無憂宮
Circus


 今年は一生の記憶に残る一年になる。
 初めてその知らせを聞いたとき、ミロは自分の前の世界が突然いくつもの明かりでさっと照らし出されたような高揚感と共に、そう確信した。
 サーカスが町にやってくる。
 それは、まるで収穫祭が二度あるような心浮き立つ出来事で、町中の人間が寄ると触るととその話題で持ちきりとなった。
 いつも眉間に皺を寄せ気難しい顔をしている数学の先生でさえ、授業の初めにちらりとサーカスの話をして皆を驚かせたくらいだ。
 サーカス団の訪れは、この小さな町にとってはそれくらいの重大事で、まだ小さなミロにとっても当然心浮き立たせる特別な祭典だったのだ。
 そうしてミロが指折り数えて待ち焦がれた日が、とうとうやって来た。


 ぽんぽんと威勢のいい音を立て、青い空に花火が上がる。
 耳を澄ます必要も無く、歓声の方向を追いかけていけば、すぐに賑やかなラッパの音にたどり着く。
 町中を歌い踊りつつサーカスの一団が練り歩いていた。
 「さあさあ、皆様! 今宵は我らの妙技をご覧にいれましょう!」
 奏でられるけたたましい音楽に負けじとばかり、よく通る声が響き渡る。
 公演の宣伝ビラを配るクラウンの傍らで、二人組のジャグラーが幾つものクラブを魔法のように宙に浮かべていた。
 肩に軽々と子供を乗せた見上げるばかりの大男が大音量で太鼓を叩き、艶やかな美女が軽やかに舞い踊りながら秋波を飛ばす。
 そうして人々を集めつつ町の広場までやって来た彼らは、中央の噴水の前に陣取った。
 今夜の公演の宣伝を兼ね、ささやかなショーを見せようというのだ。
 居並ぶ人々の足の間から首尾よく潜り込んだミロは、最前列の特等席を確保していた。
 やがて、熱狂的なまでの期待と興奮に包まれる中、ショーは始まった。
 見慣れた町の風景が、途端に一変する。
 軽業師の驚くべき身のこなし、卓越したジャグリングの技、赤い丸鼻をつけたクラウンの滑稽なパントマイム……。
 どれをとっても、ミロが今まで目にしたことのない夢の世界だった。
 しかし、夢は程なく覚める。
 「……では、この続きは今夜! 皆様、後ほどお目にかかりましょう!」
 キラキラと瞳を輝かせたミロの前で、終焉を告げる太鼓の音が鳴り響く。
 と同時に、大男の肩口に乗っていた子供が、くるりと宙返りして飛び降りた。
 周囲にどよめきが走った。
 ショーの間、この子供は微動だにしていなかった。
 可愛らしい顔立ちと目の覚めるような見事な紅毛とあいまって、それゆえに観客の間では腹話術の人形なのだろうかとさえ囁かれていたくらいだ。
 サーカスの子供の名に恥じぬ見事な身の軽さを見せた子供は、美女の被ったシルクハットを受け取ると、芝居がかった礼をした。
 くるりとひっくり返したその帽子の中に、投げ銭を入れてもらおうというのだろう。
 効果的な手法だった。
 多くの客が、人形のようなその子供を近くで見ようと、既に傍に集まりつつあった。
 そうして間近で小さな子供に見上げられたなら、衆目の手前小銭を与えず帰れるものではない。
 芸を生業とする彼らは、そんな群集の心理的効果を十分に計算しつくしているのだろう。
 大人たちはにこにこと笑いながら子供を囲み、その手にした帽子を小銭で重くしていった。
 やがて、その子供はミロの傍にもやって来た。
 とはいえ、子供のミロにお足の期待はしていないのだろう、その目線はミロよりもずっと上の方に注がれている。
 相手にもされていないことが訳もなく悔しくなったミロは、ごそごそとズボンのポケットを探った。
 空っぽだった。
 上着のポケットも見てみた。
 小銭はなかった。
 そのかわり、何か小さなものがかさりと手に触れた。
 不審に思いつつそれを取り出したミロの表情がぱっと輝く。
 曲芸に熱中するあまりすっかり忘れていた。
 ここに来る道すがら、顔馴染みの近所のおばさんにクッキーの包みをもらったのだった。
 「手、出して!」
 考えるよりも先にミロは叫んでいた。
 突然の大声に、不思議そうにみつめてくる子供の手を、ミロはぐいと引っ張った。
 帽子を落としそうになり慌てて抱えなおした彼の手に、ミロは無理やりお菓子の包みを握らせた。
 紅毛の子供はしばらくびっくりしたように瞳を見開いていたが、やがてにっこりと笑った。
 「ありがとう」
 どこか外国訛りのその礼の言葉が何だかとても嬉しくて、無性に照れくさくなったミロは鼻をこすってごまかした。


 二日間の公演は、盛況の内に終了した。
 明日の日の出と共に、サーカス団はテントを畳み町を後にする。
 そんな噂を耳にしたミロは興奮もさめやらぬまま、夜中こっそりと家を抜け出した。
 もう一度、サーカスに触れてみたかった。
 あの光り輝くような、夢のような一時に酔いしれてみたかった。
 そして、何よりも、もう一度あの子供に会ってみたかった。
 自分と同じくらいの年頃のあの紅毛の少年を、この二日というもの、ミロは目を皿のようにして捜していた。
 会ってどうしようというのではないのだが、何故だか彼とは再会しなくてはいけない、そんな気がして仕方がなかった。
 しかし、サーカスの公演中、ミロがどんなに捜しても、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
 だから、彼に会うのは今夜が最後のチャンスだと思ったのだ。


 照明が落とされたサーカスのテントは、数時間前の喧騒が嘘のように、どこか物寂しい雰囲気を漂わせていた。
 人の姿はない。
 大方、公演の無事終了を祝って、皆で町に繰り出し祝杯でもあげているのだろう。
 大人はいつもそうだ。
 何かあるたびに、そうして酒を飲み騒ぐ口実を作り出す。
 そうして日頃の憂さを酒に流してしまおうとでもするかのように。
 だが、とりあえず、そのおかげで今の状況がミロにとって好都合なのは間違いない。
 テントの周囲をぐるりとあらためたミロは、きょろきょろと辺りを見渡すと、さっと天幕の裾を持ち上げて中に滑り込んだ。
 暗闇に慣れた目はテントの内部を容易に把握することができた。
 公演の一部始終を目に焼き付けていたミロの記憶通りに、中央には綱渡りや空中ブランコで使われた櫓が組まれたままだった。
 あそこが、夢の舞台だ。
 いてもたってもいられなくなり、熱に浮かされたようにミロが中央に駆け寄ろうとしたとき。
 「そこで何をしている!」
 鋭い声がした。
 びくりと飛び上がったミロは、恐る恐る振り返った。
 暗闇の中、ランプを手にこちらに接近する人影があった。
 だが、その明かりは随分と地面に近いところにある。
 相手が遠くにいるから、ではない。
 相手の背がミロと同じくらい低いのだ。
 必然的に相手は子供ということになり、それはすなわちミロの不法侵入の目的が果たされたことをも意味していた。
 かんかんに怒られつまみ出されるという恐怖は消え、かわりにミロの体内を歓喜が駆け巡る。
 緊張を解いたミロは、期待に胸を膨らませつつ彼が近づいてくるのを待った。
 やがて、眩しい明かりがミロの顔をさっと照らした。
 ランプをかざした紅毛の子供は、まじまじとミロをみつめると小首をかしげた。
 「……クッキー……?」
 「……そんな名前になった覚えはないんだけど」
 「でも、この間、クッキーくれた子だよね、君」
 感動の再会とはお世辞にも言えないが、彼は自分を覚えていてくれた。
 ただそれだけのことがとても嬉しく、ミロの気を大きくさせる。
 「うん。僕はミロ。君は?」
 「カミュ」
 すっかりミロのペースに巻き込まれつつあった子供は、そこでふと現在の状況を思い出したのか、我に返ったように怖い顔を作ってみせた。
 「そんなことより、君、ここで何をしてるんだ。みつかったら怒られ……」
 すでにサーカスの人間であるカミュにみつかっているのだが、どうもその台詞を聞く限り、彼はミロを怒る立場にないらしい。
 悪戯心がむくむくと沸き起こり、ミロはくつくつと笑った。
 「ねえ、あそこに行ってみてもいい?」
 ミロが指差す先を見たカミュは、とんでもないとでもいう風に首を激しく横に振った。
 「ダメだよ。あの櫓だろう? あそこは危ないから、絶対ダメ……」
 櫓の天辺を見上げていたカミュは、続いて「……え?」と頓狂な声を上げた。
 視線を地上に戻すまで、ミロが隣にいるとばかり思っていたのだろう。
 カミュが全てを言い切らないうちに、ミロは足取りも軽やかに櫓に向かって駆け出していたのだが、どうやらその動きには全く気づかなかったらしい。
 ミロの「行ってもいい?」という台詞は、許可を求めているのではなく、「行きたい」という意思の表明だったことを、遅まきながらようやくカミュは理解したようだ。
 「ちょっと待って!」
 颯爽と梯子を上り始めたミロをなんとかして引き止めようとしたか、カミュは慌ててその後を追いかけてきた。
 「ねえ、降りてきてよ」
 早くも梯子の中ほどまで上ったミロは、哀願するようなカミュの声に下を向いた。
 梯子を前に、カミュは心底困ったような情けない顔をしてミロを見上げていた。
 「少しだけ、見逃して!」
 「ダメだよ。本当に怒られるから……」
 ミロは少し思案した。
 その結果、サーカスのテントに潜り込めるなどという千載一遇のチャンスを無駄にはできないという結論に達した。
 カミュにとっては不幸な選択だということは明らかだった。
 だから、せめてもの罪滅ぼしに、ミロはほんの少しだけ歩み寄りを試みることにした。
 「……じゃ、僕を捕まえられたら降りてあげる!」
 「……え……?」
 途端にカミュは表情を強張らせ、意味もなく周囲をきょろきょろと見回した。
 他愛のない遊びの誘いに明らかに動揺したカミュを、ミロはしばらく不審気にみつめた。
 やがて。
 「……ひょっとして、怖いの?」
 カミュはきっとミロを睨みつけてきた。
 「そんなことない!」
 言い放つや、ランプを足元に置いたカミュは梯子に手をかけた。

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