無憂宮
【処女宮】

 次はシャカさんのお宅なのですが、ここは何も言わずに通らせていただく方がいいのかもしれません。
 だって、シャカさんは……。
 いつも眠っているようなシャカさんの顔を思い浮かべていると、傍らで、きい、という音がしました。
 あれれ? さっきまで閉まっていたはずの扉が、ほんの少し開いています。
 ちょうど私がするりと通り抜けられるくらいの隙間です。
 う〜ん、気になります。
 こういうものを見ると、つい入ってみたくなるのが猫というものなのです。
 迷いましたがやはりどうにも我慢できず、私はそろりと部屋の中に入りました。
 大きな部屋の真ん中あたりにシャカさんの姿がみえます。
 やっぱり眠っているのでしょうか、床に座って目を閉じて、シャカさんは少しも動きません。
 とはいえ、これでもシャカさんは普通に起きていることもあるので、眠っているからといって放っておくわけにはいかないでしょう。
 一応、お宅にお邪魔してますとご挨拶くらいはしておかないと、礼儀に反してしまいます。
 私はそろそろとシャカさんに近づきました。
 「……にゃ」
 もしも本当に寝ているとしたら、私の声で起こしてしまっては申し訳ありません。
 念のため小さな声でそう呟くと、私はくるりと引き返そうとしました。
 「……待ちたまえ」
 ……やっぱりシャカさんは起きてたみたいです。
 向き直った私は、もう一度「にゃ」と愛想良くご挨拶しました。
 シャカさんは満足そうに頷きました。
 「それがムウの言っていた首輪かね? 、こちらへ来てよくみせたまえ」
 私は少しためらいました。
 そりゃムウさんにもらったばかりの自慢の首輪ですから、シャカさんにもみせてあげたいのは山々です。
 でも、ねえ。
 「
 呼びかけられた私は、手足としっぽを一杯に伸ばしただけの長さ分離れたところまで近づきました。
 「!」
 もう一度呼びかけられ、しっぽの長さ分だけ距離を縮めてみました。
 シャカさんは不満そうに私を見下ろします。
 「、私に首輪をみせる気はないのかね?」
 そういう訳ではありません。
 ねえ、お願いですから、そんな怖い顔をして睨まないでくださいよ。
 観念した私は、シャカさんの膝の上にぽんと飛び乗りました。
 にっこり笑ったシャカさんは優しく私を抱き上げてくれます。
 「ふむ、ムウはなかなかよい物を作ったらしいな」
 「にゃあ」
 ええ、私もそう思います。とっても素敵でしょう?
 シャカさんにもこの首輪を褒めてもらえたのが嬉しくて、私はご機嫌でごろごろと喉を鳴らしました。
 ……と。
 ……くしゅん、と、小さな声がしました。
 不思議になって見上げてみると、シャカさんは何やら難しそうに顔をしかめています。
 ……ああ、やっぱり。
 「……みゃ」
 「うむ、すまないな」
 シャカさんは顔をしかめたまま私を放しました。
 「今度は……もう少し修行をして……くしゅん……」
 辛そうに鼻をならしながら、シャカさんは悔しそうに呟きます。
 シャカさんは、猫をお好きなとても良い人なのですが、極度の猫アレルギーらしく、私が傍にいるとくしゃみが止まらなくなってしまうのです。
 私もシャカさんは大好きなので、ぜひとも頑張って修行して、この厄介な習性を早く治してもらいたいと思います。
 応援の印にしっぽを二、三回揺らすと、これ以上くしゃみがひどくならないように、私はシャカさんの元をすみやかに離れることにしました。


【磨羯宮】

 シャカさんのお宅をでてからというもの、いくつ建物を通り過ぎても誰にも会いませんでした。
 いつも誰もいないお家にはやっぱり猫の子一匹いませんし、いつも遊んでくれるミロさんもお留守だったみたいです。
 いつもぶっとんでるアイオロスさんにはもう会ってしまった(むしろ会いたくなかった!)のでいいのですが、次のお宅のシュラさんには会えるでしょうか?
 日が傾いてきたこともあり、少し寂しくなりながらも、私は黙々と階段を上りました。
 歩き疲れてふと見上げると、建物の傍らに黒い影が見えます。
 シュラさんです!
 久々に目にする人の姿に大喜びした私は、急いで階段を駆け上がりました。
 夕日を背に浴びながら、シュラさんは階段に腰掛けています。
 私はその前にお行儀よく座ると、「にゃ」と愛想良くご挨拶しました。
 「……よう」
 私をちらりと見たシュラさんは、口に短い紙棒をくわえたまま短く答えてくれました。
 シュラさんがよく口にしているこの棒は、とても不思議なんです。
 ふわ〜っと片方の端から煙が出るのですが、決して炎を出してめらめらと燃えあがることがありません。
 しかも、シュラさんはコレを使って、あることをやってみせてくれるのです。
 私は期待を込めてシュラさんを見上げました。
 「みゃ」
 「……」
 「みゃみゃ」
 「……」
 「みゃ〜〜」
 一生懸命おねだりしても、シュラさんは相変わらず無表情に黙って私を見下ろしているだけです。
 シュラさんは時々意地悪なのです。
 私がどんなにお願いしても、こうして全然気がつかない振りをすることがあるのです。
 それでも、何だかんだ言っても、シュラさんは最後には必ず願いを叶えてくれるはずなので、私はめげずに訴え続けました。
 とはいえ、今日は何故だかいつもよりも焦らされているような気がします。
 「にゃん」
 あまりの反応の無さに耐えきれなくなった私は、爪を立てないように気をつけつつ、シュラさんの足を軽くひっかいてやりました。
 「しょうがないな、は。ったく、誰かそっくりだ」
 ……誰のことでしょう?
 やはりお願いが聞いてもらえなくて拗ねてしまうような人が、シュラさんの周りにいるのでしょうか?
 だとしたら、私はその方とぜひお友達になりたいものです。
 だって、シュラさんは、こうしてむきになる私を見て意地悪く楽しんでるのです。
 きっとその誰かさんも、同じようにシュラさんにからかわれてはむくれているのでしょう。
 それならば、絶対私と話が合うと思うのです。
 「ほら、行くぞ、
 謎の誰かさんに一方的に親近感を抱いていた私は、シュラさんの声ではっと我に返りました。
 そうです、やっとシュラさんがその気になってくれたのですから、物思いにふけっている場合ではありません。
 「にゃー」
 シュラさんの口から、ゆっくりと煙の塊がでてきます。
 みてください。
 さっきまでは形もなくはかなく空に消えていった煙ですが、今度はなんとわっかの形をしているのです!
 私は天に上っていくこのわっかを捕まえようと、たん、と地面を蹴って飛びかかりました。
 煙の輪は、私の手が触れると同時に崩れてしまいます。
 私は何とかしてこのわっかの形のまま煙を捕まえたいのです。
 だって、しっぽにいくつもこの輪を通して颯爽と歩くのが、私の夢なんですから。
 ぴんと立てたしっぽの周りで、こんなわっかがふわふわくるくる回っていたら……、なんて想像するだけで、何だかとても楽しくありませんか?
 「にゃー!」
 何度も何度も、私は煙を捕まえようと飛び上がりました。
 でも、捕まえたと思ったはしから、煙の輪はすぐに歪んで消えてしまいます。
 一生懸命飛びつきつつも何一つ捕らえることができず、私は次第に焦り始めました。
 「悪いな。吸い終わった」
 そう試合終了宣言をしたシュラさんは、口にしていた棒を階段に押し付け火を消してしまいました。
 ああ、残念です。今日も一つもわっかを捕まえられませんでした。
 「……ふにゃあ……」
 「……そう落ち込んだ顔をするなよ。まるで俺がを虐めてるみたいじゃないか」
 小さく笑ったシュラさんは、私の耳の後ろを指先でかるくかいてくれました。
 煙捕獲作戦に失敗したあとは、いつもこうしてシュラさんは私を慰めてくれます。
 この感触がとても心地よくて、私は思わず意地悪くからかわれていたことも忘れ、目を細めて喉の奥を鳴らしてしまうのです。
 私に似ているという誰かさんも、シュラさんに散々からかわれたあとは、こうしてごろごろと懐いているのかもしれません。
 そんなことを思いながら一頻り甘やかしてもらったあと、私は次のお宅へ向かうことにしました。


【宝瓶宮】

 次のお宅はどういうわけだかいつも涼しくて、特に夏はとても快適なのです。
 でも、なんといってもこのお宅は山のかなり上の方にあるので、一人でここまで来るのは大変です。
 だから誰かに連れて来てもらわない限りあんまりこちらまでは来られないのですが、その分、こちらの住人の方は私の訪問をとても喜んでくれるのです。
 あ、噂をすれば……、です。
 私に気付いたこの家のご主人カミュさんが、微笑んで迎えてくれました。
 「にゃ」
 「ジェヌビエーヴ!」
 そう叫んだカミュさんが広げた両腕の中に、私は地面を蹴って勢いよく飛び込みました。
 しっかり抱きとめてくれたカミュさんは、にこにこと嬉しそうに私の頭を撫でてくれます。
 「しばらく姿を見せないからどうかしたのかと思っていた。あまり心配をかけないでくれ」
 「みゃあ」
 ご心配ありがとうございます。
 でも、さすがに一介の猫の身では、こんな高いところまではそうそう頻繁には来られませんよ。
 そう訴えようとした矢先のことです。
 「いや、にもの都合があるだろ。そもそもはおまえの飼い猫じゃないし、名前も違うし」
 まるで私の心の声が聞こえたように、私をかばってくれる声がしました。
 私はぐるりと首をめぐらせました。
 「ま、でも、確かに久しぶりだな、。元気か?」
 あ、ミロさんです。
 そういえばミロさんのお宅はお留守でした。
 やっぱりこちらにいらしてたんですね。
 このお二人は羨ましいくらいに仲良しで、よく一緒に遊んでいるようなのです。
 ミロさんがお宅にいらっしゃらなかったので、もしや……とは思っていましたが、やはり私の推理は正しかったようです。
 「にゃ」
 礼儀正しくきちんとご挨拶すると、ミロさんは満足そうに笑ってくれました。
 ですが、その晴れやかな笑顔の何が不満だったのか、カミュさんは私をミロさんから隠すように抱きしめつつ口を尖らせます。
 「ジェヌビエーヴのどこが悪い。良い名ではないか」
 「いや、それについてはノーコメントにさせてもらうが、こないだみんなでこいつの名前は『』って決めただろうが」
 「私はその会議に出席していない」
 「そりゃ、寝過ごしたおまえが悪い」
 「仕方ないだろう。いかにジェヌビエーヴという繊細な名が彼女にふさわしいか、綿密な資料を作っていたら徹夜になって……」
 カミュさんは痛いところを突かれて少し怯んだようですが、きっとミロさんをにらみ返すと一生懸命言い訳を始めます。
 私にしてみたら何と呼んでもらっても構わないのですが、ジェヌ……何とかいう舌をかみそうな長い名前より、皆さんがつけてくださったこの『』という名前の方がどちらかといえば気に入っています。
 とはいえ拗ねた子供みたいにむきになって反論するカミュさんの表情が何だかとても可愛らしくて、私はつい慰めてあげたくなりました。
 頬を撫でてあげようと頑張って腕を伸ばしていると、ふと不思議な感覚に襲われました。
 あれ?
 からかわれて拗ねてしまう……シュラさんが言ってた「誰かさん」って、もしかして……?
 「ああ、わかった、わかった。でも、とにかく、こいつは『』、な」
 楽しそうに笑うミロさんは、深い疑問に囚われる私をカミュさんの手の中からひょいと取り上げました。
 「ここまでよく来たな、。今、カミュが飯作ってくれてるから、食べてけよ」
 「にゃあ」
 それは嬉しいお誘いです。
 カミュさんを見ると、先ほどまでの不満げな表情もどこへやら、やはり優しく微笑んで頷いてくれています。
 私はふと感じた不審のことなどすっかり忘れてしまいました。
 だってカミュさんの作ってくれるご飯はとても美味しいのです。
 二人が仲良く食事をしているテーブルに一緒につかせてもらえるから、余計に美味しいのかもしれませんけどね。
 「じゃ、俺たちは飯ができるまで、カミュの邪魔にならないように遊んでような、
 「にゃん」
 それは素晴らしい考えです!
 さあ、ミロさんは一体何をして遊んでくれるのでしょう?
 わくわくした私はミロさんの肩の上によじ上り、ミロさんの頬にごろごろと頭を擦り付けて甘えました。


 こうしてミロさんとたっぷり遊んで、カミュさんの美味しいご飯をたくさん食べて、昨夜はそのままこちらに泊まらせてもらいました。
 カミュさんに怒られてしまうくらいにミロさんとはしゃぎすぎたせいか、朝になるとお腹が空いてたまりません。
 お二人はもう起きたのでしょうか?
 朝ごはんはいただけるのでしょうか?
 期待に胸を膨らませつつ、私はお二人の姿を捜しました。
 まずは夜になるとお二人が入っていくお部屋に行ってみましょう。
 ここはいつも扉が閉ざされているのですが、今日は珍しいことに少し開いています。
 まだお二人が寝ていたら起こそうと、私はするりと中に入りました。
 あ、やっぱり。
 寝床にカミュさんの長い毛が見えます。
 ミロさんのくるくるした毛は見当たらないので、どうやら寝てるのはカミュさんだけのようです。
 起こしてあげようと私は寝床の上に飛び上がり……首を傾げました。
 あれれ、カミュさんはいつも被っている服とかいう皮を脱いでしまったようです。
 人間の寝床に入るのはこれが初めてなので私にはよくわかりませんが、人間は眠るときには皮を脱ぐのでしょうか?
 一つ発見をした気分で、私はカミュさんを起こそうと手を伸ばしました。
 「にゃ〜」
 肩のあたりを揺すってみると、余程眠いのかカミュさんは小さく呻いて眉をしかめます。
 「ミロ、頼むから、もう……」
 ……いえ、私はミロさんではありませんってば。
 間違いを正そうとした、そのときです。
 私の体がふわりと持ち上がり、カミュさんがどんどんどんどん遠くなっていくではありませんか!
 「にゃにゃにゃ?」
 「静かに」
 混乱する私にミロさんの声がかかります。
 ああ、何だ。いつのまにか近づいたミロさんが、後ろから私を抱き上げてくれたんですね。
 「、もう少しカミュを眠らせてやってくれよ。ゆうべちょっとムリさせすぎちゃったんでな」
 「みゃ?」
 見上げると、ミロさんはとてもあったかい瞳で愛おしげにカミュさんをみつめています。
 私もついつられてカミュさんを見下ろし、あることに気付きました。
 カミュさんの体は、ところどころまだらに赤く染まっているのです。
 ……おかしいです。
 明らかにこれは変です。
 だってカミュさんの顔にも手にも、あんな痣みたいな痕、私は今までひとつも見たことないんですよ。
 は、もしやカミュさんはご病気なのでしょうか!
 そういえば、ゆうべ何度か押し殺した悲鳴のような声を聞いた気がします。
 きっと昨日、カミュさんは発作を起こして苦しんでいたに違いありません。
 でも優しいカミュさんのことですから、私に心配をかけないように必死で声を抑えていたのでしょう。
 あの発情期の猫属にも似た悩ましげな声は、おそらくそのせいだったのです!
 「みゃ……」
 私はカミュさんが心配で心配でたまらなくなってしまいました。
 「朝飯は俺が用意してやるから、おいで」
 ひどく心細くなってしまった私に気付かないのか、そう言うとミロさんは私を肩に乗せてくれました。
 いえ、それは嬉しいのですが、カミュさんがこんな状態なのに朝ごはんどころではありませんよ。
 「にゃー」
 「そんな不安そうな目で見るなよ。朝食を支度するのはいつも俺なんだぞ」
 朝のカミュは全く使い物になんないからな、と、ミロさんは楽しそうに笑います。
 うーん、このミロさんの様子を見ると、それほどカミュさんのことを案じなくても大丈夫ということなのでしょうか。
 もう一度カミュさんをみると、何だかとても幸せそうな表情で、いつの間にやらすやすやと眠っています。
 ああ、よかった。この分ならあんまり心配しなくてもよさそうですね。
 「さ、行くぞ」
 「にゃ!」
 すっかり安心した私は、ミロさんに元気よくお返事しました。
 ミロさんと朝ごはんを食べていたら、そのうちにカミュさんも起きてくるでしょう。
 そうしたら、もっともっとたっぷりとお二人に遊んでもらうのです。
 そして心ゆくまで遊んだら、また一軒一軒お宅を訪問しながらのんびり山を下りようと思います。
 きっとまた皆さんは優しく私のお相手をしてくださることでしょう。
 愉快で親切なこの山の人たちと出会えて、私は本当に幸せな猫だと思うのです。
 さあ、今度は一体どんな楽しい出来事が私を待っているのでしょうか。
 期待に胸を躍らせつつ、私は「にゃあ!」とご機嫌な声を上げました。

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