2007 ミロ誕
聖域は古来秘された存在だ。
聖闘士の存在を秘匿せんがため女神信仰は一般的な宗教を擬すことが慣例となっていたようだが、時の経過と共に本来の意図から逸脱することも珍しくはなかったらしい。
厳秘に付されるあまり継承に障りが生じ、擬態が真実となることもままあったようだ。
今回私が訪れた、現在はとある宗教会派に属する修道院も、その一つだ。
もちろん現在の基盤がいかなるものであるとはいえ、そこで保管されている文献が聖域史においても貴重な資料であることに変わりはない。
過日より提出していた閲覧申請がようやく受諾された私は激しく心躍らせたのだが、すぐに先方から指定された日付の意味に気付き、困惑した。
その日は、彼のために捧げられるべき一日だった。
とはいえ、この機会を逃したのなら、次に許可が下りるのはいつになるかわからない。
出発前、わざわざ天蠍宮を訪れ出立の挨拶をしたのは、欲張りにも二兎を追いかけようとの思惑からだった。
別段そう言葉にした訳ではなかったが、ありがたいことにミロは勘よく私の意図を察したようで、自分から同行を申し出てくれた。
おかげで目的を両方とも達することができると私は密かに胸を撫で下ろしたのだが、生憎とぬか喜びだったようだ。
いざ文献を前にすると、知的好奇心をひどく刺激された私は目先の資料にすっかり没頭してしまった。
彼を待たせたままであることを思い出したのは、数時間も経ってからのことだった。
こんなことなら『興味がないから外で待っている』と言い張る彼を無理にでも付き合わせるべきだったと激しい後悔に襲われたが、悔いたところで時間は戻らない。
随分と傾いてしまった太陽に一抹の後悔と申し訳なさを覚えつつ、私は迷路のような回廊を巡り彼と別れた中庭へと急いだ。
戸外には穏やかな秋の夕暮れを感じさせるやわらかな陽射しが注いでいた。
セピアの薄幕をかけたように事物の色や輪郭が少々ぼやけて見える夕景色はどこか暖かな印象を受けたが、夜も迫りつつあるだけに幾分空気が涼感を孕みだしていたのは否めない。
こんな大切な日に、風邪でも引かせてしまったらことだ。
足早に待ち合わせ場所へ向かうと、数時間前と同じようにミロは蔦の絡まる外壁にもたれていた。
ただ記憶の中の情景と違うのは、彼が誰かと立ち話をしていることだ。
彼は人好きのする性格だったから、初対面の相手ともすぐに長年の友人のように打ち解けることができた。
今日もまた通りすがりの人間をつかまえて、暇つぶしに話相手にでもなってもらっていたのだろう。
私が書物を紐解いている間一人残された彼の相手をつとめていてくれたのは、首から重そうにカメラを提げた初老の男性だった。
やがて彼らの会話は終わったらしく、ミロは笑顔で手を振りながら立ち去る男性を見送っていた。
そうして手を挙げたまま、彼はくるりと身体の向きを変えこちらを見た。
その顔が、にこりと綻ぶ。
「よ、終わった?」
「……ああ、待たせてすまない」
「いいよ、退屈じゃなかったし」
話相手がいたから、ということだろうか。
私は彼の無聊を慰めてくれた恩人がちょうど門の向こうに消えていくのをちらりと眺めやった。
「ああ、あの人?」
私の視線の先を追いかけたミロは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「結構物知りでさ。この修道院の歴史とか、いろんなこと教えてくれたぜ。面白かった」
ミロが言うには、その男性は撮影旅行の真っ最中だということだった。
首から提げていたカメラが立派だったのも道理、写真の腕はセミプロ級とかで、暇をみつけては各地を訪問しているらしい。
まさかこの数時間の間ずっとあの重たげなカメラをぶらさげたまま立ち話に興じていたとは考えにくいから、ミロとその男性が共にいたのはそれほど長い時間というわけではないだろう。
それなのに、ミロは短い間に随分と相手の情報を引き出したものだ。
毎度のこととはいえ、ミロの天性の会話術に驚いた私はかるく目を見張った。
「おまえは相変わらず人懐こいというか、人見知りというものと無縁なのだな」
「まあ、一応、大人だし?」
それは、自分でも救いがたいほどに非社交的だと認める私に対する嫌味だろうか。
わずかに表情を歪めた私に気付いたのか、慌てたようにミロは両手を顔の前で振った。
「いや、さっきのは、あっちから俺に声をかけてきたんだぜ。写真撮らせてくれって」
「写真……?」
「ああ、ここでぼーっとおまえ待ってたら、色のコントラストがいいって……」
言われた台詞をそのまま繰り返してはみたものの、よく意味がわかっていないのだろう。
かすかに疑問調のイントネーションを交え弁明を続けるミロをみているうちに、私はふと好奇心に駆られた。
写真が趣味、それもセミプロ級の腕前を誇るという芸術的感性の持ち主が、一体被写体としてミロの何に惹かれたというのか。
戯れに両手の親指と人差し指を組み合わせフレームを作った私は、その文字通り手製のファインダーを覗き込んでみた。
指の枠の中に、切り取られたミロが見える。
思わず、息を呑んだ。
その写真家が記憶のみならず写真という作品形式に彼の姿を焼き付けたいと思った理由が、わかった気がした。
彼が背を預ける壁一面を這う蔦は、深まる秋の気配を敏感に感じ取ったように紅に染まる葉を厚く茂らせていた。
それが、ちょうど彼の豊かな黄金の髪と相まって、えもいわれぬ程に鮮やかな色彩の妙をみせていたのだ。
いや、そればかりではない。
普段あまりに傍にいすぎて、忘れていた。
常に人好きのする笑顔を浮かべているからあまり意識したことなどなかったが、彼は生来ひどく端整な容貌の持ち主だった。
さすがのミロも一人で物思いに耽っていたときには笑っていなかったろうし、とすれば定めし彼の姿は凛々しい彫像のように見えただろう。
ましてや写真家は初老に差し掛かった男性だ。
未来への希望と活力に満ちた青年の姿に、二度と戻らない若かりし日の情景を重ねて思い出したのかもしれなかった。
そう考えれば、つい立ち止まり彼にカメラを向けたくなるのも無理はない。
「……カミュ?」
訝しげに名を呼ばれ、私は今更ながら彼の外見に目を奪われていた自分に気付いた。
一瞬で、羞恥に顔が熱くなる。
「どうした、顔赤くして。熱でもあるんじゃないのか」
額に手を当てて熱でも測ってくれようとしたのだろうが、今、彼に触れられるのはどうにも気恥ずかしい。
心配げに差し伸ばされるミロの手を、私は慌てて振り払った。
予想だにしない拒絶に呆気に取られたミロが、目を丸くする。
いささか大げさな反応になったことを悔いつつ、私は自己弁護をするように早口で付け加えた。
「いや、何でもない。気にするな」
「そうか? なら、いいけど」
完全に納得したのではないものの、下手に食い下がってはまた私の機嫌を損ねることになると怯えたのかもしれない。
少し戸惑ったように肩を竦めたミロは、ついで気を取り直したように笑顔をみせた。
「じゃ、行こうぜ」
先に立って歩き出す彼の背を、私は慌てて追いかけた。
しかし、平静を保たねば、と、少し焦りすぎてしまったらしい。
足元の注意が疎かになったせいか石畳に躓きよろけた私に、ミロは小さく笑うともう一度手を差し出してきた。
私はじっと彼の手をみつめた。
善意に溢れたその手を、再び振り払うことはできなかった。
そろそろと伸ばした私の手を、ミロはぎゅっと握りしめてきた。
前を向いたまま私を見ようとしないのは、彼なりの優しさだろうか。
「……珍しく素直だな」
「たまには、な」
短い問いかけに、私もぶっきら棒に答えた。
あの門を出るまでは。
私はそう内心で独り自分に言い聞かせていた。
あの門を出るまでは、彼に大人しく手を預けようと思った。
格好の言い訳だ。
自分でも厄介だと思うが、私は適当な口実を設けねば、ミロの好意を素直に受け入れることができなかった。
内に抱く友情とは異なる感情の正体に気付き始めた当初、ミロはその想いをいささかの遠慮もなく真っ直ぐに私にぶつけてきた。
それは、圧縮された気がようやくみつけた捌け口から一気に放出されるような、あまりに激しいものだった。
その勢いに流され自分を見失いそうになってしまうことに怯えた私は、そんなひねくれた防御陣を敷き自分を守ろうとしたのだが、いつの間にかそれが習い性になってしまったのだと思う。
自分が原因だとわかっているせいか、ミロがそれでも私を受け入れてくれることに甘えているのは、重々承知だ。
だから 。
「……まだ、いいのか?」
突然かけられたミロの声に、ぼんやりと物思いにふけっていた私は慌てて顔を上げた。
「何がだ?」
「門、出たけど。おまえのことだから、人目がないこの修道院の中だけ、とか、またそんな条件勝手につけてるのかと思って」
ミロは繋いだままの手をかるく持ち上げ、からかうように小首を傾げて問いかける。
図星だ。
人の心を読むことができるのかと思うほどに、ミロは時折私の内心をずばりと言い当てる。
それが、私限定で発揮される能力であることを考えると、それだけミロは私の些細な挙措全てに細心の注意を向けているということなのだろうか。
言葉を失いただ瞠目する私の手を、ミロは力を込めて握るとにこりと笑った。
「ま、まだいいって言うなら、喜んで握ったままにさせてもらうけど」
「……ああ、好きにしろ」
ぽつりと呟いた私の言葉は余程想定外だったのか、目を見張るのは今度はミロの方だった。
「今日は、おまえの希望を極力叶えてやる」
気恥ずかしさにミロの瞳を見ることもできず、私はミロの手を強く握り返した。
年に一度だけ使え、しかも絶大な効果のある、貴重な口実を使うときがきた。
「今日は、おまえの誕生日だろう。だから、日付が変わるまで、残り時間は全ておまえにやろう」
半日ほど私の希望を優先させてしまい申し訳なかったが。
俯いたままそう口の中でぼそぼそと謝罪の言葉を付け加えた私に、しばらく呆気にとられていたミロはやがてくすりと笑いかけた。
「へえ、覚えていてくれたんだ、嬉しいな」
ミロの誕生日を、私が忘れるはずもない。
私がどれほど彼を大切に想っているか、その点に関してだけはミロはひどく鈍いようだが、私がいつも素っ気無い反応しか返せないのだからこれも自業自得なのだろう。
顔を綻ばせるミロに、元々ミロの誕生日を祝うため外遊も兼ね同行してもらったのだと今更告げるのも気恥ずかしく、私は沈黙を貫いた。
とはいえ、洞察力に長けたミロは、もしかしたらそんな私の胸中も察しているのかもしれない。
しかし、たとえそうだったとしても、何も言わずに素直に喜んでみせてくれる彼の配慮を、私は尊重すべきだろう。
ひどく自分に都合のよい解釈に我ながら呆れつつも、私は殊更にしかつめらしい表情を作ってミロを見た。
「では、おまえの希望を聞こう。何か要望はあるか?」
「そうだな」
薄橙色に染まりつつある空を見上げて考える様子をみせたミロは、私に視線を戻すと真っ直ぐに目を覗き込んできた。
「まず、飯食い行こうぜ。この辺にいいビストロがあるんだって。美味いワインを飲ませてくれるらしいぞ」
「……ああ、構わないが」
一体、ミロはどこからそんな情報を仕入れてきたのだろう。
この街に来るのはミロも私も初めてのはずだし、出発間際はばたばたと忙しなかったから、そんなことを調べている時間など到底なかったはずだ。
素朴な疑念は顔に浮かんでいたのかもしれない。
ミロは得意げに笑った。
「おまえを待ってる間に俺の前を通りかかった人は、あの写真家だけじゃないんだぜ。折角の地元民のオススメ情報、逃す手はないだろ。あ、ついでに言うと……」
惜しげもなく種明かしをしたミロは、続いてそっと私の耳元に顔を寄せた。
「そのまた近くになかなか感じのいい宿があるらしいんだ。おまえ待ってる間に、どっちも予約しといた」
「……は?」
食事はともかく、今日は日帰りの予定だったはずだ。
囁き声が告げた内容に意表を突かれた私は、ひどく狼狽した反応をみせたのだろう。
楽しげにくすくすと笑うミロは、じっと私の目をみつめると徐に口を開いた。
「今日はオレの誕生日、だろ。当然、祝ってくれるんだよな」
私は肯定の返事以外は一切求めていない蒼い瞳をじっとみつめ返した。
ご親切なことだ。
瞳には逆らいがたい熱情を浮かべ誘惑しつつ、そればかりか私が自分を納得させるための格好の言い訳まで与えてくれるとは。
彼の眼差しから逃れるように俯いた私は、ひとつ息を吐いた。
「……教皇には『予想外に調査に時間がかかったため帰還が遅れた』と報告するが、口裏を合わせてくれるのだろうな」
「そりゃもう、喜んで」
計略どおりに誘いに乗ってきた私に満足したのか、ミロはさっと満面の笑みを浮かべてみせた。
その嬉しそうな顔を真っ直ぐに見るのはさすがに照れくさく、私はつと視線をそらせた。
だが、言うべきことは、きちんと言わねばなるまい。
「おまえの誕生日だからな。おめでとう」
そっと口を開いた私は、どんな葛藤も瞬時に打ち払ってくれる魔法の呪文を小声で呟いた。
あと数時間の内に何回口にできるかわからないが、今日ばかりはその祝福の言葉にありったけの想いを込め、一年分の感謝を捧げようと思った。
ミロの誕生日は、いつも救いがたいほどにひねくれた私にとっても、そうして彼への想いを伝えることのできる大切な日なのだ。
「おめでとう、ミロ」
私は繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
返事はなかった。
だが、ミロもまた無言でその手を握り返してくれたことが、嬉しかった。
掌に感じる心地よい温もりを私はこの先もずっと記憶に留めておくことだろうと、そう思うと何故だかひどく誇らしかった。
聖域は古来秘された存在だ。
聖闘士の存在を秘匿せんがため女神信仰は一般的な宗教を擬すことが慣例となっていたようだが、時の経過と共に本来の意図から逸脱することも珍しくはなかったらしい。
厳秘に付されるあまり継承に障りが生じ、擬態が真実となることもままあったようだ。
今回私が訪れた、現在はとある宗教会派に属する修道院も、その一つだ。
もちろん現在の基盤がいかなるものであるとはいえ、そこで保管されている文献が聖域史においても貴重な資料であることに変わりはない。
過日より提出していた閲覧申請がようやく受諾された私は激しく心躍らせたのだが、すぐに先方から指定された日付の意味に気付き、困惑した。
その日は、彼のために捧げられるべき一日だった。
とはいえ、この機会を逃したのなら、次に許可が下りるのはいつになるかわからない。
出発前、わざわざ天蠍宮を訪れ出立の挨拶をしたのは、欲張りにも二兎を追いかけようとの思惑からだった。
別段そう言葉にした訳ではなかったが、ありがたいことにミロは勘よく私の意図を察したようで、自分から同行を申し出てくれた。
おかげで目的を両方とも達することができると私は密かに胸を撫で下ろしたのだが、生憎とぬか喜びだったようだ。
いざ文献を前にすると、知的好奇心をひどく刺激された私は目先の資料にすっかり没頭してしまった。
彼を待たせたままであることを思い出したのは、数時間も経ってからのことだった。
こんなことなら『興味がないから外で待っている』と言い張る彼を無理にでも付き合わせるべきだったと激しい後悔に襲われたが、悔いたところで時間は戻らない。
随分と傾いてしまった太陽に一抹の後悔と申し訳なさを覚えつつ、私は迷路のような回廊を巡り彼と別れた中庭へと急いだ。
戸外には穏やかな秋の夕暮れを感じさせるやわらかな陽射しが注いでいた。
セピアの薄幕をかけたように事物の色や輪郭が少々ぼやけて見える夕景色はどこか暖かな印象を受けたが、夜も迫りつつあるだけに幾分空気が涼感を孕みだしていたのは否めない。
こんな大切な日に、風邪でも引かせてしまったらことだ。
足早に待ち合わせ場所へ向かうと、数時間前と同じようにミロは蔦の絡まる外壁にもたれていた。
ただ記憶の中の情景と違うのは、彼が誰かと立ち話をしていることだ。
彼は人好きのする性格だったから、初対面の相手ともすぐに長年の友人のように打ち解けることができた。
今日もまた通りすがりの人間をつかまえて、暇つぶしに話相手にでもなってもらっていたのだろう。
私が書物を紐解いている間一人残された彼の相手をつとめていてくれたのは、首から重そうにカメラを提げた初老の男性だった。
やがて彼らの会話は終わったらしく、ミロは笑顔で手を振りながら立ち去る男性を見送っていた。
そうして手を挙げたまま、彼はくるりと身体の向きを変えこちらを見た。
その顔が、にこりと綻ぶ。
「よ、終わった?」
「……ああ、待たせてすまない」
「いいよ、退屈じゃなかったし」
話相手がいたから、ということだろうか。
私は彼の無聊を慰めてくれた恩人がちょうど門の向こうに消えていくのをちらりと眺めやった。
「ああ、あの人?」
私の視線の先を追いかけたミロは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「結構物知りでさ。この修道院の歴史とか、いろんなこと教えてくれたぜ。面白かった」
ミロが言うには、その男性は撮影旅行の真っ最中だということだった。
首から提げていたカメラが立派だったのも道理、写真の腕はセミプロ級とかで、暇をみつけては各地を訪問しているらしい。
まさかこの数時間の間ずっとあの重たげなカメラをぶらさげたまま立ち話に興じていたとは考えにくいから、ミロとその男性が共にいたのはそれほど長い時間というわけではないだろう。
それなのに、ミロは短い間に随分と相手の情報を引き出したものだ。
毎度のこととはいえ、ミロの天性の会話術に驚いた私はかるく目を見張った。
「おまえは相変わらず人懐こいというか、人見知りというものと無縁なのだな」
「まあ、一応、大人だし?」
それは、自分でも救いがたいほどに非社交的だと認める私に対する嫌味だろうか。
わずかに表情を歪めた私に気付いたのか、慌てたようにミロは両手を顔の前で振った。
「いや、さっきのは、あっちから俺に声をかけてきたんだぜ。写真撮らせてくれって」
「写真……?」
「ああ、ここでぼーっとおまえ待ってたら、色のコントラストがいいって……」
言われた台詞をそのまま繰り返してはみたものの、よく意味がわかっていないのだろう。
かすかに疑問調のイントネーションを交え弁明を続けるミロをみているうちに、私はふと好奇心に駆られた。
写真が趣味、それもセミプロ級の腕前を誇るという芸術的感性の持ち主が、一体被写体としてミロの何に惹かれたというのか。
戯れに両手の親指と人差し指を組み合わせフレームを作った私は、その文字通り手製のファインダーを覗き込んでみた。
指の枠の中に、切り取られたミロが見える。
思わず、息を呑んだ。
その写真家が記憶のみならず写真という作品形式に彼の姿を焼き付けたいと思った理由が、わかった気がした。
彼が背を預ける壁一面を這う蔦は、深まる秋の気配を敏感に感じ取ったように紅に染まる葉を厚く茂らせていた。
それが、ちょうど彼の豊かな黄金の髪と相まって、えもいわれぬ程に鮮やかな色彩の妙をみせていたのだ。
いや、そればかりではない。
普段あまりに傍にいすぎて、忘れていた。
常に人好きのする笑顔を浮かべているからあまり意識したことなどなかったが、彼は生来ひどく端整な容貌の持ち主だった。
さすがのミロも一人で物思いに耽っていたときには笑っていなかったろうし、とすれば定めし彼の姿は凛々しい彫像のように見えただろう。
ましてや写真家は初老に差し掛かった男性だ。
未来への希望と活力に満ちた青年の姿に、二度と戻らない若かりし日の情景を重ねて思い出したのかもしれなかった。
そう考えれば、つい立ち止まり彼にカメラを向けたくなるのも無理はない。
「……カミュ?」
訝しげに名を呼ばれ、私は今更ながら彼の外見に目を奪われていた自分に気付いた。
一瞬で、羞恥に顔が熱くなる。
「どうした、顔赤くして。熱でもあるんじゃないのか」
額に手を当てて熱でも測ってくれようとしたのだろうが、今、彼に触れられるのはどうにも気恥ずかしい。
心配げに差し伸ばされるミロの手を、私は慌てて振り払った。
予想だにしない拒絶に呆気に取られたミロが、目を丸くする。
いささか大げさな反応になったことを悔いつつ、私は自己弁護をするように早口で付け加えた。
「いや、何でもない。気にするな」
「そうか? なら、いいけど」
完全に納得したのではないものの、下手に食い下がってはまた私の機嫌を損ねることになると怯えたのかもしれない。
少し戸惑ったように肩を竦めたミロは、ついで気を取り直したように笑顔をみせた。
「じゃ、行こうぜ」
先に立って歩き出す彼の背を、私は慌てて追いかけた。
しかし、平静を保たねば、と、少し焦りすぎてしまったらしい。
足元の注意が疎かになったせいか石畳に躓きよろけた私に、ミロは小さく笑うともう一度手を差し出してきた。
私はじっと彼の手をみつめた。
善意に溢れたその手を、再び振り払うことはできなかった。
そろそろと伸ばした私の手を、ミロはぎゅっと握りしめてきた。
前を向いたまま私を見ようとしないのは、彼なりの優しさだろうか。
「……珍しく素直だな」
「たまには、な」
短い問いかけに、私もぶっきら棒に答えた。
あの門を出るまでは。
私はそう内心で独り自分に言い聞かせていた。
あの門を出るまでは、彼に大人しく手を預けようと思った。
格好の言い訳だ。
自分でも厄介だと思うが、私は適当な口実を設けねば、ミロの好意を素直に受け入れることができなかった。
内に抱く友情とは異なる感情の正体に気付き始めた当初、ミロはその想いをいささかの遠慮もなく真っ直ぐに私にぶつけてきた。
それは、圧縮された気がようやくみつけた捌け口から一気に放出されるような、あまりに激しいものだった。
その勢いに流され自分を見失いそうになってしまうことに怯えた私は、そんなひねくれた防御陣を敷き自分を守ろうとしたのだが、いつの間にかそれが習い性になってしまったのだと思う。
自分が原因だとわかっているせいか、ミロがそれでも私を受け入れてくれることに甘えているのは、重々承知だ。
だから
「……まだ、いいのか?」
突然かけられたミロの声に、ぼんやりと物思いにふけっていた私は慌てて顔を上げた。
「何がだ?」
「門、出たけど。おまえのことだから、人目がないこの修道院の中だけ、とか、またそんな条件勝手につけてるのかと思って」
ミロは繋いだままの手をかるく持ち上げ、からかうように小首を傾げて問いかける。
図星だ。
人の心を読むことができるのかと思うほどに、ミロは時折私の内心をずばりと言い当てる。
それが、私限定で発揮される能力であることを考えると、それだけミロは私の些細な挙措全てに細心の注意を向けているということなのだろうか。
言葉を失いただ瞠目する私の手を、ミロは力を込めて握るとにこりと笑った。
「ま、まだいいって言うなら、喜んで握ったままにさせてもらうけど」
「……ああ、好きにしろ」
ぽつりと呟いた私の言葉は余程想定外だったのか、目を見張るのは今度はミロの方だった。
「今日は、おまえの希望を極力叶えてやる」
気恥ずかしさにミロの瞳を見ることもできず、私はミロの手を強く握り返した。
年に一度だけ使え、しかも絶大な効果のある、貴重な口実を使うときがきた。
「今日は、おまえの誕生日だろう。だから、日付が変わるまで、残り時間は全ておまえにやろう」
半日ほど私の希望を優先させてしまい申し訳なかったが。
俯いたままそう口の中でぼそぼそと謝罪の言葉を付け加えた私に、しばらく呆気にとられていたミロはやがてくすりと笑いかけた。
「へえ、覚えていてくれたんだ、嬉しいな」
ミロの誕生日を、私が忘れるはずもない。
私がどれほど彼を大切に想っているか、その点に関してだけはミロはひどく鈍いようだが、私がいつも素っ気無い反応しか返せないのだからこれも自業自得なのだろう。
顔を綻ばせるミロに、元々ミロの誕生日を祝うため外遊も兼ね同行してもらったのだと今更告げるのも気恥ずかしく、私は沈黙を貫いた。
とはいえ、洞察力に長けたミロは、もしかしたらそんな私の胸中も察しているのかもしれない。
しかし、たとえそうだったとしても、何も言わずに素直に喜んでみせてくれる彼の配慮を、私は尊重すべきだろう。
ひどく自分に都合のよい解釈に我ながら呆れつつも、私は殊更にしかつめらしい表情を作ってミロを見た。
「では、おまえの希望を聞こう。何か要望はあるか?」
「そうだな」
薄橙色に染まりつつある空を見上げて考える様子をみせたミロは、私に視線を戻すと真っ直ぐに目を覗き込んできた。
「まず、飯食い行こうぜ。この辺にいいビストロがあるんだって。美味いワインを飲ませてくれるらしいぞ」
「……ああ、構わないが」
一体、ミロはどこからそんな情報を仕入れてきたのだろう。
この街に来るのはミロも私も初めてのはずだし、出発間際はばたばたと忙しなかったから、そんなことを調べている時間など到底なかったはずだ。
素朴な疑念は顔に浮かんでいたのかもしれない。
ミロは得意げに笑った。
「おまえを待ってる間に俺の前を通りかかった人は、あの写真家だけじゃないんだぜ。折角の地元民のオススメ情報、逃す手はないだろ。あ、ついでに言うと……」
惜しげもなく種明かしをしたミロは、続いてそっと私の耳元に顔を寄せた。
「そのまた近くになかなか感じのいい宿があるらしいんだ。おまえ待ってる間に、どっちも予約しといた」
「……は?」
食事はともかく、今日は日帰りの予定だったはずだ。
囁き声が告げた内容に意表を突かれた私は、ひどく狼狽した反応をみせたのだろう。
楽しげにくすくすと笑うミロは、じっと私の目をみつめると徐に口を開いた。
「今日はオレの誕生日、だろ。当然、祝ってくれるんだよな」
私は肯定の返事以外は一切求めていない蒼い瞳をじっとみつめ返した。
ご親切なことだ。
瞳には逆らいがたい熱情を浮かべ誘惑しつつ、そればかりか私が自分を納得させるための格好の言い訳まで与えてくれるとは。
彼の眼差しから逃れるように俯いた私は、ひとつ息を吐いた。
「……教皇には『予想外に調査に時間がかかったため帰還が遅れた』と報告するが、口裏を合わせてくれるのだろうな」
「そりゃもう、喜んで」
計略どおりに誘いに乗ってきた私に満足したのか、ミロはさっと満面の笑みを浮かべてみせた。
その嬉しそうな顔を真っ直ぐに見るのはさすがに照れくさく、私はつと視線をそらせた。
だが、言うべきことは、きちんと言わねばなるまい。
「おまえの誕生日だからな。おめでとう」
そっと口を開いた私は、どんな葛藤も瞬時に打ち払ってくれる魔法の呪文を小声で呟いた。
あと数時間の内に何回口にできるかわからないが、今日ばかりはその祝福の言葉にありったけの想いを込め、一年分の感謝を捧げようと思った。
ミロの誕生日は、いつも救いがたいほどにひねくれた私にとっても、そうして彼への想いを伝えることのできる大切な日なのだ。
「おめでとう、ミロ」
私は繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
返事はなかった。
だが、ミロもまた無言でその手を握り返してくれたことが、嬉しかった。
掌に感じる心地よい温もりを私はこの先もずっと記憶に留めておくことだろうと、そう思うと何故だかひどく誇らしかった。