無憂宮
 「   お待たせしました」
 内心の緊張を悟られぬよう懸命に平静を装いつつ、ミロはテーブルに注文の品を置いた。
 一瞬途惑ったように首を傾げた客は、ついで訝しげにミロを見上げる。
 「私はコーヒーしか頼まなかったはずだが」
 当然と言えば当然の反応だ。
 確かに彼が注文したのは、豆の種類こそ毎回違うものの今日もいつもどおりのコーヒー一杯だけだった。
 だが今夜、ミロはコーヒーに加えガトーショコラの皿までテーブルに運んできたのだ。
 予想していたとはいえ、不審を浮かべた真紅の瞳にみつめられていると、用意していた言葉は全て羽が生えたようにどこかへ飛んでいってしまう。
 無理矢理笑顔を作ったミロは、からからに乾いて口の中に張り付いてしまった舌を懸命に動かした。
 「今日はバレンタインデーだから」
 何度も練習した通りにさりげなく言えているのか、全く自信がなかった。
 いや、実際、声が上擦っているのかもしれない。
 無言のままただ瞬きを繰り返す客に、ミロは慌てて付け加えた。
 「ほら、もう閉店時間も近いし、売れ残っちゃうのもなんだろ」
 注文以外の品を出すことに特別な意味などないのだと、そう思ってもらいたいようなもらいたくないような複雑な心境だった。
 しかし、怪しまれないように彼をもうしばらく留めるには、こんな口実が必要だったのだ。
 びっくりするほどうるさく鳴り響く拷問のような心臓の音に耐えながら、ミロは息を詰めて客の反応を窺った。
 ああ、と納得したように呟いた客は、腕時計に視線を落とすや慌てたように立ち上がる。
 「すまない、閉店間際に来られては迷惑だったな」
 「え、あ、いや、そんなことない、そんなことないからっ!」
 予想外の反応に慌てたのはミロの方だ。
 珍しく他に客がいなくて店内に二人きりという絶好の機会だというのに、そんなつまらない理由で帰られてはたまらない。
 ミロは財布を取り出そうとする客の手を押しとどめた。
 いつも窓際の席で一杯のコーヒーを黙って飲んで去っていくだけの客だった。
 初めはコーヒーを味わってくれるだけでも舞い上がるほど嬉しかったのだが、二度三度と通ってくれるようになると欲も出てくる。
 コーヒーだけでなくそれを淹れる自分にも関心を持ってもらいたい、できればゆっくり言葉も交わしてみたい。
 彼に一目惚れしたミロとしては、そう思うのは当然の成り行きだろう。
 その千載一隅のチャンスが到来しつつあるのだ。
 帰らせまいと必死だった。
 「いつも来てくれるだろ、そのお礼だと思ってくれればいいから」
 必至に言い募るミロの剣幕に気圧されたか、客はケーキの並ぶ小さなショーケースをちらりと見遣った。
 閉店間際、しかも今日はバレンタインデーというだけに、ケーキはもう片手で指折り数えられるくらいしか残っていない。
 客は納得したように頷くと再び椅子に座った。
 とりあえず、一歩前進。
 ほっとしたミロはカウンターに戻ろうとした。
 と、その背に声がかかる。
 「……マスター」
 「はいっ!」
 振り返るミロの食いつかんばかりの勢いのよさにわずかにたじろぎながらも、客は続けた。
 「このケーキ、もう一つ貰えるだろうか」
 「……あ、持ち帰り……で?」
 いままで一度もケーキを頼んだことがないとなれば、甘味嗜好の客というわけではないはずだった。
 さすがにこの場でケーキ二個は食べまい。
 となれば、この追加のケーキは誰のためか、自ずとしれた。
 もちろんこれだけの美貌の持ち主なのだから、バレンタインの夜にその帰りを待っている人がいたとしてもおかしくない。
 それは充分わかっていたのだが、今日はもう彼の来店はないと諦めかけていただけに、来てくれたことが嬉しくてつい忘れてしまっていた。
 失望を隠すことも忘れがっくりと肩を落とすミロに、しかし、客はくすりと小さく笑うと首を横に振った。
 「いや、あなたに」
 「……ふぇ?」
 思いもよらない客の一言に、’え’と’へ’の中間音のような恐ろしく間抜けな声が出た。
 途端に羞恥心の塊が一気に胸の奥で爆発する。
 床に大穴を掘って埋まってしまいたい心境に突き落とされたミロに対し、一方の客は礼儀正しくも何とか笑いを抑えてくれた。
 「今日はバレンタインデーだからな。いつも美味しいコーヒーをありがとう」
 静かな店内に客の台詞が響き渡った。
 ミロは言葉もなく客をみつめた。
 カウンターの向こうにいる人間は、客にとっては無の存在になる。
 もっともいつも常連客がたむろしているこの店ではそんな傾向も薄かったが、大抵の一般客にとってはミロは個の人間ではなくただのコーヒーメーカーになっているはずだった。
 無論客の目当てはミロではなく、ミロの淹れるコーヒーだ。
 むしろそれで結構と思っていたのだが、この紅毛の客に対してだけは違った。
 コーヒーだけでなくミロ自身にも目を向けてほしいと、いつのまにやら不相応な願いを抱くようになってしまっていた。
 その願望が、今まさに実現しようとしている。
 そればかりか、幸運に打ち震えるミロをさらに信じられない展開が待ち受けていた。
 ふわりと微笑んだ客が自分の前の席をすっと指差したのだ。
 「よかったら、あなたも一緒に食べないか」
 ミロは茫然と立ち尽くした。
 あまりにも願ったとおりに事が進みすぎると、自分を取り巻く状況は途端に現実感を欠くものらしい。
 ひょっとして、これは夢だろうか?
 そう疑いたくもなったが、そう思うと同時に、夢ならせめて覚めるまで存分に楽しませてもらおうと妙に欲深な気分になった。
 蕩けんばかりの極上の笑みを浮かべて頷いたミロは、急いで自分の分のコーヒーとケーキを用意すると客の待つテーブルに向かった。
 転んだりカップを落としたりして夢が覚めてはならないと、殊更慎重を期してそろそろと歩み出す。
 そんなぎこちない様子を客が怪訝そうに見守っていることになど、ミロは全く気づいていなかった。


 優雅にカップを持ち上げた客は、コーヒーの香気を堪能した後ゆっくりとカップに口をつける。
 いつもミロがカウンターの中から密やかにみつめていた仕草だった。
 ただ、いつもと違うことに、今日は随分と彼との距離が近い。
 手を伸ばせばすぐに届くようなところにいる彼を、常のように不躾にみつめることなどできはしなかった。
 視線の遣りどころに困りつつ、ミロは自分もコーヒーを飲む振りをしながら、客に気づかれないようにちらちらと目を配った。
 伏せられた睫が存外に長くて、驚いた。
 色素の薄い肌が透き通るように艶めかしくて、どきりとした。
 翳りを帯びたような深い紅の髪に触れてみたい衝動に駆られて、必死に耐えた。
 そうして、見れば見るほどに彼に惹かれていく自分を、ミロは誤魔化しようもないくらいはっきりと自覚していた。
 一方の客はそんなミロの熱っぽい眼差しにも少しも気づかないらしく、落ち着いた様子で静かにカップをソーサーに戻した。
 「マスターの淹れるコーヒーは本当に美味いな」
 喫茶店主にとって最高の褒め言葉を客はさらりと口にする。
 目を見張るミロに、微笑んだ客はさらに続けた。
 「焙煎が上手いのか挽き具合がいいのか私にはよくわからないが、なぜかあなたのコーヒーを飲むとほっとする。きっといつもここが常連客で賑わっているのは、そのためなのだろうな」
 よく店に来るという意味では、彼も常連だ。
 しかし、あえて客観的な表現をするところをみると、彼の中では自身はその常連客には含まれていないのだろう。
 できることならば、彼にも常連の一人として、ミロとより近いカウンター席に座ってもらいたい。
 そしてコーヒーを飲みながら打ち解けた会話などさせてもらいたい。
 そう言いたかったのだが、ミロにはどうしても果たせなかった。
 何故だろう。
 普段ならいくらでも軽妙に喋り続けていられるのに、この客を前にすると調子が狂って仕方がない。
 「……ありがとう」
 ただ、笑顔でそう言うのが精一杯だった。
 だが、そんな短い謝辞にも客は満足げに頷いてくれた。
 「あと、この店の魅力はあなた自身だろうな」
 「は?」
 今、彼は何と言ったのだろう。
 先ほどにも増して耳に心地よい言葉を聞いたような気がして、コーヒーを飲む振りをしていたことすら忘れてしまった。
 思いがけない一言に瞠目するミロをからかうように目を細めながら、客は再びカップを手にした。
 「マスターにはなにか人を引きつけるものがあるのだろう。それがこの店の扉を開けたときの空気でわかる」
 それが温かくて居心地がいいから、ついこうして通ってしまうのだ。
 照れくさそうに付け加えた客の一言に、ミロの鼓動はにわかに高鳴った。
 コーヒー程に好かれていないにしても、少なくとも自分は彼に嫌われてはいない。
 たったそれだけのことに幾千万の援軍が来たように勇気付けられた。
 「……ミロ」
 「……え?」
 それが名前だと一瞬理解できなかったのだろう。
 唐突な発言に訝しげに眉根を寄せた客に、ミロはあくまでさりげなさを装うためにケーキにフォークを突き刺しながら続けた。
 「俺の名前。今、俺はカウンターの中にいるわけじゃないから、『マスター』じゃなくて名前で呼んでほしいんだ。あ、もちろん、あなたがよかったら、だけど」
 付け足しのような最後の言は、もちろん本心ではなかった。
 しかし、自分自身のためにも逃げ道を作っておこうと思う、ずるい自分がいた。
 客に選択権を委ねることで、いつでも従前通りのカウンター越しに一線を画した関係に戻ることができる。
 そんな打算が働いていた。
 「……主人と客ではなく……友人……として?」
 客は躊躇いがちに言葉を選びつつミロを見返してくる。
 その戸惑いを隠せない紅い瞳から逃げだしたくなる自分を奮い立たせ、ミロは早口で言い募った。
 「あなたはいつもすごく美味そうに俺のコーヒーを飲んでくれるから、だから、俺めちゃくちゃ嬉しくて。それで、ずっとあなたと友達になりたいと思ってて……」
 本当は友達以上の関係を築きたいと思っているのだけれど、さすがにそこまで無鉄砲にはなりきれなかった。
 保険をかけてしまうのは、被害を最小限に食い止めようとする大人の狡猾さだ。
 全てを得る喜びよりも、全てを失うことへの恐れの方が圧倒的に大きい。
 せめて与えられたささやかな幸せに縋りつこうとする臆病さを、いつの間に身につけてしまったのだろう。
 痛みを恐れなかった少年時代の熱情を眩しく思い起こしつつ、それでもミロは今の自分にできる精一杯の訴えを試みた。
 判決を待つような重苦しい沈黙は決して長いものではなかったかもしれないが、ミロには延々と続く拷問のような時間に感じられた。

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