無憂宮
 改装して三年も経つと、少々目に眩しかった壁の白さも大分落ち着いたものになる。
 常連客たちはやはり我が物顔でミロの店を占拠していたが、思い返すに彼らは最初から自分の家の居間にいるように寛いでいたから、こと人間に関する限り、時間の経過はさほど影響しなかったのだろう。
 とはいえ、今日ばかりはその常連の面々は誰一人姿をみせなかった。
 それが、当初の不安を杞憂に終わらせ見事店の経営を軌道に乗せたミロへの、彼らなりの祝意の表し方なのかもしれない。
 今日は、特別な日だった。
 数年ぶりに帰国したミロの大切な客が、店を訪れることになっていたのだ。
 海外勤務となった彼とは、珈琲豆を送るついでに他愛ないメールのやりとりをするようになっていた。
 その甲斐あって物理的距離と反比例するように親しくなった気はしていたが、それでもやはり直接会うとなると緊張するのは、あの頃と同じだ。
 いや、むしろ彼をより深く知るにしたがってますます好意を抱くようになってしまった今としては、あの頃以上というべきか。
 事前に聞かされていた来店予定時刻が近づくにつれ、心臓の拍動が激しくなる。
 静かに深呼吸を繰り返し、ミロは努めて平静を保とうとした。
 やがて、扉の向こうに人影が現れた。
 「いらっしゃ……」
 笑顔で出迎えたミロは、そのまま表情を凍りつかせた。
 「久しぶりだな」
 懐かしげに店内を見回すのは、夢にまでみたその人だ。
 記憶にあるより、ほんの少しやせたか。
 惚れた欲目か、よりシャープな印象を纏うようになったカミュは、会わずにいたこの数年間でずっと綺麗になったと思う。
 だが、ミロの動きを止めたのは、そんなことではなかった。
 カミュは、一人ではなかった。
 そのすぐ後ろに長身の青年を従えていたのだ。
 ミロたちよりもやや年嵩とはいえ、逆立ちしても追いつかない風格のようなものを漂わせたその銀髪の青年は、不躾なミロの視線を余裕すら感じさせる微笑で受け流す。
 軽くあしらわれたような感がして、わずかに不快を覚えたミロは気付かれない程度に眉を顰めた。
 だが、カミュはそんな不穏な雰囲気にも気付かないのか、無邪気に笑いかけてくる。
 「どうしてもあなたのコーヒーを飲んでもらいたくてつれてきたのだ。とても大切な人だから、最高の一杯を頼む」
 ミロはカミュを、ついで銀髪の青年をみた。
 とても大切な人……か。
 カミュには、この三年の間に、そんな呼び方をする相手ができたらしい。
 ずっと抱え続けていた恋心は、あまりにミロが臆病すぎたためか、今となっては伝えることも許されなくなったようだ。
 ミロは小さく息を吐いた。
 「わかったよ、カミュ」
 その名を呼ぶのが、辛い。
 だが、そんな胸の痛みなどいささかも表に出さず、ミロはにこりと笑ってみせた。


 二人はかつてカミュが愛用していた窓辺の席に座った。
 何を話しているのかは、カウンターの中のミロからはわからない。
 しかし、コーヒーカップを片手に微笑みあう姿をみれば、彼らの打ち解けた様子だけはひしひしと伝わってくる。
 唇を噛み俯いたミロは、できるだけ音を立てないように気を配りつつ、ひたすらカップを洗う作業に専念していた。
 やがて、ミロが全てのカップを洗い終えた頃、かたりと椅子を引く音がした。
 反射的に顔を上げたミロは、ついで慌てて目を伏せた。
 どうやら一足先に帰るらしい銀髪の青年が、カミュの頬にかるくキスを落とすところだったのだ。
 よりによってそんな場面を見せ付けられるとは、自分もよくよく運が悪いのだろう。
 自嘲に口許を歪めたミロは、咄嗟に床に座り込み何やら作業をする振りをした。
 そうして動揺を誤魔化すミロに、立ち去り際の客が「ごちそうさま」と告げる声が降ってくる。
 随分と甘い響きの声だ。
 これが、カミュの大切な人の声。
 穏やかで落ち着いた、嫉妬するほどに魅力的な声だった。
 「……ありがとうございます」
 立ち上がったミロはぼそりと呟いた。
 どうにも引きつる愛想笑いを、もう隠すことなどできなかった。
 しかし、銀髪の青年はそんな店員の無作法な態度など少しも気にならないようで、鷹揚に頷くと店を出て行く。
 ミロのぎこちない態度を気にしないのは、後に残されたカミュもまた同様だった。
 「マスター、カウンターに移動してもいいか」
 少しも気まずさを感じさせずあっけらかんと笑うカミュに、ミロはつい釣り込まれて苦笑した。
 「別に構わないけど……。いいの? 恋人、帰ったみたいだけどさ」
 「恋人?」
 「今の背の高い人。結構カッコイイじゃん」
 嫉妬に狂う自分をできるだけ隠してぶっきら棒に問うと、カミュは怪訝そうに瞬きを繰り返した。
 「サガのことか? いや、あの人は私の上司だが……」
 「だって今」
 しばらくして、カミュは合点が行ったように頬に触れ、小さく笑った。
 「ああ、向こうでは挨拶代わりだったから」
 「……あ、そう。そうなんだ……」
 結局、全てミロの早合点だったということか。
 事情がわかってしまえば、嫉妬の念に苦しんだ自分がひどく馬鹿馬鹿しくて、全身の力が抜けていく。
 ミロは力なく笑ってみせた。
 「なんだ、大切な人なんていうから、てっきり……」
 「大切なのは本当だ。あの人には入社から退社まで、ずっと世話になりっぱなしだったからな」
 「へえ」
 何気なく相槌を打ったミロは、うっかりと聞き逃しそうになった一言の意味を、数瞬の時間を置いて理解した。
 「え、ちょっと待てよ。今、退社って……」
 「ああ、会社は辞めたのだ」
 カミュは自身の一大事をさらりと告げ、ついでミロに向かって微笑んだ。
 「そうだ、あなたには礼を言わねばならないな」
 「何で?」
 「実は転勤になるしばらく前から退社を考えてはいたのだが、その決意が固まったのはあなたのコーヒーのおかげなのだ」
 そう言って、カミュは少し照れたようにカップをかるく指で弾いた。
 「サンクチュアリのコーヒーは常に一定の水準の美味しいコーヒーが飲めるのが美点だが、あなたのは違う」
 ミロの淹れるコーヒーは、客一人一人の好みやその日の体調を考慮して一杯一杯淹れ方を変えていた。
 そう気付いたとき、カミュはひどく感心したのだと言う。
 そして、自分が本当に飲みたいコーヒーはどちらか、気付いてしまったのだと。
 「もちろんこれは私の好みの問題で、サンクチュアリを選ぶ人も大勢いるとわかっている。だから、あそこで働いていた自分を否定する気はないがな。ただ……」
 カミュは一旦言葉を切り、ミロに、というより自分に言い聞かせるように再び口を開いた。
 「ただ、常に追い立てられるように上を目指してもがいていたことが、全く無意味なように思えてきた。この辺りで少しゆっくり休んでみてもよいのではないか、とな」
 世間一般の価値観とは逆行するのかもしれないが、自分はそれでいいのだと、肩の力を抜いて素直に思えるようになった。
 そう言って、カミュは悪戯っぽく笑った。
 「上司はずっと引き止めてくれていたのだが、さっきあなたのコーヒーを飲んで納得してくれた。これでようやく辞表も受理され、めでたく失業者というわけだ」
 「そう……なんだ」
 ミロは手元のサイフォンをみた。
 自分がいれたコーヒーが、人の人生の決断に影響を及ぼすなど、考えてもみなかった。
 それも、カミュの、ミロが最もその幸せを祈る人の人生に。
 創り手としての無上の喜びをこんな形で叶えてもらえるとは、一体誰が予測しただろう。
 込み上げてくる熱い感情に涙腺が緩みそうになる。
 かろうじてその衝動に堪えたミロは、何気ない風を装い視線をカミュに転じ、にこりと笑ってみせた。
 「で、これからどうするんだ、カミュ」
 「そうだな……」
 カミュは上方の壁に答えでも書いてあるかのように目線をふわりとさまよわせた。
 「手続きや引継ぎが終わったら、社員寮を出ないといけないからな。まずは家探しだろうな」
 ついで、ふと思いついたようにミロを見る。
 「そうだ。もしここの客に不動産業者がいたら、何かいい物件がないか聞いてもらえないだろうか」
 「ああ、うん、わかった……」
 業者の心当たりはあった。
 だが、同時にミロはもう一つの選択肢を思いついていた。
 果たして、これを提案してもいいものだろうか。
 迷う。
 だが、言わずに後悔することは、三年前に嫌と言うほど経験した。
 今度は、言って後悔する番だ。
 「あのさ」
 考えがまとまらないうちに、ミロは口火を切った。
 迷えば迷うほど、自分はきっと何も言えなくなる。
 新しい世界に踏み出そうとしているカミュに倣って、自分もなけなしの勇気を振り絞ろうと思った。
 できるだけさりげなく切りだそうと、ミロは小さく息を吸った。
 「あの、さ。住み込みのバイトする気ない?」
 「は?」
 唐突な問いかけに瞬きを繰り返すカミュに、ミロは身を乗り出すようにして一息に言い切った。
 「次の仕事決まるまででいいんだけど。あんまりバイト代高くないし、部屋もそんな広くないけど」
 「ちょっと、落ち着け」
 必死の形相で訴えるミロが余程おかしいのか、カミュはくすりと笑った。
 「話は聞くから。一体どういうアルバイトなのだ、それは」
 「あ……」
 気が急くあまり肝心のことを何一つ伝えていない自分に気付いたミロは、照れ隠しのように笑ってみせた。
 おかげで、たとえ断られても一笑に付すことができそうだ。
 「ごめん。実は、ウチで、なんだ」
 カミュはわずかに目を見張った。
 だがその驚きの表情もすぐに消え、次には記憶を辿るような顔つきに変わる。
 検討中、ということだろうか。
 少なくとも、可能性はゼロではない。
 ミロはここぞとばかりに言い募った。
 「コーヒー飲み放題だし、余ったケーキ食べ放題だし、それから……」
 「それから?」
 「三食付き。しかも朝食の卵はスクランブル」
 いつぞやの、期せずしてここに泊まった朝の記憶が甦ったのだろう。
 しっかりと自分の好みを覚えられていたことに一瞬呆気に取られた様子のカミュは、ついで小さく笑った。
 「……それは、随分魅力的な仕事だな」
 続く言葉は、受諾か、拒絶か。
 緊張のあまり息苦しさを覚えながら、ミロは縋るような瞳を向けた。
 その目の前で、カミュの右手がすっと持ち上がる。
 「すまない。世話になる」
 呆気ない、あまりにあっさりと得られた承諾に、ミロはきょとんと目を見張った。
 「……え、いいの?」
 「それはむしろ私が言うべき言葉だと思うが」
 真っ直ぐミロの瞳をみつめたまま、カミュは穏やかに微笑む。
 ミロはこっそりと背中の後ろに回した手の甲をつねってみた。
 痛い。
 夢では、ない。
 ようやく実感が湧いてきた。
 強張っていた顔の筋肉の緊張がみるみるうちに解け、自然と笑顔を形作るように緩む。
 ミロは握手に応えようと右手を差し出し、そこでふと動きを止めた。
 「あ、あと一つ条件があったんだ」
 訝しげに瞳で促すカミュに、ミロは悪戯っぽい笑顔を向けた。
 「俺のこと、マスターじゃなくて、ミロって呼んでよ」
 どんな条件が提示されるかと身構えていたカミュは、拍子抜けしたように笑って頷いた。
 「わかった。よろしく頼む、ミロ」
 「こちらこそ。よろしく、カミュ」
 カウンター越しに交わされた握手は神聖な契約の証のような気がして、ミロはなかなかその手を放せなかった。


 一ヵ月後。
 カウンターの向こうに立つ人数が一人増えたことを、常連客は知った。
 皆が一方的に知っているその人は、かつてこの店の特別な客として、本人の知らないところで名を馳せていた人物だ。
 内心の驚きを隠しつつさりげなく様子をうかがってみるに、この新しい従業員は相変わらずひどく鈍感で、店主が彼に抱く特別な好意に気付いた様子はないらしい。
 果たして店主は今度こそ本懐を遂げることができるのか。
 新たな娯楽をみつけた客たちは、密かに目配せを交わし含み笑いを浮かべた。
 この喫茶店に通う楽しみがまた一つ増えたことは、疑いようもなかった。
END








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