Le café de Milo
こぽこぽと湯が沸く音と芳しいコーヒーの香り。
両方ともミロの大好きなものだった。
そうして好きなものばかりに囲まれていられるのだから、ついつい頬が緩むのも無理はない。
「……本当にいつも嬉しそうですね、あなたは」
サイフォンからアルコールランプを外したミロは、カウンターの向こうのムウににこりと笑う。
「嬉しいよ、そりゃ。毎日コーヒー淹れてられるしな」
「……経営難でも、かね」
「うん、それには気がつかないことにしてる」
痛いところを遠慮なく突いてくるシャカの言葉に、コーヒーをカップに注ぎつつミロは苦笑いを浮かべた。
元は珈琲豆の販売が専門だったミロの店は、先頃喫茶コーナーを設けたばかりだった。
コーヒー通の常連客や近所の住人が主たる客だったから、テーブルが幾つかとカウンター席があるだけという至極小さな喫茶店だ。
とはいえ、改装工事にはそれなりの費用がかかる。
やがて内情をよく知る常連客の中から店の存続を危ぶむ声が上がりだし、結果、できるだけミロの売り上げに貢献しようとの密約が交わされたのである。
今、近くで洋菓子店を営むムウとシャカがミロの店を訪れているのもその一環だった。
コーヒー専門店とはいえ本当にコーヒーしか存在しないメニューを見たムウは焼き菓子の提供をミロに申し入れ、半強制的に承諾させたのだ。
最近ではその提供対象にケーキも加わり、毎日こうしてケーキを届けるついでにコーヒーを飲んでいくのが彼らの習慣になっていた。
「ま、でも、なんとかなるだろ。そうそう、結構評判いいぞ、おまえのケーキ」
「当然です」
わずかに目を伏せたムウは得意気にコーヒーに口をつける。
その隣で紅茶を飲みながら、シャカは店内をぐるりと見渡した。
「それにしても閑散とした店だな。客が来るように、今度招き猫でもやろう」
「……いや、気持ちだけありがたく受け取っとく」
「遠慮するものではない。しっかり私の念を込めておいてやるから、安心して業務に励みたまえ」
「いや、本っ当にいいから。……あ、ほら、早速お客さん来たし」
救いの神の訪れに、ミロはいつも以上に表情を輝かせて入り口を見た。
「いらっしゃ……」
歓迎の言葉を途中でぶつりと断ち切ったミロを、ムウは訝しげにちらりと見上げた。
なにか不思議なものでも見たように、ミロはぽかんと口を半開きにしたまま硬直していた。
ムウはさりげなく視線を背後に巡らせた。
鮮麗な紅が視界の端を過ぎった。
つかつかと店内を横切る客の見事な紅毛がその正体だ。
確かに目を引く容貌ではあるが、しかし、ミロの反応は少々露骨過ぎる。
「……来客のようですが」
たしなめるムウの囁きが呪縛を解く鍵になったようで、一瞬身を震わせたミロはようやく接客に向かった。
既に客は窓辺の小さなテーブルに座っている。
年の頃はミロたちと同じくらいか。
ただ服装は明らかに彼らと異なり、商業地域の一角であるこの辺りよりもオフィス街を闊歩している方がふさわしいものだった。
息つく暇もなくパソコンをテーブルに広げる様子からも、仕事のために腰を落ち着ける場所を探していたというだけなのだろう。
ディスプレイに視線を落としたまま注文を取るミロには目もくれない姿からも、それと知れた。
「あの、ご注文は……?」
遠慮がちに繰り返すミロの声に、客はようやく気付いたらしい。
驚いたように見上げた客の瞳がその髪と同じ真紅に染まっていることに、ミロは初めて気が付いた。
注文のコーヒーをテーブルに届けても、客はキーボードに指を走らせながら小さく頷くだけだった。
コーヒーではなくただ空間を提供するしかないというのは、もともとコーヒー好きが高じて開店したミロには残念なことだ。
もちろん、客がこの店内でどう時間を過ごすか、それは客の自由であり干渉すべきではないこともわかっていた。
しかし、それでも感じてしまう恨めしさを押し隠し、ミロは窓辺の客を盗み見た。
客は視線をパソコンに据えたままカップに手を伸ばすところだった。
持ち上げられたカップは、口許で一瞬静止した後ゆっくりと傾けられる。
自分が淹れたコーヒーの行く末をさりげなく目で追いかけていたミロは息を飲んだ。
一口飲んだ客が、不思議そうに首をかしげたのだ。
口に合わなかったのだろうか。
もちろん万人に好まれる味などこの世に存在しないことは承知している。
しかし、大概の人間にはミロの淹れるコーヒーは美味しいと言われてきたし、その自信はあった。
だから一層、自慢のコーヒーを気に入ってもらえないことは、まるで自分を否定されたようで、悔しいし悲しい。
胸の奥の暗い泉から沸き起こるやるせなさが、止まることを知らないように溢れ出す。
苦い思いに、ミロは唇を噛みしめ俯いた。
と、そのとき。
勢いよくキーを一つ叩く小気味よい音が耳に飛び込んできた。
思わず顔を上げたミロが目にしたのは、パソコンを片付け始める客の姿だった。
てきぱきとテーブル上から無粋な仕事道具を一掃した客は、後ろで一つに束ねていた髪を解き軽く頭を揺すった。
まるで紅い滝のように、髪がはらりと背に広がる。
その紅の流れに、ミロは瞳を奪われた。
無意識にこの客の姿を網膜に焼き付けようと目を見開く。
この紅毛の客は自分にとって特別の存在になると、何の根拠もないにも関わらず、ミロはそう確信した。
そんなミロの視線にも気づかず再びカップを手にした客は、コーヒーの香りを慈しむように口許にふわりと微笑を漂わせた。
一口口をつけ、そして満足そうに目を細める。
一連の仕草は、客がこれ以上ないほどにミロのコーヒーを気にいってくれたことを告げていた。
自分の淹れるコーヒーで幸せな気分になってほしい。
豆の販売では飽き足らず、ミロが喫茶業務にまで手を広げた理由は、ただその一つだった。
この赤毛の客は、そのミロの夢を目の前で具現化してくれているのだ。
ミロは言葉もなくその姿をじっとみつめていた。
たっぷりと時間をかけて一杯のコーヒーを味わうと、客は再び髪をきっちりと束ね席を立った。
「ありがとうございました!」
ただの硬貨などではない、なにか特別な褒美をもらったような気がして、ミロは客から渡されたコーヒー代をぎゅっと握りしめた。
「……ごちそうさま」
ぼそりと小声で返した客は、ついでふと顔を上げた。
「こちらでは豆も売ってるんですか?」
思い出したように尋ねる客に、ミロは勢い込んで頷いた。
「はい! あ、挽きましょうか?」
「いや、また今度でいい」
そう言い落として踵をめぐらせる客の背に、思わずミロは叫んだ。
「あの……っ!」
引き止められた客は、訝しげに振り返る。
困った。
このままただその背中を見送ることが惜しくてつい声をかけてしまったのだが、言うべきことは何一つ見つからなかった。
内心で焦る自分をごまかそうと、ミロは懸命に笑顔を作ってみせた。
「……また今度、来てください」
苦し紛れに客の言葉をなぞるミロに、客は怪訝そうに瞬きを繰り返すだけだった。
無理もない。
これほど必死に客を帰すまいとする喫茶店など、そうそうないだろう。
何とか不自然にならないようにフォローしようと思っても、焦れば焦るほどに何も言葉が思いつかない。
つい声を上げてしまった自分を呪う言葉だけは、たっぷり過ぎるほどに出てくるのに。
どうしてもっとさりげなく声をかけられなかったんだろう。
強張った笑顔の下で、ぐるぐると後悔が渦巻く。
だが、そうして自己嫌悪の嵐の只中にいたミロを救ってくれたのは、やはりその中に突き落とした張本人だった。
「……ああ、そのうちに」
耳に優しい穏やかな声は、願望が聞かせた幻聴かとも思った。
しかし、ミロは客の口の両端がわずかに吊り上げられるさまを確かに見たのだ。
夢では、ない。
去り際に微笑を返してくれた客の後ろ姿が扉の向こうに完全に消えるまで、ミロは微動だにせず見送っていた。
しばらくそのまま茫然と立ち尽くした後、そろそろと小銭を握りしめていた手を開く。
「……シャカ」
すっかり手の中で汗ばんだ小銭をみつめながら、ミロはぼんやりと口を開いた。
「何かね?」
「……さっきおまえが言ってた招き猫、やっぱり頼んでいい?」
「任せたまえ。特別に両手を挙げた招き猫にしてやろう」
満足そうに頷くシャカの声が、何故だかひどく愉快そうに聞こえた。
続いてムウの溜息が聞こえたような気がしたが、そんなことは少しも気にならなかった。
こぽこぽと湯が沸く音と芳しいコーヒーの香り。
両方ともミロの大好きなものだった。
そうして好きなものばかりに囲まれていられるのだから、ついつい頬が緩むのも無理はない。
「……本当にいつも嬉しそうですね、あなたは」
サイフォンからアルコールランプを外したミロは、カウンターの向こうのムウににこりと笑う。
「嬉しいよ、そりゃ。毎日コーヒー淹れてられるしな」
「……経営難でも、かね」
「うん、それには気がつかないことにしてる」
痛いところを遠慮なく突いてくるシャカの言葉に、コーヒーをカップに注ぎつつミロは苦笑いを浮かべた。
元は珈琲豆の販売が専門だったミロの店は、先頃喫茶コーナーを設けたばかりだった。
コーヒー通の常連客や近所の住人が主たる客だったから、テーブルが幾つかとカウンター席があるだけという至極小さな喫茶店だ。
とはいえ、改装工事にはそれなりの費用がかかる。
やがて内情をよく知る常連客の中から店の存続を危ぶむ声が上がりだし、結果、できるだけミロの売り上げに貢献しようとの密約が交わされたのである。
今、近くで洋菓子店を営むムウとシャカがミロの店を訪れているのもその一環だった。
コーヒー専門店とはいえ本当にコーヒーしか存在しないメニューを見たムウは焼き菓子の提供をミロに申し入れ、半強制的に承諾させたのだ。
最近ではその提供対象にケーキも加わり、毎日こうしてケーキを届けるついでにコーヒーを飲んでいくのが彼らの習慣になっていた。
「ま、でも、なんとかなるだろ。そうそう、結構評判いいぞ、おまえのケーキ」
「当然です」
わずかに目を伏せたムウは得意気にコーヒーに口をつける。
その隣で紅茶を飲みながら、シャカは店内をぐるりと見渡した。
「それにしても閑散とした店だな。客が来るように、今度招き猫でもやろう」
「……いや、気持ちだけありがたく受け取っとく」
「遠慮するものではない。しっかり私の念を込めておいてやるから、安心して業務に励みたまえ」
「いや、本っ当にいいから。……あ、ほら、早速お客さん来たし」
救いの神の訪れに、ミロはいつも以上に表情を輝かせて入り口を見た。
「いらっしゃ……」
歓迎の言葉を途中でぶつりと断ち切ったミロを、ムウは訝しげにちらりと見上げた。
なにか不思議なものでも見たように、ミロはぽかんと口を半開きにしたまま硬直していた。
ムウはさりげなく視線を背後に巡らせた。
鮮麗な紅が視界の端を過ぎった。
つかつかと店内を横切る客の見事な紅毛がその正体だ。
確かに目を引く容貌ではあるが、しかし、ミロの反応は少々露骨過ぎる。
「……来客のようですが」
たしなめるムウの囁きが呪縛を解く鍵になったようで、一瞬身を震わせたミロはようやく接客に向かった。
既に客は窓辺の小さなテーブルに座っている。
年の頃はミロたちと同じくらいか。
ただ服装は明らかに彼らと異なり、商業地域の一角であるこの辺りよりもオフィス街を闊歩している方がふさわしいものだった。
息つく暇もなくパソコンをテーブルに広げる様子からも、仕事のために腰を落ち着ける場所を探していたというだけなのだろう。
ディスプレイに視線を落としたまま注文を取るミロには目もくれない姿からも、それと知れた。
「あの、ご注文は……?」
遠慮がちに繰り返すミロの声に、客はようやく気付いたらしい。
驚いたように見上げた客の瞳がその髪と同じ真紅に染まっていることに、ミロは初めて気が付いた。
注文のコーヒーをテーブルに届けても、客はキーボードに指を走らせながら小さく頷くだけだった。
コーヒーではなくただ空間を提供するしかないというのは、もともとコーヒー好きが高じて開店したミロには残念なことだ。
もちろん、客がこの店内でどう時間を過ごすか、それは客の自由であり干渉すべきではないこともわかっていた。
しかし、それでも感じてしまう恨めしさを押し隠し、ミロは窓辺の客を盗み見た。
客は視線をパソコンに据えたままカップに手を伸ばすところだった。
持ち上げられたカップは、口許で一瞬静止した後ゆっくりと傾けられる。
自分が淹れたコーヒーの行く末をさりげなく目で追いかけていたミロは息を飲んだ。
一口飲んだ客が、不思議そうに首をかしげたのだ。
口に合わなかったのだろうか。
もちろん万人に好まれる味などこの世に存在しないことは承知している。
しかし、大概の人間にはミロの淹れるコーヒーは美味しいと言われてきたし、その自信はあった。
だから一層、自慢のコーヒーを気に入ってもらえないことは、まるで自分を否定されたようで、悔しいし悲しい。
胸の奥の暗い泉から沸き起こるやるせなさが、止まることを知らないように溢れ出す。
苦い思いに、ミロは唇を噛みしめ俯いた。
と、そのとき。
勢いよくキーを一つ叩く小気味よい音が耳に飛び込んできた。
思わず顔を上げたミロが目にしたのは、パソコンを片付け始める客の姿だった。
てきぱきとテーブル上から無粋な仕事道具を一掃した客は、後ろで一つに束ねていた髪を解き軽く頭を揺すった。
まるで紅い滝のように、髪がはらりと背に広がる。
その紅の流れに、ミロは瞳を奪われた。
無意識にこの客の姿を網膜に焼き付けようと目を見開く。
この紅毛の客は自分にとって特別の存在になると、何の根拠もないにも関わらず、ミロはそう確信した。
そんなミロの視線にも気づかず再びカップを手にした客は、コーヒーの香りを慈しむように口許にふわりと微笑を漂わせた。
一口口をつけ、そして満足そうに目を細める。
一連の仕草は、客がこれ以上ないほどにミロのコーヒーを気にいってくれたことを告げていた。
自分の淹れるコーヒーで幸せな気分になってほしい。
豆の販売では飽き足らず、ミロが喫茶業務にまで手を広げた理由は、ただその一つだった。
この赤毛の客は、そのミロの夢を目の前で具現化してくれているのだ。
ミロは言葉もなくその姿をじっとみつめていた。
たっぷりと時間をかけて一杯のコーヒーを味わうと、客は再び髪をきっちりと束ね席を立った。
「ありがとうございました!」
ただの硬貨などではない、なにか特別な褒美をもらったような気がして、ミロは客から渡されたコーヒー代をぎゅっと握りしめた。
「……ごちそうさま」
ぼそりと小声で返した客は、ついでふと顔を上げた。
「こちらでは豆も売ってるんですか?」
思い出したように尋ねる客に、ミロは勢い込んで頷いた。
「はい! あ、挽きましょうか?」
「いや、また今度でいい」
そう言い落として踵をめぐらせる客の背に、思わずミロは叫んだ。
「あの……っ!」
引き止められた客は、訝しげに振り返る。
困った。
このままただその背中を見送ることが惜しくてつい声をかけてしまったのだが、言うべきことは何一つ見つからなかった。
内心で焦る自分をごまかそうと、ミロは懸命に笑顔を作ってみせた。
「……また今度、来てください」
苦し紛れに客の言葉をなぞるミロに、客は怪訝そうに瞬きを繰り返すだけだった。
無理もない。
これほど必死に客を帰すまいとする喫茶店など、そうそうないだろう。
何とか不自然にならないようにフォローしようと思っても、焦れば焦るほどに何も言葉が思いつかない。
つい声を上げてしまった自分を呪う言葉だけは、たっぷり過ぎるほどに出てくるのに。
どうしてもっとさりげなく声をかけられなかったんだろう。
強張った笑顔の下で、ぐるぐると後悔が渦巻く。
だが、そうして自己嫌悪の嵐の只中にいたミロを救ってくれたのは、やはりその中に突き落とした張本人だった。
「……ああ、そのうちに」
耳に優しい穏やかな声は、願望が聞かせた幻聴かとも思った。
しかし、ミロは客の口の両端がわずかに吊り上げられるさまを確かに見たのだ。
夢では、ない。
去り際に微笑を返してくれた客の後ろ姿が扉の向こうに完全に消えるまで、ミロは微動だにせず見送っていた。
しばらくそのまま茫然と立ち尽くした後、そろそろと小銭を握りしめていた手を開く。
「……シャカ」
すっかり手の中で汗ばんだ小銭をみつめながら、ミロはぼんやりと口を開いた。
「何かね?」
「……さっきおまえが言ってた招き猫、やっぱり頼んでいい?」
「任せたまえ。特別に両手を挙げた招き猫にしてやろう」
満足そうに頷くシャカの声が、何故だかひどく愉快そうに聞こえた。
続いてムウの溜息が聞こえたような気がしたが、そんなことは少しも気にならなかった。