無憂宮
 重苦しい沈黙に支配された耳に突き刺さるほどの静寂を先に打ち破ったのは、子供の方だった。
 思い出したように後をさっと振り返ると、一瞬の逡巡の後、カミュの方に小走りに駆け寄ってくる。
 「匿ってください!」
 承諾の返事をする間もなく、子供はカミュの背後に回り込むと、小さく身を屈めた。
 真剣なその瞳に気圧され事情を問い質すこともできずにいたカミュは、やがて近づいてくる新たな気配の存在を感じ取った。
 背後で身を堅くする子供の様子からして、どうやら彼はこの追跡者から逃げているのだろう。
 幼い自分は、一体誰から逃れようとしていたのか。
 疑念と興味を覚えたカミュは、すっと精神を一点に集中させた。
 わずかな外界の変動も逃すまいと、あらゆる感覚神経がその精度を高めだす。
 程なく常人離れした域に達した聴覚に、かすかな声が届いた。
 カミュの名を呼ぶ、子供の声だった。
 しばらくその声を聞いていたカミュは、愕然と瞳を見開いた。
 この、カミュゥと妙に語尾を強調した呼び方は、どんなに訂正してもなかなか直らなかった子供の頃のミロの癖。
 幼いカミュを追いかけるのは、ミロに違いなかった。
 しかし、その懐かしい呼び声も、やがて次第に遠ざかっていく。
 何度も何度もカミュの名を繰り返し叫んではその姿を捜して歩く、幼いミロの膨れっ面が見えたような気がした。
 くすりと笑みを漂わせたカミュは、背後に隠れる小さな自分に向き直った。
 「友達が君を捜しているのだろう? 何故、出ていってやらない」
 子供のカミュは、一瞬怯えたように顔を上げると、また俯いてしまった。
 消え入りそうにか細い声が、やがてぽつりと落とされる。
 「友達じゃありません。友達になろうって、彼がいつも追いかけてくるだけです」
 そう、確かにそうだった。
 出会ったばかりの頃、いつもミロは瞳を輝かせてカミュに話しかけてきた。
 自分に対して親しげに優しい言葉をかけてくれるのはミロが初めてで、その度にカミュはどうしてよいのかわからず、居たたまれなくなって逃げ出していた。
 それでもいつの頃からか自分達は仲良くなったのだが、それは何がきっかけだったのか。
 様々な経験に上書きされた想い出は、はるか彼方に埋没してしまい、どうしても甦らせることはできない。
 それならば、今がそのときでも何ら不都合はあるまい。
 ささやかな悪戯心を押し隠しつつ、カミュは努めて素っ気無く問うた。
 「それなら友達になればいい。それとも、君は彼が嫌いか?」
 幼いカミュは、依然として視線を泉に注いだまま、かすかに頭を震わせるようにかぶりを振った。
 この小さな子供の中で生じている葛藤は、自身がかつて乗り越えてきた路だけに、カミュにはわかりすぎるほどにわかる。
 それでもカミュはあえて訊かずに、子供の次の言葉を辛抱強く待った。
 吹き抜ける風が梢を揺らしざわざわと音を立てる。
 一頻り枝葉のざわめきを聴いた頃、小さな紅い頭がゆっくりと持ち上げられた。
 カミュから視線を外したまま、小さなカミュは独り言のような囁きめいた呟きを漏らした。
 「……友達になるのは、怖いんです。友達になって、嫌われたらどうしようって」
 おそらく今、幼いカミュが向き合っているのは、眼前のカミュではなく自分自身なのだろう。
 一人では解決の糸口さえ見つからずに子供なりの悩みを抱えて苦しんでいた彼が、カミュの質問を通じて客観的な自己分析を試みることに成功したのだ。
 渦中に呑み込まれているときには途方に暮れるばかりも、事態を冷静に分析し言語化することで俯瞰してみると、拍子抜けするほどにあっけなく解決する。
 そんな程度の悩みでも、こと対人関係に不得手な自分には、世界を揺るがす大問題のように感じられたものだ。
 少なくとも、腹蔵なく悩みを打ち明けられる、ミロという良き友人を得るまでは。
 微笑んだカミュは、幼い自分が素直にその声に耳を傾けることができるように、できるだけ穏やかに優しく言葉をかけた。
 「心配することはない。ミロはいい友人になってくれる。たまには喧嘩もするかもしれないが、彼が君を嫌いになることは決してないから」
 そう言いながら、カミュはわずかに頬が赤らむのを感じた。
 ミロはいつでもカミュの傍にいて、いつでもカミュに優しい笑顔を向けてくれていた。
 カミュにとって彼はそれほどまでに大切な人だったことを、子供に言い聞かせるつもりで、今更ながら自分にも思い知らせてしまったのだ。
 実体験に基づく忠告の、言外に含まれる予言にも似た確信を無意識に感じ取ったのだろう。
 ほんの少し躊躇う素振りは見せたものの、幼いカミュは照れくさそうに、だがこの上なく幸せそうに、こくりと頷いた。


 森を出た頃には、太陽は随分地平線に近づいていた。
 嫌がらせのように強い輝きを放っていた光球はその威力の放出を徐々に弱め、吹き抜ける風も間近に迫る夜の到来を告げるようにほんの僅かだが湿り気を帯び始めた。
 もう目眩を起こさせることもない柔らかな陽射しを受けながら帰途に着いたカミュは、前方の逆光の中、自分を待ち受ける人影に気づき足を止めた。
 「やっと捕まえた」
 陽光を透かして綺羅綺羅と輝く長い髪が妙に眩しくて瞳を眇めるカミュに、少し不機嫌そうにミロが呟く。
 かすかな苛立ちと、それを補って余りある安堵が、隠しようも無いほどにその一言に込められていた。
 カミュは軽く頷くと静かに歩みを進め、何か言いたげなミロが言葉を発する前に口を開いた。
 「感謝しろ。おまえと友人になるよう、私は子供の私に助言してやったぞ」
 「何だ、それ?」
 訳がわからないと言わんばかりに訝しげに眉を顰めるミロに、カミュは、信じられないだろうが、と前置きして森の中での出来事をかいつまんで教えてやった。
 初めは半信半疑で聞いていた様子のミロの表情が、次第に真剣になっていく。
 一通りカミュの話が終わるや否や、ミロは強引にカミュの手を取ると森の奥へ向かおうとした。
 「どこへ行く?」
 不審に溢れたカミュの質問に、ミロは行く先を見据えたまま早口で答えた。
 「その泉。今度は紅毛の爺さんがいて、ミロと付き合えって言ってくれるかもしれん」
 「そんなことがあるわけないだろう、ばか。さっきの出来事とて、ただの白昼夢かもしれないのに」
 先導するミロが立ち止まった。
 苦笑しつつミロに引っ張られるように歩き出していたカミュの足もつられて止まる。
 振り返ったミロは、少し不満そうにカミュを見た。
 「夢なもんか。ひょっとして、おまえ、覚えてないの?」
 「何を?」
 「子供のとき、おまえ、俺に一緒に泉に行ってくれって頼んだことがあったろ」
 そんなことがあっただろうかと疑いながらも子供時代を振り返ったカミュの瞳が、やがて大きく見開く。
 記憶の扉の封印が解かれた。
 奔流となって押し寄せる断片的な記憶の洪水の中、カミュは確かに幼い自分たちの姿を見た。
 小さなカミュが、もたらされるやもしれぬ拒絶の言葉に脅えつつも、懸命にミロに訴えていた。
 自分はミロの名など口にしなかったのに、ミロと友達になれと言った人がいたのだと。
 何故それがミロだとわかったのか訊きたいので、一緒に来てくれと。
 一人では恐いから、とは、ささやかなプライドが邪魔をしてどうしても言えなかった。
 それでも、ミロはにっこり笑うと、一緒に行こうと手を差し出してくれた。
 おずおずと伸ばしたカミュの手を、ミロはぎゅっと握ると先に立って歩き始めた。
 結局、泉まで戻っても誰にも会えなかったのだけれど、思い返せばあれが自分たちの友情の始まりだった。
 すっかり忘れていた懐かしい想い出。
 回想に耽っていたカミュは、何度も自分を呼ぶ声に、数年の時を飛び越え現実へと引き戻された。
 目の前に、ミロがいた。
 幼い頃から少しも変わらぬ綺麗な蒼い瞳で、優しくカミュをみつめていた。
 「俺は、あのときから、ずっとカミュが好きだ」
 これは、幼い頃とは似てもにつかない吐息混じりの甘やかなバリトンが、カミュの鼓膜を震わせる。
 その声の響きから、ミロの口にする、好き、という言葉の意味があの頃とは少し違うことを、カミュは苦も無く悟ってしまった。
 ミロは、いつの間に大人になっていたのだろう。
 いつの間に、友情を恋情にまで転化させていたのだろう。
 胸が痛いほどの切なさに耐え切れなくなったカミュは、握られた手を振り解くこともできずに俯いた。
 同じだ。
 友達になろうと迫るミロに追いかけられる、幼い自分の姿が重なった。
 あの頃も、どうしていいのかわからずに、ミロに背を向け逃げ出していた。
 だがあのときは、逃げ回りながら、カミュの名を呼ぶミロの声を聞きながら、心密かにミロが追いかけてきてくれるのを喜んでいたのではなかったのか。
 それに引き換え、今は……。
 あのときとは違うのだと宣告してやろうとカミュは顔を上げ、そして期せずしてミロの双眸に映る自分と対面した。
 蒼い瞳は、澄んだ水鏡のように鮮明にカミュの表情を映し出していた。
 カミュが頑として認めようとしなかった、心の奥底に隠し通そうとしていた想いまでを、偽ることなく浮かび上がらせた表情を。
 わかって、しまった。
 ……今も、どうやら同じらしい。
 幼い頃から全く成長のない自分に対する自嘲の溜息が、思わずカミュの唇から漏れた。
 「カミュ」
 ときに本人以上にカミュのことを理解しているのではと疑いたくなるほど、カミュを傍で見守り共に成長してきたミロのことだ。
 網膜に映し出された映像の意味を、ミロもまた察したのだろう。
 嬉しそうに、愛しそうに、ミロは尊い聖句を唱えるようにカミュの名を丁寧に発音すると、輝かんばかりに顔を綻ばせた。
 喜色に溢れたミロの笑顔を直視できなくて、カミュは再び俯くと、羞恥に染まる自分を誤魔化すべくわざと素っ気無く問うた。
 「……今までと何が変わるんだ?」
 「……そうだな。とりあえず、キスする場所が変わるかな。今までは頬だったけど……」
 言いながら、ミロはカミュの顎に指をかけると、軽く上向かせる。
 身長の違いを思い知らされるような仕草が不愉快で、カミュはぐいと顎を引くと思い切りミロを睨んだ。
 自分に注がれる不穏な視線をいなすように悪戯っぽく口の端を持ち上げたミロは、カミュの自尊心を傷つけまいとしたか、今度は自分の方からわずかに身を屈めた。
 静かに近づいてくる顔が、カミュの唇に触れる寸前、ふと動きを止める。
 「嫌なら、逃げろ。今ならまだ解放してやる」
 傲慢な執行猶予の宣告は、媚薬となってカミュを意地悪くくすぐった。
 こんなにも傍近くで、こんなにも熱っぽい囁きに肌を撫でられ、一体誰が逆らえるものか。
 一抹の諦観と共に瞳を閉じたカミュは、それでもなおささやかな抵抗とばかりに憎々しげに口を開いた。
 「……嫌かどうかなど、試してみなければわからない」
 「じゃ、お試しあれ」
 カミュの言葉が解除の呪文となったらしく、ミロはそろそろと動作を再開した。
 唇に、柔らかい羽のようなものがふわりと触れる。
 一瞬惑うごとく離れたそれは、繊細な硝子細工でも扱うようにおそるおそると寄り添ってきた。
 かすかに震えているのは自分だけではないことがわかって、カミュはほんの少し安堵した。
 神聖な誓いのように厳かに重ねられた唇は、そこだけ熱に浮かされたように狂おしく、カミュの意識を陶然と麻痺させようと誘う。
 恋人のキスとやらもそれ程嫌なものではないらしい、と、薄れゆく意識の中漠然と思ったカミュは、自分を妖しく包み込みだした浮遊感の中へと身を投げ出してみることにした。
 瞼の奥で目も眩むばかりの閃光が炸裂した。
 陽光の只中に放り出された錯覚を覚えるほど色を失くして光り輝く世界が、カミュを虜にして放さない。
 それでもミロと一緒だから、恐れることなど何も無いのだと、思った。

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