無憂宮
2006 ミロ誕


 『……ミロ』
 『ああ、カミュ。終わった? もうこっちに来れそうか?』
 『……すまない。今日はそちらに行けなくなった』
 『……はい?』
 『悪いな』 
 『悪いと思うなら来いよ!』
 『我侭を言うな』
 『どっちが我侭だよ』
 『……すまない。ともかく、誕生日おめでとう』
 『カミュ、おい、カミュ! ……あの野郎、通信遮断しやがった」
 小宇宙での会話は一方的に断ち切られた。
 いきなり中空にぽんと放り出されたような寄る辺ない気分にさせられたミロは、最後の台詞を実際に声に出して言ってみた。
 鼓膜を震わせる自分の声は、今までのカミュとの声なき会話が現実のものだと実感させるだけだった。
 すぐに後悔に襲われ、深い溜息を吐く。
 つい先ほどまでは、ミロは幸せの絶頂にいた。
 滅多に聖域に帰ってこないカミュが、わざわざミロの誕生日に合わせてシベリアから戻って来る、はずだったのだ。
 あと数時間の内に叶えられる久々の再会を、つい頬が緩んでしまうほどに楽しみにしていたのだが、その期待はあっけなく打ち壊された。
 年に一度の誕生日なのに。
 自分がこの世に生を受けた特別な日だというのに、最も祝ってもらいたい人と共に過ごせなくてはつまらない。
 「……しょうがねえな」
 カミュがこちらに来られないのならば、ミロがあちらに出向く他はない。
 忌々しげな口調とは裏腹にどこか嬉しそうに微笑みながら、ミロは静かに目を閉じた。
 時計の秒針が目盛り一つ分移動したときには、既にその姿は跡形もなく消えていた。


 砂漠の中のオアシスのようだと、ここを訪れる度にミロはいつも思う。
 年の半分は真白い雪に閉ざされるこのシベリアの大地では、特にこの小さな家の灯火に救われている気がした。
 遠目にも温かいその燈色の明かりに引き寄せられてしまうのは、その下で息づいている師弟の姿に思いを馳せるからだろう。
 血の繋がりがないことがときに不思議になるほどに密な人間関係を築く彼らの輪に自分も加わってみたくなり、いそいそと足を早めてしまうのだ。
 しかし、今日はいつもと勝手が違った。
 既に宵闇が辺りに色濃く漂い始めているというのに、彼らの家は鎧戸を下ろしているのか、一筋の明かりも漏れていないのだ。
 闇に溶け込もうとするかのような暗い家に不審を覚えつつ、ミロは扉を軽く叩いた。
 返事はない。
 ノブに手をかけてみたが、鍵はかかっていないらしい。
 「……カミュ?」
 暗がりの中目を凝らしつつ、ミロは屋内に進んだ。
 何度となく訪れたことがある上、ここの家主は無駄に部屋に物を置くことを好まないことが幸いした。
 おかげで障害物にぶつかることもなく、ミロは容易にカミュの部屋に辿りつくことができた。
 「何だ、いるじゃん」
 先ほどから気配を探っているが、カミュも二人の弟子も、この家の住人は全てそれぞれの部屋にいる。
 おかしいのは、彼ら全員が居留守を使おうとでもいうのか、明かりも点けず暖炉に火を入れようともせず、ただ黙然と部屋に閉じこもっていることだ。
 その内の一人であるこの部屋の主は、寝台の隅の方にいた。
 ぼんやりと物思いにふけるように壁にもたれ足を投げ出している、こんな投げやりな姿勢のカミュは珍しい。
 「何やってんだよ。こんな暗い中で」
 ミロは手探りで電灯のスイッチを探した。
 しかし、記憶はそこまで正確ではなかったようで、手は虚しく壁を撫でるだけだ。
 と、舌打ちするミロの脇を、いつのまにやら寝台から下りたカミュが無言のまますり抜けようとする。
 挨拶もしないどころか、完全にミロを黙殺するつもりだろうか。
 壁に這わせていたミロの手が、思わずカミュの肩を掴んだ。
 「おい、こら。無視かよ」
 「……おまえが来たのなら、部屋を暖めねばならないだろう」
 肩に置かれたミロの手を振り払い、カミュはそう言い残すと部屋を後にした。
 大方、暖炉にくべる薪でも取りにいったのだろう。
 たしかに寒さに耐性のついた彼らに比べたら、ミロはひどく寒がりの部類に入る。
 だから、その思いやりに溢れたカミュの行動に感謝しつつ、客人らしくその帰りを待つべきとも思われた。
 しかし、どうも何かがひっかかる。
 ミロは慌てて先を行くカミュの背を追いかけた。


 食糧やら燃料やらを備蓄する、倉庫とは名ばかりの小屋が家の裏にあることは知っていた。
 だが、一応この家ではよそ者であるという分をわきまえ、ミロがその小屋に足を踏み入れたことはない。
 少なくとも、今までは。
 予想外にこんな形で自らに課した禁を破ることになったミロは、苦笑を浮かべつつ扉を開けた。
 薄暗い明かりの下、積み重ねた薪の束の前に立ち尽くしていたカミュが振り返る。
 少しも驚いた様子がないということは、こうしてミロが追いかけてくるのを予期していたのだろう。
 「部屋で待っていろ」
 「いや、お手伝いしようかなと思って」
 殊更に不機嫌そうにうそぶくカミュを真っ直ぐ目指し、ミロはつかつかと歩みを進めた。
 どの束を室内に持ち帰ろうかと物色するように、カミュは再び薪に視線を落とす。
 その無防備な背をミロはそっと抱きしめた。
 「……手伝ってくれるのではなかったのか」
 「ここ、寒いんだよ」
 「だから部屋にいろと言ったのだ」
 ミロは紅の髪に顔を埋めると、鼻先で髪を掻き分けうなじにかるくキスを落とした。
 「でも、おかげで少しあったかくなったかな」
 「それは、よかったな」
 うんざりしたとでも言いたげな口調だったが、抱きしめた腕の中でカミュの心拍数が上昇したのがわかる。
 ミロはわずかに口の端を持ち上げた。
 「で、何かあった?」
 返事はなかったが、構わずミロは続けた。
 「あんな暗い部屋でぼうっとしてさ。料金払い忘れて電気止められた?」
 「おまえじゃあるまいし」
 「さすがにそれは俺でもやったことないけどな」
 ミロはカミュの耳たぶに軽く歯を立てた。
 唇に触れるカミュの耳がひんやりと冷たい。
 この柔らかく冷たい肉が熱を帯び出すのも時間の問題だろう。
 ミロは小さく笑うと、もう一度耳元で囁いた。
 「で、何かあった?」
 「……」
 「カミュ?」
 飽きることのない追及の手にようやく観念したか、カミュは小さく息を吐いた。
 「……愚痴になるぞ」
 「いいよ、聞いてやる。部屋に戻るか?」
 カミュは首を横に振った。
 「いや、話すならここがいい」
 「そっか」
 ということは、話を聞いてもらいたくてわざわざ移動したのだろう。
 カミュは一見無表情で胸の内を読み取りにくいが、慣れてしまえば非常に思考回路のわかりやすい人間なのだ。
 苦笑を押し殺したミロは、カミュを抱きしめた腕を解くと、手近にあった木箱に腰をかけた。
 「カミュ」
 ぽんぽんと膝の上を叩いて見上げると、じろりと睨みつけてくるカミュの瞳と眼が合った。
 ミロはにっこりと笑ってみせた。
 「寒いんだよ、ここ」
 無邪気と形容してもいいような笑顔に釣り込まれたか、カミュは渋々ながらという姿勢は崩さないものの、それでも素直にミロの膝の上に腰を下ろす。
 その背を包み込むようにぎゅっと抱きしめてやると、ようやく安心したのか、カミュはぽつりと声を落とした。
 「……子供たちの指導に自信が持てなくなった」
 やっぱり。
 ミロは内心でくすりと笑った。
 カミュの様子がおかしいときは、十中八九弟子絡みの悩みを抱えているはずだった。
 生真面目で不器用なカミュらしいが、そんなときこそカミュを支えてやれるのは自分しかいないと思う。
 弟子の指導と自分の誕生日を秤にかけ天秤を前者に傾けられたのは少々癪だが、幸か不幸かもう慣れた。
 見方を変えれば、カミュがそれだけ我侭を通すのは、恐らく唯一ミロに対してだけなのだ。
 それだけ、自分には心を許しているということだろう。
 そんなささやかな慰めに励まされつつ、ミロはカミュを抱きしめる腕に力を込めた。
 「……すまなかったな。今日は」
 「全くだな。まあ、いつものことだし、一応おまえには会えたんだから、もういいよ」
 物分りのよい許しの言葉に含ませた小さな皮肉の針には気付かなかったのか、カミュは安心したようにミロに身を持たせかけてきた。
 「そちらに行くつもりだったのだ」
 「だけど、行けなくなった?」
 カミュは前を向いたまま頷いた。
 「ここしばらくの座学で学んだことの試験をして、それが終わったら行こうと思っていた」
 試験といっても、知識の定着の度合いを確認するための至極簡単なものだ。
 だが、その試験で不正があったという。
 「私の目を盗み、アイザックがわざと自分の答案を氷河にみせ、氷河はその通りに書き写した」
 「それで?」
 ミロは瞳を瞬かせた。
 自分も決して真面目な修行生というわけではなかったから、いかに勉強しないで試験を突破するか、大人しく勉強する以上に一生懸命工夫を凝らしたものだ。
 そんな協力的な兄弟子がいたなら、自分だって大喜びで飛びついただろう。
 それがカミュをシベリアに引き止めるほどの大事とはどうしても思えず訝るミロを、肩越しに振り返ったカミュは不穏な瞳でねめつける。
 「私はそんな姑息な手段を取るような男に育てた覚えはない」
 「……さようで」
 ミロはわずかに引きつった笑顔を浮かべてみせた。
 どうやらミロが思う以上に、この一件はカミュにとっては衝撃を与える事件だったらしい。
 部屋の中に閉じこもったままの弟子たちも、まさか自分たちの些細な悪事が原因でここまでカミュが落ち込むとは思いもしなかったことだろう。
 いくら師匠面してみせていても、カミュもまだまだ子供なのだ。
 子供らしい頑ななまでの潔癖さをいまだに有するがために、弟子たちの愚かな行為を許せないでいるのだろう。
 そう思うと微笑ましいが、とはいえ亀裂の入った師弟をこのまま放置しておくわけにもいかない。
 緩衝材として他人が介入することも、時には必要だ。
 ミロはカミュの両肩をぽんと叩いた。
 「俺、あいつらとちょっと話してくる」
 「ミロ?」
 その言葉に促されるようにミロから離れたカミュに、ミロは片目をつぶってみせた。
 「俺の誕生日をそんな嫌な記念日にして欲しくないんでね」
 そう言って立ち上がるミロを、カミュはあえて引き止めようとはしなかった。
 「とりあえず、おまえは部屋をあっためといてくれよ」
 誕生日を祝ってもらうどころか、手のかかる師弟の仲裁を引き受けるはめになるとは思いもしなかった。
 あとでたっぷりと報酬を要求してやろうなどと思いつつ、ミロは倉庫の扉を開けた。
 外はもうすっかり夜の装いを呈し、心なしか風が幾分冷たくなったような気がした。

CONTENTS          NEXT