無憂宮
 やがて、縋るように返事を待つミロの眼前で、客はわずかに口角を持ち上げた。
 「……ありがとう。そんなことを言ってもらったのは初めてだ」
 祈りを込めてじっと相手の顔をみつめていたミロの喉がこくりと鳴った。
 ミロの告白を決して厭っているわけではないのは、客のその少し照れくさそうな表情から何となくわかる。
 しかし、残念ながら彼は手放しで喜んではくれていないようだった。
 わずかに顰められた眉が示している感情を一言で表すなら、困惑、だろう。
 突然の告白に戸惑いを隠せない客の姿が、ミロの胸を鋭く刺す。
 ミロを勢いづかせていた情熱の翼は、途端に萎れたように羽ばたきを止めた。
 「……すみません。今言ったこと、忘れてください!」
 膝の上に載せた拳をぎゅっと握り締めたミロは深々と頭を下げた。
 「俺、ちょっと調子に乗りすぎてました。すみません」
 「……いや、違うんだ……」
 うなだれたままのミロに動揺したか、客は慌てて手を振った。
 その仕草に救われ恐る恐る顔を上げると、やはり表情に惑いを浮かべたまま、ミロと目を合わせまいとあらぬ方向に視線を彷徨わせる客の姿が見えた。
 「……そう思ってもらえるというのはとても嬉しい。だが、あなたはあまりに私を知らない」
 「だから、これからあなたのことをもっと知りたいと……」
 懸命に訴えかけるミロに、客は静かに首を横に振った。
 口元はかすかに緩んでいるもののどこか寂しげなその表情に、ミロは思わず胸を突かれ黙りこんだ。
 「……私のことを知ったなら、あなたは私に好意を抱くことなどないだろうな」
 皮相な笑みを浮かべた客はぽつりと呟く。
 そのどこかシニカルな笑みが、ミロの内の暗い感情を刺激した。
 度量が狭い男と見くびられた、ような気がした。
 報われない説得を続けた反動のように、怒りにも似た感情がミロの体内を駆け巡る。
 ミロは瞳にぐっと力を込め客の紅い瞳を見据えた。
 「それは、俺が決めることだ」
 接客時の愛想の良さとは似ても似つかない鋭い声に、客は驚いたように瞳を見張った。
 和やかだったはずの雰囲気が一変した。
 小さなカフェテーブルを挟んで向き合う二人の間の空気がぴんと張り詰める。
 その一触即発の危機を救ったのは、無粋な着信音だった。
 「   失礼」
 客は明らかに安堵した様子で携帯を手に立ち上がった。
 窓際に歩み寄った客は、ミロに背を向け小さな声で通話を始める。
 会話に夢中で気がついていないようだった。
 夜の闇を従えた窓は、明るい室内を鏡のように反射する。
 客の後ろ姿を目で追ったミロには、彼の表情がよく見えた。
 いつもコーヒーを飲むときに見せる、穏やかで満ち足りた面持ちだった。
 あれほど嬉しそうな顔を彼に浮かべさせる電話の相手は、一体誰なのだろう。
 詮索すべき立場にないことは重々承知していたが、それでもミロは鏡と化した窓から目が放せなくなっていた。
 しばらく自虐的にやるせない想いを舐めた後、ミロは思い切るように頭を軽く揺らした。
 手持ち無沙汰を紛らわせるため、カップを手にしコーヒーに口をつける。
 ローストに失敗したかと思うほど、妙に苦い味がした。
 そうしてミロが舌先に残る不快感をもてあましていると、程なく会話を終えた客がテーブルに戻って来た。
 「すまない、用事ができてしまった」
 瞳を伏せた客は言い訳めいた言葉を落とす。
 その様子が叱責に脅える子供のようで、ミロは小さく笑った。
 「わかった。よかったら、ケーキ持って帰ってよ。今、箱に入れるから」
 「……すまない」
 先程までの険悪な空気が払拭されたことにほっとしたのだろう。
 強張っていた表情を緩めた客は、申し訳なさげに飲みかけのコーヒーに手を伸ばす。
 彼がカップを空にしコートを着始めた頃を見計らい、ミロはそっとケーキの箱を差し出した。
 箱を受け取った客は少し怪訝そうに首を傾げ、箱の隙間から中を覗き込んだ。
 不思議そうな眼差しが、ケーキの箱からミロへと向けられる。
 「二個入っているようだが……?」
 「どうせなら、これから会う人と二人で食べなよ」
 瞠目する客に、ミロはにっこりと笑いかけた。
 愛想のよい笑顔は、得意だ。
 幸か不幸か接客慣れした自分に、ミロは密かに感謝を捧げていた。
 「……ありがとう」
 わずかばかりの逡巡の後ミロの申し出を素直に受け入れることにしたらしく、客はそう言うと財布を取り出そうとする。
 ミロは大げさに手を振ってその動作を止めさせた。
 「いらない。今日は、俺のおごり」
 「いや、でも……」
 「あなたと話せて嬉しかったし、俺、ヘンなこと言っちゃったし。だから気にしないでくれ」
 また来てよ、とは、どんなに冗談めかしても言えなかった。
 再会のときが訪れるかどうかは、純粋に彼の自由意志で決めて欲しかった。
 本当に言いたい言葉を飲み込んだミロの顔とやや重みのあるケーキの箱の間を、客の視線が何度か往復する。
 「……わかった。では、遠慮なく」
 ケーキの箱と鞄を持ち直した客は、やがて言いよどみながらも言葉を繋いだ。
 「その……礼といっては何だが、よかったら今度食事でも……どうだろうか。ああ、無論、会計は私持ちだ」
 予想外の提案が、ミロの呼吸を止めさせる。
 虚を突かれたミロの反応を誤解したか、わずかに赤面して俯いた客は、嫌なら断ってくれればいい、と小声で付け足した。
 ミロの胸の奥から喜びがじわりじわりと熱を帯びて体中に広がり始めたのは、その直後だった。
 「いや、嫌どころか、すごい嬉しい! うわ、どうしよう! な、いつ、いつにする!?」
 「あ、では、また予定を確認してから……」
 踊りださんばかりにして子供のようにはしゃぐミロに、客は少し照れたように笑った。
 自分に向けられたその笑顔があまりに綺麗で、思わずミロは見惚れた。
 バレンタインのこの日、たくさんの客が店を訪れ幸せそうな笑みを振りまいていったが、その中でもとびきり上等の笑顔だと思った。
 彼のこの表情を目にすることができただけで、バレンタインの奇跡が自分にも訪れたような、そんな気がしていた。


 この建物から明かりが消えることはないのだと、カミュは思う。
 現に本来の就業時間というものをはるかに超えた今でも、フロアにはひっきりなしに人が行き交っていた。
 ここは、きっと流れる時間の速度も違うのだろう。
 すっかり馴染んでしまって今まで気にも留めなかったが、最近通い始めた喫茶店の陽だまりのようにのどかな雰囲気を味わってしまうと、何故だかそう思わされてしまう。
 心なしかいつしか足早になっている自分に苦笑しつつ、カミュは第三会議室の扉をノックした。
 小人数会議用の小さな部屋は、この時間帯になるとカミュの上司が占拠しているはずだった。
 静かな環境と座り心地のいい椅子は捨てがたいなどという、そんな我侭が許されているのは、偏に彼が将来を嘱望されているからだ。
 結局、世の中というものは、力があるものが優遇されるのだと思う。
 世渡り下手でどちらかといえば弱者に分類される自分に自嘲の笑みを浮かべつつ、カミュはノックに答える声を聞いた。
 「悪かったね。直帰予定のところ」
 扉を開けると、にこやかに微笑む上司が出迎えてくれた。
 先ほど電話でカミュを呼び出したのはこの人、サガだった。
 右も左もわからない新人の頃からカミュの面倒をみてくれた人だから、その呼び出しならばカミュはいつでも最優先で応じる。
 それをわかっていながら電話をしてきたということは、余程重大な用件なのだろう。
 「いえ、お気遣いなく。それより何か?」
 「今君が抱えている案件、急ですまないが明日の会議にかけたくてね。二、三確認しておきたいことがある」
 「わかりました」
 表情を引き締めるカミュに、ついでサガは小さく笑った。
 「それと、あとで自分の机を片付けてくること」
 「……え?」
 「バレンタインの頂き物が満載だ。今日中に持ち帰らないと、明日は女性陣の不穏な視線が突き刺さることになるよ」
 「……はあ」
 カミュは苦笑いを浮かべた。
 サガが確認事項を電話ですませずわざわざカミュを呼び戻した理由は、どちらかというと後者の方にあるのだろう。
 人間関係が円滑にいくよう仕事以外の面でも何くれとなく気を配ってくれるサガには、決して社交的とはいえないカミュは随分助けられている。
 そのうち何か礼をしなくてはならない。
 そう思ったとき、ふと手にした荷物に目が向いた。
 表情を輝かせたカミュは、つとサガを見上げた。
 「サガ、よかったらケーキ食べませんか」
 「どうしたんだい、急に」
 唐突な誘いを訝るサガに、カミュはケーキの箱を掲げてみせた。
 「最近通ってる喫茶店で、さっきもらったんです、二つ……」
 サガがからかうように瞳を揺らめかせたのを見て取ったカミュは、慌てて付け加えた。
 「あ、喫茶店に行くのは仕事を終えてからですから!」
 「いや、それは別に構わないが……。果たしてそれは私がもらってもいいものなのかな」
 その意図するところをわかりかねたカミュが瞳を瞬かせていると、サガはくすりと笑って立ち上がった。
 「まあ、いい。では、ありがたく頂こう。コーヒーを淹れてくるよ」
 「それなら私が……」
 「いや、君は机を片付けてきなさい」
 言うなり、サガは会議室を後にする。
 カミュは慌ててその背を追いかけた。


 「……とにかく、ここの店主が淹れてくれるコーヒーはとても美味しいんですよ」
 何とか言葉を尽くしてその絶妙な味を伝えようと奮闘するカミュに、サガは嘆かわしいとでも言いたげに大げさに眉を顰めてみせた。
 「やれやれ、君の愛社精神はどこへいってしまったのかな。自社のコーヒーを飲みながら他店を褒めるとはね」
 カミュは慌てて手にしたカップを卓上に戻した。
 白磁のカップに施された意匠は、全国に大々的に店舗を展開しているカフェ『サンクチュアリ』のロゴだ。
 「いえ、そういう訳では……。あ、うちのも美味しいです、もちろん」
 「無理しなくていい。そういうこだわりのあるバリスタの淹れるコーヒーなら、私も飲んでみたいと思うよ」
 楽しげに微笑むサガの穏やかな口ぶりに、ようやくからかわれているのだと悟ったカミュはほっと息をついた。
 だが、続くサガの言葉に再び表情が強張る。
 「……だが、近くに私たちが支店を出すとなると、そういった小規模店ではある程度の減収は必至だろうな」
 「……そう、ですね」
 カミュは俯いた。
 自分たちが属するのは、その豊富なメニューと比較的安価な価格設定、加えて洗練された店の雰囲気などもあいまって、一時飲食業界に旋風を巻き起こしたとさえ言われたカフェチェーンだ。
 実際、カフェの開店により、客を根こそぎ奪われて閉店を余儀なくされた喫茶店も少なくはない。
 新店舗の設立準備事業に携わるカミュは、そんな店を何軒もみてきた。
 無論、同業者との生存レースの勝敗は客が決することである。
 幾つもの店舗の立ち上げに尽力するうち、敗れ去った喫茶店が掲げる閉店の看板をみても罪悪感を抱くこともなくなってきたのだが、今回ばかりは少し違った。
 もしも、このままカミュたちが、あの居心地のいい喫茶店の近くに新店舗を開店させたら。
 もしも、そのせいで、あの喫茶店から客足が途絶えたら。
 あの金髪の店主の淹れるコーヒーを二度と飲めなくなってしまうかもしれない。
 常連客にひどく愛されている店のようだったからそんな心配など無用なのかもしれないが、それでも万が一にでもそんな結末を迎えたら定めし自分は後悔するだろう。
 そう、カミュは思ってしまうのだ。
 どうやらあの店で味わうコーヒーを自分は思っていた以上に気に入っているらしいが、かといって、あの近隣地域に新規出店候補地の条件として欠けるところがないことは否めない。
 出店決定が下るのは時間の問題だろう。
 あとは、自分が恐れるほどには彼の店に影響が及ばないことを祈るしかないのだろうか。
 そんなカミュの内心の迷いを打ち砕こうとでもするように、サガは静かに口を開いた。
 「まあ、君は仕事に私情を交えるようなことはないだろうからね。だからどうということもないと思うが」
 「……」
 「カミュ?」
 「……あ、はい、ご心配なく」
 カミュは小さく頷くと、カップに口をつけた。
 先ほどから自分に注がれる少し気遣わしげなサガの視線になど、全く気付かない振りをすることにして一口飲み込む。
 あの喫茶店に通いだしてから妙に舌が肥えてしまったのか、すっかり飲みなれたはずのコーヒーなのに、どこか味気ないような感じがして仕方がなかった。

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