無憂宮
 「……最近、どうだ?」
 ひどくぶっきら棒な呼びかけだが、それが彼の口から発せられると何故だか優しく聞こえる。
 もっとも、もしもそんなことを本人に言ったなら、シュラは心底嫌そうな表情を浮かべるのだろう。
 だから、ミロはただ黙ってコーヒーを差し出した。
 そのコーヒーよりも濃い色の瞳だけで礼を言うと、シュラはカップに口をつける。
 満足げに一口飲む姿を見届け、ミロは晴れやかな笑顔で答えた。
 「まあ、何とかやってるって感じかな」
 「そうか」
 シュラはわずかに眉を寄せた。
 「なんで? そんなに心配?」
 「そうだな」
 当然だろう。
 豆の販売専門の店から喫茶店に改装したとき、改装資金の融資を担当したのはシュラだ。
 彼の口添えがなければ、こんなちっぽけな店に融資の許可など到底下りなかっただろう。
 仕事上の利害が絡んでくるのだから他の客とは少々心配の意味合いが違っているのかもしれないが、それでも友人としてミロを案じてくれていることに変わりはない。
 密かに感謝の思いを新たにするミロに、シュラはちらりと一瞥を与えた。
 「そんなものに頼らなきゃならんほど経営難なのか?」
 「そんなものって……」
 シュラの視線を辿り後ろを振り返ったミロは、ようようその言葉の意味を知った。
 彼が見ているのはミロではなく、背後の棚に鎮座する一抱えもある物体だ。
 「ああ、この招き猫? いや、そういう訳じゃないけど、どうしても来て欲しいお客さんがいてさ」
 シャカが自慢するだけあって、その招き猫の効果はあったのだろう。
 この猫を置いて以来何度か訪れてくれるようになった紅毛の客の姿を思い浮かべると、ミロの頬はつい緩む。
 アフロディーテなどを前にしたときならば、からかわれること必至だったから表情を引き締めようと心がけているのだが、詮索嫌いのシュラならばその必要もなかった。
 ただ、プライバシーを尊重してくれるのは有難いが、ここまで無関心を貫かれると妙なことに逆に話を聞いてもらいたくなる。
 幸い、あの客と食事の約束を取り付けたことはまだ誰にも言っていない。
 この踊りだしたくなるような喜びを共に分かち合ってもらう相手としては、シュラはうってつけと思われた。
 だが、奇妙な逆転現象の衝動に駆られたミロよりも先に声を発したのはシュラだった。
 「最近、この辺に『サンクチュアリ』が進出してくるらしくてな。俺が、というより上の連中が少し危ぶんでる」
 「『サンクチュアリ』って、あの……?」
 途端に現実に引き戻されたミロは、その名から想起される独特の洒落たロゴを脳裏に描いた。
 コーヒー通のミロでなくても誰もが知っている、近年驚異的なスピードで全国に支店を展開しているショップのものだ。
 迂闊にも競合の可能性になど思い至らなかったミロは、そのうち一度コーヒーを飲みに行ってみようなどと暢気に楽しみにしていたのだが、近隣に新たに店舗ができるとなると、それは脅威に他ならない。
 「確かだぞ。俺らはそういう情報は早い」
 ミロの内心を見透かしたようにシュラはうそぶいた。
 「おまえのとこは小口だから一度返済が滞ったくらいで即執行ってこともないだろうが、気をつけるに越したことはない」
 俺の顔をつぶすなよ、と、ぼそりと言い捨てたシュラは再びコーヒーに視線を落とす。
 「努力しまーす」
 軽口めかしてはみたものの、ミロは知らず表情が強張っていくのを感じていた。
 散々渋られた挙句銀行側から出された融資条件は、この店舗兼住宅を担保に供することだった。
 減収により返済不能ともなれば、ミロは店はもちろん住む家もなくすことになる。
 シュラが真に案じているのは自らの仕事上の評価などではないことくらい、容易に知れた。
 たしかに、そんな大規模店が近くに開店したら、通りすがりのただ喉を潤せさえすればいいという客は、ミロの店よりそちらを選ぶはずだった。
 サイフォンで一杯ずつじっくり淹れているミロの店に比べたら、あちらはすぐにそれなりの味のコーヒーを提供できるし、一杯当たりの単価も格段に安い。
 客のいくらかはそちらに流れることは覚悟しておかねばなるまい。
 シュラがもたらしたのは、小さな喫茶店にとってはあまり歓迎されざる情報だった。
 とはいえ、ミロにできるのは、ただ来てくれる客に心を込めて美味しいコーヒーを淹れることだけであることに変わりはない。
 結局、なるようにしかならないのだろう。
 ただ、少なくとも、彼がこの店に来るようになってからでよかった。
 ミロはまだ名も知らぬ紅毛の客の姿を思い起こし、密かに安堵していた。
 初めて来店したときの、あのせかせかと仕事をこなそうとしていたあの姿を思い出すと、彼が仮の仕事場として選ぶのは恐らくサンクチュアリの方だ。
 もしもそうなれば、必然的にミロは彼と出会うこともなかったはずだ。
 それだけは非常についていたのだと、そう思ってもよいだろう。
 そんなささやかな幸運に、ミロはひどく感謝したい気分だった。


 朝からそわそわと落ち着かない店主を、事情を知らない常連客たちは皆不審顔で眺めていた。
 その不躾な視線に気付かないミロではなかったが、あえて素知らぬ振りをし続けたのには訳がある。
 閉店後、あの紅毛の客と食事に行く。
 そんなことを好奇心の強い彼らに知られでもしたら、少なくとも三日間は質問攻めに遭い仕事にならなくなることくらい、火をみるより明らかだった。
 そうして頻繁に時計を見てはその針の動きの遅さに落胆して過ごした一日も、ようやく終わりに近づいたようだ。
 窓外が暗くなるにつれて高まる緊張は、あと三十分程で閉店という段になって頂点を極めた。
 待ち合わせ場所は、この店だ。
 程なく彼はやってくるだろう。
 ミロは一つ深呼吸をした。
 何故だかミロはあの客の連絡先も名前も聞きそびれてしまっていた。
 今まではずっと「お客さん」という都合のよい呼称があったのだが、それはこの店を離れても使えるのかと思うと、やはり不自然な気がしてならない。
 二人で一緒に食事の席につきながら、相手の名も知らないとはおかしな話だ。
 となれば、今夜は是非とも彼の名を教えてもらわねばなるまいが、果たして何と言って切り出すべきか。
 ミロは客が途絶えたことをいいことにカウンターの奥で独り思案を重ねた。
 何処へ行こうか何を話そうかといろいろ頭を悩ませる様は、まるで初デートを控えた初心な少年だ。
 いい大人が、と思うと、我ながら呆れ笑いが込み上げてくるが、久々に味わうこの胸を焦がす独特の緊張感がひどく愛しい。
 扉が開いたことに気がつくのが少し遅れたのは、こうして自分の内の甘酸っぱい感情と向き合っていたせいだった。
 「   少し早かっただろうか」
 突如かけられた声にミロは驚いて顔を上げた。
 今の今まで胸の内に思い描いていた人が、目の前に立っていた。
 「いや、そんなことない、いらっしゃい。……ってのも、変だな。これから出かけるのに」
 動揺を隠そうと必要以上に饒舌になったが、客はその不自然さにも気付かないようでやんわりと微笑を返してくれた。
 少し見慣れてきたとはいえ、やはりミロの瞳を奪うに充分な魅力的な微笑みだ。
 「じゃ、行こうか」
 釘付けになる視線を無理矢理引き離し笑ってみせるミロに、しかし、客はわずかに眉を顰め首を振った。
 「まだ閉店時間前だろう」
 「いいよ。ここ、俺の店だし、それくらいの融通は利く」
 だが、意外なことに客は頑として譲らなかった。
 「駄目だ。まだマスターのコーヒーを飲みたい客が来るかもしれない」
 ……へえ。
 ミロは相手に気付かれない程度に目を見張った。
 規定の営業時間に拘るとは、結構生真面目なんだ。
 まだほとんど白紙に近い相手の情報が、一つ増えた。
 ただそれだけのことがとても嬉しくて、ミロはにこりと笑った。
 「わかった。じゃ、まず、あなたに一杯淹れるよ」
 「あ……」
 自分の言葉を誤解されたと思ったのか、客は慌てたように顔に朱を散らした。
 「別に、私がコーヒーを飲みたいからというつもりでは……」
 「わかってるって。俺が飲んでもらいたいだけだから、気にしないで」
 自分にできる一番愛想のいい笑顔を浮かべてそう言うと、客は少し躊躇いながらも照れたように頷いた。
 これからしばらく、ミロは彼を独占することになる。
 夢の時間の、始まりだった。

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