déjà vu
久方振りに聖域を訪れたカミュは、威圧的なまでの太陽の存在感に閉口させられていた。
極北の地では穏やかな微笑を浮かべるだけの恒星は、彼の地でその存在を忘れかけていたカミュを責めるように、殊更に苛烈に照り付けてくるようにさえ思われる。
額に流れる汗を手の甲で拭い、わずかに感じる忌々しさと共に背後を振り返ると、聖域はまるで蜃気楼のように遠くにぼんやりとかすんで見えた。
熱せられた地表近くの空気が世界をゆらりと歪め、さらにカミュの不快感を煽る。
視界に入るのは、乾燥しきって砂埃を立てる白い道と、自らの瑞々しい生を誇るように緑の葉を茂らせた木々、そして雲一つなく晴れ渡る嫌味なまでに青い空。
人影など、どこにもなかった。
当然だろう。
最も陽光が地上に降り注ぐこの昼下がり、人は皆、午睡にまどろんでいる頃だ。
気温の上昇による無駄なエネルギー消費を避けるため古来より受け継がれる習慣は非常に合理的で、普段ならばカミュもその例にならい眠りの淵をたゆたっているはずだった。
時折吹き抜ける風をさやかに感じつつ、うつらうつらと睡魔と戯れる自堕落な時間は、目覚めが惜しくなる程に快適で、シベリア出立前から心ひそかに楽しみにしていたくらいだ。
だが、今回の帰還では、そんなささやかな悦楽でさえも許してはもらえなかった。
カミュからその楽しみを奪ったのは、一人の人間の我侭だった。
しばしば、太陽のような、と形容される、カミュの親友。
いや、正確に言えば、つい先日までは親友だった、男。
彼を太陽と評した最初の人間の洞察力につくづく敬意を表したいと、カミュは煮詰まったコーヒーでも飲まされたように顔を顰めた。
拷問かとの錯覚すら覚えるほどに容赦なく肌に突き刺さる陽射しといい、人の心にずかずかと入り込んで踏みにじる彼の言動といい、どちらもカミュにとって不愉快なことに変わりはなかった。
空を見上げると、灼熱の太陽の眩しさに視界が一瞬白く塗りつぶされる。
シベリアでよく目にする風景と同じ色でありながらも、自分を取り巻く世界が何故かとても居心地が悪く思われた。
それもこれも、全てあいつのせいだ。
瞼を閉じても、白く輝く光の残像は一向に消えようとしない。
今回の帰省は間違いだったのだと、失われた視力を取り戻すべく両手できつく瞼を覆ったカミュは、一つの結論に達していた。
幼い弟子を極寒の地に一人置くのが忍びなく、なかなかシベリアを離れることができなかったカミュが、一時的とはいえようやく聖域に戻る決意を固めるまで、既に一年余りの月日が流れ去っていた。
そしてカミュは予想だにしなかったことだが、地球が太陽の周囲を一巡りするだけの時間は、少年を青年へと移行させるに充分なものであったらしい。
久々に再会した友人を、カミュは親しい幼馴染などではなく初対面の相手を見るような思いで、不躾にもしげしげと眺めてしまった。
記憶に残る子供らしい無邪気な笑顔は自信に満ち溢れた精悍な表情へと変貌を遂げ、同じほどだったはずの身長は目線を合わせるためには少し見上げる必要があるほどの差が生じている。
一足早い友人の成長はまだまだ全体的に幼さを残すカミュの劣等感を針でつつくように刺激したが、それでも口を開けば自分がよく知る陽気なミロだろうと、当初はカミュも高をくくっていた。
しかし、それが単なる楽観的な思い込みに過ぎなかったことを、ミロが口にした一言によって程なくカミュは思い知らされたのだ。
思い出すだけでも怒りに顔が紅潮するのがわかるほど、屈辱的なミロの一言。
「俺は、おまえの恋人になりたい」
相変わらずの冗句と笑い飛ばすには余りにも真摯な瞳で、ミロはカミュをまっすぐみつめてそう言った。
言葉の意味を量りかねあっけにとられたカミュは、今度会ったら絶対言おうと思っていたとか何とかと続くミロの言葉を聞き流しつつ、今耳にしたばかりの台詞をゆっくりと脳内で反芻した。
乾いた大地にじわじわと水がしみ込むようにたっぷりと時間をかけ、ようやくミロの発言の真意を理解すると、今度は無性に腹が立ってきた。
ミロの発言は、カミュを愚弄したものにしか思えなかった。
常に年長者に囲まれ、子供扱いされては悔しがっているミロのことだ。
少し背伸びをして誰かと恋愛ごっこをしてみたいという気持ちは、カミュとて木石ではない以上、漠然とだがわかる。
だが、そんなほんの一時の気紛れの相手に、よりにもよって自分を指名するとは。
挙句の果てに、もうカミュとはただの友人ではいたくないと、ミロは臆面もなくきっぱりと言ってのけた。
親友という自分にとっては特別な存在だったミロが、二人の大切な関係をこんな一方的な我侭で壊そうとしている。
それが、許せない。
怒り心頭に達したカミュは、手形が残るほどの平手打ちをミロの頬にお見舞いすると、くるりと背を向け足早に立ち去った。
背中越しにミロが必死に何やら叫んでいるようだったが、全く聞こえない振りをして宝瓶宮に逃げ込むと、後ろ手に閉めた扉にもたれかかり、耳障りなほどに鳴り響く心臓の鼓動を落ち着けようと瞳を閉じた。
数日前のことである。
以来、ミロはどこへ行くにもカミュを追いかけ回し、その顔を見るのも声を聞くのも厭ったカミュはミロの追跡からひたすら逃げ続けた。
天空を巡るオリオンを執拗に狙う蠍のごとく、獲物を追い求める猟犬と化したミロは、この炎天下にもかかわらず、カミュを捜して今も聖域中をうろついているはずだった。
だから今、カミュは自宮で惰眠を貪ることもできず、せめて少しでも涼しげな場所に行こうと、聖域から程近い小さな森を目指して歩いているのだ。
小宇宙を辿られることを危惧すれば、痛いほどの熱を帯びた陽射しを浴びつつ一歩一歩地道に脚を運ぶしかない。
一層強まっていくミロに対する呪詛の念に舌打ちしつつ、カミュは重い足を引きずって黙々と歩き続けていた。
厚く生い茂った緑葉が幾層もの遮断層を形成し、地上を灼熱の太陽から守ってくれるようだった。
森の奥、空気に混じるわずかな水の気配を辿って到達した泉のほとりで、ようやく人心地ついたカミュは深々と息を吐いた。
水の上を通り抜ける風がカミュを優しく愛撫し、熱射病になりかけるほど上昇した体温を徐々に平熱に戻してくれる。
だが、散々陽光を浴び続けた身には、穏やかな風の冷却作用などでは物足りない。
泉に手を浸してみると、水は思っていた以上にひんやりと心地よい涼感をもって指にまとわりついてきた。
小宇宙との親和性がなせる業か、水に触れているだけでカミュの心は不思議なほどに安らぐ。
ミロとの確執などささやかな諍いに過ぎないと、物言わぬ水に宥められているような気がした。
もちろん、そんなことはあるはずもないのだが。
口元に苦笑を浮かべつつ、カミュはすっかり汗と埃にまみれてしまった顔を洗おうと泉に身を乗り出した。
ぴんと張り詰めた水面に、紅い髪の少年の姿が映る。
青年というには程遠い、むしろ成長期に差し掛かったばかりといった方が相応しい脆弱な少年。
日頃は幼い弟子を前にしかつめらしい師を装ってはいるものの、それが本来のカミュの姿だった。
着実に大人になりつつあるミロと、一人、子供の領域に取り残される自分。
ミロの言葉に激怒したのは、やり場のない焦燥感に駆られる負けず嫌いな自分の姿を直視したくないからだったのかもしれなかった。
水鏡には、そんな目を背けてしまいたい醜い本心でさえ映し出してしまう不思議な力があるようで、何となく怖い。
鮮明に像を刻みつつあった水面をわざと乱暴に波立てると、カミュは勢いよく顔に水をはねかけた。
水が己の内に淀む澱まで流してくれるかのように、二度三度と汗ばむ肌を水に晒す。
かさりと音がしたのは、そんな時だった。
誰か、来る。
音もなく泉に手を差し入れたカミュは、背後を振り返らないまま五感だけを研ぎ澄ませ、侵入者の気配を探った。
攻撃的小宇宙は微塵も感じられない以上、敵ではない。
ただ、その潜在的小宇宙の驚くべき強大さとは裏腹な、臆した小動物のような頼りなさが、意味もなくカミュの神経を逆撫でした。
その上、この苛立たしさを誘う小宇宙には不思議と馴染み深い気がして仕方がならないのだ。
拭い去れない違和感の正体を突き止めるべく、カミュは無防備に枝を揺らしながら近づいてくる侵入者を静かに待ち受けた。
足音は次第に近づき、やがてすぐ傍で枝を踏む音がした。
小路と泉を隔てる最後の壁となっていた大枝が、がさがさと音を立ててしなる。
「……あ……」
こんな森の奥深くに人がいるとは思っていなかったのだろう。
カミュの姿に気づいた侵入者の口から、意外そうな声が漏れる。
カミュは無言のままだった。
もっとも、それは邂逅を予期した上で、生じうるあらゆる事態に対応できるよう意識を集中させていたからに他ならず、さもなければ同じような声を上げていたに違いなかった。
侵入者は、幼い子供だった。
不健康そうな真っ白い肌に、細く長い手足ばかりが目立つ、見るからに虚弱な子供。
カミュは泉に映る自分の姿をちらりと眺め遣った。
コンプレックスでもある稀有な髪色は、水面上でも変わることはなく紅いままに揺らめいている。
ついで侵入者に視線を戻す。
また、同じ色に出会った。
肩口辺りで切り揃えられた子供の髪も、カミュのそれと同様、燃え盛る炎のような紅毛だった。
カミュの視線を真っ向から受け、子供の大きな瞳がゆっくりと瞬く。
その虹彩も、やはり髪色に似た真紅に染まっていた。
こんな珍奇な色の髪と瞳を持つ人間が、そうそういるとも思えない。
そればかりか、この子供の顔立ちには見覚えがあった。
感情の表し方を知らない、磁器人形のように冷たく固まった可愛げのない表情。
間違いない。
この子は、幼い頃の、自分だ。
まだ聖域に来たばかりの、自分に浴びせられる他人の好奇の視線に怯え下ばかり向いていた、稚いカミュだ。
時の女神の悪戯か。
眼前の俄かには信じがたい光景に、カミュは言葉を失った。
二人の紅い髪と瞳の持ち主は、無言で対峙したままどちらも動こうとしなかった。
久方振りに聖域を訪れたカミュは、威圧的なまでの太陽の存在感に閉口させられていた。
極北の地では穏やかな微笑を浮かべるだけの恒星は、彼の地でその存在を忘れかけていたカミュを責めるように、殊更に苛烈に照り付けてくるようにさえ思われる。
額に流れる汗を手の甲で拭い、わずかに感じる忌々しさと共に背後を振り返ると、聖域はまるで蜃気楼のように遠くにぼんやりとかすんで見えた。
熱せられた地表近くの空気が世界をゆらりと歪め、さらにカミュの不快感を煽る。
視界に入るのは、乾燥しきって砂埃を立てる白い道と、自らの瑞々しい生を誇るように緑の葉を茂らせた木々、そして雲一つなく晴れ渡る嫌味なまでに青い空。
人影など、どこにもなかった。
当然だろう。
最も陽光が地上に降り注ぐこの昼下がり、人は皆、午睡にまどろんでいる頃だ。
気温の上昇による無駄なエネルギー消費を避けるため古来より受け継がれる習慣は非常に合理的で、普段ならばカミュもその例にならい眠りの淵をたゆたっているはずだった。
時折吹き抜ける風をさやかに感じつつ、うつらうつらと睡魔と戯れる自堕落な時間は、目覚めが惜しくなる程に快適で、シベリア出立前から心ひそかに楽しみにしていたくらいだ。
だが、今回の帰還では、そんなささやかな悦楽でさえも許してはもらえなかった。
カミュからその楽しみを奪ったのは、一人の人間の我侭だった。
しばしば、太陽のような、と形容される、カミュの親友。
いや、正確に言えば、つい先日までは親友だった、男。
彼を太陽と評した最初の人間の洞察力につくづく敬意を表したいと、カミュは煮詰まったコーヒーでも飲まされたように顔を顰めた。
拷問かとの錯覚すら覚えるほどに容赦なく肌に突き刺さる陽射しといい、人の心にずかずかと入り込んで踏みにじる彼の言動といい、どちらもカミュにとって不愉快なことに変わりはなかった。
空を見上げると、灼熱の太陽の眩しさに視界が一瞬白く塗りつぶされる。
シベリアでよく目にする風景と同じ色でありながらも、自分を取り巻く世界が何故かとても居心地が悪く思われた。
それもこれも、全てあいつのせいだ。
瞼を閉じても、白く輝く光の残像は一向に消えようとしない。
今回の帰省は間違いだったのだと、失われた視力を取り戻すべく両手できつく瞼を覆ったカミュは、一つの結論に達していた。
幼い弟子を極寒の地に一人置くのが忍びなく、なかなかシベリアを離れることができなかったカミュが、一時的とはいえようやく聖域に戻る決意を固めるまで、既に一年余りの月日が流れ去っていた。
そしてカミュは予想だにしなかったことだが、地球が太陽の周囲を一巡りするだけの時間は、少年を青年へと移行させるに充分なものであったらしい。
久々に再会した友人を、カミュは親しい幼馴染などではなく初対面の相手を見るような思いで、不躾にもしげしげと眺めてしまった。
記憶に残る子供らしい無邪気な笑顔は自信に満ち溢れた精悍な表情へと変貌を遂げ、同じほどだったはずの身長は目線を合わせるためには少し見上げる必要があるほどの差が生じている。
一足早い友人の成長はまだまだ全体的に幼さを残すカミュの劣等感を針でつつくように刺激したが、それでも口を開けば自分がよく知る陽気なミロだろうと、当初はカミュも高をくくっていた。
しかし、それが単なる楽観的な思い込みに過ぎなかったことを、ミロが口にした一言によって程なくカミュは思い知らされたのだ。
思い出すだけでも怒りに顔が紅潮するのがわかるほど、屈辱的なミロの一言。
「俺は、おまえの恋人になりたい」
相変わらずの冗句と笑い飛ばすには余りにも真摯な瞳で、ミロはカミュをまっすぐみつめてそう言った。
言葉の意味を量りかねあっけにとられたカミュは、今度会ったら絶対言おうと思っていたとか何とかと続くミロの言葉を聞き流しつつ、今耳にしたばかりの台詞をゆっくりと脳内で反芻した。
乾いた大地にじわじわと水がしみ込むようにたっぷりと時間をかけ、ようやくミロの発言の真意を理解すると、今度は無性に腹が立ってきた。
ミロの発言は、カミュを愚弄したものにしか思えなかった。
常に年長者に囲まれ、子供扱いされては悔しがっているミロのことだ。
少し背伸びをして誰かと恋愛ごっこをしてみたいという気持ちは、カミュとて木石ではない以上、漠然とだがわかる。
だが、そんなほんの一時の気紛れの相手に、よりにもよって自分を指名するとは。
挙句の果てに、もうカミュとはただの友人ではいたくないと、ミロは臆面もなくきっぱりと言ってのけた。
親友という自分にとっては特別な存在だったミロが、二人の大切な関係をこんな一方的な我侭で壊そうとしている。
それが、許せない。
怒り心頭に達したカミュは、手形が残るほどの平手打ちをミロの頬にお見舞いすると、くるりと背を向け足早に立ち去った。
背中越しにミロが必死に何やら叫んでいるようだったが、全く聞こえない振りをして宝瓶宮に逃げ込むと、後ろ手に閉めた扉にもたれかかり、耳障りなほどに鳴り響く心臓の鼓動を落ち着けようと瞳を閉じた。
数日前のことである。
以来、ミロはどこへ行くにもカミュを追いかけ回し、その顔を見るのも声を聞くのも厭ったカミュはミロの追跡からひたすら逃げ続けた。
天空を巡るオリオンを執拗に狙う蠍のごとく、獲物を追い求める猟犬と化したミロは、この炎天下にもかかわらず、カミュを捜して今も聖域中をうろついているはずだった。
だから今、カミュは自宮で惰眠を貪ることもできず、せめて少しでも涼しげな場所に行こうと、聖域から程近い小さな森を目指して歩いているのだ。
小宇宙を辿られることを危惧すれば、痛いほどの熱を帯びた陽射しを浴びつつ一歩一歩地道に脚を運ぶしかない。
一層強まっていくミロに対する呪詛の念に舌打ちしつつ、カミュは重い足を引きずって黙々と歩き続けていた。
厚く生い茂った緑葉が幾層もの遮断層を形成し、地上を灼熱の太陽から守ってくれるようだった。
森の奥、空気に混じるわずかな水の気配を辿って到達した泉のほとりで、ようやく人心地ついたカミュは深々と息を吐いた。
水の上を通り抜ける風がカミュを優しく愛撫し、熱射病になりかけるほど上昇した体温を徐々に平熱に戻してくれる。
だが、散々陽光を浴び続けた身には、穏やかな風の冷却作用などでは物足りない。
泉に手を浸してみると、水は思っていた以上にひんやりと心地よい涼感をもって指にまとわりついてきた。
小宇宙との親和性がなせる業か、水に触れているだけでカミュの心は不思議なほどに安らぐ。
ミロとの確執などささやかな諍いに過ぎないと、物言わぬ水に宥められているような気がした。
もちろん、そんなことはあるはずもないのだが。
口元に苦笑を浮かべつつ、カミュはすっかり汗と埃にまみれてしまった顔を洗おうと泉に身を乗り出した。
ぴんと張り詰めた水面に、紅い髪の少年の姿が映る。
青年というには程遠い、むしろ成長期に差し掛かったばかりといった方が相応しい脆弱な少年。
日頃は幼い弟子を前にしかつめらしい師を装ってはいるものの、それが本来のカミュの姿だった。
着実に大人になりつつあるミロと、一人、子供の領域に取り残される自分。
ミロの言葉に激怒したのは、やり場のない焦燥感に駆られる負けず嫌いな自分の姿を直視したくないからだったのかもしれなかった。
水鏡には、そんな目を背けてしまいたい醜い本心でさえ映し出してしまう不思議な力があるようで、何となく怖い。
鮮明に像を刻みつつあった水面をわざと乱暴に波立てると、カミュは勢いよく顔に水をはねかけた。
水が己の内に淀む澱まで流してくれるかのように、二度三度と汗ばむ肌を水に晒す。
かさりと音がしたのは、そんな時だった。
誰か、来る。
音もなく泉に手を差し入れたカミュは、背後を振り返らないまま五感だけを研ぎ澄ませ、侵入者の気配を探った。
攻撃的小宇宙は微塵も感じられない以上、敵ではない。
ただ、その潜在的小宇宙の驚くべき強大さとは裏腹な、臆した小動物のような頼りなさが、意味もなくカミュの神経を逆撫でした。
その上、この苛立たしさを誘う小宇宙には不思議と馴染み深い気がして仕方がならないのだ。
拭い去れない違和感の正体を突き止めるべく、カミュは無防備に枝を揺らしながら近づいてくる侵入者を静かに待ち受けた。
足音は次第に近づき、やがてすぐ傍で枝を踏む音がした。
小路と泉を隔てる最後の壁となっていた大枝が、がさがさと音を立ててしなる。
「……あ……」
こんな森の奥深くに人がいるとは思っていなかったのだろう。
カミュの姿に気づいた侵入者の口から、意外そうな声が漏れる。
カミュは無言のままだった。
もっとも、それは邂逅を予期した上で、生じうるあらゆる事態に対応できるよう意識を集中させていたからに他ならず、さもなければ同じような声を上げていたに違いなかった。
侵入者は、幼い子供だった。
不健康そうな真っ白い肌に、細く長い手足ばかりが目立つ、見るからに虚弱な子供。
カミュは泉に映る自分の姿をちらりと眺め遣った。
コンプレックスでもある稀有な髪色は、水面上でも変わることはなく紅いままに揺らめいている。
ついで侵入者に視線を戻す。
また、同じ色に出会った。
肩口辺りで切り揃えられた子供の髪も、カミュのそれと同様、燃え盛る炎のような紅毛だった。
カミュの視線を真っ向から受け、子供の大きな瞳がゆっくりと瞬く。
その虹彩も、やはり髪色に似た真紅に染まっていた。
こんな珍奇な色の髪と瞳を持つ人間が、そうそういるとも思えない。
そればかりか、この子供の顔立ちには見覚えがあった。
感情の表し方を知らない、磁器人形のように冷たく固まった可愛げのない表情。
間違いない。
この子は、幼い頃の、自分だ。
まだ聖域に来たばかりの、自分に浴びせられる他人の好奇の視線に怯え下ばかり向いていた、稚いカミュだ。
時の女神の悪戯か。
眼前の俄かには信じがたい光景に、カミュは言葉を失った。
二人の紅い髪と瞳の持ち主は、無言で対峙したままどちらも動こうとしなかった。