無憂宮
 賑やかな食事の後、子供たちは理由も告げずに早々に自室へと戻っていった。
 いつもなら俺を囲んで祭りのような大騒ぎ、となるところだが、今夜は敬愛する師の誕生日祝いの準備でそんな暇はないのだろう。
 もっとも、先ほどからやけに静かなところをみると、さすがに深夜ともなれば彼らも眠気には勝てなかったようだ。
 「……やはり眠っていた」
 物音一つしないことを訝しみ弟子の部屋を覗いていたカミュが、苦笑いを浮かべつつ戻ってきた。
 「すまないな。折角おまえが来ているというのに、あの子たちは工作か何かに夢中らしい」
 「工作?」
 「ああ、二人とも何か作りかけたまま机に突っ伏して寝てしまっていた。そんな宿題を出した覚えはないのだが」
 全く事情に気付いていないのか、カミュは面目なさそうに頭を下げる。
 さて、困った。
 秘密にしておいてカミュを驚かせたいという子供たちの希望を尊重するか、それとも、来客を放置した弟子の非礼に恐縮するカミュを救済すべきか。
 少しばかり迷ったが、このまま事情を知らせないでおくと、カミュは際限なく過去まで遡ってどっぷりと悩みだしかねない。
 優先順位は自ずと決まった。
 内心で二人に詫びつつ、俺はできるだけさりげなく口を開いた。
 「ま、許してやれよ。あいつらもおまえの誕生日に間に合わせようと必死なんだよ」
 「私の誕生日……?」
 カミュはきょとんと瞳を瞬かせた。
 「あれ、さっきの俺らの話聞いてなかった? カミュ先生の誕生日祝いするんだって、あいつら張り切ってたぞ」
 しばらく呆気に取られた様子のカミュは、ようやく昨夜来の弟子の不可解な行動の意味が飲み込めたらしい。
 慌てたように振り返り、弟子たちの眠る部屋の扉を愛しげにじっとみつめる。
 おそらく今カミュの胸の中では、驚きと喜びとがない混ざり激しく琴線を揺さぶっているのだろう。
 涙もろいカミュの涙腺が一旦緩んでしまうと、慰めるのが一苦労だ。
 そんな忌避すべき事態となる前に、俺はカミュの気を引き立てようと殊更からかうように笑ってみせた。
 「だけどおまえ、弟子に気を使わせたくないのか知らないけど、忘れたってのはないだろ。自分の誕生日だぞ」
 いくら幼い子供たちが相手でも、そんな嘘っぽい言い訳が通用するわけがない。
 そう言って笑った俺の目的は、無事果たされたようだ。
 いや、むしろ果たされすぎたと言うべきか。
 先程までの今にも泣き出しそうな感極まった表情はどこへやら、カミュは一転して俺を不満気に睨みつけてきた。
 「言い訳などではない」
 「……まさか、本気で忘れたっての?」
 半信半疑の俺の問いかけに、仏頂面のままカミュはわずかに頷いた。
 「私の誕生日などさして重要ではないからな。そんな瑣末なことより各星座の星命点の位置でも覚えた方が……」
 「……ちょっと待て、こら」
 嘘をついているとも思えないこの口ぶりから察するに、どうやらカミュは本気で自分の誕生日がいつか覚えていないらしい。
 一瞬目眩を覚えたのは、気のせいではないだろう。
 カミュはいささか常人離れした思考回路の持ち主だとは薄々察していたが、さすがの俺もまさかここまで突拍子もない発言を聞かされるとは思っていなかった。
 「じゃ、何か? 俺はその本人すら忘れるようなどうでもいいことのために、この吹雪の中わざわざシベリアくんだりまでやって来た物好きだってのか?」
 抑えようと努力はしてみたが、声にわずかばかりの険が含まれるのは否めない。
 俺には一年で最も大事な日なのに、カミュは何ら意味をなさない日だと言う。
 毎年毎年、数週間も前からカミュの誕生日だと大騒ぎしている俺が、なんだか救いがたい馬鹿のように思えてしまい、虚しくてならなかった。
 そんな俺の落胆はカミュにも伝わったのだろう。
 カミュは少し気まずげに口を尖らせた。
 「そうではない」
 「だってそうじゃん。おまえにしてみりゃ、誕生日なんて簡単に忘れちまえる程度のものなんだろ?」
 「私にとっては、な」
 一旦言葉を切ったカミュは、そこでじっと俺の目を見据えた。
 「私は、忘れていても不都合はないのだ」
 やけに主語を強調した物言いに、俺は不審を抱きつつ続くカミュの言葉を待った。
 わずかばかりの落ち着きを取り戻した俺に安堵したか、小さく息を吐いたカミュはつと視線を逸らしぶっきら棒に続ける。
 「その代わり、おまえが私の誕生日を覚えていてくれる」
 ただでさえ声が小さい上、早口で少し聞き取りにくい。
 だが、俺にはそれで充分だった。
 「……俺が覚えているから、おまえは心置きなく忘れられるってこと?」
 俺はぺろりと唇を舐めた。
 日頃やたらと構おうとする俺を鬱陶しがるカミュにしては随分と可愛らしい台詞が、心地よい棘となって胸に刺さる。
 欲張りな俺は、その甘美な胸の痛みをもっと貪欲に味わい尽くしたくてたまらなくなった。
 「ま、確かに子供のときから一回だって忘れたことはないけど。でも随分俺を信頼してくれてんだな。万一俺が忘れてたらどうするんだよ」
 「だから、だ」
 カミュは俺を見ないまま、少し苛立ったように口許を歪めた。
 「おまえが毎年祝ってくれるから、誕生日が近くなるとつい期待してしまう。そんな自分が嫌なのだ」
 それならば、いっそ誕生日を忘れてしまえば、祝福を期待することもなく、仮にミロが失念していたとしても落胆することもない。
 わずかに頬を紅潮させ一息にそう言い放つカミュを、俺は呆気に取られてただみつめていた。
 そんな悪夢を想定するなんて、誕生日など価値がないなどと嘯く人間の心理とは到底思えない。
 やっぱりカミュも誕生日は大事なんじゃないかと思うと、ふわふわの綿毛でも飲み込んだように胸の奥がくすぐったくなった。
 しかも、悪い方へ悪い方へと先走った挙句導き出した結論がこれとは、カミュらしいといえばカミュらしい。
 だが、果たして一体何と言ってやったものか。
 しばしの沈黙の後、ようやく気を取り直した俺は、大声で笑い出したくなるのを堪えつつ口を開いた。
 「カミュ」
 そっぽを向いたままのカミュの顎に指をかける。
 少し抵抗する気配をみせるカミュの顔を無理矢理自分の方に引き寄せると、俺は睨みつけるように見据えてくる真紅の瞳を覗き込んだ。
 「あまり俺を馬鹿にするなよ」
 抑えた声に、カミュの瞳がたじろいだように揺れる。
 俺はそんなカミュを安心させるように優しく微笑みかけた。
 「心配しなくてもいい。俺は絶対おまえの誕生日を忘れたりしないから」
 心が形あるものなら、胸の内から引きずり出して見せてやりたい。
 カミュが疑うことなく俺を信じてくれるなら、ただそれだけを力に俺は何だってできる。
 そう思った。
 「……一応、そういうことにしておこう」
 苛烈な輝きを奥に潜ませていた紅い瞳が、次第に穏やかになっていく。
 顔に添えた俺の指をそっと外し、カミュは照れ臭そうに小さく笑った。
 「ともかく、今年に関してはその言葉に偽りはないようだからな」
 「だから今年だけじゃなくて来年も再来年も……」
 反論しかけた俺は、そこでふとあることに思い至った。
 「……カミュ」
 情けないほど呆けた声で名を呼ばれたカミュは、訝しげに俺を見た。
 「じゃ、さ。俺、これからもずっとおまえの誕生日を真っ先に祝わせてもらえるのかな」
 「おまえがそうしてくれると言うのなら、特に断る理由はないな」
 「……そうか」
 俺はカミュに気付かれないよう密かに安堵の息を吐いた。
 その言葉が俺にどれほどの喜びを与えるか、カミュはまだ気付いていない。
 俺にしたところで、カミュの言動に一喜一憂させられる本当の意味を理解したのは比較的最近のことなのだから、当然といえば当然だ。
 最初に俺が戸惑いを覚えたのは、カミュが弟子を取ると決まったときだった。
 いつも一緒にいた親友が遠くに行ってしまうことにひどく寂しさを味わったのはもちろんだが、それ以上に不可解な感情に襲われたことに驚いた。
 一言で言うと、面白くない。
 特にサガが消息不明となってからというもの、決して社交的とはいえないカミュが常日頃親しく言葉を交わすのは俺くらいだった。
 だから、俺は自分が彼の中で不動の最上位を占めていることを、至極当然のことだと思っていたのだ。
 その俺が、突然の弟子の登場により、カミュを独占できなくなってしまった。
 それを不満に思うこの感情の正体が恋というものだと気付くのにそれから一年近くを要したが、カミュの鈍さに救われ、幸い今のところは上手く隠しおおせている自信がある。
 互いに異質な思いを寄せ合うこの歪んだ関係にも、いつかは終止符を打ちたくてどうしようもないときがくるだろうが、まだもうしばらくはこの微温湯の中に浸っていたかった。
 まだ、もうしばらくは。
 わずかばかりの胸の痛みを覚えつつ、ことさらにおどけて俺は笑った。
 「じゃ、恒例行事やらせてもらおっかな」
 誕生日を迎えた相手を抱きしめ祝福する。
 隣室で眠る二人の弟子たちよりもなお幼い頃から、それが俺たちの習慣になっていた。
 まさかカミュをこんな意味で好きになるとは思ってなかったからできた芸当だが、だからといって今更やめるのも不自然だ。
 これからは、せめてこの秘めた恋心に気付かれないように努力するしかないのだろう。
 俺は高鳴る胸の鼓動を抑えつつ両腕を広げた。
 「……ああ」
 「……どうかした?」
 気のせいか、小声で了承するカミュの姿が何かを躊躇うようにみえ、俺は首を傾げた。
 「いや、なんでもない」
 軽く頭を振ったカミュは、何事もなかったように足を進め俺の一歩手前で止まる。
 「じゃ、おめでとう」
 緊張を気取られないように軽い口調で祝福を告げると、俺はカミュをそっと抱きしめた。
 鼻先にふわりと清新な雪の匂いが漂う。
 カミュの匂いだ。
 子供の頃からずっとずっと俺が抱きしめ慈しんできた宝物だ。
 そう思うや、やみくもに離したくないという衝動に駆られた俺は、加減を知らない小さな子供のようにカミュをぎゅっと抱きしめた。
 腕の中のカミュの身体が強張る。
 煩いほどに鳴り響く心音を聞かれてももう構わないと自暴自棄気味に思ったとき、俺はふとあることに気付き耳を澄ませた。
 間違いない。
 心音が、二重に聞こえるのだ。
 俺の鼓動と同じかそれ以上の速さで打ち続けるこの拍動は、カミュのものだろうか。
 おかしい。
 何故カミュが俺と同じように緊張する必要があるのだろう。
 麻痺したような頭でしばらく考えようやく思い当たった解答は、あまりに俺の願望通りの都合の良過ぎるものだった。
 「カミュ……」
 思わず漏れた名を呼ぶ声が、明らかに上擦っていた。
 俺の導き出した答えが果たして正解なのか、カミュに確認を取りたくてもそれ以上何も言えなかった。
 俺もカミュも、破裂しそうなほどに心臓を働かせながら、ただ抱き合ったまま立ち尽くすことしかできなくなっていた。

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