するすると梯子を上ったミロは、カミュに追いつかれることもなく櫓天辺の足場に立っていた。
足元を覗き込むと、はるか彼方に地面が見えた。
目も眩むような高さに、それをものともせず軽やかな演技を行う団員への憧れと尊敬が否が応にも高まる。
そして何故かミロは、いつか自分がこの舞台に立つことを奇妙な高揚感と共に確信していた。
いつか大人になった自分は、鳥のように宙を舞う。
そのとき、自分をしっかりと受け止めてくれるパートナーは……。
ミロはちらりと下を見た。
ようやくカミュが頭を覗かせた。
「……どうしたの?」
夜目にも明らかに青ざめたカミュに、ミロは訝しげに問いつつ手を貸してやった。
引っ張りあげられ、足場に崩れるように座り込んだカミュは、がたがたと震えていた。
「……途中で下りようと思ったんだ。だけど……」
言葉途中で飲み込まれた声に、ミロは懸命に想像をめぐらして続くべき発言を推測した。
「怖くて下りられなくなったから、しょうがなくてここまで上がってきた……とか?」
調子に乗って上った木の上でようやくその高さに気づき脅える仔猫のように、カミュは俯いたままこくりとうなずいた。
先程までの威勢もどこへやら、高さに脅えるカミュの姿が、ミロには無性に可愛らしく思われた。
「大丈夫だよ」
とにかく落ち着かせてやろうと、ミロはカミュの汗ばんだ手をしっかりと握ると瞳を覗き込んだ。
今にも泣き出しそうに揺れる鮮やかな紅の瞳をとても綺麗だと思ったが、それを口にするのはなんとか止めた。
そのかわり、カミュに笑ってもらえるような楽しい話をしようと、ひそかに心に決めた。
学校のこと、友達のこと、家族のこと……。
最近の楽しかった出来事を、ミロは次から次へと息つく暇もなく話し続けた。
熱中するあまり、事実よりも大げさすぎて嘘っぽい話になっていたかもしれなかったが、それでも少しも構わなかった。
ミロの手の中で小刻みに震えていたカミュの手が次第に大人しくなっていき、その瞳には恐怖のかわりに好奇心が浮かぶようになってくれたのだから、どんな道化にでもなってやろうとさえ思えた。
すっかりミロの話に引き込まれて目を輝かせていたカミュは、やがてぽつんと寂しそうに言葉を落とした。
「いいなあ、君は」
突然のカミュの言葉に呆気にとられたミロは、睫がぶつかる音が聞こえそうなくらい勢いよく何度も目を瞬かせた。
「僕はカミュの方が羨ましいけど?」
ミロにとって、それは日常。当たり前すぎて、羨ましがられるようなものではなかった。
サーカスにいて全国を回れる方が、この小さな町しか知らないミロよりもずっと楽しいに決まっている。
きょとんと反論するミロに、カミュは妙に冷めた風に口元を歪めてみせた。
「学校にも行けないし、友達もできないのに?」
僕なんて自分の名前くらいしか読み書きできないんだよ、と、カミュは少し恥ずかしそうに声を落とす。
「あ、でも、もう少し大きくなったら、シュラが字を教えてくれることになってるんだ」
自虐的な発言が自分でも悔しくなったのか、ついでカミュは言い訳するように早口で付け足した。
「シュラって……?」
初めて耳にする名前を訝しがるミロに、カミュは得意げに微笑んだ。
「覚えておいて。あと何年かしたら、シュラがこのサーカスの花形になってるから」
シュラがどれほど運動神経が良く皆に将来を嘱望されているか、カミュは我が事以上に熱く語る。
なんとなく、ミロは面白くなかった。
「手、広げて」
ずっと握ったままだったカミュの手を差し上げ、少し頬を膨らませたミロは唐突にそう言った。
言われるままに掌を上に指を開いたカミュの手に、ミロは自分の人差し指を重ねる。
「僕の名前の書き方、教えてあげる」
指で掌に文字を刻み始めたミロに、カミュは期待に溢れた笑顔を向けた。
「僕はミロだから、綴りは……」
「あ、これはわかる。Mだよね」
僕の名前の真ん中の字と同じなんだ、と、カミュは大発見をしたように感心していた。
いつも人に教えられる立場のミロは、そうしてカミュが喜んで生徒役になってくれることがとても楽しかった。
だから、何度も何度もカミュの掌に自分の名を指でなぞった。
後年長じて思い返してみると、独占欲からそうして大切な持ち物に名前を書こうとしているだけだったようにも思われたが、もちろん当時のミロにはそんな意識など毛頭ない。
ただ、そうしてカミュが自分の名を呼びつつ指をたどたどしく動かす様が、何故だかくすぐったいように訳もなく嬉しかったのだ。
物覚えのよい生徒は、すぐにミロの名を間違いなく綴れるようになった。
「ねえ、これで僕たち友達だよね?」
ほんの少し不安の混じるミロの問いかけに、カミュはにっこり笑って頷いた。
そうして二人で顔を見合わせ、にこにこと幸せ気分を満喫していたときだった。
「……こんなところで何をしてる?」
何の気配もさせずに突然ひょこりと顔を出した人の存在に、ミロとカミュは文字通り飛び上がるほど驚いた。
「シュ、シュラ……!」
悪戯の現場を捕まえられてひどく狼狽したように、カミュは落ち着きなくわたわたと無意味に両手をばたつかせる。
カミュが口走ったのは、先ほどまで散々彼が自慢していた人の名だ。
ミロは検分するようにじっと闖入者をみつめた。
自分たちより年かさとはいえ、彼もまだ子供だった。
ただ、細い腕にしなやかについた筋肉が、彼が少しずつ大人に移行しつつあることを主張している。
ただ細っこいだけの子供子供した自分と意味も無く比べてしまい、ミロの劣等感がちりちりと刺激された。
「下にランプがあるから、まさかとは思ったが……。そっちはどこの子だ? どっから入った?」
「……誰もいなかったから……」
一応悪いことをしたという自覚があるミロは、しゅんと俯いた。
あまり答えにもなっていない返事だったが、シュラは気にした風もなかった。
「とりあえず、ここから下りろ。まず、そっちの子から俺につかまれ」
「一人で大丈夫だよ!」
負けず嫌いの性分が本領を発揮し、思わずミロは抗うように叫んでいた。
「おまえは大丈夫と思っても、万一ってこともあるだろ」
ミロの抗議を一蹴し、平然とシュラは続けた。
「俺たちは所詮よそ者だ。ただでさえいいイメージを持ってもらえないのに、ここで何か事故でも起きてみろ。この付近じゃ二度と興行できなくなるんだぞ」
そうなったとき、おまえはどう責任を取ってくれるんだ、と、シュラは冷たく言い放つ。
相手が小さな子供でも容赦なく、シュラは理路整然と自説を展開し、ミロにつけ入る隙を与えなかった。
うなだれるミロの耳に、カミュの脅えた声が飛び込んでくる。
「……ごめんなさい……」
その今にも泣き出しそうなかそやかな声に、ミロはぐっと拳を握り締めた。
「ごめんなさい。僕が悪いんだから、カミュを怒らないで」
「……まだカミュには何も言ってないと思うが」
「あ、それと、僕より先にカミュを下ろしてあげて」
一歩も引かないと言わんばかりに真っ直ぐ見上げてくるミロに、シュラは興味深げな一瞥を与えた。
高いところが苦手なカミュを、一人でこんなところに残しておくわけにはいかない。
口にこそ出さなかったが、カミュを心配するミロの意図はしっかり伝わったらしい。
くすりと小さく苦笑いを浮かべると、シュラはカミュに手を差し出す。
「おいで、カミュ」
カミュは俯いたまま、素直にシュラの背に負ぶさり梯子を下りていった。
天幕の撤収作業は早朝から始められた。
カミュもあくびをかみ殺しつつ、小道具や身の回りの品々をまとめる手伝いをしていた。
昨夜は、なかなか眠れなかった。
朝になったら、事情を知った大人たちにこっぴどく怒られるかもしれないという不安ももちろんあった。
しかし、ミロという初めてできた友達の存在があまりに嬉しくて、カミュの目をぱっちりと覚まさせていたのだ。
「……眠そうだな」
くすりと笑ったシュラが、カミュに声をかける。
昨夜のことは内緒にしておいてくれたらしく、カミュは夜が明けても誰にもとがめられなかった。
「……シュラ、昨日はありがとう」
悪戯を見逃してもらったようで、少し照れくささを覚えながらも、カミュは小声で礼を述べた。
「いや。それより、あいつ、何て名だった?」
「え? ミロ、だけど?」
不思議そうに見上げてくるカミュに、シュラは小さく笑った。
「あいつ、昨夜、梯子を下りながら、俺に何て言ったと思う?」
さっぱり見当がつかないカミュは、無言のまま答えを求めてじっとシュラをみつめた。
シュラは意味ありげににやりと笑った。
「『俺、あんたには負けないから』だと。ガキのくせに、な」
カミュはしばらく考えたのち、訝しげに瞳を瞬かせた。
「……ミロ、サーカスに入るの?」
「……わかんなきゃ、いい。もう少し大きくなったら、おまえにも多分わかるよ」
ぽんぽんとあやすようにカミュの頭を撫でてやったシュラは、ふと遠くを見遣った。
「ほら、噂をすれば、だ」
シュラの視線の先を追いかけたカミュの顔が輝く。
朝日を浴びて煌く金色の髪をなびかせ、ミロがこちらに駆けてくるのだ。
カミュもミロに向かって駆け出した。
「これ、カミュにあげる!」
息を弾ませながら、にっこり笑ったミロは一冊の本を差し出した。
「字を覚えたら、カミュならきっとすぐに読めるようになるから」
「……ありがとう」
カミュは本を両手でぎゅっと抱え込むと、幸せそうに微笑んだ。
元気でね。また会おうね。
そう叫びつつ、ミロは名残惜しそうに、去り往くサーカスを手を振って見送ってくれた。
荷車の片隅で寂しげに本を抱えたままのカミュを元気付けるように、シュラが優しく声をかける。
「字、教えてやろうか。その本、早く読めるようになりたいだろ」
カミュはこくりと頷いた。
「で、どんな本なんだ。ちょっと見せてみろ」
手渡された本をぱらぱらとめくっていたシュラの指が、最後の頁でぴたりと止まる。
「……どうしたの?」
「あいつ、本気で俺と張り合う気だな……」
くすりと笑いつつ、シュラは本をカミュに返した。
訳もわからずきょとんとしたカミュは、本を開いた。
シュラの興味を引いたらしい、最後の頁をめくる。
そこには手書きの一文があった。
何が書いてあるのかカミュにはまだわからないけれど、添えられた署名だけは、昨夜教えてもらったから読むことができた。
字を覚えたら、きっとこのメッセージの意味もわかるのだろう。
カミュは一層増えた楽しみに心を躍らせつつ、本をしっかりと胸に抱きしめた。
…… 大きくなったら、迎えにいくよ ミロ ……
足元を覗き込むと、はるか彼方に地面が見えた。
目も眩むような高さに、それをものともせず軽やかな演技を行う団員への憧れと尊敬が否が応にも高まる。
そして何故かミロは、いつか自分がこの舞台に立つことを奇妙な高揚感と共に確信していた。
いつか大人になった自分は、鳥のように宙を舞う。
そのとき、自分をしっかりと受け止めてくれるパートナーは……。
ミロはちらりと下を見た。
ようやくカミュが頭を覗かせた。
「……どうしたの?」
夜目にも明らかに青ざめたカミュに、ミロは訝しげに問いつつ手を貸してやった。
引っ張りあげられ、足場に崩れるように座り込んだカミュは、がたがたと震えていた。
「……途中で下りようと思ったんだ。だけど……」
言葉途中で飲み込まれた声に、ミロは懸命に想像をめぐらして続くべき発言を推測した。
「怖くて下りられなくなったから、しょうがなくてここまで上がってきた……とか?」
調子に乗って上った木の上でようやくその高さに気づき脅える仔猫のように、カミュは俯いたままこくりとうなずいた。
先程までの威勢もどこへやら、高さに脅えるカミュの姿が、ミロには無性に可愛らしく思われた。
「大丈夫だよ」
とにかく落ち着かせてやろうと、ミロはカミュの汗ばんだ手をしっかりと握ると瞳を覗き込んだ。
今にも泣き出しそうに揺れる鮮やかな紅の瞳をとても綺麗だと思ったが、それを口にするのはなんとか止めた。
そのかわり、カミュに笑ってもらえるような楽しい話をしようと、ひそかに心に決めた。
学校のこと、友達のこと、家族のこと……。
最近の楽しかった出来事を、ミロは次から次へと息つく暇もなく話し続けた。
熱中するあまり、事実よりも大げさすぎて嘘っぽい話になっていたかもしれなかったが、それでも少しも構わなかった。
ミロの手の中で小刻みに震えていたカミュの手が次第に大人しくなっていき、その瞳には恐怖のかわりに好奇心が浮かぶようになってくれたのだから、どんな道化にでもなってやろうとさえ思えた。
すっかりミロの話に引き込まれて目を輝かせていたカミュは、やがてぽつんと寂しそうに言葉を落とした。
「いいなあ、君は」
突然のカミュの言葉に呆気にとられたミロは、睫がぶつかる音が聞こえそうなくらい勢いよく何度も目を瞬かせた。
「僕はカミュの方が羨ましいけど?」
ミロにとって、それは日常。当たり前すぎて、羨ましがられるようなものではなかった。
サーカスにいて全国を回れる方が、この小さな町しか知らないミロよりもずっと楽しいに決まっている。
きょとんと反論するミロに、カミュは妙に冷めた風に口元を歪めてみせた。
「学校にも行けないし、友達もできないのに?」
僕なんて自分の名前くらいしか読み書きできないんだよ、と、カミュは少し恥ずかしそうに声を落とす。
「あ、でも、もう少し大きくなったら、シュラが字を教えてくれることになってるんだ」
自虐的な発言が自分でも悔しくなったのか、ついでカミュは言い訳するように早口で付け足した。
「シュラって……?」
初めて耳にする名前を訝しがるミロに、カミュは得意げに微笑んだ。
「覚えておいて。あと何年かしたら、シュラがこのサーカスの花形になってるから」
シュラがどれほど運動神経が良く皆に将来を嘱望されているか、カミュは我が事以上に熱く語る。
なんとなく、ミロは面白くなかった。
「手、広げて」
ずっと握ったままだったカミュの手を差し上げ、少し頬を膨らませたミロは唐突にそう言った。
言われるままに掌を上に指を開いたカミュの手に、ミロは自分の人差し指を重ねる。
「僕の名前の書き方、教えてあげる」
指で掌に文字を刻み始めたミロに、カミュは期待に溢れた笑顔を向けた。
「僕はミロだから、綴りは……」
「あ、これはわかる。Mだよね」
僕の名前の真ん中の字と同じなんだ、と、カミュは大発見をしたように感心していた。
いつも人に教えられる立場のミロは、そうしてカミュが喜んで生徒役になってくれることがとても楽しかった。
だから、何度も何度もカミュの掌に自分の名を指でなぞった。
後年長じて思い返してみると、独占欲からそうして大切な持ち物に名前を書こうとしているだけだったようにも思われたが、もちろん当時のミロにはそんな意識など毛頭ない。
ただ、そうしてカミュが自分の名を呼びつつ指をたどたどしく動かす様が、何故だかくすぐったいように訳もなく嬉しかったのだ。
物覚えのよい生徒は、すぐにミロの名を間違いなく綴れるようになった。
「ねえ、これで僕たち友達だよね?」
ほんの少し不安の混じるミロの問いかけに、カミュはにっこり笑って頷いた。
そうして二人で顔を見合わせ、にこにこと幸せ気分を満喫していたときだった。
「……こんなところで何をしてる?」
何の気配もさせずに突然ひょこりと顔を出した人の存在に、ミロとカミュは文字通り飛び上がるほど驚いた。
「シュ、シュラ……!」
悪戯の現場を捕まえられてひどく狼狽したように、カミュは落ち着きなくわたわたと無意味に両手をばたつかせる。
カミュが口走ったのは、先ほどまで散々彼が自慢していた人の名だ。
ミロは検分するようにじっと闖入者をみつめた。
自分たちより年かさとはいえ、彼もまだ子供だった。
ただ、細い腕にしなやかについた筋肉が、彼が少しずつ大人に移行しつつあることを主張している。
ただ細っこいだけの子供子供した自分と意味も無く比べてしまい、ミロの劣等感がちりちりと刺激された。
「下にランプがあるから、まさかとは思ったが……。そっちはどこの子だ? どっから入った?」
「……誰もいなかったから……」
一応悪いことをしたという自覚があるミロは、しゅんと俯いた。
あまり答えにもなっていない返事だったが、シュラは気にした風もなかった。
「とりあえず、ここから下りろ。まず、そっちの子から俺につかまれ」
「一人で大丈夫だよ!」
負けず嫌いの性分が本領を発揮し、思わずミロは抗うように叫んでいた。
「おまえは大丈夫と思っても、万一ってこともあるだろ」
ミロの抗議を一蹴し、平然とシュラは続けた。
「俺たちは所詮よそ者だ。ただでさえいいイメージを持ってもらえないのに、ここで何か事故でも起きてみろ。この付近じゃ二度と興行できなくなるんだぞ」
そうなったとき、おまえはどう責任を取ってくれるんだ、と、シュラは冷たく言い放つ。
相手が小さな子供でも容赦なく、シュラは理路整然と自説を展開し、ミロにつけ入る隙を与えなかった。
うなだれるミロの耳に、カミュの脅えた声が飛び込んでくる。
「……ごめんなさい……」
その今にも泣き出しそうなかそやかな声に、ミロはぐっと拳を握り締めた。
「ごめんなさい。僕が悪いんだから、カミュを怒らないで」
「……まだカミュには何も言ってないと思うが」
「あ、それと、僕より先にカミュを下ろしてあげて」
一歩も引かないと言わんばかりに真っ直ぐ見上げてくるミロに、シュラは興味深げな一瞥を与えた。
高いところが苦手なカミュを、一人でこんなところに残しておくわけにはいかない。
口にこそ出さなかったが、カミュを心配するミロの意図はしっかり伝わったらしい。
くすりと小さく苦笑いを浮かべると、シュラはカミュに手を差し出す。
「おいで、カミュ」
カミュは俯いたまま、素直にシュラの背に負ぶさり梯子を下りていった。
天幕の撤収作業は早朝から始められた。
カミュもあくびをかみ殺しつつ、小道具や身の回りの品々をまとめる手伝いをしていた。
昨夜は、なかなか眠れなかった。
朝になったら、事情を知った大人たちにこっぴどく怒られるかもしれないという不安ももちろんあった。
しかし、ミロという初めてできた友達の存在があまりに嬉しくて、カミュの目をぱっちりと覚まさせていたのだ。
「……眠そうだな」
くすりと笑ったシュラが、カミュに声をかける。
昨夜のことは内緒にしておいてくれたらしく、カミュは夜が明けても誰にもとがめられなかった。
「……シュラ、昨日はありがとう」
悪戯を見逃してもらったようで、少し照れくささを覚えながらも、カミュは小声で礼を述べた。
「いや。それより、あいつ、何て名だった?」
「え? ミロ、だけど?」
不思議そうに見上げてくるカミュに、シュラは小さく笑った。
「あいつ、昨夜、梯子を下りながら、俺に何て言ったと思う?」
さっぱり見当がつかないカミュは、無言のまま答えを求めてじっとシュラをみつめた。
シュラは意味ありげににやりと笑った。
「『俺、あんたには負けないから』だと。ガキのくせに、な」
カミュはしばらく考えたのち、訝しげに瞳を瞬かせた。
「……ミロ、サーカスに入るの?」
「……わかんなきゃ、いい。もう少し大きくなったら、おまえにも多分わかるよ」
ぽんぽんとあやすようにカミュの頭を撫でてやったシュラは、ふと遠くを見遣った。
「ほら、噂をすれば、だ」
シュラの視線の先を追いかけたカミュの顔が輝く。
朝日を浴びて煌く金色の髪をなびかせ、ミロがこちらに駆けてくるのだ。
カミュもミロに向かって駆け出した。
「これ、カミュにあげる!」
息を弾ませながら、にっこり笑ったミロは一冊の本を差し出した。
「字を覚えたら、カミュならきっとすぐに読めるようになるから」
「……ありがとう」
カミュは本を両手でぎゅっと抱え込むと、幸せそうに微笑んだ。
元気でね。また会おうね。
そう叫びつつ、ミロは名残惜しそうに、去り往くサーカスを手を振って見送ってくれた。
荷車の片隅で寂しげに本を抱えたままのカミュを元気付けるように、シュラが優しく声をかける。
「字、教えてやろうか。その本、早く読めるようになりたいだろ」
カミュはこくりと頷いた。
「で、どんな本なんだ。ちょっと見せてみろ」
手渡された本をぱらぱらとめくっていたシュラの指が、最後の頁でぴたりと止まる。
「……どうしたの?」
「あいつ、本気で俺と張り合う気だな……」
くすりと笑いつつ、シュラは本をカミュに返した。
訳もわからずきょとんとしたカミュは、本を開いた。
シュラの興味を引いたらしい、最後の頁をめくる。
そこには手書きの一文があった。
何が書いてあるのかカミュにはまだわからないけれど、添えられた署名だけは、昨夜教えてもらったから読むことができた。
字を覚えたら、きっとこのメッセージの意味もわかるのだろう。
カミュは一層増えた楽しみに心を躍らせつつ、本をしっかりと胸に抱きしめた。
…… 大きくなったら、迎えにいくよ ミロ ……