言い捨てて、建物内へ通じる扉に手をかけたところで、カノンはふと動きを止めた。
 「……でも、まあ、一応鍵は開けといてやるよ。気が向いたら来い」
 カノンはそう前を見据えたままぼそりと呟くと、返事も待たず、ジングルベルが陽気に鳴り響く扉の向こうへ姿を消した。


 カノンに教えられた店に足を運ぶと、目当ての人物はすぐにみつかった。
 隅のテーブルに、子供が二人。
 その内の一人が立ち上がり、大きく手を振って迎えてくれたのだ。
 「あれ、サガ、サンタさんじゃなくなっちゃったの?」
 「ああ、ちょっと事情が、ね」
 少なくともミロの記憶には、サンタの服装をしたサガの姿が刻み込まれてしまったことだろう。
 カノンからのとんだクリスマスプレゼントにひそかに呪詛の念を吐いたサガは、ふとテーブルに視線をやった。
 二人の前には、既に注文の品が並べられていた。
 子供たちの前にはティーカップが、向かい合う席にはコーヒーカップが一つ。
 そして、その中央に鎮座するものに、サガは目を見張った。
 「……これを私たち三人で食べるのかい?」
 そこには、生クリームとベリー、さらにはサンタの砂糖菓子などで飾られた、いかにも子供が喜びそうなクリスマスケーキがワンホール、どんと置かれていたのだ。
 「え、サガが頼んでくれたんじゃないの? 僕たちなんにも言ってないけど、お姉さんが持ってきてくれたんだよ」
 食べるのが待ちきれないと言わんばかりに、ミロは幸せそうににっこり笑う。
 大方、ささやかな意趣返しに、カノンが勝手に注文したのだ。
 サガは曖昧にうなずきながら、肺の中の空気が全て空になるくらい深く溜息をついた。
 「食べ切れなかったら、お持ち帰りでもいいそうですよ」
 勇気付けられるカミュの一言に、サガは力なく苦笑しつつ席につく。
 「ね、サガ、ケーキ切っていい? 僕、サンタさんがのってるとこがいい!」
 ケーキを前におあずけを食わされて、サガの戻りを今や遅しと待ち焦がれていたのだろう。
 身を乗り出すようにしてせがむミロを片手で制しつつ、その我慢に報いるためにサガは手早くケーキを切り分けた。
 「カミュはどれがいい? このプレートの部分にするかい?」
 メリークリスマスの文字が書かれたチョコレートプレートを指差し尋ねるサガに、しかし、カミュは首を横に振った。
 「そこはサガがどうぞ。よかったら持って帰ってください」
 言葉の奥に、何かを感じた。
 わずかにひっかかりを覚えたサガは、カミュをみつめた。
 カミュはただにこにこと無邪気に笑って、両手を暖めるようにカップをくるみ持っているだけだった。
 しばしの沈黙の後、サガは小さく息を吐くと口元にふわりと微笑を漂わせた。
 「……ありがとう。では、そうさせてもらうよ」
 そして、カミュからの「メリークリスマス」の言葉を、間違いなくカノンに伝えよう。
 声にできないメッセージをちゃんと受け取った証に、ほんの少し大きめに切り分けたケーキをカミュの皿に載せながら、サガはふと睫を伏せた。
 願っていた。
 数年後、やはり皆でクリスマスを祝っていたいと。
 大きく成長したミロとカミュ、そして隠れなき存在となったカノンと共に、今日の出来事を懐かしい思い出として笑顔で語り合う、そんな楽しい未来図を心に思い描いていた。
 自分たちの前には光り輝く未来が広がっているということに、何の疑いも抱いていなかった。
 幸せ、だった。

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