無憂宮
 「……ここで、本当にいいのか」
 腰を落ち着けた先で、カミュは少し言いにくそうにミロに囁いた。
 実際のところ、ミロはカミュに経済的対価を要求しているわけではない。
 真意は他にあることを何とか伝えたくて、店の選択を任されたミロはそんな含みをもたせようとここを選んだのだが、さすがにハンバーガーというのは行き過ぎだっただろうか。
 「あ、ごめん。もしかしてキライだった?」
 「いや、最近はなかなか食べる機会もなかったし、むしろ嬉しいんだが……」
 言い淀んだカミュは、探るようにミロの瞳を覗き込んだ。
 「……これでは、あなたに支払わせてしまった額に到底及ばないのではないか」
 そう、だから、足りない分は、またおごってよ。
 また、俺と会ってよ。
 そうはっきりと言えてしまえたのなら簡単なのだが、生憎と今はカミュの洞察力に頼るしかないミロは、仕方なく曖昧に頷くだけに留めた。
 あまりに煮え切らない反応に何か感じるところがあったのか。
 しばらく無言でストローを噛んでいたカミュは、彼なりに隠されたミロの意図に想いを巡らせたのだろう。
 やがて、カミュは思い切ったように口を開いた。
 「すまない。ここしばらく、あなたの店に行きづらくなってしまって……」
 「別に、気にしなくてよかったのに」
 「そうあっさりとは割り切れない」
 カミュは自嘲的に笑うと、少し哀しげな瞳でミロをみた。
 「……あなたも、そうだろう?」
 声にわずかに含まれる脅えたような響きが、ミロの胸を打った。
 ミロの店を経営難に追い込むかもしれない原因作りに一役買った。
 その事実に自らを縛りつけ、カミュはずっと己を苛んでいたのだろう。
 その縛を、一刻も早く解いてやりたかった。
 ミロはじっとカミュをみつめた。
 「俺は、そんなことないけど」
 予期せぬ言葉だったのか、真紅の瞳が大きく見開かれる。
 ミロはさりげなさを装うためにハンバーガーにかじりついた。
 「だって、カミュはカミュの仕事をしてるだけだろ。俺も俺の仕事をするだけだし」
 その結果がどうなろうと、それは誰のせいでもない。
 そうさらりと言ってのけたミロは、ついでにこりと笑ってみせた。
 「大体、まだ俺の店が閉店するとか決まった訳じゃないし。勝手に人の店の将来を悲観して勝手に落ち込まれても困るって」
 「そういう訳では……」
 「ない? 本当に?」
 「……すまない」
 悪戯っぽく睨んでみせると、微苦笑を浮かべたカミュは軽く頭を下げた。
 やや強張っていた表情が、今はもう幾分か和らいでいる。
 もう、大丈夫だ。
 ミロは晴れやかな笑みを浮かべた。
 「前にも言ったろ。俺の気持ちは俺が決めるんだって。その俺が気にしてないんだから、勝手に気を回したりしないで、また店にも来てよ」
 多少早口になったかもしれないが、何とか平静を装いつつ本心を伝えることができた。
 気付かれないように密かに安堵の息を吐くミロに、しかし、カミュは表情を曇らせた。
 「そうだな。行きたかった……がな」
 歯切れの悪い言葉が、にわかに不安をミロの心に植えつける。
 続く言葉に脅えたミロは、恐る恐るカミュをみた。
 カミュは一口ドリンクに口をつけると、小さく息を吐いた。
 「私はもうすぐ移動になるんだ」
 「どこに?」
 「フランス」
 「……は?」
 ミロの頭の中で、地球儀がくるりと回転した。
 その球上でも、今カミュがさらりと口にした国ははるかに遠い。
 カミュは窓の外を眺めやりながら呟いた。
 「会社が今度あちらに進出することになったのだが、直属の上司が抜擢されてな……」
 一緒に自分も行くことになった、と、カミュは他人事のように淡々と続ける。
 まるで呼吸の仕方を忘れてしまったような息苦しさが、突然ミロを襲った。
 折角再会できたというのに、またカミュは手の届かない高みへとするりと逃げていってしまうような気がした。
 がんがんと頭の中で轟音が鳴り響く。
 粉々に裁断された思考の欠片を寄せ集め、それでもミロは会話を続けようと努力した。
 しかし、努力も空しく何一つ言葉が浮かばず、黙り込むしかなかった。
 「……カフェ文化の中心に乗り込む訳だから、事業がどう展開するか全く予測がつかないのだ。だから、いつこちらに帰れるのかすらわからない」
 ミロの内心も知らぬ気に希望を断ち切るような事実を突きつけたカミュは、ついでふと寂しげに笑った。
 「また店に行かせてもらいたいのはやまやまなのだが、次にあなたのコーヒーを飲めるのは、一体いつになるのだろうな」
 ミロはぐっと拳を握り締めた。
 いつになるのかわからない。
 そんな不確定な未来の約束など、存在しないのと同じだ。
 「一時間後」
 ミロは瞳に力を込めて真っ直ぐカミュをみつめた。
 訝しげなカミュが口を開く前に、ミロは急いで言葉を繋いだ。
 「今日この後、ウチの店来てよ。それでおごりの差額チャラにするから」
 カミュの午後の仕事の予定がどうなっているのかは知らないが、拒絶の言葉など受け入れてやるつもりはさらさらなかった。
 いつもカミュの表情を窺いその意に逆らうことのないよう気を遣ってきたが、それも今日限りだ。
 これがカミュと共に過ごす最後の時間かもしれないと思うと、どんな暴君にもなることができた。
 そのミロの強引なまでの強い意志が伝わったのか、突然の提案にただ事態を把握できないだけなのか。
 戸惑ったように眉根を寄せたカミュは、それでも小さく頷いてくれた。


 時間が遡ったような気がした。
 ミロが淹れるコーヒーを、とても美味しそうにゆっくりと味わって飲む。
 そんなカミュの姿を再び間近で見ることができる日が来るとは思わなかった。
 夢見心地、とは、まさにこのことだろう。
 そうしてミロが陶然と見惚れていると、その不躾に注がれる瞳が気になったというわけでもないだろうが、カミュはふと顔を上げた。
 視線がぶつかる。
 慌てて目を逸らすミロの挙動不審ぶりに気付いた風もなく、カミュは穏やかに口を開いた。
 「やはり美味しいな、あなたのコーヒーは」
 「……ありがと」
 微笑むミロに、カミュは少し照れたように笑った。
 「実は、ここしばらくというもの、ずっと飲みたくてたまらなかったのだ」
 「何だ。だったらいつでも来てくれればよかったのに」
 「……そうだな」
 堂々巡りの不毛な会話が繰り返されるのを恐れたか、カミュはそれ以上何も言わなかった。
 失われた時間は、取り戻せはしない。
 ほんの少しの勇気とほんの少しの度胸があれば、こんなことにはならなかったのに。
 ミロの心情を勝手に推し量り、結果身動きが取れなくなった自分を悔いているのだろう。
 だが、それは、ミロも同じだ。
 客と店主という一線を画した、だが比較的安定した関係を壊すことに脅え、想いを素直に伝えることができないまま、カミュを見送ろうとしている。
 もう後悔は、したくなかった。
 ミロはぐっと拳を握り締めた。
 「カミュ」
 妙に改まった声音に何かを感じ取ったか。
 カミュは静かにカップをソーサーに戻し、ミロを見上げた。
 「あのさ、俺、ずっとカミュに言いたかったんだけど」
 不審を浮かべた紅い瞳がかすかに見開かれ、無言でミロの言葉を促す。
 だが、その瞳にじっとみつめられると、胸の奥に突然何かが詰まったように苦しくなる。
 ミロは一つ息を吐き、やっとの思いで何とか声を絞り出した。
 「……豆、送るから。連絡先教えてよ」
 違う。
 また、本当に言いたいことが舌の上からするりと零れ落ちる。
 すりかわってしまった台詞にミロは内心で舌打ちしつつ、唐突な提案に驚いたように動きを止めるカミュに早口で言い足した。
 「ほら、そしたら向こうに行っても、俺のコーヒー飲めるし」
 「ああ、ありがとう。では、向こうの生活が落ちついたら改めて連絡させてもらおう」
 嬉しそうにカミュは微笑む。
 ミロはわずかに引きつった笑顔を返した。
 「それから……」
 言いたいことはもう一つ。
 むしろ、こちらの方がはるかに重要だ。
 カミュとしばらく会えなくなる前に、正直に伝えたかった。
 ずっと、ずっと、初めて会ったときからずっと……。
 まるで炎の塊を飲み込んだかのように身体の中が熱くなり、とくとくと心臓がうるさく鳴り響いた。
 「カミュ、俺……」
 「すまない」
 まだ何一つ言っていないというのに、カミュは困ったように眉根を寄せる。
 ミロの恋心を察し、機先を制して断られたとでもいうのか。
 茫然と立ち尽くすミロの前で、カミュは携帯電話を取り出した。
 「電話なのだ」
 まただ。
 ミロは余程恋愛の神に嫌われているのだろう。
 まるで邪魔をするタイミングを見計らったかのように、カミュの携帯が鳴り響く。
 二言三言の通話の後、カミュは申し訳なさそうに立ち上がった。
 「悪いが、もう戻らないと。また出国前に余裕があれば来させてくれ」
 小銭をカウンターに置きそそくさと荷物を手にするカミュに、ミロは懸命に笑顔を作ってみせた。
 「……ああ、元気でな」
 「ありがとう、あなたも」
 急ぎ足で戸口へ向かったカミュは、扉に手をかけたところで振り返った。
 「そういえば、今、何か言いかけていなかったか」
 ミロは小さく息を吐き、そして、笑った。
 「俺、カミュが戻ってくるまで頑張って店続けるから。帰って来たら、また来てよ」
 カミュは微笑んで頷いた。
 「楽しみにしておく。では、またな、ミロ」
 真紅の髪をなびかせて、カミュは足早に去っていく。
 彼が最初に来店したときと同じように、ミロはただ黙然と立ち尽くしその後ろ姿を見送った。
 初めてカミュに名を呼ばれたと気付いたのは、それから随分たってからのことだった。

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