澄んだ音を立てドアベルが来客を知らせる。
入り口を見遣ったミロはあからさまに落胆の声を上げた。
「……何だ、アフロか」
「何だはないだろう。人が折角観葉植物を持ってきてやったのに」
一抱えもある鉢植えの陰から、アフロディーテが美しい顔を覗かせ不満げに睨みつける。
生花店を営む彼もまたミロの喫茶店支援計画の賛同者の一人だ。
各テーブルに色を添える一厘挿しや壁際に置かれたミロの胸ほどまでもある観葉植物などは、全てアフロディーテが提供してくれたものだった。
私好みの環境でコーヒーを飲みたいだけだと嘯く彼の本意が、客をくつろがせるような居心地のよい空間作りという目的にあることも、もちろんミロは知っていた。
だが、そう表立っては言わないアフロディーテの意思を尊重し、ミロは表面上は迷惑そうな素振りをしてみせる。
もっとも、先ほどの声に失望がこもったのは、彼には申し訳ないが少し本気だったのだが。
ミロはアフロディーテの好きな豆を手際よく用意しながら苦笑いを浮かべた。
「おまえに任せとくと店がジャングルになりかねないからな。それに俺、こないだ持ってきてくれたのもすぐ枯らしちゃったし」
「馬鹿だな、グリーンには癒し効果があるんだって。それに今度のは日陰でもよく育つし水遣りも少なくていいから、いくらミロがいい加減でも大丈夫」
抱えた鉢植えに愛しげな眼差しを注ぎつつつかつかと店の中ほどまで進んだアフロディーテは、さっと視線を周囲に走らせた。
やがてこの植物の置き場所を奥の一角に定めたようで、そちらに歩み寄ると慎重に鉢を床に下ろす。
鉢の位置をあれこれと直しながら、アフロディーテはミロに片目を瞑ってみせた。
「で、彼はいつもどこに座るんだって?」
「……彼って?」
その代名詞が誰を指すのかはわかっていたが、できることならその話題から遠ざかりたくてわざとらしく瞳を瞬かせるミロに、アフロディーテは意味ありげに微笑んだ。
「とぼけるな。例の、紅毛の君だよ」
ミロは大げさに溜息をついた。
常連客同士の仲が良すぎるというのも良し悪しである。
先日ふらりと現れミロの目を奪った紅毛の客の情報は、居合わせたムウとシャカの口から瞬く間に常連客の間に広まっていた。
そのおかげで、彼はいつ来るのか、どこの誰なのかといった、むしろミロ自身が喉から手が出るほどに知りたい質問を、彼は馴染みの客が来る度に浴びせられていたのだ。
残念ながら、その客についてミロは何一つ知らない。
いや、一つだけ知っていることがあるとするならば、彼がミロの淹れるコーヒーを気に入ってくれたこと、それだけだ。
先日以来、あの紅毛の客は時折思い出したようにこの店を訪れ、その度に違う種類の豆を味わって帰っていく。
しかし、その客と親しくなりたいというミロの望みが実現する兆しは一向にない。
来る曜日も時間帯もまちまちだったから来店の予測もつかず、その結果気紛れのような突然の客の登場にますますミロは緊張するばかりで、いまだに話しかけることすらできないままだった。
「そこの、窓際の二人用テーブル。でも、それ知ってどうするつもりだよ」
「いや、この葉の陰に隠しカメラでも仕込もうかと思って。私もその彼見てみたいし」
「……鉢ごと持って帰れ」
「冗談。でも、興味があるのは本当だよ」
アフロディーテはくすくすとからかうように笑った。
「コーヒーと添い遂げるかと思ってた君が、誰かに心を奪われるなんてね。君の初めての恋が成就するように応援してあげないといけない」
「初めてじゃないって」
他人事だと思ってか、ひどく楽しげなアフロディーテを横目で睨みつつ、ミロは不貞腐れたように反論する。
と、アフロディーテの瞳が悪戯に輝いた。
「ああ、じゃ、やっぱり恋だってことは認めるんだ?」
言葉をかき消すように陶器の割れる耳障りな音が響いた。
ミロの手にしていたカップが床に落ち、粉々に砕け散ったのだ。
「……しまった。手が滑った」
言い訳するようにぼそりと呟くと、ミロは床にしゃがみこんだ。
破片を拾い集めるミロの姿は、カウンターに隠されてアフロディーテからはみえないはずだ。
俯いたミロは静かに一つ息を吐いた。
まるで長距離走の後のように心臓が早鐘を打っていた。
この美貌の主は、さすが恋愛の女神と同じ名を名乗るだけのことはある。
全てを見通すようなアフロディーテの視線からさりげなく逃れられた今の状況に、ミロは心底ほっとした。
「……そんなんじゃないんだけどな」
ようやく返した先の質問への回答には、自分でも呆れるほどに説得力がなかった。
今まで、気付かなかった。
気付こうとしなかった。
あの名前も知らない紅毛の客の来店を心待ちにしてしまうのは、自分の淹れたコーヒーを美味しそうに飲んでくれる、その姿をみたいだけなのだと思い込もうとしていた。
アフロディーテの軽口のおかげで、他にもっともっと根源的で単純な理由があったことに、ようやく目を向けさせられた。
ドアベルが鳴る度に、彼の訪れを期待して戸口を振り返ってしまうのも。
いざ彼が来たら来たで、どうにもそわそわと落ち着かなくなってしまうのも。
その近くに行くだけで緊張して、必要最小限の言葉しか交わせなくなってしまうのも。
とびきり美味しいコーヒーを淹れてあげようと、いつも以上に細心の注意を払ってしまうのも。
満足気にコーヒーを飲む彼の姿を、ちらりちらりとひっきりなしに盗み見てしまうのも。
よくよく考えてみたならば、全て、恋、というたった一つの言葉が簡単に説明をつけてしまう症状ではないか。
今まで一目惚れなどしたことがなかったから、何故これほどまでにあの客のことが気になるのか、その理由を恋愛感情と結びつけるという発想が浮かばなかっただけなのだ。
心臓はさらに一層煩く鳴り響き、心なしか頬が火照るように熱くなってきさえした。
思いがけなく直視させられた自分の感情の正体に激しく動揺したミロは、少しでも落ち着こうとひそかに深呼吸を繰り返した。
とりあえず割れたカップの後処理に集中しようとした矢先、震える指が不用意に陶片の端を滑る。
鋭い痛みを覚えたミロは指先を見た。
すっと走った紅い線から、じわりじわりと血が滲み出てくる。
あの人と同じ、紅。
視線を放せなくなった。
「そうだ、今度のバレンタインには真紅の薔薇を持ってきてあげるよ。その人が来たら絶対渡すんだよ」
カウンター越しに降ってくる嬉々としたアフロディーテの提案にも、ミロは返事すらできなかった。
承諾した覚えはなかったが、アフロディーテはきちんと約束として成立したものと思っていたらしい。
開店と同時に真紅の薔薇の花束を携えて現れたアフロディーテに、ミロは慌ててカレンダーを確認した。
二月十四日。聖バレンタインの日だ。
さすがに生花店も洋菓子店も今日は忙しいのだろう、花や菓子などいつもの届け物に来てくれた友人たちはコーヒーを飲む間も惜しみそそくさと帰っていく。
ミロ自身、普段よりもいくらか多い客の応対に追われていたから気にも留めていなかったのだが、夕刻にさしかかった頃ようやく何かがおかしいと思い始めた。
この日一日、常連客のほとんど全てがどういう訳だが姿をみせなかったのだ。
もしかしたら、彼らの間でバレンタインデーにはミロの店には行かないという取り決めでもあったのかもしれない。
なんといっても今日は愛の告白にはうってつけの日だ。
おそらくは紅毛の客に片想い中の店主に気を遣ってくれているのだろう。
ミロはちらりと壁にかけられた時計を見た。
もうじき閉店時刻だ。
折角皆に配慮してもらったようなのだが、今日はあの客は来ないらしい。
残念ながら、と言うべきか、幸いにも、と言うべきか。
少しがっかりしているのも事実だが、胸に抱く感情に恋という名が冠せられてしまった今となっては、彼をケーキと薔薇でもてなせという友人たちの命令にも似た忠告を実行できる自信はなかった。
だから今日、あの客が姿を見せないのは、結果的にはよかったのだろう。
そう自分に結論づけて閉店前の片付け作業を始めていたミロの耳に、ドアベルが今日最後の客の訪れを告げる。
「いらっしゃい……」
振り返ったミロは言葉を失った。
紅毛の客が、そこにいた。
入り口を見遣ったミロはあからさまに落胆の声を上げた。
「……何だ、アフロか」
「何だはないだろう。人が折角観葉植物を持ってきてやったのに」
一抱えもある鉢植えの陰から、アフロディーテが美しい顔を覗かせ不満げに睨みつける。
生花店を営む彼もまたミロの喫茶店支援計画の賛同者の一人だ。
各テーブルに色を添える一厘挿しや壁際に置かれたミロの胸ほどまでもある観葉植物などは、全てアフロディーテが提供してくれたものだった。
私好みの環境でコーヒーを飲みたいだけだと嘯く彼の本意が、客をくつろがせるような居心地のよい空間作りという目的にあることも、もちろんミロは知っていた。
だが、そう表立っては言わないアフロディーテの意思を尊重し、ミロは表面上は迷惑そうな素振りをしてみせる。
もっとも、先ほどの声に失望がこもったのは、彼には申し訳ないが少し本気だったのだが。
ミロはアフロディーテの好きな豆を手際よく用意しながら苦笑いを浮かべた。
「おまえに任せとくと店がジャングルになりかねないからな。それに俺、こないだ持ってきてくれたのもすぐ枯らしちゃったし」
「馬鹿だな、グリーンには癒し効果があるんだって。それに今度のは日陰でもよく育つし水遣りも少なくていいから、いくらミロがいい加減でも大丈夫」
抱えた鉢植えに愛しげな眼差しを注ぎつつつかつかと店の中ほどまで進んだアフロディーテは、さっと視線を周囲に走らせた。
やがてこの植物の置き場所を奥の一角に定めたようで、そちらに歩み寄ると慎重に鉢を床に下ろす。
鉢の位置をあれこれと直しながら、アフロディーテはミロに片目を瞑ってみせた。
「で、彼はいつもどこに座るんだって?」
「……彼って?」
その代名詞が誰を指すのかはわかっていたが、できることならその話題から遠ざかりたくてわざとらしく瞳を瞬かせるミロに、アフロディーテは意味ありげに微笑んだ。
「とぼけるな。例の、紅毛の君だよ」
ミロは大げさに溜息をついた。
常連客同士の仲が良すぎるというのも良し悪しである。
先日ふらりと現れミロの目を奪った紅毛の客の情報は、居合わせたムウとシャカの口から瞬く間に常連客の間に広まっていた。
そのおかげで、彼はいつ来るのか、どこの誰なのかといった、むしろミロ自身が喉から手が出るほどに知りたい質問を、彼は馴染みの客が来る度に浴びせられていたのだ。
残念ながら、その客についてミロは何一つ知らない。
いや、一つだけ知っていることがあるとするならば、彼がミロの淹れるコーヒーを気に入ってくれたこと、それだけだ。
先日以来、あの紅毛の客は時折思い出したようにこの店を訪れ、その度に違う種類の豆を味わって帰っていく。
しかし、その客と親しくなりたいというミロの望みが実現する兆しは一向にない。
来る曜日も時間帯もまちまちだったから来店の予測もつかず、その結果気紛れのような突然の客の登場にますますミロは緊張するばかりで、いまだに話しかけることすらできないままだった。
「そこの、窓際の二人用テーブル。でも、それ知ってどうするつもりだよ」
「いや、この葉の陰に隠しカメラでも仕込もうかと思って。私もその彼見てみたいし」
「……鉢ごと持って帰れ」
「冗談。でも、興味があるのは本当だよ」
アフロディーテはくすくすとからかうように笑った。
「コーヒーと添い遂げるかと思ってた君が、誰かに心を奪われるなんてね。君の初めての恋が成就するように応援してあげないといけない」
「初めてじゃないって」
他人事だと思ってか、ひどく楽しげなアフロディーテを横目で睨みつつ、ミロは不貞腐れたように反論する。
と、アフロディーテの瞳が悪戯に輝いた。
「ああ、じゃ、やっぱり恋だってことは認めるんだ?」
言葉をかき消すように陶器の割れる耳障りな音が響いた。
ミロの手にしていたカップが床に落ち、粉々に砕け散ったのだ。
「……しまった。手が滑った」
言い訳するようにぼそりと呟くと、ミロは床にしゃがみこんだ。
破片を拾い集めるミロの姿は、カウンターに隠されてアフロディーテからはみえないはずだ。
俯いたミロは静かに一つ息を吐いた。
まるで長距離走の後のように心臓が早鐘を打っていた。
この美貌の主は、さすが恋愛の女神と同じ名を名乗るだけのことはある。
全てを見通すようなアフロディーテの視線からさりげなく逃れられた今の状況に、ミロは心底ほっとした。
「……そんなんじゃないんだけどな」
ようやく返した先の質問への回答には、自分でも呆れるほどに説得力がなかった。
今まで、気付かなかった。
気付こうとしなかった。
あの名前も知らない紅毛の客の来店を心待ちにしてしまうのは、自分の淹れたコーヒーを美味しそうに飲んでくれる、その姿をみたいだけなのだと思い込もうとしていた。
アフロディーテの軽口のおかげで、他にもっともっと根源的で単純な理由があったことに、ようやく目を向けさせられた。
ドアベルが鳴る度に、彼の訪れを期待して戸口を振り返ってしまうのも。
いざ彼が来たら来たで、どうにもそわそわと落ち着かなくなってしまうのも。
その近くに行くだけで緊張して、必要最小限の言葉しか交わせなくなってしまうのも。
とびきり美味しいコーヒーを淹れてあげようと、いつも以上に細心の注意を払ってしまうのも。
満足気にコーヒーを飲む彼の姿を、ちらりちらりとひっきりなしに盗み見てしまうのも。
よくよく考えてみたならば、全て、恋、というたった一つの言葉が簡単に説明をつけてしまう症状ではないか。
今まで一目惚れなどしたことがなかったから、何故これほどまでにあの客のことが気になるのか、その理由を恋愛感情と結びつけるという発想が浮かばなかっただけなのだ。
心臓はさらに一層煩く鳴り響き、心なしか頬が火照るように熱くなってきさえした。
思いがけなく直視させられた自分の感情の正体に激しく動揺したミロは、少しでも落ち着こうとひそかに深呼吸を繰り返した。
とりあえず割れたカップの後処理に集中しようとした矢先、震える指が不用意に陶片の端を滑る。
鋭い痛みを覚えたミロは指先を見た。
すっと走った紅い線から、じわりじわりと血が滲み出てくる。
あの人と同じ、紅。
視線を放せなくなった。
「そうだ、今度のバレンタインには真紅の薔薇を持ってきてあげるよ。その人が来たら絶対渡すんだよ」
カウンター越しに降ってくる嬉々としたアフロディーテの提案にも、ミロは返事すらできなかった。
承諾した覚えはなかったが、アフロディーテはきちんと約束として成立したものと思っていたらしい。
開店と同時に真紅の薔薇の花束を携えて現れたアフロディーテに、ミロは慌ててカレンダーを確認した。
二月十四日。聖バレンタインの日だ。
さすがに生花店も洋菓子店も今日は忙しいのだろう、花や菓子などいつもの届け物に来てくれた友人たちはコーヒーを飲む間も惜しみそそくさと帰っていく。
ミロ自身、普段よりもいくらか多い客の応対に追われていたから気にも留めていなかったのだが、夕刻にさしかかった頃ようやく何かがおかしいと思い始めた。
この日一日、常連客のほとんど全てがどういう訳だが姿をみせなかったのだ。
もしかしたら、彼らの間でバレンタインデーにはミロの店には行かないという取り決めでもあったのかもしれない。
なんといっても今日は愛の告白にはうってつけの日だ。
おそらくは紅毛の客に片想い中の店主に気を遣ってくれているのだろう。
ミロはちらりと壁にかけられた時計を見た。
もうじき閉店時刻だ。
折角皆に配慮してもらったようなのだが、今日はあの客は来ないらしい。
残念ながら、と言うべきか、幸いにも、と言うべきか。
少しがっかりしているのも事実だが、胸に抱く感情に恋という名が冠せられてしまった今となっては、彼をケーキと薔薇でもてなせという友人たちの命令にも似た忠告を実行できる自信はなかった。
だから今日、あの客が姿を見せないのは、結果的にはよかったのだろう。
そう自分に結論づけて閉店前の片付け作業を始めていたミロの耳に、ドアベルが今日最後の客の訪れを告げる。
「いらっしゃい……」
振り返ったミロは言葉を失った。
紅毛の客が、そこにいた。