時の経過を消しゴムに例えるという使い古された表現は、やはり真理を突いているのだろう。
少なくとも人の記憶に関しては、この陳腐な比喩は言いえて妙だ。
あるときふらりと店に現れた紅毛の客は、やはり来たときと同様に突然姿を見せなくなった。
初めは訝しげにその消息を尋ねた客たちも、ミロに一切心当たりがないと知ると、すぐに他に興味を惹かれる話題を見つけそちらに移行する。
二月もしないうちに、あの紅毛の客の噂が人々の会話に上ることはなくなっていた。
もしかしたら、客たちは皆、片想いのまま失恋したと思われる店主に気を遣ってくれているのかもしれないが、いずれにせよミロにはありがたい変化だった。
皆、全てを忘れてしまえばいい。
あの艶やかな真紅の髪も、微笑みつつコーヒーを飲む幸せそうな横顔も、ついでにその彼に目を奪われたミロのことも、全て忘れてしまえばいい。
彼のことを覚えているのはミロだけでいいと、そう思っていた。
いや、正直なところ、ミロ自身も忘れてしまいたかったのだが、残念ながらミロの消しゴムは不良品なのか、彼の一挙手一投足は薄れることなく記憶に鮮明に刻み込まれたままでいる。
そうして、いつまでたっても思い出に昇華できない胸の痛みを抱えたまま、季節は巡った。
目新しいものに惹かれるのは人の性とはいえ、この盛況ぶりには圧倒される。
傍から見れば自分もその一人に含まれることなど棚に上げ、ミロは小さく息を吐いた。
今日は『サンクチュアリ』が開店する日だ。
かねてよりこの地区へ初進出と大々的に宣伝されていたこともあってか、それほど大きくない店舗は多くの人でごった返していた。
まあ、それでもあと数週間も経てば、この人の波もいくらか引くだろう。
コーヒーを飲むならまたその頃に来店すればいいと、ミロは店内に足を踏み入れることなく踵を返した。
ちらりと覗いたかぎりだが、あの目に鮮やかな真紅は見当たらなかったのだから、それでもう来店の目的の半分以上は果たしたようなものだった。
元々、可能性は低いと思っていた。
それでもここに足を運ばずにいられなかったのは、気まずい別れ方をしたカミュともう一度会いたかったからだ。
カミュのような仕事をする人間の事情はよくわからないが、開店当日くらいならもしかしたら姿を見せるかもしれない。
そう思ったのだが、残念ながら淡い期待は脆くも崩れ去ってしまった。
結局、ミロとカミュの間には、店の主人と客という、ただそれだけの偶然が繋ぐ関係しかなかったということか。
酷な事実を痛いほどに突きつけられ、とぼとぼと一ブロックほど帰りかけたミロは、込み上げる名残惜しさにもう一度だけ振り返った。
その瞳が、見開いた。
すぐに角の向こうに消えてしまったが、一瞬視界を紅い影が過ぎった気がしたのだ。
考えるより早くミロは走り出した。
連絡先すらわからない彼に繋がる糸端をようやくみつけた。
たとえ見間違いだったとしても、追いかけずにはいられなかった。
人の合間をすり抜けひた走ったミロは、向こうから来る通行人とぶつかりそうになりながら角を曲がった。
ちょうど信号が赤に変わるところだった。
人の波が一旦途切れ、通りを挟んだ向こう側では人々が駅へと吸い込まれていく。
その中に。
目指す色が、あった。
「カミュ !」
雑踏の中に紛れる紅髪の背中に向かいミロは叫んだ。
突然の大声に、人々が一斉に振り返る。
自分に注がれるその不審気な視線を気にも留めず、ミロはじっと前方に目を凝らした。
やはり、カミュだ。
かすかに周囲を見渡す素振りを見せたカミュは、だがミロに気付かなかったのか、すぐにまた前を見据えて歩き出す。
一旦駅構内に入られてしまうと、相手の行き先がわからない以上追いかけるのは難しい。
焦れたミロは念で色を染め変える勢いで、いつもより間が長く感じられさえする信号を睨みつけた。
その思いが通じたように程なく信号が変わると、ミロは短距離走者並みの瞬発力を発揮して駆け出した。
駅に着くや、ぐるりと周囲を見渡す。
どこへ行った?
大した距離を走った訳でもないのに、心臓がばくばくと音を立てていた。
そうしてどんな些細な手がかりも見過ごすまいと、行き交う人の波に必死に目を凝らしていたせいだろうか。
逆に近くへの注意が疎かになっていたらしく、背後から音もなく近寄る影に気付くのが遅れた。
「……公道で人の名を叫ぶのはやめてくれないか」
突如背中越しにかけられた小さな声に、ミロは勢いよく振り向いた。
「しかも、あんな大声で」
久々の再会の気まずさを隠すためか、わずかに俯いたままぶっきら棒に呟くカミュが、そこにいた。
「ごめん……」
まだ少し荒い呼吸を整えながら謝るミロに、カミュは意味もなく手にした鞄を持ち替えながら問うた。
「何か、私に用事でも?」
ミロは言葉に詰まった。
一帯に響き渡るような大音声でカミュを呼び止めた理由を聞かれたら、会いたいから、としか言えない。
しかし、それはさすがに自分でも説得力がないと思う。
「ああ、ええと……、あれだ、あれ」
懸命に思考を働かせ適当な言い訳を探したミロは、やがて自分でもすっかり忘れていた口実を思い出した。
「あの、さ……。あ、そうだ、まだおごってもらってないから」
きょとんと瞳を瞬かせたカミュに、ミロはにこりと笑ってみせた。
「あの夜、あなたがおごってくれるはずだったのに、結局俺が払ったんだよね」
自分から言い出したこととはいえ、その後の予想外の展開にカミュもまた忘れていたのだろう。
醜態をさらした記憶と共にその約束を思い出したのか、カミュはしまったとでも言うように表情を歪めた。
「……そうだったな。すまない、忘れていた」
「いや、別にいいんだけどさ」
自分で自分の言葉を否定するような破綻した発言だったが、カミュはよほど動揺しているらしく、その矛盾に気付いた風もなかった。
しばらく思案に暮れていたカミュは、やがて辻褄を合わせる妥当な解決策を思いついたのか、ちらりと時計に目を配った。
もうすぐ正午になるところだっだ。
「今から時間があるようだったら、昼食でもご馳走するが」
もちろん、ミロに異論などあるはずがなかった。
少なくとも人の記憶に関しては、この陳腐な比喩は言いえて妙だ。
あるときふらりと店に現れた紅毛の客は、やはり来たときと同様に突然姿を見せなくなった。
初めは訝しげにその消息を尋ねた客たちも、ミロに一切心当たりがないと知ると、すぐに他に興味を惹かれる話題を見つけそちらに移行する。
二月もしないうちに、あの紅毛の客の噂が人々の会話に上ることはなくなっていた。
もしかしたら、客たちは皆、片想いのまま失恋したと思われる店主に気を遣ってくれているのかもしれないが、いずれにせよミロにはありがたい変化だった。
皆、全てを忘れてしまえばいい。
あの艶やかな真紅の髪も、微笑みつつコーヒーを飲む幸せそうな横顔も、ついでにその彼に目を奪われたミロのことも、全て忘れてしまえばいい。
彼のことを覚えているのはミロだけでいいと、そう思っていた。
いや、正直なところ、ミロ自身も忘れてしまいたかったのだが、残念ながらミロの消しゴムは不良品なのか、彼の一挙手一投足は薄れることなく記憶に鮮明に刻み込まれたままでいる。
そうして、いつまでたっても思い出に昇華できない胸の痛みを抱えたまま、季節は巡った。
目新しいものに惹かれるのは人の性とはいえ、この盛況ぶりには圧倒される。
傍から見れば自分もその一人に含まれることなど棚に上げ、ミロは小さく息を吐いた。
今日は『サンクチュアリ』が開店する日だ。
かねてよりこの地区へ初進出と大々的に宣伝されていたこともあってか、それほど大きくない店舗は多くの人でごった返していた。
まあ、それでもあと数週間も経てば、この人の波もいくらか引くだろう。
コーヒーを飲むならまたその頃に来店すればいいと、ミロは店内に足を踏み入れることなく踵を返した。
ちらりと覗いたかぎりだが、あの目に鮮やかな真紅は見当たらなかったのだから、それでもう来店の目的の半分以上は果たしたようなものだった。
元々、可能性は低いと思っていた。
それでもここに足を運ばずにいられなかったのは、気まずい別れ方をしたカミュともう一度会いたかったからだ。
カミュのような仕事をする人間の事情はよくわからないが、開店当日くらいならもしかしたら姿を見せるかもしれない。
そう思ったのだが、残念ながら淡い期待は脆くも崩れ去ってしまった。
結局、ミロとカミュの間には、店の主人と客という、ただそれだけの偶然が繋ぐ関係しかなかったということか。
酷な事実を痛いほどに突きつけられ、とぼとぼと一ブロックほど帰りかけたミロは、込み上げる名残惜しさにもう一度だけ振り返った。
その瞳が、見開いた。
すぐに角の向こうに消えてしまったが、一瞬視界を紅い影が過ぎった気がしたのだ。
考えるより早くミロは走り出した。
連絡先すらわからない彼に繋がる糸端をようやくみつけた。
たとえ見間違いだったとしても、追いかけずにはいられなかった。
人の合間をすり抜けひた走ったミロは、向こうから来る通行人とぶつかりそうになりながら角を曲がった。
ちょうど信号が赤に変わるところだった。
人の波が一旦途切れ、通りを挟んだ向こう側では人々が駅へと吸い込まれていく。
その中に。
目指す色が、あった。
「カミュ
雑踏の中に紛れる紅髪の背中に向かいミロは叫んだ。
突然の大声に、人々が一斉に振り返る。
自分に注がれるその不審気な視線を気にも留めず、ミロはじっと前方に目を凝らした。
やはり、カミュだ。
かすかに周囲を見渡す素振りを見せたカミュは、だがミロに気付かなかったのか、すぐにまた前を見据えて歩き出す。
一旦駅構内に入られてしまうと、相手の行き先がわからない以上追いかけるのは難しい。
焦れたミロは念で色を染め変える勢いで、いつもより間が長く感じられさえする信号を睨みつけた。
その思いが通じたように程なく信号が変わると、ミロは短距離走者並みの瞬発力を発揮して駆け出した。
駅に着くや、ぐるりと周囲を見渡す。
どこへ行った?
大した距離を走った訳でもないのに、心臓がばくばくと音を立てていた。
そうしてどんな些細な手がかりも見過ごすまいと、行き交う人の波に必死に目を凝らしていたせいだろうか。
逆に近くへの注意が疎かになっていたらしく、背後から音もなく近寄る影に気付くのが遅れた。
「……公道で人の名を叫ぶのはやめてくれないか」
突如背中越しにかけられた小さな声に、ミロは勢いよく振り向いた。
「しかも、あんな大声で」
久々の再会の気まずさを隠すためか、わずかに俯いたままぶっきら棒に呟くカミュが、そこにいた。
「ごめん……」
まだ少し荒い呼吸を整えながら謝るミロに、カミュは意味もなく手にした鞄を持ち替えながら問うた。
「何か、私に用事でも?」
ミロは言葉に詰まった。
一帯に響き渡るような大音声でカミュを呼び止めた理由を聞かれたら、会いたいから、としか言えない。
しかし、それはさすがに自分でも説得力がないと思う。
「ああ、ええと……、あれだ、あれ」
懸命に思考を働かせ適当な言い訳を探したミロは、やがて自分でもすっかり忘れていた口実を思い出した。
「あの、さ……。あ、そうだ、まだおごってもらってないから」
きょとんと瞳を瞬かせたカミュに、ミロはにこりと笑ってみせた。
「あの夜、あなたがおごってくれるはずだったのに、結局俺が払ったんだよね」
自分から言い出したこととはいえ、その後の予想外の展開にカミュもまた忘れていたのだろう。
醜態をさらした記憶と共にその約束を思い出したのか、カミュはしまったとでも言うように表情を歪めた。
「……そうだったな。すまない、忘れていた」
「いや、別にいいんだけどさ」
自分で自分の言葉を否定するような破綻した発言だったが、カミュはよほど動揺しているらしく、その矛盾に気付いた風もなかった。
しばらく思案に暮れていたカミュは、やがて辻褄を合わせる妥当な解決策を思いついたのか、ちらりと時計に目を配った。
もうすぐ正午になるところだっだ。
「今から時間があるようだったら、昼食でもご馳走するが」
もちろん、ミロに異論などあるはずがなかった。