扉を開けたミロは小さく息を吐いた。
部屋中に充満する鬱屈した気のせいか、何故だか息苦しいような錯覚に襲われたのだ。
このどんよりとした気は、オカルト小説に登場する妖魔のように明かりを浴びたら消えてくれるだろうか。
そんな愚にもつかない望みを抱きつつ、ミロは部屋の照明をつける。
予想通り、弟子もまた師と同様、この世の終わりを迎えたがごとき表情で寝台に並んで腰掛けていた。
親から見捨てられた兄弟のように、頬を濡らした涙の跡もそのままに互いの温もりに縋りつくようにぴったりと身を寄せ合う。
とはいえ、そうして痛みを分かち合う相手がいることは、彼らにとって幸いだったことだろう。
彼らよりも随分大人のはずのカミュでさえ、抱きしめるミロの手を振り解こうとしなかった。
独りでは、辛かったのだ。
裏を返せば、彼らにとって信頼関係についた傷はそれだけ甚大だったということか。
「……おまえら、ばれないようにもっと上手くやれよ」
わずかに感じてしまうやっかみをごまかすべく茶化しながら、ミロは殊更に陽気に笑ってみせた。
「しかも、よりによって、こんな大事な日にやらかしてくれるとはな」
「……こんな日だから、ですよ」
そろそろと顔を上げた兄弟子が、ぽつりと呟く。
弟弟子の方は、ますます兄弟子にしがみつくようにしてうなだれるだけだった。
しばらく無言で彼らを見下ろしていたミロは、小さな椅子を引き寄せ自分もまた腰を落ち着けた。
こんな日だから、というからには、彼らは今日がミロの誕生日だということを知っていたのだろう。
知った上でわざと問題を起こして、ミロの待つ聖域にカミュを行かせまいとしたのだろうか。
ミロはじっとアイザックの瞳を覗き込んだ。
その感情の種類に違いこそあれ、カミュを慕うという一点に関しては、ミロも二人の弟子たちも志を同じくすることに変わりはない。
ある意味仲間であり好敵手ともいえる彼らに何か言い分があるのなら、きちんと聞こうと思った。
「どういうことだ?」
責めているのではないと伝えたくて、できるだけ優しい声を出す。
アイザックは小さな手から勇気を貰おうとでもするように氷河の手をぎゅっと握り締めた。
「本当は、試験、今日じゃなかったんです」
カミュが提示した試験の日程に、もっと早くても大丈夫だと言い出したのはアイザックだった。
普段からカミュの教えをしっかりと学んでいるから、特別な試験勉強など必要ない。
そう主張したのは、偏にカミュの嬉しそうな顔をみたいという、ただそれだけだった。
案の定、熱心な弟子の姿を満足げに見遣ったカミュは、では日程を一週間後に変更しようと微笑んだ。
「そうすると、八日ですね」
ところが、カレンダーに目を走らせた氷河のそんな何気ない一言が、にわかにカミュの表情を曇らせたのだ。
たとえ意図していたとしても、ここまでの効果は与えられまい。
そう思ってしまうほどに、カミュは明らかに動揺をみせた。
「先生?」
「……いや、何でもない。八日だな、わかった」
しまったと舌打ちでもしそうな表情を無理矢理微笑にすり替えたカミュは、準備をしておくように、と言い残して去っていく。
その後ろ姿を見送るや、アイザックと氷河は顔を見合わせた。
何かある。
師の態度は二人の好奇心を掻き立てるに充分だった。
「だから、この日に何があるんだろうと思って、去年の日記を引っ張り出してみたんです。そしたら……」
「俺の誕生日だった、というわけか」
二人は頷いた。
「試験が終わったら聖域に行くって言うから、ああ、ミロの誕生日をお祝いにいくんだな、と思って……」
「でも、あんまり成績が悪かったら再試験になるから、そしたら、先生がなかなか出発できなくなると思って……」
不正を発見したショックから、恐らくカミュは彼らに言い訳をする隙さえ与えなかったのだろう。
容易に想像がつく。
ひどく悲しげに眉を顰めるカミュの面持ちに彼ら自身も罪悪感に駆られ、それがたとえ弁明であろうと声をかけるのが憚られたとしても無理はない。
だからこそか、ようやく差し伸べられた救済の手を必死で掴もうと、弟子たちは身を乗り出さんばかりにして訴えてきた。
「……で、一回で確実に合格点をとるために、答案を見せ合ったってことか?」
二人は決まり悪げに頷いた。
「そうか」
ミロは懸命に鹿爪らしい顔を作り、二人の顔をみつめた。
「おまえらがしたのは悪いことだって、わかるな」
自分も偉そうに言える立場にないことはよくわかっているが、そんなことはおくびにもださず、ミロは重々しく問うた。
神妙な顔つきでぎゅっと身を縮こまらせた弟子たちは、肯定の意を示すようにおずおずと目を伏せた。
「……だけど、動機は一応合格だ」
ミロの言葉に、空気が流れを起こすほどに勢いよく二人は顔を上げた。
不安の中にわずかな期待をちらつかせてみつめてくる子供たちに向かい、ミロはにっこりと笑ってみせた。
「カミュのためを思ってやったことなんだよな。おまえたち、つくづくあいつのことが好きなんだな」
弟子にこれほどまでに慕われている師匠が、我がことのように誇らしかった。
方法こそ誤ったとはいえ、師のために心を砕くことのできる子供たちの優しさが嬉しかった。
自然と和らぐミロの声は、彼らの凍てついた心を溶かすように優しく響いたのだろう。
呪縛が解き放たれたように顔を輝かせた弟子たちは、大きく首を縦に振った。
今にも泣き出しそうだった氷河が、これまでとは打って変わった明るい表情で笑う。
「先生も好きだけど、ミロも好きだよ」
続いて、アイザックが少し照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「だから、早く先生を聖域に行かせてあげたかったんだ。誕生日おめでとう、ミロ」
予想外の祝福に虚を突かれたミロは言葉を失った。
ようやく本意を伝えることができた解放感からなのか、にこにこと幸せそうに笑う子供たちの姿は無邪気な天使のようにさえみえた。
「……ありがとな」
二人の天使の頭をくしゃりと撫でてやると、ミロは立ち上がった。
あとは、もう一人のひねくれた天使を鬱屈から解き放ってやる必要があった。
ケーキが崩れないよう水平を保ちつつ幾つもの買い物袋を両手に提げるのは、結構難しい。
それでも何とかその使命を無事成し遂げたことに安堵しつつ、自分の誕生日祝いの宴のために買出しを命じられた主賓は、その不憫な境遇を思い扉の外で溜息をついた。
と、その溜息を耳聡く聞きつけたか、ミロの目の前で扉が内側から開く。
「戻ったか」
今日一日は大切に遇されて然るべき人間を顎でこき使う非情な男が、平然とミロを迎えた。
ここを出る前とは別人のように晴れやかな微笑をたたえているところをみると、どうやらカミュはすっかり機嫌をよくしているらしい。
ミロが買出しに行っている間に、無事弟子との仲直りを果たしたのだろう。
先ほどまでの反動とばかりに家中の照明をつけたのか、煌々と照らされた室内の空気はひどく和やかで、奥からは何やら陽気に騒ぐ子供たちの声が聞こえてくる。
とりあえず一安心といったところか。
人騒がせな師弟に呆れつつ曖昧に頷いたミロは、温かい室内へといそいそと足を進めた。
が、戸口で立ちはだかるカミュに進路を遮られる。
「……何? まさか帰れとは言わないよな」
いかにカミュが傍若無人でも、さすがにそこまで冷酷ではあるまい。
さりとてその可能性を完全には否定しきれず脅えるミロに、カミュは小さく笑った。
「少し付き合え。倉庫に用がある」
「……俺、一応今日誕生日なんですけど」
「無論承知している」
何故今更そのようなことを訊くのかとでも言いたげな一瞥を与えると、カミュは先に立って外へ行く。
今日何度目になるのかわからなくなってしまった溜息をついたミロは、渋々とその後を追いかけた。
「……いつになったら俺は温かい部屋に入れてもらえるのかね」
カミュに続いて倉庫に入ったミロは、ぶつぶつと悪態を吐きながら扉を閉めた。
「で、今度は何の御用で……」
振り返ろうとしたミロの動きが止まった。
「……すまなかった」
背中に温もりを感じる。
背後からカミュが腕を回してきたのだと、すぐに気付いた。
やや遅れて、何故カミュがわざわざ子供たちのいる家を離れ倉庫に向かったのか、ミロはようやくその意図を悟った。
ミロが何かを口にする前に胸に抱えた想いを洗いざらい曝け出そうというのか、いつもより早口になったカミュは忙しげに言葉を繋いだ。
「おまえには助けられてばかりで、迷惑をかけ通しで、本当にすまない」
「カミュ……」
「振り向くな」
ミロの動きを制するようにカミュの腕にぎゅっと力が込められた。
カミュには珍しい素直な謝罪の言葉だ。
ひねくれた感情表現しかできないカミュのことだ、面と向かっては謝辞どころか憎まれ口を叩きかねないと危惧したのだろう。
付き合いが長い分、今更真面目な会話をするのは照れ臭いし、言わずとも相手は理解しているはずだという妙な安心感もある。
ミロ自身にも心当たりのある感情だったから、その障害を乗り越えた突然のカミュの行動は、意外でもあり無性に嬉しくもあった。
ぴたりとつけられたカミュの頬が声を発する度に動くのを背中で感じながら、幸福感に包まれたミロは黙って次の台詞を待つ。
「いつも心の中で感謝はしているのだ。だが、つい伝えそびれて……」
「いいよ、そんなこと」
カミュの口からあまり耳に心地よい甘い言葉を聞いたことがないせいか、ひどくくすぐったい。
微笑んだミロは自分を抱きしめるカミュの手にそっと手を添えてみた。
慣れない告白に緊張しているのか、指先がかすかに震えている。
少しでも張り詰めた神経を解してやりたくて、ミロはカミュの手をぎゅっと握り締めた。
しばらくそうしていると、掌に感じていた小刻みな振動が徐々に消えていくのがわかる。
手を包みこむ温もりに励まされたか、ミロの背に額をつけたままカミュは小さく頭を振った。
「……これだけは言わせてほしい。私はおまえと出会えてよかったと思うのだ。だから……」
言いよどむように一旦言葉を切ったカミュは、ミロを抱きしめる腕に再び力を込めた。
「だから、来年の今日も、私におまえの誕生日を祝わせてもらいたい。もちろんおまえに異存がなければ……だが」
ミロの背に向かい一息に言ってのけると、カミュは判決の宣告を待ちでもするかのように身を強張らせる。
その感触を背中で味わいながら、ミロはそっと目を閉じた。
もし今着ている上着が厚地のものでなかったら、とくとくと早鐘を打つカミュの心臓の音まで如実に感じ取ることができただろう。
幸いなのは、この上着がミロの鼓動をカミュに伝えることをも遮ってくれることだった。
来年の約束など不確実すぎてできない。
自分の言葉に責任が持てないのが嫌なのか、大概カミュはそうして遠い将来の約束を拒絶するはずだった。
そんなカミュの性格を把握しているからこそ、ミロはこの言葉の重さを違えることなく受け止めることができた。
「異存なんか、あるかよ」
力強く放った一言は神聖な誓いにも似ていた。
それはミロばかりではなく、カミュの耳にも確かにそう届いたはずだ。
カミュを支配していた緊張がみるみる解けていくのを背中越しに感じながら、ミロは小さく笑った。
「でもさ、できれば来年はちゃんと俺の目をみて祝ってくれない?」
「……努力しよう」
あまり積極的とはいえないまでも前向きな返事を呟いたカミュは、ようやくミロを抱きしめていた腕を解いた。
ミロが振り向いてみると、既にカミュは常と少しも変わらぬ取り澄ました表情を浮かべている。
端整なその横顔はミロの悪戯心を刺激するのに充分だった。
「あとさ、まず今年のお祝いしてもらわないとな」
「ああ、引き止めてすまなかった。戻ろう」
子供たちがパーティー支度を整えているはずの家へ向かおうと、カミュはミロの横をすり抜けようとする。
そうはさせじと、ミロはその腕を掴んだ。
「おまえに、祝ってもらいたいんだよ」
語気を強めた言葉の真意を悟ったか。
ミロは少しも力を込めていないにもかかわらず、カミュがその腕を振り解くことはなかった。
しばらく無言でミロをみつめたカミュは、ちらりと扉に視線を走らせる。
しっかりとその扉が閉ざされていることを目で確認すると、カミュは静かに瞳を閉じた。
「おめでとう、ミロ」
かすかに動いた唇がそう囁くのを聞き届けたミロもまたゆっくりと瞼を閉じ、極上の祝福をあますところなく受け取ることにした。
部屋中に充満する鬱屈した気のせいか、何故だか息苦しいような錯覚に襲われたのだ。
このどんよりとした気は、オカルト小説に登場する妖魔のように明かりを浴びたら消えてくれるだろうか。
そんな愚にもつかない望みを抱きつつ、ミロは部屋の照明をつける。
予想通り、弟子もまた師と同様、この世の終わりを迎えたがごとき表情で寝台に並んで腰掛けていた。
親から見捨てられた兄弟のように、頬を濡らした涙の跡もそのままに互いの温もりに縋りつくようにぴったりと身を寄せ合う。
とはいえ、そうして痛みを分かち合う相手がいることは、彼らにとって幸いだったことだろう。
彼らよりも随分大人のはずのカミュでさえ、抱きしめるミロの手を振り解こうとしなかった。
独りでは、辛かったのだ。
裏を返せば、彼らにとって信頼関係についた傷はそれだけ甚大だったということか。
「……おまえら、ばれないようにもっと上手くやれよ」
わずかに感じてしまうやっかみをごまかすべく茶化しながら、ミロは殊更に陽気に笑ってみせた。
「しかも、よりによって、こんな大事な日にやらかしてくれるとはな」
「……こんな日だから、ですよ」
そろそろと顔を上げた兄弟子が、ぽつりと呟く。
弟弟子の方は、ますます兄弟子にしがみつくようにしてうなだれるだけだった。
しばらく無言で彼らを見下ろしていたミロは、小さな椅子を引き寄せ自分もまた腰を落ち着けた。
こんな日だから、というからには、彼らは今日がミロの誕生日だということを知っていたのだろう。
知った上でわざと問題を起こして、ミロの待つ聖域にカミュを行かせまいとしたのだろうか。
ミロはじっとアイザックの瞳を覗き込んだ。
その感情の種類に違いこそあれ、カミュを慕うという一点に関しては、ミロも二人の弟子たちも志を同じくすることに変わりはない。
ある意味仲間であり好敵手ともいえる彼らに何か言い分があるのなら、きちんと聞こうと思った。
「どういうことだ?」
責めているのではないと伝えたくて、できるだけ優しい声を出す。
アイザックは小さな手から勇気を貰おうとでもするように氷河の手をぎゅっと握り締めた。
「本当は、試験、今日じゃなかったんです」
カミュが提示した試験の日程に、もっと早くても大丈夫だと言い出したのはアイザックだった。
普段からカミュの教えをしっかりと学んでいるから、特別な試験勉強など必要ない。
そう主張したのは、偏にカミュの嬉しそうな顔をみたいという、ただそれだけだった。
案の定、熱心な弟子の姿を満足げに見遣ったカミュは、では日程を一週間後に変更しようと微笑んだ。
「そうすると、八日ですね」
ところが、カレンダーに目を走らせた氷河のそんな何気ない一言が、にわかにカミュの表情を曇らせたのだ。
たとえ意図していたとしても、ここまでの効果は与えられまい。
そう思ってしまうほどに、カミュは明らかに動揺をみせた。
「先生?」
「……いや、何でもない。八日だな、わかった」
しまったと舌打ちでもしそうな表情を無理矢理微笑にすり替えたカミュは、準備をしておくように、と言い残して去っていく。
その後ろ姿を見送るや、アイザックと氷河は顔を見合わせた。
何かある。
師の態度は二人の好奇心を掻き立てるに充分だった。
「だから、この日に何があるんだろうと思って、去年の日記を引っ張り出してみたんです。そしたら……」
「俺の誕生日だった、というわけか」
二人は頷いた。
「試験が終わったら聖域に行くって言うから、ああ、ミロの誕生日をお祝いにいくんだな、と思って……」
「でも、あんまり成績が悪かったら再試験になるから、そしたら、先生がなかなか出発できなくなると思って……」
不正を発見したショックから、恐らくカミュは彼らに言い訳をする隙さえ与えなかったのだろう。
容易に想像がつく。
ひどく悲しげに眉を顰めるカミュの面持ちに彼ら自身も罪悪感に駆られ、それがたとえ弁明であろうと声をかけるのが憚られたとしても無理はない。
だからこそか、ようやく差し伸べられた救済の手を必死で掴もうと、弟子たちは身を乗り出さんばかりにして訴えてきた。
「……で、一回で確実に合格点をとるために、答案を見せ合ったってことか?」
二人は決まり悪げに頷いた。
「そうか」
ミロは懸命に鹿爪らしい顔を作り、二人の顔をみつめた。
「おまえらがしたのは悪いことだって、わかるな」
自分も偉そうに言える立場にないことはよくわかっているが、そんなことはおくびにもださず、ミロは重々しく問うた。
神妙な顔つきでぎゅっと身を縮こまらせた弟子たちは、肯定の意を示すようにおずおずと目を伏せた。
「……だけど、動機は一応合格だ」
ミロの言葉に、空気が流れを起こすほどに勢いよく二人は顔を上げた。
不安の中にわずかな期待をちらつかせてみつめてくる子供たちに向かい、ミロはにっこりと笑ってみせた。
「カミュのためを思ってやったことなんだよな。おまえたち、つくづくあいつのことが好きなんだな」
弟子にこれほどまでに慕われている師匠が、我がことのように誇らしかった。
方法こそ誤ったとはいえ、師のために心を砕くことのできる子供たちの優しさが嬉しかった。
自然と和らぐミロの声は、彼らの凍てついた心を溶かすように優しく響いたのだろう。
呪縛が解き放たれたように顔を輝かせた弟子たちは、大きく首を縦に振った。
今にも泣き出しそうだった氷河が、これまでとは打って変わった明るい表情で笑う。
「先生も好きだけど、ミロも好きだよ」
続いて、アイザックが少し照れ臭そうに笑みを浮かべた。
「だから、早く先生を聖域に行かせてあげたかったんだ。誕生日おめでとう、ミロ」
予想外の祝福に虚を突かれたミロは言葉を失った。
ようやく本意を伝えることができた解放感からなのか、にこにこと幸せそうに笑う子供たちの姿は無邪気な天使のようにさえみえた。
「……ありがとな」
二人の天使の頭をくしゃりと撫でてやると、ミロは立ち上がった。
あとは、もう一人のひねくれた天使を鬱屈から解き放ってやる必要があった。
ケーキが崩れないよう水平を保ちつつ幾つもの買い物袋を両手に提げるのは、結構難しい。
それでも何とかその使命を無事成し遂げたことに安堵しつつ、自分の誕生日祝いの宴のために買出しを命じられた主賓は、その不憫な境遇を思い扉の外で溜息をついた。
と、その溜息を耳聡く聞きつけたか、ミロの目の前で扉が内側から開く。
「戻ったか」
今日一日は大切に遇されて然るべき人間を顎でこき使う非情な男が、平然とミロを迎えた。
ここを出る前とは別人のように晴れやかな微笑をたたえているところをみると、どうやらカミュはすっかり機嫌をよくしているらしい。
ミロが買出しに行っている間に、無事弟子との仲直りを果たしたのだろう。
先ほどまでの反動とばかりに家中の照明をつけたのか、煌々と照らされた室内の空気はひどく和やかで、奥からは何やら陽気に騒ぐ子供たちの声が聞こえてくる。
とりあえず一安心といったところか。
人騒がせな師弟に呆れつつ曖昧に頷いたミロは、温かい室内へといそいそと足を進めた。
が、戸口で立ちはだかるカミュに進路を遮られる。
「……何? まさか帰れとは言わないよな」
いかにカミュが傍若無人でも、さすがにそこまで冷酷ではあるまい。
さりとてその可能性を完全には否定しきれず脅えるミロに、カミュは小さく笑った。
「少し付き合え。倉庫に用がある」
「……俺、一応今日誕生日なんですけど」
「無論承知している」
何故今更そのようなことを訊くのかとでも言いたげな一瞥を与えると、カミュは先に立って外へ行く。
今日何度目になるのかわからなくなってしまった溜息をついたミロは、渋々とその後を追いかけた。
「……いつになったら俺は温かい部屋に入れてもらえるのかね」
カミュに続いて倉庫に入ったミロは、ぶつぶつと悪態を吐きながら扉を閉めた。
「で、今度は何の御用で……」
振り返ろうとしたミロの動きが止まった。
「……すまなかった」
背中に温もりを感じる。
背後からカミュが腕を回してきたのだと、すぐに気付いた。
やや遅れて、何故カミュがわざわざ子供たちのいる家を離れ倉庫に向かったのか、ミロはようやくその意図を悟った。
ミロが何かを口にする前に胸に抱えた想いを洗いざらい曝け出そうというのか、いつもより早口になったカミュは忙しげに言葉を繋いだ。
「おまえには助けられてばかりで、迷惑をかけ通しで、本当にすまない」
「カミュ……」
「振り向くな」
ミロの動きを制するようにカミュの腕にぎゅっと力が込められた。
カミュには珍しい素直な謝罪の言葉だ。
ひねくれた感情表現しかできないカミュのことだ、面と向かっては謝辞どころか憎まれ口を叩きかねないと危惧したのだろう。
付き合いが長い分、今更真面目な会話をするのは照れ臭いし、言わずとも相手は理解しているはずだという妙な安心感もある。
ミロ自身にも心当たりのある感情だったから、その障害を乗り越えた突然のカミュの行動は、意外でもあり無性に嬉しくもあった。
ぴたりとつけられたカミュの頬が声を発する度に動くのを背中で感じながら、幸福感に包まれたミロは黙って次の台詞を待つ。
「いつも心の中で感謝はしているのだ。だが、つい伝えそびれて……」
「いいよ、そんなこと」
カミュの口からあまり耳に心地よい甘い言葉を聞いたことがないせいか、ひどくくすぐったい。
微笑んだミロは自分を抱きしめるカミュの手にそっと手を添えてみた。
慣れない告白に緊張しているのか、指先がかすかに震えている。
少しでも張り詰めた神経を解してやりたくて、ミロはカミュの手をぎゅっと握り締めた。
しばらくそうしていると、掌に感じていた小刻みな振動が徐々に消えていくのがわかる。
手を包みこむ温もりに励まされたか、ミロの背に額をつけたままカミュは小さく頭を振った。
「……これだけは言わせてほしい。私はおまえと出会えてよかったと思うのだ。だから……」
言いよどむように一旦言葉を切ったカミュは、ミロを抱きしめる腕に再び力を込めた。
「だから、来年の今日も、私におまえの誕生日を祝わせてもらいたい。もちろんおまえに異存がなければ……だが」
ミロの背に向かい一息に言ってのけると、カミュは判決の宣告を待ちでもするかのように身を強張らせる。
その感触を背中で味わいながら、ミロはそっと目を閉じた。
もし今着ている上着が厚地のものでなかったら、とくとくと早鐘を打つカミュの心臓の音まで如実に感じ取ることができただろう。
幸いなのは、この上着がミロの鼓動をカミュに伝えることをも遮ってくれることだった。
来年の約束など不確実すぎてできない。
自分の言葉に責任が持てないのが嫌なのか、大概カミュはそうして遠い将来の約束を拒絶するはずだった。
そんなカミュの性格を把握しているからこそ、ミロはこの言葉の重さを違えることなく受け止めることができた。
「異存なんか、あるかよ」
力強く放った一言は神聖な誓いにも似ていた。
それはミロばかりではなく、カミュの耳にも確かにそう届いたはずだ。
カミュを支配していた緊張がみるみる解けていくのを背中越しに感じながら、ミロは小さく笑った。
「でもさ、できれば来年はちゃんと俺の目をみて祝ってくれない?」
「……努力しよう」
あまり積極的とはいえないまでも前向きな返事を呟いたカミュは、ようやくミロを抱きしめていた腕を解いた。
ミロが振り向いてみると、既にカミュは常と少しも変わらぬ取り澄ました表情を浮かべている。
端整なその横顔はミロの悪戯心を刺激するのに充分だった。
「あとさ、まず今年のお祝いしてもらわないとな」
「ああ、引き止めてすまなかった。戻ろう」
子供たちがパーティー支度を整えているはずの家へ向かおうと、カミュはミロの横をすり抜けようとする。
そうはさせじと、ミロはその腕を掴んだ。
「おまえに、祝ってもらいたいんだよ」
語気を強めた言葉の真意を悟ったか。
ミロは少しも力を込めていないにもかかわらず、カミュがその腕を振り解くことはなかった。
しばらく無言でミロをみつめたカミュは、ちらりと扉に視線を走らせる。
しっかりとその扉が閉ざされていることを目で確認すると、カミュは静かに瞳を閉じた。
「おめでとう、ミロ」
かすかに動いた唇がそう囁くのを聞き届けたミロもまたゆっくりと瞼を閉じ、極上の祝福をあますところなく受け取ることにした。