無憂宮
 緊張と不安が隣にいるこちらにまで伝わってくる。
 今更どうあがいたところで結果はでてしまっているのだが、やはりどうにも落ち着かないのだろう。
 座席にもたれることもなくやけに姿勢を正したまま微動だにしないカミュを、サガはちらりと見遣った。
 この調子では目的地に着くまでに疲れてしまうだろうと心配になるほどに、カミュは硬く身を強張らせていた。
 膝の上できつく握りしめたままの手に、そっと手を重ねてやる。
 不安気に見上げた紅い瞳に優しく微笑みかけると、カミュはぎこちなく笑い返してきた。
 二人が向かう先は、サガにとってはかつて足繁く通った、カミュにとってはまだ片手で数えられるほどにしか訪れたことのない大学だった。
 適度に混みあう地下鉄の車内はかつてサガが通学していた頃のままで、つい懐かしさを覚えるが、カミュにはまだ周囲を観察する余裕もないらしい。
 無理もない。
 合格発表を見に行く受験生、しかもそれがどちらかといえば小心者のカミュなら、当然のことだ。
 思い返せば、先日電話をかけてきたカミュは、既に今と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に緊張していたようだった。
 結果は期待できないとは思うのですが、もしよかったら一緒に行ってもらえませんか。
 電話の向こうでそう告げる声が明らかに震えていて、いっそおかしいほどだった。
 わざわざ掲示板を確認しに行かなくても合否を知る手段は他にいくらでもあるのだが、あえて昔ながらの確認手段をとるのはカミュのたっての願いだった。
 「人目があれば、結果がどうでも取り乱さずに何とか耐えられると思うのです」
 申し訳なさげなカミュの声が、消え入りそうなほどに小さくなっていく。
 「でも、一人で見に行く勇気がなくて……」
 そうカミュは早口で弁解するように言い募ったが、そんな口実を付け足されなくてもサガには断るつもりなど毛頭なかった。
 入試が終り、会う理由がなくなったことを寂しいと思っていたのは、自分だけではない。
 それが、嬉しかった。
 一年近く傍で勉強をみていた生徒の面倒は最後までみてあげたいという、責任感に似た思いで上手に偽装しつつ、サガはカミュを励ますように握った手に力を込めた。


 久々に足を踏み入れる大学は少しも変わっていなかった。
 学校というある種特殊な閉鎖空間は、そこだけ時間の流れが違っているのかもしれない。
 そこに通う人間だけは年々移り変わっていくものの、受け入れ場所としての学校自体は毎年同じサイクルを繰り返しているからなのか、さして目立った変化は部外者には感じられないものだ。
 勝手知ったるサガならずとも、人の流れを辿っていけば、合格発表の掲示場所はすぐにわかった。
 既にそこかしこで晴れやかな笑顔を浮かべてはしゃいでいる受験生の姿が見受けられたし、そうかと思えばひっそりと物も言わずに足早に立ち去ろうとする者もいた。
 つい先日までは同じ受験生という肩書きを背負っていた者たちが一瞬にして天国と地獄にはっきりと分かれるのだと思うと、やはり試験というのは必要とはいえ酷な制度だと思わされる。
 「……行ってきます」
 自分に気合を入れるように小さな声で宣言したカミュは、命運を決すべく、サガを置いて一人人垣の中に向かっていった。
 人込みの中でも目立つ紅い髪を見送りながら、サガはぼんやりと今後の行動予定を考えていた。
 残念ながらカミュの合格は難しいというのが、率直な印象だった。
 果たして、どう慰めてやればいいのだろう。
 幸か不幸か不合格など味わったことのないサガには、こういうときにどう声をかけてやればいいものなのか、全く見当がつかなかった。
 やはり、次は頑張れと言ってやるべきなのだろうか。
 次、ということは、来年だ。
 あと一年、またサガはカミュの受験勉強に付き合うことができる。
 それをせめてもの慰めと思ってもらうのはつくづく虫が良すぎるような気がしたが、サガにはそんなことくらいしか思いつかなかった。
 そうして落ち込む少年にかけるべき言葉を胸中で模索していたサガは、やがて、掲示板から離れこちらにやって来るカミュに気付いた。
 心なしか、足取りが重い。
 やはり、駄目だったか。
 俯き加減に近づいてきたカミュに、サガはそっと腕を伸ばした。
 「カミュ……」
 支えるように肩を抱いてやろうとした腕が届く前に、カミュはゆっくりと顔を上げた。
 紅い瞳がみるみる潤む。
 水滴は目の端にしばらく留まっていたものの、やがて堪え切れなくなったように大粒の涙となって溢れ出した。
 「カミュ」
 「サガ……」
 痛々しい泣き顔に自分まで胸が苦しくなるのを覚えつつ、サガはカミュを力づけようと優しく微笑んだ。
 「君は、よく頑張ったよ。それは、私が一番よく知っている。だから……」
 「頑張らなければよかった……」
 ぽつりと落とされた言葉は、あまりカミュらしくない後ろ向きなものだった。
 聞き間違えただろうかと思わず眉をひそめるサガに、カミュはさらにしゃくり上げながら続けた。
 「合格、でした……」
 涙の合間に途切れ途切れに告げられた一言は、サガの予想とは正反対の内容だった。
 予期せぬ展開にサガはひどく驚いた。
 見くびっていたようでカミュには申し訳ないが、不合格を想定して自分がとるべき対応をあれこれ考えていただけに、一瞬思考がついて来なかったのだ。
 「……それは、おめでとう……」
 反射的に口をついて出た声には、自分でも呆れるほどに少しも心がこもっていない。
 サガは慌ててカミュの顔を覗き込んだ。
 「おめでとう、カミュ」
 今度は誠意をもって祝辞を述べられたはずだった。
 しかし、カミュの表情は相変わらず浮かない。
 「カミュ……?」
 肩を震わせていたカミュは、再び下を向いてしまった。
 「どうしたんだい? それではまるで折角受かったのに嬉しくないみたいだよ」
 「嬉しく……ないです……全然」
 聞き分けの無い子供をあやすように笑ってみせるサガに、カミュは激しくかぶりを振った。
 「合格してしまったら、もうサガに勉強みてもらったりできない……から……」
 「カミュ……」
 サガはわずかに目を見開いた。
 カミュの涙の理由が自分にあるなど、思いもしなかった。
 合格の喜びが霞むほどに、会う理由がなくなることに落涙するほどにサガを慕ってくれているとは、気付きもしなかった。
 すすり泣く声は、次第に小さくなっていった。
 激情に任せて胸の内を吐露したことを後悔したのか、カミュはやがて拳で涙を拭うと懸命に笑顔を作ってみせた。
 「すみません。まさか自分が受かるとは思っていなかったので……」
 かなり無理を感じさせる笑みだが、そうして気丈に振舞おうとするカミュの意志は尊重してやりたかった。
 サガはおどけたように殊更に眉をひそめてみせた。
 「おやおや、君がそんな後ろ向きな思いで勉強していたとは知らなかったな」
 「すみません」
 わざとからかってみせると、カミュはつられたようにくすりと笑った。
 涙の痕が残る顔が、泣き笑いに歪む。
 サガはカミュの頭をそっと撫でてやった。
 「合格を伝えたい人がいたら、早速連絡したらどうだい。友達とか学校とか……」
 あえて親という選択肢を挙げずに促すと、素直に頷いたカミュは携帯電話を取り出した。
 すっかり彼の手に馴染んだ様子の端末は、以前サガがカミュに贈ったものだ。
 どうやら充分活用してくれているようで、贈り主としても嬉しい。
 次には、やはりこれくらい喜んでもらえるような合格祝いを考えねばなるまいと、サガは思った。
 勝手に不合格と決め付けていたため、祝いの品にまでは全く考えが至らなかったのは迂闊だった。
 さて、何がいいだろう。
 これから新生活に踏み出そうとするカミュに良き餞となるような、何か   
 あれこれと思考を巡らせていたサガは、突然鳴り響いた着信音に現実に引き戻された。
 休日まで、仕事の電話だろうか。
 自分が不在の間も支障がでないように手配はしてきたはずなのだが、と、訝りながら携帯電話を手にしたサガは息をのんだ。
 今日はやたらと予想を裏切られる。
 発信者として小さな画面に表示されていたのは、仕事関係の人間ではなかった。
 「……もしもし」
 「……一番伝えたい人は、やっぱりサガだから……」
 おずおずと送話口から聞こえてくる声に、ゆっくりとサガは視線を転じた。
 「合格、しました。ありがとうございました」
 まっすぐサガをみつめながら、カミュは少し照れくさそうにふわりと微笑んだ。
 何故だかその瞬間、カミュとサガを繋いでいた糸がぷつんと音を立てて切れたような気がした。
 もはや受験生ではなくなったカミュとサガを繋ぐものは、何もない。
 先程のカミュの涙の意味が、ようやく身にしみてわかった。
 家庭教師と受験生の縁は、明日からは何の意味も持たない過去の遺物になるのだ。
 サガは押し寄せる沈黙から逃れようとでもするかのように淡々と口を動かした。
 「……おめでとう」
 本来ならば喜ばしいはずの祝いの言葉が、やけに虚しく耳に響いた。

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