時計の針が十二時を回った。
これがおとぎ話ならば、魔法が解け味気ない現実へと戻るはずの時間だ。
だが、この魔法をかけた魔導師はよほどの術者だったのか、夢のような光景は消え去ることもなく変わらずミロの前にある。
もちろん潜在的に抱いていた望みであったことは事実なのだから、これ以上ないという形で夢が叶ったことは嬉しい。
だが、いざ実際にこの状況に陥ると、どうしてよいのか皆目わからず途方に暮れてしまうと言う他はなかった。
ミロは小さく溜息をついた。
その視線の先では、紅毛の客がすやすやと心地よい寝息を立てミロのベッドを占拠していた。
一緒に食事をしようと、ミロが彼と連れ立って外出したのは昨夜のことだ。
店の外で彼と会うのは初めてのことで、いつもは饒舌なミロも、最初は緊張で上手く舌が回らなかった。
勝手が違い戸惑うのは客も同様だったようで、「ああ」とか「いや」とか短い応えの言葉を返す他は押し黙ってしまう。
元々多弁とは程遠いこの客のことだ。
ミロがリードしなければ、こうして会話がぎこちなく途絶えがちになることも、ある程度の予想はしていた。
だから、ミロは二人で過ごす時間を少しでも楽しい時間にしたくて頭を砕いた。
その結果、はやく打ち解けられるような場所として思いついたのは、以前アフロディーテに連れて来てもらったことがある小洒落た店だった。
間接照明を中心とした店内は明るすぎず、隣客との適度な距離も確保され、何より手頃な値段で美味い料理にありつける。
そこで潤滑油代わりのアルコールを飲みながら、とりあえず自分の得意分野のコーヒーの話を繰り広げ緊張を解きほぐそうとしたミロの思惑は当たったようだ。
次第次第に客もミロのペースに巻きまれたか、ぽつりぽつりと話に乗ってくるようになった。
好き嫌いの評価は分かれたものの昔同じ喫茶店に通っていたことがあるという共通点を発見できたときには、ミロは密かにテーブルの下で拳を握り締めていた。
それを糸口にして、相手の情報をもっと引き出せると思ったのだ。
だが、しばらく会話を続けるうちに、それはぬか喜びだったことに気付かされた。
どういうわけだか、客は話題が自分のことに及びそうになると殊更に話の流れを逸らそうとするのだ。
そればかりか、ふと会話が途切れ沈黙が訪れると、彼は何かを言い出しかけては思い直したように口を噤んでしまう。
その思いつめたような瞳をみていると、相手の名を聞き出そうとすることすら憚られた。
そんなどこか謎めいた会食ではあったが、少なくとも自分のことを彼にもっとよく知ってもらうという目的は果たせたはずだ。
微笑を浮かべ興味深げに耳を傾けてくれた客の様子からも、ミロはもちろん彼にとっても楽しい時間であったことは窺えた。
食事もあらかた食べ終わる頃には客の声にも随分と親しみが込められているように聞こえたが、それもおそらく気のせいではないだろう。
さて、問題は、これからどうするか、だ。
手洗いに立ったミロは、鏡に映った自分に向かって問いかけた。
もう一軒誘ってもよいものか、まだ初回ということでここでお開きにするべきか。
しばらく冷たい流水に手を晒しながら、駄目元で誘ってみようと決意を固めて店内に戻ったミロは、しかし、その選択肢のどちらも選べないという事実に直面することになる。
つい先ほどまで平然とグラスを傾けていた紅毛の客は、ぐたりとテーブルに突っ伏していたのだ。
驚いて近寄ってみると、どうやら彼は酔いつぶれてしまったらしく、小憎らしいほどに気持ちよさげな寝顔をみせて熟睡していた。
恐らくは、ミロが席を外したことで一気に気が緩んだのだろう。
思い返してみれば、確かに彼の酒盃が空くペースは速かった。
酒が強いのかと思い一向に気にしていなかったことを今更悔やんでも始まらず、結局、ミロは正体をなくした客を連れ再び自分の店に戻ってきたのだった。
とりあえず、と、ミロは胸の内に呟いた。
とりあえず、彼が目を覚ますまで、ここにこうして寝かせておいてやろう。
幸い、彼は明日は休みだと言っていた。
たとえ二日酔で苦しんだとしても、ただの笑い話で終わらせることができるだろう。
しかし、そう何でもないことのように懸命に自分に言い聞かせるミロの努力を裏切るように、胸の鼓動は早鐘を打ち続け、視線は眠る彼にぴたりと据えられたまま少しも離れようとはしなかった。
無防備に閉ざされた瞼も、ほのかに朱に染まる頬も、今まで見たことがない艶めかしさを彼に添えている。
据え膳、などという不埒な言葉が頭を過ぎり、ミロは慌てて首を振った。
そんな醜い葛藤をミロに与えていることなどつゆ知らず、客はいっかな起きる気配がない。
ミロは小さく息を吐いた。
とりあえず、上着を脱がせてネクタイは解いてやろう。
あくまで眠りやすいように楽にさせてやるだけだ、と、うるさいほどに自己弁護を繰り返しつつ、ミロはそっと客の上体を起こした。
睡眠中の人間の身体は意志がない分扱いにくい。
それでも相手を起こすことなく何とか目的を果たしたミロは、再び酔客を横たえた。
わずかに綻んだその口元から、酒気を孕んだ甘い吐息がこぼれ、ミロの鼻先を誘うようにかすめた。
こくりと喉を鳴らしたミロは、首元までしっかりと留められた客のシャツにそろそろと手をかけた。
震える指がもどかしげに二つほどボタンを外すと、白い首筋が露になる。
同時に、その抜けるような肌の白さが、ミロの理性を鋭く呼び覚ました。
「……何やってんだ、俺」
我に返ったミロは自己嫌悪に呪詛の念を吐きつつ、先ほど脱ぎ落とさせた上着を手に取った。
居たたまれない気分を誤魔化すように、染み付いた酒の匂いを振り落とそうとぱたぱたと上着を振ってみる。
と、何かが床に落ちる小さな音がした。
みると、財布だ。
「あ、やべ」
慌てて拾い上げたが、一体どこに入っていたものかわからない以上、下手に適当なポケットにしまうよりも明日理由を話して素直に謝る方がいいだろう。
そう考えて財布を枕頭に置いてやったミロは、だが、しばらくして再び財布に手を伸ばした。
財布ならば、カードなり何なりが入っているはずだった。
名を知る絶好の機会だと思うと、どうしても誘惑に勝てなかったのだ。
内心で客に謝りつつ、札入れの方にはできるだけ目を向けないようにして、カードを一枚引っ張り出す。
何かの身分証なのか、正面を向いた仏頂面の顔写真の横にシンプルな字体で名が記されていた。
「……カミュ」
さっと視線を走らせて読み取った名を、ミロはそっと舌に乗せてみた。
そのまろやかな響きが気に入った。
彼に似合う、よい名だ。
相変わらずぐっすりと眠り続ける客の顔をみながら、もう一度愛しげにその名を呟く。
やっと彼の名前を知った。
その経緯は少々後ろめたいとはいえ、やはり単純に嬉しい。
微笑んだミロはカードを元通りにしまおうとした。
が、次の瞬間、凍りついたようにその動きが止まる。
たまたま引き抜いたカードはジョーカーだったのか。
よく見ると、それは彼の社員証だった。
サンクチュアリという今のミロにとっては最も忌むべき社名の横に、あの見慣れたロゴが威圧的なまでの存在感を放っていた。
ブラインドを上げるや差し込んできた朝の光に、ミロは眩しげに目を細めた。
いい天気だ。
今朝のコーヒーはいつもより心持ち苦めにしようと、ブレンドの配合率を少し変えてみた。
手挽きのミルでゆっくりと豆を挽くと、立ちのぼる香りが鼻腔をくすぐる。
この朝の儀式にもにた作業は、ミロが自分に許したささやかな贅沢だった。
やがて常より多い量の豆を時間をかけて挽き終わる頃、その香りに釣られたように階段を降りてくる小さな足音がした。
ミロは顔を上げた。
奥の住居に通じる扉が開き、昨夜の酔客がおずおずと顔を覗かせる。
「おはよう」
「……おはよう」
爽やかな朝に相応しい笑顔で呼びかけると、自分の置かれた状況を把握できないのか、寝乱れた真紅の髪を手櫛で撫で付けながら客はぼんやりと挨拶を返してきた。
「今コーヒー淹れるから。そこ座って」
いつもの指定席ではなくカウンター席を指差すと、彼は子供のようにこくりと頷き素直に従った。
まだよく頭が働いていないのだろう。
普段は澄ました顔しかみせない彼も朝には弱いらしいと思うと、つい微笑を誘われる。
だが、その微笑みを醜態を晒した自分に呆れたあまりのものと誤解したのか、やがて客は恐縮したように呟いた。
「……ひょっとして、迷惑をかけたのだろうか」
「いや、そんなことないよ。別に暴れられたりとかなかったし」
手際よく淹れたコーヒーをカウンター越しに差し出しながら、ミロは笑った。
「よく眠れた?」
「ああ、久しぶりに」
「そう、よかった」
しばらく無言で俯いていたカミュは、やがて深々と頭を下げた。
「……すまない」
「何が?」
「記憶が曖昧なのだが、私は酔って眠ってしまったのだろう? 馬鹿なことをした」
「いいんじゃない、たまには。それより、朝食食べるだろ」
それで昨晩の彼の失態についての話題を打ち切ろうとしたミロの意図を察したのだろう。
面目なさげに微笑んで頷く彼に、ミロはにこりと笑うと手にした卵をみせた。
「カミュ、卵どうする?」
「あ、じゃ、スクランブルで……」
言いかけた客はふと口を噤み、ついで脅えたような瞳でミロをみた。
「……何故、私の名を知っている……」
ミロの手の中で卵がぐしゃりとつぶれた。
迂闊だった。
こんな簡単に脆く壊れてしまうものとわかっていながら、何故もっと注意を払えなかったのだろう。
粗忽な自分に腹が立ったが、悔いたところで致し方ない。
崩れた卵が指にまとわりつく感触を不快に思いつつ、ミロは深く一つ息を吸うと改めてカミュに向き直った。
「ごめん。昨日、たまたまあなたの財布が落ちて、それでつい中に入ってたカードを見ちゃって……」
誤魔化しなど一切せず、正直に謝るべき場面だと思った。
うなだれるミロに、カミュは非が自分にあるとでも思っているのか申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「……私について知ったのは、名前だけか」
「……あと、会社と」
沈黙が降りた。
その一言が有する意味を、ミロもまた充分に理解していると悟ったのだろう。
突如重量を増したような陰鬱な空気を破ったのは、カミュだった。
「……ずっと、言わなければいけないと思っていたのだ」
カミュがこの地域を訪問するようになった目的は、決してミロの喜ぶようなものではない。
当初は言う必要もないことだと気にも留めていなかったが、次第次第に自責の念がカミュを苛むようになった。
いつ訪れてもミロは嬉しそうに自分の訪問を迎え、極上のコーヒーでもてなしてくれる。
そのミロに隠し事をしていることが、徐々に辛くなってきた。
「私はあなたの好意に値するような客ではないと、言わなくてはと。だが……」
言えなかった。
この居心地のよい店の客という立場を失うのが怖かった。
じっと俯きミロと視線を合わせないまま、カミュはぽつりぽつりと懺悔のように述懐する。
ミロは何と言ってよいのか解らず、その沈痛な告白をただ黙って受け止めるだけだった。
胸に抱え続けた懊悩を一頻り語ったカミュは、罵倒なり怒声なりのミロの反応を待っていたのか、しばらく無言で立ち尽くしていた。
しかし、言葉をなくしたミロからはいくら待てども何の言葉も返ってこないと諦めたのか、やがてカミュはふらりと店の奥へ足を向けた。
程なくして再び彼が戻ってきたときには、その手には上着など一切の私物が抱えられていた。
「……すまなかった」
そう一言言い置いて、カミュは静かに店を後にする。
心なしか物寂しく聞こえるドアベルの響きに、ミロはようやく顔を上げた。
カウンターの上に残されたコーヒーが目に入る。
折角淹れたのだが、もうすっかり冷めてしまい飲む気も起こらない。
彼がコーヒーを飲まずに去るのは初めてだな、などと、ミロはぼんやりと思った。
これがおとぎ話ならば、魔法が解け味気ない現実へと戻るはずの時間だ。
だが、この魔法をかけた魔導師はよほどの術者だったのか、夢のような光景は消え去ることもなく変わらずミロの前にある。
もちろん潜在的に抱いていた望みであったことは事実なのだから、これ以上ないという形で夢が叶ったことは嬉しい。
だが、いざ実際にこの状況に陥ると、どうしてよいのか皆目わからず途方に暮れてしまうと言う他はなかった。
ミロは小さく溜息をついた。
その視線の先では、紅毛の客がすやすやと心地よい寝息を立てミロのベッドを占拠していた。
一緒に食事をしようと、ミロが彼と連れ立って外出したのは昨夜のことだ。
店の外で彼と会うのは初めてのことで、いつもは饒舌なミロも、最初は緊張で上手く舌が回らなかった。
勝手が違い戸惑うのは客も同様だったようで、「ああ」とか「いや」とか短い応えの言葉を返す他は押し黙ってしまう。
元々多弁とは程遠いこの客のことだ。
ミロがリードしなければ、こうして会話がぎこちなく途絶えがちになることも、ある程度の予想はしていた。
だから、ミロは二人で過ごす時間を少しでも楽しい時間にしたくて頭を砕いた。
その結果、はやく打ち解けられるような場所として思いついたのは、以前アフロディーテに連れて来てもらったことがある小洒落た店だった。
間接照明を中心とした店内は明るすぎず、隣客との適度な距離も確保され、何より手頃な値段で美味い料理にありつける。
そこで潤滑油代わりのアルコールを飲みながら、とりあえず自分の得意分野のコーヒーの話を繰り広げ緊張を解きほぐそうとしたミロの思惑は当たったようだ。
次第次第に客もミロのペースに巻きまれたか、ぽつりぽつりと話に乗ってくるようになった。
好き嫌いの評価は分かれたものの昔同じ喫茶店に通っていたことがあるという共通点を発見できたときには、ミロは密かにテーブルの下で拳を握り締めていた。
それを糸口にして、相手の情報をもっと引き出せると思ったのだ。
だが、しばらく会話を続けるうちに、それはぬか喜びだったことに気付かされた。
どういうわけだか、客は話題が自分のことに及びそうになると殊更に話の流れを逸らそうとするのだ。
そればかりか、ふと会話が途切れ沈黙が訪れると、彼は何かを言い出しかけては思い直したように口を噤んでしまう。
その思いつめたような瞳をみていると、相手の名を聞き出そうとすることすら憚られた。
そんなどこか謎めいた会食ではあったが、少なくとも自分のことを彼にもっとよく知ってもらうという目的は果たせたはずだ。
微笑を浮かべ興味深げに耳を傾けてくれた客の様子からも、ミロはもちろん彼にとっても楽しい時間であったことは窺えた。
食事もあらかた食べ終わる頃には客の声にも随分と親しみが込められているように聞こえたが、それもおそらく気のせいではないだろう。
さて、問題は、これからどうするか、だ。
手洗いに立ったミロは、鏡に映った自分に向かって問いかけた。
もう一軒誘ってもよいものか、まだ初回ということでここでお開きにするべきか。
しばらく冷たい流水に手を晒しながら、駄目元で誘ってみようと決意を固めて店内に戻ったミロは、しかし、その選択肢のどちらも選べないという事実に直面することになる。
つい先ほどまで平然とグラスを傾けていた紅毛の客は、ぐたりとテーブルに突っ伏していたのだ。
驚いて近寄ってみると、どうやら彼は酔いつぶれてしまったらしく、小憎らしいほどに気持ちよさげな寝顔をみせて熟睡していた。
恐らくは、ミロが席を外したことで一気に気が緩んだのだろう。
思い返してみれば、確かに彼の酒盃が空くペースは速かった。
酒が強いのかと思い一向に気にしていなかったことを今更悔やんでも始まらず、結局、ミロは正体をなくした客を連れ再び自分の店に戻ってきたのだった。
とりあえず、と、ミロは胸の内に呟いた。
とりあえず、彼が目を覚ますまで、ここにこうして寝かせておいてやろう。
幸い、彼は明日は休みだと言っていた。
たとえ二日酔で苦しんだとしても、ただの笑い話で終わらせることができるだろう。
しかし、そう何でもないことのように懸命に自分に言い聞かせるミロの努力を裏切るように、胸の鼓動は早鐘を打ち続け、視線は眠る彼にぴたりと据えられたまま少しも離れようとはしなかった。
無防備に閉ざされた瞼も、ほのかに朱に染まる頬も、今まで見たことがない艶めかしさを彼に添えている。
据え膳、などという不埒な言葉が頭を過ぎり、ミロは慌てて首を振った。
そんな醜い葛藤をミロに与えていることなどつゆ知らず、客はいっかな起きる気配がない。
ミロは小さく息を吐いた。
とりあえず、上着を脱がせてネクタイは解いてやろう。
あくまで眠りやすいように楽にさせてやるだけだ、と、うるさいほどに自己弁護を繰り返しつつ、ミロはそっと客の上体を起こした。
睡眠中の人間の身体は意志がない分扱いにくい。
それでも相手を起こすことなく何とか目的を果たしたミロは、再び酔客を横たえた。
わずかに綻んだその口元から、酒気を孕んだ甘い吐息がこぼれ、ミロの鼻先を誘うようにかすめた。
こくりと喉を鳴らしたミロは、首元までしっかりと留められた客のシャツにそろそろと手をかけた。
震える指がもどかしげに二つほどボタンを外すと、白い首筋が露になる。
同時に、その抜けるような肌の白さが、ミロの理性を鋭く呼び覚ました。
「……何やってんだ、俺」
我に返ったミロは自己嫌悪に呪詛の念を吐きつつ、先ほど脱ぎ落とさせた上着を手に取った。
居たたまれない気分を誤魔化すように、染み付いた酒の匂いを振り落とそうとぱたぱたと上着を振ってみる。
と、何かが床に落ちる小さな音がした。
みると、財布だ。
「あ、やべ」
慌てて拾い上げたが、一体どこに入っていたものかわからない以上、下手に適当なポケットにしまうよりも明日理由を話して素直に謝る方がいいだろう。
そう考えて財布を枕頭に置いてやったミロは、だが、しばらくして再び財布に手を伸ばした。
財布ならば、カードなり何なりが入っているはずだった。
名を知る絶好の機会だと思うと、どうしても誘惑に勝てなかったのだ。
内心で客に謝りつつ、札入れの方にはできるだけ目を向けないようにして、カードを一枚引っ張り出す。
何かの身分証なのか、正面を向いた仏頂面の顔写真の横にシンプルな字体で名が記されていた。
「……カミュ」
さっと視線を走らせて読み取った名を、ミロはそっと舌に乗せてみた。
そのまろやかな響きが気に入った。
彼に似合う、よい名だ。
相変わらずぐっすりと眠り続ける客の顔をみながら、もう一度愛しげにその名を呟く。
やっと彼の名前を知った。
その経緯は少々後ろめたいとはいえ、やはり単純に嬉しい。
微笑んだミロはカードを元通りにしまおうとした。
が、次の瞬間、凍りついたようにその動きが止まる。
たまたま引き抜いたカードはジョーカーだったのか。
よく見ると、それは彼の社員証だった。
サンクチュアリという今のミロにとっては最も忌むべき社名の横に、あの見慣れたロゴが威圧的なまでの存在感を放っていた。
ブラインドを上げるや差し込んできた朝の光に、ミロは眩しげに目を細めた。
いい天気だ。
今朝のコーヒーはいつもより心持ち苦めにしようと、ブレンドの配合率を少し変えてみた。
手挽きのミルでゆっくりと豆を挽くと、立ちのぼる香りが鼻腔をくすぐる。
この朝の儀式にもにた作業は、ミロが自分に許したささやかな贅沢だった。
やがて常より多い量の豆を時間をかけて挽き終わる頃、その香りに釣られたように階段を降りてくる小さな足音がした。
ミロは顔を上げた。
奥の住居に通じる扉が開き、昨夜の酔客がおずおずと顔を覗かせる。
「おはよう」
「……おはよう」
爽やかな朝に相応しい笑顔で呼びかけると、自分の置かれた状況を把握できないのか、寝乱れた真紅の髪を手櫛で撫で付けながら客はぼんやりと挨拶を返してきた。
「今コーヒー淹れるから。そこ座って」
いつもの指定席ではなくカウンター席を指差すと、彼は子供のようにこくりと頷き素直に従った。
まだよく頭が働いていないのだろう。
普段は澄ました顔しかみせない彼も朝には弱いらしいと思うと、つい微笑を誘われる。
だが、その微笑みを醜態を晒した自分に呆れたあまりのものと誤解したのか、やがて客は恐縮したように呟いた。
「……ひょっとして、迷惑をかけたのだろうか」
「いや、そんなことないよ。別に暴れられたりとかなかったし」
手際よく淹れたコーヒーをカウンター越しに差し出しながら、ミロは笑った。
「よく眠れた?」
「ああ、久しぶりに」
「そう、よかった」
しばらく無言で俯いていたカミュは、やがて深々と頭を下げた。
「……すまない」
「何が?」
「記憶が曖昧なのだが、私は酔って眠ってしまったのだろう? 馬鹿なことをした」
「いいんじゃない、たまには。それより、朝食食べるだろ」
それで昨晩の彼の失態についての話題を打ち切ろうとしたミロの意図を察したのだろう。
面目なさげに微笑んで頷く彼に、ミロはにこりと笑うと手にした卵をみせた。
「カミュ、卵どうする?」
「あ、じゃ、スクランブルで……」
言いかけた客はふと口を噤み、ついで脅えたような瞳でミロをみた。
「……何故、私の名を知っている……」
ミロの手の中で卵がぐしゃりとつぶれた。
迂闊だった。
こんな簡単に脆く壊れてしまうものとわかっていながら、何故もっと注意を払えなかったのだろう。
粗忽な自分に腹が立ったが、悔いたところで致し方ない。
崩れた卵が指にまとわりつく感触を不快に思いつつ、ミロは深く一つ息を吸うと改めてカミュに向き直った。
「ごめん。昨日、たまたまあなたの財布が落ちて、それでつい中に入ってたカードを見ちゃって……」
誤魔化しなど一切せず、正直に謝るべき場面だと思った。
うなだれるミロに、カミュは非が自分にあるとでも思っているのか申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「……私について知ったのは、名前だけか」
「……あと、会社と」
沈黙が降りた。
その一言が有する意味を、ミロもまた充分に理解していると悟ったのだろう。
突如重量を増したような陰鬱な空気を破ったのは、カミュだった。
「……ずっと、言わなければいけないと思っていたのだ」
カミュがこの地域を訪問するようになった目的は、決してミロの喜ぶようなものではない。
当初は言う必要もないことだと気にも留めていなかったが、次第次第に自責の念がカミュを苛むようになった。
いつ訪れてもミロは嬉しそうに自分の訪問を迎え、極上のコーヒーでもてなしてくれる。
そのミロに隠し事をしていることが、徐々に辛くなってきた。
「私はあなたの好意に値するような客ではないと、言わなくてはと。だが……」
言えなかった。
この居心地のよい店の客という立場を失うのが怖かった。
じっと俯きミロと視線を合わせないまま、カミュはぽつりぽつりと懺悔のように述懐する。
ミロは何と言ってよいのか解らず、その沈痛な告白をただ黙って受け止めるだけだった。
胸に抱え続けた懊悩を一頻り語ったカミュは、罵倒なり怒声なりのミロの反応を待っていたのか、しばらく無言で立ち尽くしていた。
しかし、言葉をなくしたミロからはいくら待てども何の言葉も返ってこないと諦めたのか、やがてカミュはふらりと店の奥へ足を向けた。
程なくして再び彼が戻ってきたときには、その手には上着など一切の私物が抱えられていた。
「……すまなかった」
そう一言言い置いて、カミュは静かに店を後にする。
心なしか物寂しく聞こえるドアベルの響きに、ミロはようやく顔を上げた。
カウンターの上に残されたコーヒーが目に入る。
折角淹れたのだが、もうすっかり冷めてしまい飲む気も起こらない。
彼がコーヒーを飲まずに去るのは初めてだな、などと、ミロはぼんやりと思った。